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軽井沢からの通信ときどき3D

移住して11年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

軽井沢の夜話ー2/3

2021-11-05 00:00:00 | 軽井沢
 やなぎ書房での「軽井沢の夜話」に参加し、松井孝典さんのお話を聞いたことがきっかけとなり、ふだんは考えることのほとんどない、地球生命の誕生について改めて調べてみようという気になった。

 前回紹介したが、松井さんが言われた「クリック博士の仮説」とは何かを知りたいと思ったこともあるし、今回話をうかがった、「宇宙と生命」に関する松井さんの考えをさらに整理した形で知りたいと思ったからでもあった。

 目の前にある、デスク上の「回転する地球儀」(2021.2.12 公開当ブログ)を見ながらそんなことを考えている。

回転する地球儀  

 松井さんの軽井沢の夜話とNHKのラジオ放送の講話、およびウィキペディアの記述内容などを通じて、私たちの世代が若い頃に学んだ地球上の生命誕生に関する説が、その後大きな困難に遭っていること、そしてそれに代わる地球生命の宇宙起源説が注目を集め始めていることがわかってきた。

 ここで、現在地球上の生命誕生についてどのような説があるのか、今一度整理しておこうと思う。
 ウィキペディアで「生命の起源」をみると、「概要」では次のように記されている。
 「・・・現在、地球上の生命の起源に関しては大別すると三つの考え方が存在する。第一は、超自然的現象として説明するものであり、例として挙げると神の行為によるものとする説やインテリジェント・デザイン説がある。第二は、地球上での化学進化の結果と考える説である。第三は、宇宙空間には生命の種のようなものが広がっており、それが地球に到来した結果生命が誕生したという説(パンスペルミア説)である。現代でも、第一や第三の説を発表する科学者は多い。自然科学者の間では一般的には、アレクサンドル・オパーリン(1894.2.18-1980.4.21)などによる物質進化を想定した仮説(化学進化説)が広く受け入れられている・・・ 」 

 今日、地球上の生命は、無機物から地球上で誕生・進化したとする化学進化説を受け入れる科学者が多いようであるが、地球外の宇宙にその起源を求めるパンスペルミア説もまた一定の支持を集めていることが窺える内容である。 

 ところで、このウィキペディアの脚注には、「 ちなみに、2009年に全米科学振興協会に所属する科学者たちに対して調査を行ったところ、科学者のちょうど半数ほど(51%)が、神あるいは何らかの超越的な力を信じている、と回答した。」という記述もあることから、この生命誕生のテーマは宗教の影響が大きいものであることが実感される。
 
 さて、夜話で松井さんが話された「クリックの仮説」とはどのようなものか。これは上記の第三の説、パンスペルミア説の一つとして解説されている。

 まずは「パンスペルミア説」についてもう少し詳しく見ていくと、ウィキペディアに次の記述がある。

 「『宇宙空間には生命の種が広がっている』、『最初の生命は宇宙からやってきた(=地球で生命が生まれたのではない)』とする仮説である。この説の原型となる考え自体は1787年にスパランツァーニによって唱えられていた。
 1906年にスヴァンテ・アレニウスによって提唱され、この名が与えられた。彼は『生命の起源は地球本来のものではなく、他の天体で発生した微生物の芽胞が宇宙空間を飛来して地球に到達したものである』と述べた。
 この説の20世紀後半での有名な支持者としては、DNA二重螺旋で有名なフランシス・クリックほか、物理学者・SF作家のフレッド・ホイルがおり、その後もこの仮説に関連して、真剣に調査を試みる科学者は増えてきており・・・」
 
 ちなみに、このスヴァンテ・アレニウスはアレニウスの式で有名なアレニウス(1859.2.19-1927.10.2)のことであり、スウェーデンの科学者である。1903年に電解質の解離の理論に関する業績により、ノーベル化学賞を受賞している。アレニウスの式のほか、月のクレーター Arrhenius、ストックホルム大学の研究所名などにも名を残している。
 
 このパンスペルミア説の一つに「意図的パンスペルミア説」があり、1981年にフランシス・クリック(1916.6.8-2004.7.28)とレスリー・オーゲル(1927.1.12ー2007.10.27)が提唱した。これは、高度に進化した宇宙生物が生命の種子を地球に送り込んだとするものである(ウィキペディアから引用。後に示すように、最初の提唱は1973年とする報告もある)。

 「地球が誕生する以前の知的生命体が、意図的に『種まき』をした」とするもので、まるでサイエンス・フィクションのようにも聞こえる説ではあるが、クリックはこの説の根拠として次の二つを示したとされる。

 ひとつは、現在の地球上の生物ではモリブデンが必須微量元素として重要な役割を果たしているが、クロムとニッケルは重要な役割を果たしていない。しかし、地球の組成はクロムとニッケルが多く、モリブデンはわずかしか存在しない。このことから、モリブデンが豊富な星で生命が誕生した名残りだと考えることができるとしたのである。

 もうひとつの根拠は、「地球上の生物の遺伝暗号がおどろくほどに共通したしくみになっていることであり、これは『たったひとつの種』がまかれて、その種から地球上の全ての生物に変化していったと考えられる」というものである。

 DNAの発見者、ノーベル賞受賞科学者(1962年 生理学・医学賞)の意見だけに、遺伝暗号に関係するこの内容は重みのある説明である。

 「軽井沢の夜話」での、松井さんが国会議員に勧めたというロケットに細菌を搭載して宇宙に向けて発射する話は、確かにこのクリックの仮説を、今度は地球人類の手で成し遂げようとする壮大なものである。

 ただしかし、こうした説はいまのところ仮説であって、科学者はこうした仮説を検証するために努力を重ねている。困難な時間のかかる作業である。

 1906年に提唱したアレニウスは別としても、クリックというノーベル賞受賞科学者がこうした説に向かう理由は何か。それは生命誕生の化学進化説を実験的に検証しようとするこれまでの試みが、ハロルド・ユーリー(1893.4.29-1981.1.5)とスタンリー・ミラー(1930.3.7-2007.5.20)の実験以降はことごとく成功していないという事実があるからだという。

 この部分を、ふたたびウィキペディアから引用すると次のようである。

 「化学進化説に関する考察や実験は、・・・個々の仮説のようなことが実際に起こりえるのか、科学者が推定した太古の地球上の環境を・・・実験室的に、太古の地球環境だったであろう状況を再現して・・・具体的に実験を行うことであり、1980年代まではそのような流れが支配的であった。・・・
 だが、多くの科学者が、太古の地球にあったであろう環境を作って、たとえば雷などを再現するために高圧電流を流すなどの検証実験を・・・いくら行っても、実験室の試験管やほかの容器のなかで生命が誕生するということはまったく起きなかった・・・」

 実験室的に無機物から有機物を作り出すことができても、そこから生命を誕生させるまでには途方もない時間がかかるのではと推定されたことから、そのすべてのプロセスを地球上で起きたものと考えるには無理があるとの考えが広まってきた。別の番組で、松井さんの考えは次のように紹介されている。

