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軽井沢からの通信ときどき3D

移住して11年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

あさま山荘(2/3)

2022-02-18 00:00:00 | 軽井沢
 50年前、武装した連合赤軍のメンバーが、南軽井沢・レークニュータウン内にあった河合楽器の保養所に立てこもった「あさま山荘事件」が起きている。1972年2月19日の事であった。

 この事件については、軽井沢に移り住んだことがきっかけになり、調べてみたいと思い、現地保養所や関連した場所に行くとともに、書籍を読むなどして得た情報を当ブログで紹介(2017.8.18 公開)したことがあった。
 その際の関心は専らこの保養所での立てこもりに至るまでの犯人達の行動、その後の警察・機動隊との攻防・人質の救出と全員逮捕、そしてその後の犯人達のことであった。

 今月になり、2月6日の信濃毎日新聞が1面と31面に、この「あさま山荘事件」を採りあげた。
 1面の見出しは、「半世紀 複雑な思いなお」であり、「あさま山荘事件 人質女性」、「救出で2人死亡『申し訳ない』」と小見出しが続く。
 記事中には昭和47年(1972年)2月29日付け同新聞1面の、事件を伝える記事がそのまま掲載され、「泰子さん救出、五人逮捕」、「『連合赤軍』九日ぶり解決」、「警官死亡二人に」といった見出しが見える。

 31面には「遺族とお会いしない方が」、「『あさま山荘』50年 今も慰霊祭控える人質の女性」という見出しがある。


「あさま山荘事件」を伝える2022年2月6日発行の信濃毎日新聞1面

「あさま山荘事件」を伝える2022年2月6日発行の信濃毎日新聞31面

 これらの見出しからも想像できることではあるが、記事を読み進んでいくと、今回の記事はこのあさま山荘事件そのものについて報じているのではなく、事件の人質となった女性に焦点をあてて書かれていることが判る。

 31面には、「ただ一人の人質として巻き込まれた牟田泰子さん(81)は信濃毎日新聞のインタビューに、事件から半世紀を経ても心のつかえは消えていないことを吐露した。・・・」という記事内容と共に、取材に当たった記者の思いが次のように記されている。

 「記者は今年1月、泰子さんと夫の郁男さん(85)宛てに手紙を送り、事件から半世紀の節目に、当時の関係者の思いや、事件が残したものは何だったのかを知り、読者に伝えたい-との思いをつづった。今月、町内の自宅を訪ねると、泰子さんが静かな口調で語り始めた。・・・」

 そして、インタビューの内容を紹介する記事の最後を次のように締めくくっている。

 「半世紀たち、当時を直接知る人は少なくなった。長年の『沈黙』を破った泰子さん。被害者として、後世にどんな思いを伝えたいのか-との問いに、『私はもう過去の人だから』と多くを語らなかったものの、その表情には真実を伝えたい-との決意のようなものがにじんだ。」

 「あさま山荘事件」という、それまでにも、その後にも例のない事件に人質として巻き込まれた女性とその夫の2人が今なお「複雑な思い」を、そして事件解決に向かった警察官2人が銃撃され死亡したことに「今も申し訳ない気持ち」を持ち続け、毎年、事件で殉職した2警官の命日に合わせ軽井沢町発地の顕彰碑「治安の礎」前で行われる慰霊祭への参加を、出席する遺族らと顔を合わせることが「つらいから」として、ためらう背景に一体何があるのだろうかと考えさせられる。
 
 この記事の最後の部分で、記者は「当時のメディア報道についてどう思っていたのか」という質問をするが、これに対する泰子さんの答えは「(事実と)『ちょっと違う』と悩んだこともあった。書かれる側の気持ちを考えてほしいのは、今でもそうじゃないでしょうか」と答えている。

 この質問と回答に、今回の記事を掲載しようとした記者の意図が込められていると思える。というのは、私には一つ思い当たることがあるからである。

 先日、あるきっかけで、軽井沢病院の建物の歴史を調べたが、その時、「軽井沢病院誌」(平成8年 軽井沢病院発行)という本があることを知り、読み進むうちに、病院関係者の言葉として、「あさま山荘事件」についての記述が複数個所あることを知った。病院で、救護に当たった当時の医師や看護師が、この時の様子を自らの体験として記録に残していたのである。

「軽井沢病院誌」(平成8年3月 軽井沢病院発行、町立軽井沢図書館所蔵)の表紙

 一般に販売された書籍ではないが、軽井沢図書館の蔵書であり、閲覧は自由にできる。ここには、軽井沢病院の歴史と、関係者のさまざまな思い出が綴られているのであるが、複数の方々が「あさま山荘事件」のことを心に残る忘れられない思い出として書き残していた。中でも、散弾銃で銃撃され負傷した機動隊員の手術をした医師や、事件の人質であった牟田泰子さんを直接診察したお二人の医師の話が詳しく記されているので、ここに引用させていただく。
 