 「・・・アストロバイオロジーの第一人者で、世界的な権威でもある松井孝典氏(東大名誉教授・千葉工業大学惑星探査研究センター所長⦅当時⦆)は、そんなパンスペルミア説を提唱する科学者の一人だ。そもそも地球上でランダムにタンパク質の合成が進んだ結果、今日のような生命体が偶然組成される可能性は、数学的には10の4万乗分の1程度の確率しかない。地球の誕生から46億年しか経っていないことを考えると、その限られた時間内に10の4万乗分の1の確率でしか起こりえない組み合わせが偶然実現すると考えるには無理がある。しかし、もし宇宙に地球と同じような惑星が無数にあるとすれば、そのどこかの惑星でそれが実現する可能性は十分にあり得ることとなる(松井孝典、神保哲生、宮台真司氏の討論  2015.4.11から)。」

 地球誕生後の経過時間46億年という数字もまた、途方もなく大きな数字であるが、これが46x10の8乗年であることを考えると、10の4万乗という数字の大きさがわかる。また46億年を秒に直したとしても、1.5x10の17乗秒でしかないとなると、上で示されている、偶然性がいかに困難なものか実感される。

 この10の4万乗分の1の確率という数値は、ビック・バンの名付け親であり、イギリス人天文学者だった故フレッド・ホイル博士(1915.6.24ー2001.8.20)が提示したものであり、1981年4月に出版された「 Evolution from Space」『チャンドラ・ウィックラマシンゲ(1939.1.20-)との共著』という本の中で、最も単純な単細胞生物に必要な酵素が全て作られる確率は 10の40,000乗 分の1であると計算したことによる。

「 Evolution from Space」(Fred Hoyle, Chandra wickramasinghe 著 1981年  J.M.Dent & Sons 発行)の表紙

 「我々の宇宙に存在する原子の個数はこれに比べると極々小さい(約 10の80乗個)ため、生命が誕生したとされる原始スープが宇宙全体を満たしていたとしてもそのような物質が作られる機会はないとホイルは論じた(ウィキペディア)」のである。

 この計算の詳細について、松井さんは「スリランカの赤い雨」(松井孝典著 株式会社KADOKAWA  2013年発行)の中で次のように説明している。

「スリランカの赤い雨」(松井孝典著 株式会社KADOKAWA  2013年発行)の表紙

 「・・・生命の誕生する確率がいかに低いかは、例えば以下のようなことを考えてみるとよい。タンパク質はアミノ酸の連なる高分子である。酵素の場合、その立体的な形の背骨を構成するのは10から20個のアミノ酸である。酵素の活性にかかわる部位のアミノ酸は少なくとも4個である。背骨を12個、活性部位のアミノ酸を4個としよう。地球産の生命は20種類のアミノ酸を使用している。ということは一つの位置にある特定のアミノ酸が来る確率は20分の一である。それぞれのたんぱく質にはそれぞれの位置にある特定のアミノ酸が並ぶ必要があるから、背骨にあたる部分のアミノ酸の数を16とすれば、それがうまい具合に並ぶ確率は20分の一の16乗になる。これは10の20乗分の一程度である。さらにそれが2000種類必要であるから、酵素というたんぱく質だけで、10の20乗分の一のさらに2000乗、すなわち10の4万乗分の一という低い確率でしか作られないことになる。・・・」

 10の40,000乗という数字を聞くと、確かに絶望的に小さな確率ということになる。確率だけを例えれば、1から10までの数字が書かれた正10面体(無いが、あったとして)のサイコロを4万個同時に振って、すべての数字が1になっている確率ということになる。もちろん確率なので、起こり得ないとは言えない。最初の1回目で、すべてが1になることも、絶対にないとはいえないのであるが。

たくさんのサイコロを同時に振ってすべてが1になる確率は?

 さてそれでは、生命誕生が地球上では確率の計算から無理があるとして、宇宙にその可能性を求める場合その確率はどのように変化するか。宇宙に存在する生命誕生の可能性のある惑星の数は無数ではない、有限の数字で考えなければならない。宇宙の星の数は、現在のところ10の22乗個程度とされているので、各星(恒星)に1個地球に似た惑星があると仮定すれば、同じだけの数の惑星を想定することができる。

 その場合、宇宙全体で見ると生命誕生の確率は、10の4万乗分の1の10の22乗倍ということになるので、10の39,978乗分の1になる。

 地球上では10の40,000乗分の1、宇宙全体で見ると10の39,978乗分の1ということになるが、果たして最初の生命誕生の場を地球上から宇宙全体に拡大したとして、これは意味のあることだろうか。

 この点については、松井さんはフレッド・ホイルの提唱する定常宇宙論を用いて説明している。定常宇宙論というのは、宇宙には始まりも終わりもなく、いつでも、今あるような姿で存続し続けていることを主張する理論体系である。

 「宇宙が無限に続くとしたら、生命の誕生は、その確率がどんなに小さい現象でも、有限の事象なので必ず1にできる(前出『スリランカの赤い雨』P100)」というのであるが。

 クリックの仮説は、こう考えて来ると宇宙論と密接につながるものである。宇宙における生命の誕生の確率が、ホイルの指摘するように極めて小さなものだとすれば、その起源は地球以外に求めざるを得なくなるが、それでも現在知られている宇宙に存在する星と惑星の数ではまだ足りない。生命の誕生する確率を説明するためには、宇宙は永遠に続く始まりも終わりも無いものとして考えざるを得なくなる。。。

 宇宙で誕生した生命が地球に来る可能性はどうであろうか。どこかの惑星で誕生した生命(胞子)が宇宙空間を旅して地球にくるという、単純なアレニウスのパンスペルミア説については、クリック博士は「長時間放射線を浴びれば胞子は死滅してしまう」として否定し、それに耐えられるような宇宙船に載せて、バクテリアを運べばいいと提案したのであった。

 この論文は、1973年に「イカルス」誌にクリックとオルゲルにより「Directed panspermia」と題する論文で紹介された(「スリランカの赤い雨」より。次の写真は「イカルス」創刊号の表紙)。

「ICARUS」(Vol.1, No.1 May 1950)の表紙

 1973年と言えば、系外惑星が発見されるよりもずいぶん前のことである。系外惑星とは太陽系以外の恒星の周りにある惑星のことであるが、意外なことに、宇宙に太陽系以外に惑星が存在することが確認されたのは、1995年のことだという。それまでは、存在しているであろうという推測でしかなく、それを確認する手段がなかった。

 最新の望遠鏡が利用できるようになり、太陽系以外の惑星(系外惑星)探査が進められたが、成果はなかなか得られず、アメリカの専門家からは1995年8月に、「太陽系以外に惑星は存在しない、従って地球のように生命の存在する惑星は存在しない」とまで言われるようになったという。

 しかし、思いがけない形で系外惑星の存在が確認された。惑星探査における「フーコーの振り子」である。

 発見の発表は、上記アメリカの専門家からの発表の直後、1995年10月、スイス・ジュネーブ大の科学者、ミシェル・マイヨール(1942.1.12-) とディディエ・ケロー(1966.2.23-) によってであった。この二人は 米プリンストン大のジェームズ・ピーブルス(1935.4.25-)と共に2019年のノーベル物理学賞を受賞している。

 一旦惑星の存在とその探索の手法が確認されると、その後はどんどん惑星の発見が続く。2020年4月現在、4000個から10000個の惑星が見つかっているという。太陽系のように恒星の周りを惑星が回るという姿は、宇宙に広く存在していることが判ってきた。その中には、地球に似た条件を備えたものもあることが判ってきた。