 前田 弘氏(元 産婦人科医)は、
 「昭和47年2月19日、土曜日の午後、当番医として病院に残っていた。この年は軽井沢にしては、珍しく雪の多い寒い年であった。当時は、冬期に時間外に来院する患者さんは殆どないのが常であったが、その寒い日、けたたましいパトカーのサイレンと共に、機動隊の制服を着た一人の屈強な男が飛び込んできた。
 妙義山のアジトを追われた連合赤軍が軽井沢方面に向かったらしいとの情報のもとに、冬期の空き別荘の点検を行っていたところ、いきなり別荘の窓から猟銃で撃たれたとの事であった。
 X線検査をしたところ、顔面と左前腕にに7発の散弾が撃ち込まれていた。深さは約5mm程度であった。直ちに局部麻酔をしながら摘出を始めたが、射入口は小さく、弾は丸いため、一個取り出すのにかなり手間が掛かる。特に顔面は傷を大きくしたくなかったので、尚更であった。隊員はイライラしはじめ、『麻酔はいらない。傷口も大きくてよいから、早くして呉れ。すぐに犯人達の追跡に加わりたいのだ』という。
 彼の我慢強さと警官としての使命感の強さにビックリしたものである。実際にすべての弾を抜き終わると、『行ってきます』と言って病院を飛び出していった。翌日の新聞には彼の言葉通りに追跡隊に復帰していた事が報じられていた。
 しかし、この時点では、あれほどの大事件の発端になろうとは思ってもいなかったのである。その後の2月28日に警察隊が突入して解決したのであるが、当日早朝、警察からの要請で浅間山荘から70メートル程離れた、死角になる場所に停めた大型救急車に待機し、怪我人の処置と護送病院の手配の役を引受けたりもした。現場にいて、報道されなかった貴重な多くの経験もした。・・・」

 木戸千元氏(五代目院長)は、人質の牟田泰子さんと直接接触したが、その時のことを更に詳しく次のように記している。
 「縁あって、軽井沢病院に赴任したのは昭和44年秋の頃であった。・・・
 病院就任以来、町には浅間山の大爆発、新道の大火などの事件があったが、昭和47年2月、静かな冬の軽井沢に降って沸いた様に突然銃声が響いて、この事件が勃発した。・・・
 警察は、総力を挙げて、10日間の攻防戦の末、2名の殉職警官の犠牲を払いながらも人質を無事解放し、犯人を全員逮捕したものである。
 事件が始まるや、当院は最前線の医療機関に指定されたため、大学病院から応援の医師を依頼して待機態勢を採っていたが、厳重な包囲網をくぐって山荘に近ずこうとした一民間人が頭部を銃撃され、救急車で搬送されるという事もあった。・・・
 10日間のにらみ合いの末、・・・夕闇迫るころ、遂に落城した。人質は無事に救出されて直ちに病院に運ばれた。異常な体験を強いられた人質であったが、水を被り寒さに凍える以外は擦り傷程度の外傷があったくらいで、他覚的な異常所見はなく、思いの外元気であり、気丈でもあった。
 精神的にも大分痛め付けられて居るのではと予想されたので、拘禁症状の有無等について、予めお願いしてあった国立小諸療養所の精神科医にも立ち会ってもらったが、特に異常所見はなくホッとしたものであった。
 この際の一問一答が、翌日の某大新聞の一面にそっくり載っていて、驚いたのであったが、後に病室で盗聴器が発見され、報道合戦の凄まじさに目をむいたものであった。
 当日のテレビカメラは朝から一日中山荘に焦点をあてて放映しており、どこのチャンネルを回しても浅間山荘一色となり、全国の視聴者もテレビ画面に釘づけとなったため、国道18号の如きは交通量が激減したとの事であった。当院でもリアルタイムのテレビで逐一経過を追いながら入院準備などに万全を期していたのであった。
 この頃からは人質に関するマスコミの取材攻勢が激化し、初めはテレビ・新聞、次いで週刊誌・月刊誌と、夜打ち・朝駆けまである熾烈な競争に巻き込まれて、マスコミの実態についてつぶさに体験させられた。・・・
 数日後、院内で人質との共同記者会見が設けられ、全国にトップニュースとなって流されて、ようやく報道陣が潮が引く様に去って行き、元の静けさに帰ったのであった。
 この事件で、警察は犠牲を払いながらも、全国民の声援と激励を受けて解決し、非の打ち所のない対応と評価された・・・」

 次は原 久弥氏(元 外科医師)の印象に残った出来事として書かれた、あさま山荘事件である。
 「・・・当時の日記に、比較的詳しく、その時のことが記載してありますので、ここに軽井沢病院の勤務医から見た、この事件について、記します。
 ・・・警察が駆け付けたとき、彼らは南軽井沢、レイクニュータウン近くの急な山の斜面に建つ河合楽器の寮、あさま山荘へ逃げ込み、管理人の奥さん、牟田泰子さんを人質にとり、たてこもりました。このニュースは、たちまち病院にも伝わりました。・・・どのような事態に発展するか判らず、一応、病院として待機状態をとることになり、足止めせざるを得なくなりました。・・・
 2日目(月)の午後、新潟市でスナックを経営している田中安彦さんという人が、単身、牟田泰子さんの身代わりになろうとして、山荘に近づいたところ、散弾銃で撃たれ、病院にかつぎこまれました。そして、このときより軽井沢病院は、この事件の最前線基地として、世の注目を浴びるようになりました。 
 この人は、結局、銃弾による脳挫傷があり、上田市の小林脳外科へ転送されましたが、死亡しております。
 あさま山荘を、取り巻き、ぞくぞくと武装した警察の機動隊員が集合し、軽井沢町は、機動隊員とマスコミの人々で、真夏のようにごった返し、人間であふれかえりました。
 いつ、どんな激しい銃撃戦が始まるか、判らず、外科として、それに対応出来る体制を整えねばならず、大学の医局へ連絡、直ちに2名の外科医が交代で派遣されました。
 現場は、タテを持った機動隊員が取り巻き、まず、人質の牟田泰子さんの、親族による『人質』を返してくれという呼びかけが行われました。続いて、連合赤軍の坂口、吉野氏の母親による涙ながらの説得が行われましたが、何らの動きもなく、機動隊員が少しでも、山荘に近づくと、容赦なく散弾銃を撃ちまくりました。彼らの射撃能力は抜群で、タテの眼の部分に開けられた、僅かのスキマに、遠方から的確に命中させる能力を持っておりました。
 病院は、時々起きる怪我人が救急車で運ばれるほか、人口が急に増えたための、一般のカゼとか、ちょっとしたケガなどで、夏なみに忙しい毎日でした。
 現場近くの、見晴らしのきくところは、見物する人たちが、押し掛け、どのように発展するか、かたずを飲んで、成り行きを見守っておりました。
 毎日、緊張して待機しておりましたが、10日目、2月28日、ついに警察は朝より、強行突入に入りました。ビルの解体に使う、大きな鉄球で玄関を破壊し、屋根を真上からぶち抜き、高圧放水車で外壁を吹き飛ばし、厳冬の中、大量の冷水を浴びせかけました。そして多数のガス弾を、密閉に近い部屋の中でさく裂させ、催涙ガスを充満させました。
 すでに暗くなった18時15分、ついに、連合赤軍の若者たちが逮捕され、人質も救出されました。次々とサイレンを鳴らして救急車が、怪我人を運び込み、その処置に戦場のような騒ぎになりましたが、病院のスタッフは、秩序正しく、落ち着いて治療に専念いたしました。・・・
 人質の牟田泰子さんは、冷たいホースの水を浴び、催涙ガスで眼や鼻を侵された上、氷のように冷え、応援に来ていた同級の藤井医師は、夢中になって、彼女の全身マッサージに集中いたしました。
 このときから、外科医としての役割は、終わりましたが、続いてマスコミの、猛烈な取材合戦が始まり、病院は、ただ、もみくちゃにされたといっても良いような状態になりました。
 取材合戦が熾烈になったのは、人質の牟田泰子さんからの取材が、警察により、差し止められたからです。救出直後、泰子さんは、肉体的に衰弱しておりましたが、精神的には、極めて元気でした。あさま山荘では、赤軍の若者、坂口弘、坂東国男、吉野雅邦の三人に大切にされ、楽しかったと口走り、〇〇ちゃんは、大丈夫かしら、などと発言し、それが警察当局を激怒させることになりました。
 警察は犠牲者まで出し、7日間、寝ずに、ただ人質の救出に全力をあげていたわけですから無理もありません。その最初の一言が、マスコミに報道されてしまったため、全国からも怒りの声が殺到し、泰子さん宛ての手紙が、沢山届き・・・。
 それ以来、郵便物は、一切、警察が管理し、マスコミの取材をシャットアウトしてしまいました。泰子さんは、連日、警察の厳しい事情聴取が続けられ、最初の元気さは、影をひそめ、次第に精神的に落ち込み、ノイローゼ気味になって行きました。 
 私達ドクターは、毎日、診察のため、接しておりましたが、日ごとに衰弱していくのが良く判りました。マスコミは、取材を止められたため、ますます他社に先んじて、人質中の新しい事実を知るべく、殺気立ってまいりました。我々ドクターが、何か知っているのではないか、と言うことで、官舎に昼夜を問わず押し寄せ、電話は使い放題、その傍若無人さには、ただ唖然とした次第です。
 なんとか泰子さんのいる病室に盗聴器をしかけようと、白衣を着て忍び込もうとしたり、出前持ちのふりをして、入ろうとしたり、それは物凄い取材合戦でした。・・・ 
 そして、人質解放の13日目、ついに、牟田泰子さんの、記者会見が軽井沢病院の内科診療室で行われることになりました。・・・
 その状況は、全国に放映されました。担当者による質問に答える内容は、救出直後のものと、全く異なり、人質中は、ひどい仕打ちを受け、あのような若者は、絶対に許されるものではない、という内容でした。・・・」