 カール・セーガン博士(1934.11.9-1996.12.20)が、パイオニア10号、11号に宇宙人へのメッセージを搭載して宇宙に送り出したのは、1972年と1973年のことであるから、この頃はまだ宇宙に惑星が存在するということは確認されていなかったことになるので、クリック博士の説と同様、惑星の存在を当然存在するものとしての試みであったことになる。

 宇宙の姿については、現在は138億年まえのビッグバンに始まり、その後は膨張を続けているという説が、一般に受け入れられているが、ビッグバン前はどうであったのか、このまま宇宙は永遠に膨張を続けるのかといったことはまだ判っていないとされる。

 これに対して、定常宇宙論は宇宙は永遠に膨張と収縮とを繰り返すという説であり、生命の誕生が10の4万乗分の1という極めてまれにしか起きない偶然の産物だとすれば、これを説明するために必要な仮説ということになる。

 松井さん自身は、この意図的パンスペルミア説についてはどのように捉えているか。少し古い著書であるが、「宇宙誌」(1993年 徳間書店発行、P298)の中で次のように記している。1993年というと、先に記した通り系外惑星が発見される2年前のことである。

「宇宙誌」(松井孝典著 1993年 徳間書店発行)の表紙

 「・・・今日、アレニウスのこの考え方(パンスペルミア説のこと)は、少なくともまっとうな科学者からは、一顧の価値もないものとみなされている。有害な宇宙線にに満ちあふれた宇宙空間を、生きた胞子が何の障害も受けずに長い旅を続け、地球にたどり着いて新たな生命を育むなどとは、とても考えられないからだ。
 ところが、フランシス・クリックと彼の長年の同僚であるレスリー・オーゲルは、アレニウスの考えの不備な点を修正し、確かに微生物は他の天体から地球に届けられた、それも宇宙船に乗ってやって来た、という論文を、1973年、カール・セーガンが編集長をつとめていたアメリカ天文学会惑星部会の学会誌に発表した。それが”意図的”あるいは”ねらい撃ち”パンスペルミア説である。
 『ある遠くの惑星に40億年ほど前に、私たちのような高等生物が存在し、科学や技術を今の地球をはるかに超えるほどに発達させていたとしよう。・・・』
 しかし彼らは、自分たちの惑星上での文明がいつまでも続かないことを知っていた。・・・彼らは当然、自分たちの太陽系や近くの惑星系を探査し、移住に適当な惑星を探したが、ついに発見できなかった。そこで彼らは宇宙船を作り、新しい世界まで定住者を運ぶことを計画した。・・・高等生物は・・宇宙の旅をとても切り抜けられない。・・生命そのものが存続可能であればよしとする内容に計画を変更した。・・・彼らはいろいろ考えた末、それには微生物が最もふさわしいと結論する。
 そして今から40億年ほども前、それらの宇宙船の一つが原始地球に到達し、微生物はわれわれの惑星の表面一面にばらまかれる。・・・一部は海などに落ちて、環境にいちばん適した種が増殖した。・・・これから先の物語は、もはや語る必要もあるまい。いうまでもなく、地球における生命の起源とは、そのようにして運ばれてきた微生物であり、つまるところその直系の子孫が、我々なのだーーー。
 さて、ここまでの話を読んできて、いささかの当惑を感じない人は少ないだろう。これがあまり出来のよくないSF小説ならともかく、その語り手が現代で最も有名な科学者の一人で、ノーベル賞受賞者でもあるフランシス・クリックだけに、戸惑いも深い。物語の是非よりも何よりも、クリックは本当にこんなことを信じているのだろうか。信じているのだとしたら、彼は一体どうやってその真実を証明しようというのだろう。信じていないのだとしたら、このホラ話には何か特別の意図が隠されているのだろうか。・・・
 もとよりクリックは、自説にそれほどこだわっているわけではなく『それは根拠のある科学的理論だが、まだ未熟なのだと認め』ている。・・・
 生命の起源は、つきつめれば、おそらく純粋に生化学の問題だろう。だが問題の解決に迫るには、何よりもまず40億年前の地球環境がいかなる状況にあったかを理解しなければならない。加えてクリックは、初源の生命がこの地球上で発生したと固執するのは、必ずしも賢明な態度ではなく、他の天体から運ばれてきた可能性も検討に価することを示したのである。・・・」

 1993年発行のこの本からは、松井さんが当時パンスペルミア説に対して、やや慎重ながらも中立の立場をとっていたことが窺えるのであるが、それから20年後、2013年発行の「スリランカの赤い雨」のあとがきには次のように記している。

 「生命の起源について、一般的には、地球上での化学進化を考えるのが普通である。しかしそれは・・・現実的にはかなり難しい。なぜか? まだ、タンパク質の材料であるアミノ酸の合成程度にとどまり、その20種類のアミノ酸のうちから一つを選び、それぞれがある決まった順に100個以上も連なった高分子を無機的に合成するまでには至っていないからだ。・・・酵素だけを取りあげても、それがランダムな試行錯誤からすべてが作られる可能性は、10の4万乗分の1くらいと推定される。・・・しかもそのようなことが地球誕生後の数億年以内に起こらねばならないのである。
 そこで生命の起源は、もっとずっと広い時空、すなわち宇宙で考えようというのが、パンスペルミア説という考えの基にあることを紹介した。・・・
 20世紀以降で本格的に論を展開しているのは、スウェーデンの物理化学者、スヴァンテ・アウグスト・アーレニウスと、英国の天文学者、フレッド・ホイルとチャンドラ・ウィックラマシンゲくらいである。・・・
 ホイル亡き後も、チャンドラは孤軍奮闘でパンスペルミア説を展開している。ひょんなことから、筆者もチャンドラとの共同研究を始めたが、パンスペルミア説は現代の科学で、その是非が検証できるテーマであることを確信している。
 そのためには、赤い雨のような歴史上の未知の現象を一つずつ、地道に解明していく以外に方法はない。」

 ここには、パンスペルミア説を検証しようとする強い気持ちが窺える。

以下次回。
 

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軽井沢の夜話ー1/3

2021-10-22 00:00:00 | 軽井沢
 ふとしたきっかけで知り合うことになったT氏のお誘いで、「軽井沢の夜話」に参加した。

 9月29日の夕刻開催されたこの夜話に参加するために、私のショップからもほど近い会場の「やなぎ書房」に着くと、入り口でT氏に迎えられたが、中には20人ほどが座ることのできる長いテーブルがセットされ、その上にワインやおつまみ類が並べられており、すでに集まっていた皆さんは飲んだり食べたりを始めていた。

 この夜は、ここで松井孝典東京大学名誉教授の「宇宙から俯瞰する人類1万年の文明、ウイルスはどこから来たのか」という題でお話を聞くことができるのであった。


2021.9.29開催、軽井沢の夜話のパンフレット

 また、この夜話には外交ジャーナリスト・作家の手嶋龍一氏も参加することが事前に知らされていたので、私は以前購入して読んでいた氏の小説の中から「ウルトラダラー」を選び、サインをしていただこうと持参した。

 当日の会場はT氏が旧軽井沢に最近オープンした書店であり、入り口近くには手嶋氏の数種の近著が平積みされていて、集まった方々は手に手に購入したその著書を持ちサインをしてもらっていたのであった。