 こうした医師の証言ともいえる記述を目にすると、当時人質であった牟田泰子さんをめぐって何が起きたのかを想像することができる。このことについては、ウィキペディア(最終更新 2022年2月16日)にも「事件後の人質」の項に、前記の入院中の出来事や、記者会見の様子について、医師の記述と同様の内容ががまとめられている。
 こうしたことから、今回、信濃毎日新聞の記者が、表現に苦心をしながらも、読者に伝えたかったことが見えてくるのである。

 あさま山荘事件の被害者は、人質となった牟田泰子さんであり、その人質解放と犯人逮捕に向かって命を落とした二人の警察官と、善意の民間人である。
 人質の無事救出と犯人逮捕に使命感をもって臨んだ警察官と機動隊員の中から犠牲者を出したことはまことに痛ましい。と同時に、人質となった牟田泰子さんの命もまた同じように当時は危険にさらされていた。

 幸い、犯人グループは人質となった泰子さんに手荒いことをすることはなく、中でも当時未成年であった犯人の1人は、泰子さんに思いやりを示す場面もあったようである。こうした体験を解放後、軽井沢病院の担当医師に率直に語った言葉が、マスコミが仕掛けた盗聴器により外部に漏れ、その事がきっかけになり、泰子さんは世間から、さらにはマスコミからもバッシングを受けることとなった。

 信濃毎日新聞の記事にはインタビューに答える泰子さんの話が次のように書かれている。

 「『手荒なことはしなかった』・・・縛られたのは当初だけ、ベッドルームにいさせられた。動き回ることはできなかったけれど、部屋にいれば良かった。手荒なことはしなかった。食事は作ってくれた。・・・
 ⦅当時のメディア報道については⦆(事実と)『ちょっと違う』と悩んだこともあった。・・・」

 このように、解放後に受けた心の傷は、50年後の今なお完全には癒やされることなく、牟田さん夫婦を苦しめている。

 牟田泰子さんは事件後、口をつぐんできた。また、自身の救出にあたり亡くなった警察官や民間人の遺族との接触も遠慮してきた。

 この「あさま山荘事件」はまだ解決していないと考える関係者は多いという。犯人の1人がその後、超法規措置で釈放され、海外に逃亡を続けているからでもあるが、その他にもここで示されているように、人質となった泰子さんにとっても、未だ事件は解決していないといえるのではないか。

 先日配布された軽井沢町の広報誌「広報 かるいざわ」(No.715)には、2月28日に「あさま山荘事件殉職警察官慰霊祭」が顕彰碑「治安の礎」現地で行われるとの「お知らせ」が掲載されていた。牟田ご夫妻は今年もまた参列を見送ることになるのだろうか。関係者の尽力で、何とかそうした事態を回避し、「あさま山荘事件」の一端が解決されることを願いたいと思う。

「広報 かるいざわ 2022年2月号」(軽井沢町発行)の表紙

 
同誌「お知らせ」欄の記事 

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雲場池逍遥

2022-01-23 12:00:00 | 軽井沢
 久しぶりにホシハジロ♂が姿を見せた。遠くからではなかなかわからないが、超望遠レンズで撮影した写真を見ると、赤い虹彩が印象的である。樹上にはコゲラの姿があった。

雲場池のホシハジロ♂とコゲラ(2022.1.23 撮影)

今朝の雲場池(2022.1.23 撮影)





 
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どんど焼き

2022-01-14 00:00:00 | 軽井沢
 旧軽井沢区の年中行事の一つ、「どんど焼き」が今年も諏訪ノ森公園で行われた。集まった年配者のはなしによると、自身が子供の頃の思い出にはこのどんど焼きはないが、子育ての時期に、子供達を連れてどんど焼きに参加した記憶はあるという。

 年配者というのは区の役員諸氏の事なので、そこから判断すると3-40年ほど前からどんど焼きが行われてきていることになる。

 もう少し詳しいKさんに聞いてみると、以前は公園に隣接する諏訪神社の境内で行われていたが、その後今行われている公園に場所が移されたのだという。

 現在、旧軽井沢区のどんど焼きは地元小学校のPTA支部が主催していて、これに消防団、区会が協力する形をとって行われている。

 そうしたこともあって、どんど焼きで燃やす、正月飾りのしめ飾りや門松、縁起物のだるまや招き猫、子供たちが書いた書初め、神社からいただいた破魔矢、お札、御守り、おみくじなどの品々を、子供たちが各家庭や、別荘、商店、ホテルなどを回って集めている。

 ところが、昨年からは新型コロナの影響があり、子供たちが各家庭を回ることを止めている。代わって、区会の関係者とPTA役員が分担して地域をまわり、どんど焼きで燃やす品々を集めるようになっている。

 これらとは別に、どんど焼きで燃やしてほしい種々の品を諏訪神社に持参する人もいるし、どんど焼き会場に当日直接持参する人もいる。


諏訪神社に集まった縁起物のだるまや、破魔矢、正月飾り、お札、お守りなどが公園に運ばれて来た(2022.1.10 撮影)

 暫くすると、軽トラで各所から回収した品々が公園に集まって来る。集められた品の中では、「だるま」が目立っているが、そのだるまの大きさはさまざまで、手のひらサイズから一抱えもある大きなものまである。また、門松も商店のもは大きく立派で、太い竹が使われている。

 
軽トラで運ばれてきた品々が加わり、一挙に燃やすものの量が増える(2022.1.10 撮影)

 集まって来た品の中でも、だるまや招き猫、そして太い竹などは、燃やしているうちに破裂する恐れがあるという事で、だるまなどは底の部分の素焼き粘土を取り外す作業をしたり、竹はあらかじめ割れ目を作ったりする作業を行う。

 さらに、町のごみ処理ルールに従って、金属、陶磁器などの不燃物やプラスチック製品などは取り外して分別ごみ袋に分け、燃やしてもよい品々だけを公園中央に積み上げる。そうこうしているうちに諏訪神社からのお神酒などが運ばれてきて、神事の準備も整う。


公園の中央部に積み上げられたどんど焼きで燃やす品々と神事用のお神酒など(2022.1.10 撮影) 

 午前中にこうした準備をして、午後からお焚き上げの行事が始まる。今回は順調に準備が進み、しばらくは一休みであった。

 午後になると、関係者が再び集まって来るが、万が一に備えて消防車も用意される。

 
消防車も用意される(2022.1.10 撮影)

 そしていよいよお焚き上げの神事が始まる。進行役は小学校のPTA支部長さんである。

PTA支部長さんの進行で神事が執り行われる(2022.1.10 撮影)

 諏訪神社の宮司さんが祝詞を読み上げ、続いてPTA支部長、区長、区の消防部部長が玉串を捧げる。
 
区の役員が玉ぐしを捧げる(2022.1.10 撮影)

 次に、積み上げられた品々にPTA役員の手でお神酒が振り掛けられ、その後消防団員により点火される。燃えやすくするために、灯油が少量ふりかけられたようである。

 火は順調について、炎が高く燃え上がる。


用意され、積み上げられた品々にお神酒をふり注ぐ(2022.1.10 撮影)


消防団員による着火作業(2022.1.10 撮影)

すぐに火がついて燃え始める(2022.1.10 撮影)

勢いよく燃え上がる(2022.1.10 撮影)
 
 積み上げられていただるまなどはみるみる火だるまとなり、真っ赤な塗装色が白く灰になっていく。


燃え上がるだるまなどの品々(2022.1.10 撮影)

 炎が落ち着いてくると、この火と熱を利用して、子供たちは楽しみにしていた団子や餅を焼き始める。中には待ちきれないで、燃え盛る炎に長い枝先に付けた団子を差し出す子もいる。

勢いよく燃える炎に長い枝先に付けた団子を差し出す少年(2022.1.10 撮影)

火が落ち着いてくると待っていた子供たちが団子を焼く(2022.1.10 撮影)

紅白の団子のほかチョコレート団子も混じる(2022.1.10 撮影)

 今回は、残念なことに新型コロナ/オミクロン株の再流行の兆しを受けて、PTAは子供たちの参加を見送った。今回公園に集まったのは親に連れられて自主的に参加した子供たちだけであったが、10人ほどの子供たちは大いにこの行事を楽しんでいたようであった。

 約1時間ほどで積み上げられていた品々は燃え尽きた。後は消防団の皆さんが火の始末をしてくれるという事で、三々五々解散となった

 どんど焼きが行われる目的の一つに、無病息災が掲げられている。すでに2年もの長きにわたり世界中を苦しめ、混乱に陥れている新型コロナであるが、皆の気持ちが通じて今年は何とか終息に向かってもらいたいものと、柄にもなく祈りたい気持ちになった。