 私が「ウルトラダラー」を差し出してサインをお願いすると、手嶋さんは「これは私の大切な小説です」と言いながら穏やかな表情を浮かべて表紙を開いたところにサインをしてくださった。


手嶋龍一著「ウルトラダラー」の表紙カバー


「ウルトラダラー」にサインをしていただいた

 ほどなくして松井さんの話が始まることになったが、手嶋さんは「138億年の宇宙の歴史を、7分間に纏めてわかりやすく話ができる人は松井孝典さんをおいては他にはいない」とユーモアを交えながら松井さんを紹介した。

 ビッグバンに始まる宇宙の歴史、太陽系と地球の誕生、そして地球上での生命の誕生と人類による文明といった壮大な歴史物語を聞いたのであるが、聞いている時はなるほど、ふんふんと思っていても、メモを取っていないので、後になってみると詳しい内容、特にウイルスについての部分はよく思い出せない。

 ある程度話が進んだ時に、手嶋さんが「宇宙には、地球以外に生命体が存在しているという証拠は得られているのですか?」と質問したが、その答えは「今のところNO」であった。地球に似た「地球もどき」惑星は数多く存在することが判ってきたが、生命の存在についてはまだ確認できていないのだそうである。

 広大な宇宙にはどれくらいの数の星(恒星)があるか、そしてその星を取り巻く惑星の数はどれくらいあるか。その中には地球と同じように生命が誕生している惑星があるのだろうか・・・といった問いかけは古くて新しいものである。

 しかし、人類はいまだその答えをもっておらず、今もその答えを求めて探求を続けているということである。

 現代科学はこうした人類普遍の疑問に対して、一つ一つ答えを出し続けている。松井さんもまた生命の起源についての答えを求めて今も研究活動を続けておられるが、そうして得られた最新の成果を、第一人者から聞くことのできる機会はとても貴重なものであった。

 宇宙に、地球以外にも生命体が存在しているという証拠はまだ得られていないものの、理論的にはどうかと言えば、その可能性は大いにあるというのが松井さんたちの考えである。具体的に数字を挙げながら、確率論的に話をされたのであった。

 講話が終わり、「せっかくの機会だから、質問のある方はどうぞ」という手嶋さんの言葉に促されて、最初に私が質問した。

 それは、講話の最後のところで松井さんが話した、次のような内容に関してであった。
 
 「若い有能な政治家さんに、宇宙にロケットを飛ばして、その中に地球の微生物を搭載しておけば、いつの日かこれがどこかの地球に似た惑星にたどり着いて、そこで地球上で起きたような進化の道筋を辿るようになる・・・と提案している。」というものであった。

 地球上の生命の起源については、無機物から地球上で自然発生したとする、これまで信じられてきた説の他にも、宇宙起因説があることは知っていたが、松井さんの上記の提案に関連して、「我々もまた、宇宙のどこかの知的生命体が意図的に送り出した微生物が地球に到達して、そこから進化したとの説もあるようですが・・・」と質問したのである。

 これに対して、「それはクリックの説ですね。」との松井さんの回答であった。クリックとはDNAを発見したワトソン、クリックのあのクリック博士のことである。こうした説をクリック博士が唱えていたとは知らなかった。

 この件については、それ以上の話の展開はなかったが、この後「夜話」にふさわしく、Tさん、手嶋さんも加わって、宇宙と地球・生命、人類文明に関する楽しい話題が続いた。

 松井さんは最近トルコ政府の許可を得て、トルコ・シリア国境近くの遺跡の発掘・調査を行っているということだが、これは1万年前の人類最古の文明の遺跡である可能性のあるものだそうである。

 また、中には、「地球人類は100年以内に滅亡するそうですから、皆さん好きなことをして、楽しみましょう」といった話も飛び出して、一層ワインが進んだようであった。

 この後も、当初予定の午後8時以降に2次会が予定され、より高価なワインとおいしい料理が提供されるというT氏のアナウンスもあって、ほとんどの人は残ったが、私は2次会には出ないという基本方針なので、ここで一足先に失礼することにして、T氏にお礼の気持ちを伝えて、迎えに来てくれた妻の車で自宅に帰った。

 この夜の話題に触発されて、帰宅後も「宇宙と生命」について情報を整理してみている。これまでは、オパーリンの化学進化説や、ユーリー・ミラーの有機物合成実験など若いころに得たものがそのまま記憶に残っているだけで、これらを超えることがなく、断片的な知識しか持ち合わせていなかったからである。
 
 松井さんが言われた、「クリック博士の説」とはどのようなものか。地球上の生命の誕生とどのような関係があるか、これも知りたいと思ったし、宇宙に有機物さらには生命の存在を確認しようとする試みがあることは知っていたが、これをただちに地球上の生命の起源と結び付けて考えるものとは理解していなかったので、地球上の生命の起源が宇宙にあるかもしれないという説が、松井さんたち、多くの科学者に検討すべき対象として認識されるようになっているというのはちょっと意外だったからでもある。

 たしかに私自身も、最近のコロナ騒動に触発されて、改めてウイルスや人間の免疫システム、RNAやDNAの構造と機能などについて調べる機会があったが、そのあまりの精緻な仕組みについて知るほどに、こうしたことがすべて地球上で限られた時間内に無機物から発生し、進化した結果であるとは考えにくいことだと思うようになっていた。

 今回のこの「夜話」では、松井さんから確率論的に数字を示しながら、地球上で無機物から有機物が、そして生命が誕生し、その後進化を遂げて人類に至るという、これまで最も確からしいとされていた考えは、極めて確率が低い現象であり、そのために宇宙起因説もまた検討すべき説と考えられていると教えていただき、なるほどと納得したのであった。

 松井さんの考えをもう少し詳しく知りたいと思い、ネットで検索していて、NHKのラジオ第2放送「カルチャーラジオ 科学と人間」で、今回の「夜話」の内容に近いものが「地球外生命を探る」というテーマで13回にわたり語られていたことを知った。

 この放送は、毎週金曜日の午後8時30分から9時まで放送されていたが、放送日と各回のタイトル、およびお話の概要はNHKのホームページに記されていて次のようである(残念なことに第1回と2回の概要は閲覧時点ですでに削除されていた)。