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マンロー病院

2021-12-24 00:00:00 | 軽井沢
 軽井沢を外から見ていた頃、堀辰雄の小説に登場する「サナトリウム」という語がとても印象的であった。

 堀辰雄の小説「風立ちぬ」と「美しい村」には2つのサナトリウムが登場する。美しい村には主人公の「私」が毎日のように軽井沢を散歩をする様子が描かれるが、4本の道筋があるとされる主な散歩コースの一つが、「サナトリウムの道」である。


堀辰雄著「風立ちぬ・美しい村(新潮社 昭和二十六年発行・平成二十三年改版)」のカバー表紙

 このサナトリウムの道は、軽井沢銀座通りを観光会館の横の道に折れて、さらにテニスコート沿いに東に進むと矢ケ崎川にかかる橋(中村橋)に出る。橋の手前の道を右に折れて川沿いに進むと、途中からやや狭い道になるが、これを進んでいくと、万平通りに架かる橋(森裏橋)のたもとに出る。橋を渡ってすぐ右に折れると、再び川沿いの道になるが、この道が現在「サナトリウムレーン」または「ささやきの小路」と呼ばれる道で、「美しい村」に登場する場所である。

 この道がサナトリウムの道と呼ばれるのは、万平通りから入ってすぐ左手に「軽井沢サナトリウム」または「マンロー病院」と呼ばれていた病院がかつて存在したからである。

 この病院は、当時軽井沢に別荘を建て暮らしていた避暑客の会である軽井沢避暑団と、やはり別荘を借りるなどして診療を行っていたマンロー医師が提携し、1924(大正13)年に設立したものであり、小説「美しい村」には「レエノルズさんの病院サナトリウム」として登場する。マンロー医師がモデルと思われる人物は、「いつもパイプを口から離したことのないレエノルズさん」「レエノルズ博士」として描かれている。

 また、ある日のこととして、「・・・向こうの小さな木橋を渡り、いまその生垣にさしかかったばかりのレエノルズ博士の姿を認めた。すぐ近くの自宅から病院へ出勤して来る途中らしかった。片手に太いステッキを持ち、他の手でパイプを握ったまま、少し猫背になって生垣の上へ気づかわしそうな視線を注ぎながら私の方へ近づいて来た。が、私を認めると、急にそれから目を離して、自分の前ばかりを見ながら歩き出した。そんな気がした。私も私で、そんな野薔薇などには目もくれない者のように、そっぽを向きながら歩いて行った。そうして私はすれちがいざま、その老人の焦点を失ったような空虚(うつろ)な眼差しのうちに、彼の可笑しいほどな狼狽と、私を気づまりにさせずにおかないような彼の不機嫌とを見抜いた。」と自らの目で見たレエノルズ博士を描いている。

 更に次は、宿の爺やの話として紹介されるレエノルズ博士の話であり、思いがけないことが述べられている。軽井沢でこうした火災が起きたという記録はなく、後に移住した北海道でのことと思われるが、これがどこまでマンロー博士の実像であるかどうかは判らない。
 「・・・それはあの四十年近くもこの村に住んでいるレエノルズ博士が村中の者からずっと憎まれ通しであると言うことだった。ある年の冬、その老医師の自宅が留守中に火事を起こしたことや、しかし村の者は誰一人それを消し止めようとはしなかったことや、そのために老医師が二十数年もかかって研究して書いていた論文がすっかり灰燼に帰したことなどを話した、爺やの話の様子では、どうも村の者が放火したらしくも見える。(何故そんなにその老医師が村の者から憎まれるようになったかは爺やの話だけではよく分からなかったけれど、私もまたそれを執拗に尋ねようとはしなかった。)---それ以来、老医師はその妻子だけを瑞西(スイス)に帰してしまい、そうして今だにどういう気なのか頑固に一人きりで看護婦を相手に暮らしているのだった。
 ・・・私はそんな話をしている爺やの無表情な顔のなかに、嘗つて彼自身もその老外人に一種の敬意をもっていたらしいことが、一つの傷のように残っているのを私は認めた。それは村の者の愚かしさの印であろうか。それともその老外人の頑な気質のためであろうか? ・・・そう言うような話を聞きながら、私は、自分があんなにも愛した彼の病院の裏側の野薔薇の生垣のことを何か切ないような気持になって思い出していた。」

 サナトリウムの建物の様子についての記述もあり、次のように紹介されている。
 「・・・、それらの生垣の間からサナトリウムの赤い建物が見えだすと、私は気を取り直して、黄いろいフランス菊がいまを盛りに咲きみだれている中庭のずっと向うにある、その日光室(サンルウム)を彼女に指して見せた。丁度、その日光室の中には快癒期の患者らしい外国人が一人、籐椅子に靠れていたが、それがひょいと上半身を起して、私たちの方をもの憂げな眼ざしで眺め出した。・・・」

 さて、堀辰雄のもう一つの小説「風立ちぬ」には、別のサナトリウムが舞台として登場する。八ヶ岳山麓にあるサナトリウムであり、実在した富士見高原療養所(現在の富士見高原病院)がモデルであるが、次のように描かれている。

 「八ヶ岳の大きなのびのびとした代赭色の裾野が漸くその勾配を弛めようとするところに、サナトリウムは、いくつかの側翼を並行に拡げながら、南を向いてたっていた。」

 この小説「風立ちぬ」では、主人公と節子が最初に出会った場所は軽井沢であるが、節子の結核の療養のために二人が入院するのは八ヶ岳高原にあるサナトリウムであり、節子の死後主人公が滞在するのはふたたび軽井沢という設定になっている。

 しかし、これらの小説をもう随分前に読んでいた私などは、結核を患った堀辰雄も、「風立ちぬ」の節子のモデルとされる綾子も、軽井沢のサナトリウムに入院していたとの誤解をしていた。そして軽井沢に住むようになり、改めて堀辰雄とサナトリウムのことを調べなおして、その誤りに気がついたのであった。

 さて、ふたたび軽井沢のサナトリウム、すなわちマンロー病院のことに話を戻そうと思う。
 軽井沢に本格的な西洋式の病院ができたのは、このマンロー病院が最初ということになるが、マンロー博士ははじめ、婦人アデールと来軽してタッピング別荘を借りてクリニックを始めた。その後、京三度屋(現坂口医院)の裏で、さらに萬松軒(現軽井沢郵便局)の別館を買い取り診療所としている。

 その頃の様子を桑原千代子氏の大変な労作「わがマンロー伝」(桑原千代子著 1983年新宿書房発行)から引用すると次のようである。

桑原千代子著「わがマンロー伝」(1983年新宿書房発行)のカバー表紙

 「・・・諏訪の森の近くの外人タッピングの別荘を借りて診療開始、次に京三度屋裏、一、二年後に萬松軒別館を買い入れ、改装してクリニックを開設した(現在のテニスコートの近く)。それはかなり手を加えて白塗鎧窓の瀟洒な建物となった。・・・で、兎も角もクリニック開設資金はみんな大貿易商の岳父から出たし、またアーデル名義で軽井沢町国際病院隣地三千坪も購入する。」

 そして、つづいてマンロー病院の建設である。

 「外人別荘が増えるにつれて、岳父の援助で萬松軒別館を買い取り開設したクリニックは、マンローの優れた技術と良心的な治療で大繁昌であった。一方、軽井沢避暑団(KSRA、日清戦争後できた軽井沢避暑人会が発展改名したもの)はこれまで再三にわたって、直営の国際病院(内実は診療所程度)」の院長兼任を頼んできていた。マンローは夏季(七、八、九月)三カ月だけ大正十年からこれを引き受けることになった。この時兼任を引き受ける条件として、自分のめがねにかなった優秀な婦長を就任させることがあった。マンローは神戸クロニクル社の社長と懇意であったので、神戸の万国病院からスカウトしてきたのが木村チヨ婦長であった。・・・
 この軽井沢の病院は呼称がいろいろと変化した。ナーシングセンターから出発して、国際病院、マンロー病院、軽井沢病院等とさまざまに呼ばれたが、大正十三年マンローの正式院長就任後からは、『軽井沢サナトリウム』が正しい呼称となる。」

 マンロー博士は軽井沢滞在中に、関東大震災に遭遇した。急ぎ、自宅や勤務先の病院があった横浜に駆けつけるが、惨禍は東京よりもひどかったとされる。横浜全市は廃墟と化し、山手町の病院も新居、夫人の実家も同様消失した。
 