第1回  2021年7月2日 金)   生命とは何か
第2回  2021年7月9日(金) 細胞の定義
第3回  2021年7月16日(金)  生命の定義
  宇宙において生命とはどのように定義できるのでしょうか?それは地球外生命を
 探るうえで大切なポイントのひとつです。今回は、生命を物理的にとらえ、生きて
 いるとはどういうことかを解説、視野を宇宙に広げて生命の定義について考えま
 す。 
第4回  2021年7月23日(金)  生命を形づくる分子
  地球の生命を形づくる分子について取り上げます。生命を形づくる分子はたくさ
 んありますが、なかでも水、脂質、炭水化物、核酸、タンパク質は特別です。これ
 らの分子が体内でどのような働きを担っているのか解説します。
第5回  2021年7月30日(金)  生物のエネルギーはどのように作られるのか?
  生物のエネルギーの元は太陽です。太陽からエネルギーをどのように吸収してい
 るのか、リボソーム、ミトコンドリア、葉緑体といった3つの細胞小器官を取り上
 げて解説します。
第6回  2021年8月6日(金) すべての生物は電気発生装置
  生命は根源をたどると電子あるいは陽子の流れに依存しているといいます。今回
 は、化学反応と電子、陽子の流れという点に着目し、生命のいろいろな現象を説明
 していきます。
第7回  2021年8月13日(金)  生命の起源=いつ、いかにして、どこで生まれたのか?
  地球のようにさまざまな鉱物をもっている岩石惑星では、鉱物の表面で化学反応
 が進むことにより生命が生まれるという考えがあります。今回は、地球外生命の可
 能性も広がるといわれる、深海における「熱水噴出孔仮説」をとりあげて生命の起
 源について解説します。
第8回  2021年8月20日(金)  地球とは何か?地球もどきの惑星との違い
  地球という惑星は、どんな惑星なのでしょうか。その特徴を大気組成や地球の内
 部構造などから説明、さらに地球に似ている「地球もどきの惑星」との違いについ
 解説します。
第9回  2021年8月27日(金)  地球環境はなぜ安定しているのか?
  地球は他の惑星と違い、温暖かつ湿潤な気候で安定しています。こうした気候に
 よって微生物が進化し生物圏が生まれたと考えられます。今回は、どのようにして
 安定した地球環境が保たれているか解説します。
第10回   2021年9月3日(金) 地球が特別である理由:生命誕生後にその進化が起こった
  地球上生物の進化は「原生代」(約25億年前~約5億4千万年前)という時代の前
 後でまるで違ったといいます。この時期に何が起きたのでしょうか?今回は、地質
 学的な観点から生命の進化を考えます。
第11回   2021年9月10日(金)  生物進化が起こる惑星の条件
  地球上の生物の進化は、原生代の極端な寒冷化現象によってもたらされたという
 説があります。生物の進化に重大な影響を与えられたとされる大規模な環境変化、
 スノーボールアース(雪玉地球)について解説します。
第12回   2021年9月17日(金)  フェルミの問い
  “もし宇宙人がいるとしたら、一体彼らはどこにいるのだろうか?”―物理学者エ
 ンリコ・フェルミが発した有名な問いです。「フェルミのパラドックス」といわれ
 るこの問いに対し、これまでの研究でどういうことがわかってきたかお話ししま 
 す。
第13回   2021年9月24日(金)  星と惑星と生命
  銀河系の中で地球のように海があって、海底に「熱水噴出孔」があるような惑星
 を探しだせれば、生命を見つけることができるだろうと松井孝典さんはいいます。
 シリーズ最終回は、惑星がどのように形成されるのか説明したうえで、生命の誕生
 に適した惑星の条件についてお話しします。 
 
 これらの内容は、NHKのホームページ(https://www4.nhk.or.jp/P3065/)の「過去3か月の放送」で見ることができるが、順次消されていくようなので、10月21日現在、見ることができるのは実際には第4回以降だけである。

 また、「聴き逃し配信」というところでは、過去の放送を聴くことができるようになっているが、こちらも現在第9回以降だけになっており、それ以前の放送については「配信終了」になっていた。

 しかし幸いなことに、YouTubeにはすべての放送内容がアップされていることが判ったので(13回目の後半部分は見当たらなかったが)、第1回から3回のタイトル情報も上記のように確認することができ、またその内容も聴くことができた。内容の詳細はここではこれ以上紹介することはしないが、放送のタイトルにある「地球外生命を探る」という内容は、とりもなおさず、この地球上の生命はどのようにして誕生したかを探ることでもあった。

以下次回
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川端康成別荘解体

2021-09-24 00:00:00 | 軽井沢
 以前当ブログで紹介したことがある(2019.12.20 公開)川端康成の軽井沢別荘が、ご家族から不動産業者に売却され、建物の解体が予定されているという情報が届いたのは7月末のことであった。

多くの木に囲まれ、敷地の最奥部に建てられている川端別荘(2019.9.17 撮影)

 このニュースは8月2日発行の信濃毎日新聞でも取り上げられ、別荘のそばにたたずむ在りし日の川端康成の写真(1959年8月撮影)、現在の別荘の写真、別荘の所在場所を示す地図などと共に、次のように伝えた。

 「川端康成創作の場解体危機
 『貴重な文化遺産失う』危惧の声
  軽井沢旧別荘 保全の動き無ければ『来月着手』
 北佐久郡軽井沢町にある、ノーベル文学賞作家の川端康成(1899~1972年)が所有した別荘が、取り壊しの危機にあることが1日、分かった。現在、別荘を所有する神奈川県内の不動産会社の関係者が7月下旬、別荘周辺の住民に9月からの解体作業着手を伝えた。町内の文化団体や文学愛好家からは『解体されれば、町の貴重な文化遺産が失われる』と危惧する声が上がっている。」

 川端康成別荘は、以前紹介したように、万平ホテルの裏手桜の沢、通称「幸福の谷」(ハッピーバレイ)にあり、1000平方メートルを超える敷地に立つ。道路からは急斜面を上ったところにあり、傾斜地を利用していて、玄関正面からは2階建てに見えるが、裏側に回ると3階建てになっている。信濃毎日新聞の記事によると、「木造2階建てで、延べ床面積約140平方メートルの建物。」とされる。

 また、「夏場を中心に滞在し、軽井沢も舞台として登場する小説『みづうみ』や、随筆『落花流水』などを執筆。上皇ご夫妻は皇太子夫妻時代に訪れた。
 川端の死後、別荘には養女の夫の香男里さんらが訪れていたが、香男里さんは今年2月に死去。6月下旬、別荘は神奈川県内の不動産会社に売却された。」という。

 不動産会社は今後の対応については、「『きちっと決まっているわけではない』とし、建物を保全する形での購入を希望する人が現れた場合は『解体するかどうかも含めて協議したい』と述べた。」と報じている。

 こうした状況に対して、8月上旬、地元軽井沢の諸団体と別荘地のある旧軽井沢区自治体から町議会議長に保存を求める請願書がに提出された。請願書提出団体は次のようであった。

 ・軽井沢文化遺産保存会 
 ・軽井沢ナショナルトラスト
 ・軽井沢別荘団体連合会
 ・軽井沢女性会
 ・軽井沢近代史研究会
 ・旧軽井沢区

 この内、別荘文化の保全に取り組む「軽井沢文化遺産保存会」の会長増淵宗一・日本女子大名誉教授の談話も2日の信濃毎日新聞に掲載されており、次のようである。
 「『川端康成は軽井沢と縁が深い人物で、残すべき価値のある別荘。残すべき建築物を定めるなど、官民一体で取り組んでいく時期に来ている』と訴えている。」

 このほか、8月下旬には軽井沢観光協会、軽井沢観光ガイドの会からも町長に対して保存を求める要望書が提出され、その様子が地元の情報誌「軽井沢新聞」に写真入りで報じられていて、町長の談話として「川端別荘は行政が残さねばならない建物の代表格」として保存への前向きな姿勢を打ち出していたと報じた。

 前出の信濃毎日新聞には軽井沢町藤巻町長の「特定の作家の別荘などで、町が(購入や仲介に)動いたことはなく、今回は同様の対応としたい」とする説明と共に、「貴重な文化資源との思いはある。町内の団体などの仲介で、建物保全へ向けた流れができることを期待する」とする談話が報じられていることから、各種団体はこうした町の方針に望みを託したものと思われる。

 町側はどう動いたか。次回定例会議は9月16日とされていた。請願書の審議はここで行われる。これでは請願書を提出したとしても9月初旬にも始まる予定の解体を止めることはできないことは明らかであった。

 8月26日の軽井沢町議会9月会議、本会議終了後の全員協議会で、ノーベル文学賞作家川端康成(1899-1972年)の旧別荘について、議員から町の考えを尋ねる質問が相次いだ。
 考えを尋ねられた町長は「行政が残さないといけない建物があるとすればほんのわずか。・・・川端康成の一つの足跡が、町として残せるなら残したい考えはある」と、所有者の理解を得た上で保存を検討する意志を示した。また、現地での保存は難しいとし、「見やすい場所へ移築することも考えられる」と見解を述べたという。(ニュース軽井沢)

 議会への請願書を提出していた6団体は、こうした町長の意向を受け請願を取り下げた。議会決議を待つと、日程的に解体の可能性が高まることも取り下げの理由だった(軽井沢新聞)。

 9月6日には、町議会社会常任委員会は請願書を提出した団体からのヒアリングを予定していたが、これも中止された。
 
 そして9月2日、藤巻町長は自ら川端別荘を所有している不動産会社に電話連絡をして、対応に出た本部長に、町として移築保存する意向があることを伝え、行政手続き等にかかる時間の猶予を求めたが、交渉は決裂し、解体が進められることになったことが判明した。

 6日の町議会社会常任委員会の場で、町長から、この間の経緯の説明が行われるとの情報が伝えられ、この日傍聴席には、請願書を提出した団体関係者と報道陣が詰めかけた。

 
軽井沢町議会社会常任委員会の様子(2021.9.6 許可を得て撮影)

 主要事項審議の後、「その他」として、同席した町長から川端別荘解体に関する報告が行われたが、次のようであった。

 「16日の町議会を待たず、2日の午後、所有者の本部長に電話で、川端別荘保存の申し入れを行い、歴史的・文化的に重要なものであり、町として保存をしたいことを伝え、所有者の意向を聞いた。
 町側は、OKになった場合、予算化・議会議決を行う予定であることを伝えたが、先方本部長からは、金融機関からの借り入れがあり、解体予定が延長になればその間の金利発生があることや、数カ月間の工事延長要望は、両者のスピード感が異なり、要望には応じられないとの回答があった。
 川端別荘を第三者に売却するとの噂があるということに関しては、答えられないという回答があり、これ以上どうにもならないと判断し、写真撮影・間取り図作成の調査を申し入れ、今後数日かけて調査を行うこととした。
 不動産業者からは、敷地への立ち入りは不法侵入にあたるので、気を付けてほしいとの発言があった。現地確認では、内部の荷物の搬出、窓枠の取り外しが行われていた。
 別荘保存に関しては、①所有者の理解、②(解体・復元のための)資金が必要であり、行政としての難しさがある。」と締めくくった。

 この報告に対して、議員との間でいくつか質疑が行われたが、次のようであった。

Q:写真撮影・間取り調査は不法侵入に当たらないか。
A:町の活動は許可を得ている。
Q:1日の荷物・窓枠の搬出の際、中にカビの生えた書籍があったと聞くが。
A:廃棄されたのではと思う。
Q:価値は不明だが、入手して調査しないのか。
A:調査し、役立てることができ、寄贈していただければ考える。
・・・
 この町議会の様子は翌7日の各社新聞でも報じられ、読売新聞の長野地域面では次のように伝えた。
 
 「軽井沢町 川端康成別荘解体へ
 所有者了解得られず 移築保存断念
 小説『伊豆の踊子』などで知られ、ノーベル文学賞を受賞した川端康成(1899~1972年)の創作活動の場にもなった軽井沢町の別荘が今月中にも解体されることがわかった。住民有志が保存運動を展開し、町は移築して保存する道を模索していたが、所有者側の了解を得られず、6日の町議会で藤巻進町長が『保存断念』を表明した」

 また、2日発行の信濃毎日新聞以後の新たな情報として、ここでは次のような内容も見られる。

 「川端の死去以降、養女が長らく所有していたが、神奈川県下の不動産会社に6月、所有権が移転した。『ノーベル文学賞受賞の文豪が生前利用していた別荘地』などとして売りに出され、同社ホームページでは『成約御礼』と記載。・・・
 現地ではすでに『解体工事中』の看板が立てられ、窓枠を取り外されるなど一部の解体工事が始っている。・・・
 保存活動を行ってきた軽井沢文化遺産保存会の増淵宗一会長は『町が持てない利息分をこちらでみることで保存できないか、不動産会社と交渉を続けたい』と話した。
 町内では2019年にも、町に現存する最古の洋和館別荘とされる『三井三郎助別荘』が、住民の保存運動にもかかわらず解体された。」

 この新聞記事にもあるが、行政としてはできることに限界があるものの、民間団体でできることはないかと模索する「軽井沢文化遺産保存会」は、改めて不動産業者に電話連絡をしたが、これが不動産業者に受け入れられることはなかった。

 9月6日、7日と町による調査が行われ、その後川端別荘の解体は進んでいった。

 次の写真は現地で解体作業を行っている業者の了解を得て撮影したものである。


アプローチ道から見た川端別荘(2021.9.11 撮影)

川端別荘玄関脇から(2021.9.11 撮影)

窓枠などの取り外された川端別荘(2021.9.11 撮影)

取り外されたドア・窓枠にはブルーシートがかけられていた(2021.9.11 撮影)

1階リビングルームには石造りの暖炉がある(2021.9.11 撮影)

リビングの天井(2021.9.11 撮影)

1階リビングから2階への階段(2021.9.11 撮影)

1階から地階への階段(2021.9.11 撮影)

 9月13日、現地ではさらに解体が進んでいた。

解体が進む川端別荘 1/3(2021.9.13 撮影)

解体が進む川端別荘 2/3(2021.9.13 撮影)

解体が進む川端別荘 3/3(2021.9.13 撮影)

 7月末の事態発覚から1ヶ月余、川端別荘の保存・移築を求めて活動を行ってきた人々にとって、あっけない幕切れとなった。町側は保存に向けて動こうとしたものの、余りに遅すぎた。

 一説には、今年3月には川端別荘売却の情報が町会議員でもある不動産関係者の耳には届いていたという。しかしこの段階での町としての動きはなかった。

 軽井沢町にはブループラークという制度がある。町のホームページには次のようにその趣旨が説明されていて、2021年3月30日 現在99件の建物が登録されている。
 
 「ブループラークとは、150年ほど前に英国で始まった制度で、歴史的な出来事があった建物や著名人に関わりのある建造物、あるいは著名建築家によって設計された建物等に銘板を設置し、それらの歴史を継承していく事を目的とした事業です。
 その制度を参考にして、軽井沢町では町内の歴史的な価値を持つ建造物などを認定し、歴史遺産として継承し今後も保存していただきたいと言う思いを込め、軽井沢ブループラーク制度を平成28年度より開始しました。
 認定された建物の所有者には、認定証と軽井沢ブループラークの銘板を町より授与しています。」
 
 しかし、川端別荘の場合は、軽井沢町ブループラークの認定候補にあがった際、交渉に当たった担当者によれば、「ご遺族は、このままの形で残すことはできないと認定を固辞された」ということで、ここには載っていなかった。

 このような、所有者側と町側の考え方・価値観のすれ違いをどう克服して、今後の保存活動に結び付けていけばいいのか、今回請願書を提出した諸団体での模索が続けられることになる。

 ちなみに、上記99件のブループラーク制度認定の建物の内、民間所有の別荘には次のようなものがあり、これらは現時点では保存に向けての方向性が明確になっていないと思われる。

 阿部知二別荘、板垣鷹穂別荘、浮田別荘、旧アーガル別荘、旧彌永家別荘、旧加藤家別荘、旧ノートヘルファー別荘、旧林了別荘、旧ポール・ジャクレー邸、旧ライシャワー家別荘、佐藤不二男別荘、柴田別荘、辻邦生別荘、中里邸別邸、西村伊作別荘、本間徳次郎別荘、旧石井家山荘、旧片山廣子別荘、旧カニングハム別荘、旧ジョルゲンセン邸、旧菅原通済別荘、旧西川家住宅、旧増田家住宅、旧ロミッシー別荘、河本重次郎別荘、村田別荘、山家信次別荘。

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夏の蚤の市

2021-08-13 00:00:00 | 軽井沢
 旧軽井沢公民館で毎年夏の8月1日から31日までの期間、「軽井沢夏の蚤の市」が開催されている。今年も例年通りの開催で、届いた案内ハガキによると39年目になるという。

「軽井沢夏の蚤の市」の案内ハガキ

「軽井沢夏の蚤の市」の会場案内地図

 私も軽井沢に住むようになってからは掘り出し物を求めて、毎年出かけていて、大きな買い物ではないが、何かしら買ってきている。

 ただ、移住して3年後には、自身でアンティークガラスショップを開いたので、それからは別な意味で興味をもって覗きに行っているが、ガラス工芸品の出品はそれほど多くなく、こちらはまだ買ったことがない。

 今年は、後述する特別な意味もあって、開催前から現地に足を運び、準備状況などを見てきた。

 この蚤の市は会期も1か月と長く、出店業者は、地元関連の業者の方はともかく、この間ずっと泊りがけで参加することになる。会場へは商品の他、展示用のショウケース、棚、椅子、テーブルなどの備品の搬入も必要となることから量が多く、準備にも時間がかかる。オープン3日前の7月29日の朝方に見に行った時には、会場となる公民館の一番奥の大広間の準備はほぼ終了していて、入り口近くの個室を利用する出店者の準備が進められていた。

「軽井沢夏の蚤の市」の会場、旧軽井沢公民館全景(2021.7.29 撮影)



旧軽井沢公民館玄関(2021.7.29 撮影)

 主催者が公開しているホームページを見ると、次のように書かれていて、遠くは福岡県からの店を含めて今年は9店舗が出店する。

*******************************************
 「2021年の夏の軽井沢蚤の市は、予定通り開催致します。
 コロナウィルス感染拡大防止のため、マスクの着用と、消毒液を入口に設置しますので、手指の消毒、来場者名簿へのご記入をお願い致します。・・・

 8月1日から31日まで、AM10からPM5まで、会期中無休です。・・・
======================================
 楽しいもの/珍しいものなど、ご来場いただくお客様に楽しんでいただけるよう、東奔西走、頑張って品物を集めています。ご期待ください。

2021年 出店予定店舗 (店舗名・所在地・主な取扱アイテム)
 ◎人形・骨董 たけひ    東京都新宿区  古人形、骨董全般
 ◎骨董 さくらい      神奈川県藤沢市 和洋骨董アンティーク
 ◎時代門          東京都葛飾区  浮世絵、仏像、万年筆、県内からの産出し品 
 ◎NEOアンティークス    岐阜県恵那市  和骨董、昭和アンティーク等 
 ◎夢うさぎ         福岡県北九州市 和裂、古布リメイク
 ◉古美術 善        神奈川県平塚市 陶磁器、茶道具ほか(月末20日頃から)
 ◎アンティーク キャトレ  千葉県木更津市 西洋ジュエリー
 ◉有限会社 つるばみ    京都府京都市  黒柿孔雀杢織帯など(10日頃から)
 ◉シカゴレジメンタルス   東京都台東区  銃砲、刀剣、武具 (初旬)
 (◎期間中出店/◉短期出店)  

 『毎年夏のシーズンに、避暑地軽井沢の「旧軽井沢公民館」で、開催されている骨董蚤の市。2021年夏の開催で47回目の開催です。軽井沢に来たら寄ってください。駐車場もあります(有料/無料)。空気のおいしい避暑地で、日がな一日、ゆるりとお過ごしください。室内蚤の市ですから雨の心配もありません。旧軽井沢銀座通りからスグ。有名な軽井沢会テニスコートのそばです。和洋骨董・アンティーク、何でもあります。時々の品物の入荷もありますので、お見逃しなく無く。』」
*******************************************

 ここには今年が47回目の開催と書かれていて、案内ハガキの39年目とはだいぶ差があるが、単なる計算違いなのか、年に複数回の開催があって、回数が異なっているのか今のところ不明である。

 会場となっている旧軽井沢公民館の建物は、元の軽井沢病院のものである。戦前の建物との情報もあるが、戦後1954年に軽井沢町国保軽井沢病院として利用が始まり、その後何度かの増築を行い現在の姿になった。そして、1974年に中軽井沢地区に軽井沢病院が新築され、病院機能は移転した。

 旧軽井沢公民館は、この軽井沢病院の建物を活用して、1975年に開館した。現在、建物は少なくとも築約70年以上であり、老朽化が進んできている。軽井沢町のほとんどの公民館は災害時の避難場所としても指定されているのであるが、旧軽井沢区のこの公民館は水害および浅間山噴火時の一次避難場所に指定されているものの、耐震強度の関係から震災時の避難場所にはなっていない。

 こうしたこともあり、数年前から旧軽井沢地区の住民の間で要望が出ており、現区長の決断もあって新公民館建設運動が進められてきた結果、町議会での承認の後、今年4月30日には建築工事の入札結果が公表されるなど、新公民館の建設に向けて本格的に動き出した。

 新公民館の設計図はすでに出来上がっていて、地域住民に公開されているが、これによると建物の床面積はおよそ340平方メートルと、現在の公民館に比べてかなり狭くなっている。これは、現在の公民館が、元々病院として建てられ、必要に応じて増築されてきた経緯もあり、公民館の機能を考えると必要以上に広い建物であったということになる。
 
 一方、この広い場所を活用して行われてきた「蚤の市」にとっては、新公民館はかなり狭く、従来通りの規模での開催はできなくなる。

 さらに、新公民館の耐震強度が改善されることになり、今後は災害時の指定非難所として水害・地震・浅間山噴火のすべてに対応していくことになるので、夏季1か月の間の蚤の市への貸し出しは困難になるという。

 こうしたことから、今回が47年目だとすると、現在の公民館の使用開始とともにはじまり今日まで続いてきたことになる夏の蚤の市開催は、早ければ今年が最後になるかもしれず、状況次第では、現・旧軽井沢公民館が取り壊される予定の、来年2022年の開催をもって終了となる可能性が高く、出店業者の方々はもとより、利用者からも終了を惜しむ声が聞かれる。

 すでに始まっている今年の「軽井沢夏の蚤の市」だが、開催日前後の様子は以下のようであった。

玄関から大広間に続く廊下にも所狭しと商品が並ぶ(2021.7.30 撮影)

大広間にもたくさんの商品が並べられた(2021.7.31 撮影)

案内看板も設置された(2021.7.31 撮影)

道路からの入り口には幟旗が建てられた(2021.8.1 撮影)


公民館の入り口もにぎやかになった(2021.8.1 撮影)





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雲場池のトンボ

2021-07-23 00:00:00 | 軽井沢
 雲場池の散歩をしていて感じるのは、意外に昆虫の姿が少ないことである。チョウも少なく、数年前に偶然通りすがりに、ミヤマカラスアゲハを見ていたし、雲場池は奥の方では鳩山家の別荘地に接していて、故・鳩山邦夫さんの著書を読んでいると、別荘の庭で多くのチョウを目撃したり採集したりする話が含まれているので、散歩中に出会えるのではと期待していたのであるが。

 ここ1年半ほどの早朝の散歩を通じて見かけたのは、僅かにスジグロシロチョウ、イチモンジチョウ、コミスジ、セセリチョウの仲間程度であった。

 雲場池の入り口に設置されている案内板にある生態系には、当然かもしれないが、幼虫が水生であるトンボは紹介されているものの、チョウのことは書かれていない。


雲場池入り口に設置されている案内板(2018.6.9 撮影)


案内板の右下部に記されている雲場池の生態系を示す写真(2018.6.9 撮影)

 6月になると、この案内板に示されているとおり、トンボの姿を多く見かけるようになった。ほとんどは池の上を飛び回っているので、それとわかるものの、詳しく姿を確認することができず、種名を同定するまでにはいかなかった。

 しかし、しばらくして、遊歩道脇のフェンスや下草に止まっているところを見るようになり、ようやく写真撮影も可能になった。

 私自身はトンボの種類についてはほとんど知識がなく、現場では確認できず、撮影後の写真をネット情報と比較しなければならなかった。図鑑なども、チョウのものは持っていても、トンボに関するものは何もないのである。

 まずは写真から先に見ていただくと、次のようである。シオカラトンボによく似たトンボの雌雄と、これとは異なる黄色と黒の縞文様の種がいた。

雲場池で見たトンボ 1/13(2021.5.30 撮影)

雲場池で見たトンボ 2/13(2021.6.21 撮影)

雲場池で見たトンボ 3/13(2021.6.21 撮影)

雲場池で見たトンボ 4/13(2021.5.28 撮影)

雲場池で見たトンボ 5/13(2021.5.30 撮影)

雲場池で見たトンボ 6/13(2021.6.10 撮影)

雲場池で見たトンボ 7/13(2021.6.10 撮影)

雲場池で見たトンボ 8/13(2021.6.21 撮影)

雲場池で見たトンボ 9/13(2021.6.10 撮影)

雲場池で見たトンボ 10/13(2021.6.10 撮影)


雲場池で見たトンボ 11/13(2021.6.10 撮影)

雲場池で見たトンボ 12/13(2021.6.21 撮影)


雲場池で見たトンボ 13/13(2021.6.21 撮影)

 さて、これらのトンボの種の同定である。先ずシオカラトンボではないかと思っていたトンボは、近縁のシオヤトンボということが判った。尾の先が黒くないことと、羽の付け根部が褐色になっている点でシオカラトンボとは異なっている。
 
 残る名前のわからないトンボについてのヒントは、前掲した雲場池の案内板右下にある写真にあった。この写真は数年前に撮影してあったもので、カイツブリを紹介(2021年6月18日 公開)する時にも用いたことがある。その案内板で確認すると、雲場池の生態系として紹介されているトンボの写真の下には「モイワサナ」という聞きなれない名前が見られる。これを参考に調べたところ、どうもこれは「モイワサナエ(トンボ)」のことだと判ってきた。

 先日、改めて現地でこの案内板を確認したが、生態系の部分の表記は今も数年前のものと変わっていない。この点については差し出がましいようであるが、軽井沢町の担当課に連絡しておいたので、いずれ修正していただけるものと思う。

案内板の右下部に記されている雲場池の生態系を示す写真(2021.7.5 撮影)

 さて、この案内板の写真だけでは詳しく紋様などを確認することができないので、ネット情報で調べていくと、モイワサナエと酷似した種にはほかに「クロサナエ」と「ダビドサナエ」という種がいて、その違いは胸部分の黄色と黒の紋の現れ方にあって、種の識別に使えることもわかった。

 撮影した手元の写真を確認した結果、雲場池で撮影した黄色と黒の紋のあるトンボは、モイワサナエとダビドサナエの2種が混じっていることが確認できた。

 先ず、案内板にあったモイワサナエ。胸側の2本の黒条のうち前方のものが胸側上縁に達せず,途中で切れている。このことが識別の決め手になるとされるので、次の写真のトンボはモイワサナエと判定した。

 ちなみに、この和名の中の「モイワ」というのは、北海道の藻岩山からとったもので、最初にこの藻岩山周辺で発見されたからであるという。


モイワサナエ(2021.6.10 撮影)

 次に、胸側の2本の黒条が完全に上縁に達するのは、ダビドサナエとクロサナエでえあり、このうち、頭部後方に黄色い小斑点の現れるものがダビドサナエで、クロサナエにはこの小斑点がないとされている。

 こうしたことから今回撮影した次の写真のトンボは、ダビドサナエであると判定した。この種は春にあらわれるサナエトンボの中では、比較的普通に見られるとされていて、和名にある「ダビド」はフランス人の生物学者の名前に由来するものである。


ダビドサナエ(2021.6.10 撮影)
 
 それにしても、これまでチョウにばかり関心が向いていて、トンボのことはほとんど何も知らなかったことを少し反省している。子供のころ住んでいた大阪にも、アカトンボやシオカラトンボは普通にみられたし、少し珍しかったがギンヤンマもいた。また、山地に出かけるとオニヤンマ、ハグロトンボ、チョウトンボなどもいたのだが、それ以外となるとまるで分らない。

 調べてみると、日本には約200種のトンボが生息しているという。せめて、軽井沢で出会える種については、見れば判るくらいになっておきたいものと思うようになった。

 雲場池でシオヤトンボを最初に撮影した同じ日、自宅庭でもそれまで見たことがないトンボがいることに気が付き、撮影してあった。これは、後日雲場池で撮影することになるダビドサナエであったが、初めはこれをムカシトンボだと誤判定していた。

自宅庭で見たダビドサナエ (2021.5.28 撮影)

 軽井沢のトンボについて知るために、手元にある「軽井沢のホントの自然」(石塚 徹著、2012年 ほおずき書籍発行)を見ると、アキアカネ、ハラビロトンボ、ミヤマアカネ、マイコアカネ、オオルリボシヤンマ、オニヤンマ、ダビドサナエ、クロイトトンボ、ハグロトンボ、アオハダトンボ、ミヤマカワトンボ、モートンイトトンボが紹介されている。このうち、絶滅の恐れのある種として、アオハダトンボ、ミヤマカワトンボ、モートンイトトンボの名前が挙げられている。

 いずれ出会うかもしれないこうした種についても、見ればわかるようになっておきたいものと思っている。

(2021.8.7 追記)
 雲場池の案内板が次のように「モイワサナエ」と修正されていることに今朝気がついた。軽井沢町の担当課・関係者にはお礼申し上げます。



 

 

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