 以下、「わがマンロー伝」からの引用を続ける。

 「震災のあとマンローは、横浜の病院の復興に力を尽した気配がない。夏だけの兼任ではなく年間を通じての国際病院の院長になるため、横浜の病院へは年末までと限って辞表を出している。ところが軽井沢避暑団は日本屈指の経済人の集まりだった。夏期七月から九月までの最も収入の多い期間は避暑団の経営で、患者が激減する他の長い季節はマンローの個人経営にするという、何とも虫のいい一方的な条件をおしつけたのだった。
 そして1924(大正十三)年一月から、『軽井沢サナトリウム』として発足するのだが、避暑団はあまり施設には手をかけない主義で、病室を増やすことに熱心だった。
 しかしシーズン・オフの軽井沢は全く寂しい。別荘は皆空き家となり、患者は土地の人々がほんの時折来るだけで、それに加えてマンローは貧しい小作人や木こり達からは相変わらず治療費はとらない。医薬品代、看護婦人件費、患者給食費等支出超過は多く、以前のように豊かな生活ではなくなった。そうした生まれて初めての経済的苦痛は次第に夫妻を苛々させることになった。
 夫人のアデールにとってはそれだけではなく、その以前から夫の背信に悩まされ続けていた。神戸からスカウトした木村婦長と夫は、すでに親しい関係に陥っていたのであった。・・・
 アデール夫人は悩んだ。だが悩んだあげくサナトリウムに隣接した自分名義の三千坪を避暑団に売り、マンローの負債を補って国外に去ってゆく。・・・
 三千坪を買い取った避暑団は病棟や外気小屋(軽症患者の開放療法室)を増築した。何のために院長を引き受けたのか、マンロー側の大きな誤算に終わり、昭和三年に入ると院長は加藤伝三郎博士に切り替えられた。・・・」

 名誉院長という、実質的には退職に追い込まれて、悶々の日々を送っていたマンロー博士は、この後ロックフェラー財団からの研究奨励金を得て、これまでも時々訪問していたアイヌの人々の研究のため、北海道に渡ることを決意した。1930(昭和5)年のことである。

 マンロー博士は、北海道に渡ってからも、殆んどの夏には軽井沢サナトリウムに出張診療を行っていた。それは生活のためであったとされる。そして、マンロー博士が1942(昭和17)年に北海道・二風谷で亡くなり、現地に埋葬されたのち、チヨ夫人は再びマンロー博士の分骨を抱いて軽井沢に戻り、軽井沢サナトリウムで婦長として職につき、1952(昭和29)年に69歳で退職するまで働いている。マンロー博士の分骨された遺骨は、百か日目に六本辻の外国人墓地に埋骨された。

 マンロー博士が去ってしばらくしてからの「軽井沢サナトリウム」については、「軽井沢病院誌」(1996/平成8年軽井沢病院発行)の中の「軽井沢町の医療の変遷」の冒頭部分に次の記述がある。

「軽井沢病院誌」(1996/平成8年軽井沢病院発行)の表紙【軽井沢図書館蔵】

 「1951(昭和26)年10月、医療法改正に伴い、名称が軽井沢診療所と変わり、翌1952(昭和27)年10月、加藤先生は退任されている。
 1953(昭和28)年から8年間は慶応内科の医師が交代で夏期3か月の診療に当たった。この間、昭和29年に長年婦長を勤めたチヨ夫人が辞め、昭和34年から歯科診療も行った。・・・
 昭和42年5月には赤字が嵩み廃止が決定された。跡地は旧軽井沢ビラとして宿泊施設に利用されたが、平成7年末に取り壊され、現在はすでになく、昔日の面影のある建物は見ることが出来ない。・・・」(片山氏)

 こうしてマンロー病院は姿を消すことになるが、それ以前に一時期、現在の軽井沢病院の前身である町営診療所がマンロー病院の一室を借りて診療を行っていたことがある(1949/昭和24年から)。初代所長の高嶺 登医師が「軽井沢病院誌」に次のように書き記している。

 「河合外科医局より軽井沢へ行く話があったのは昭和24年初夏の頃でした。・・・当時、軽井沢町では既に国民健康保険を施行しており、従って直営の診療所も欲しかったと思います。私の仕事は、その診療所を主として、その外、週一日小諸保健所での診察と、随時連合国関係の労務者の健康管理の三種でした。
 町の診療所は、旧道万平通りから矢ケ崎川にそってささやきの径に入って左手にあった通称軽井沢会診療所あるいはマンローサナトリウムと呼ばれていたベンガラ塗りの赤い木造洋館の一部屋を借りて、診療を始めました。
 この建物は、大正末期に軽井沢避暑団が設立して、日本の文化人類学のパイオニアといわれるマンロー博士がサナトリウムとして使っていたとのことでした。博士の没後、一時ペンションになったりしていたらしいですが、私の赴任した時にはイギリス帰りの加藤伝三郎先生が内科をしておられました。マンロー未亡人は婦長さんとして・給食係りとして活躍しておられました。病室はオープンで、町の先生方も自由に利用できましたので、アッペやヘルニアの手術後の面倒は専らマンロー夫人がやってくれました。・・・」

 ここでは、「軽井沢サナトリウム」がマンロー博士の没後一時期ペンションになり、その後再び病院機能を取り戻したことが書かれているが、このことに関しては他の資料には記載が見当たらず、詳しいことは判らない。
  
 高嶺医師が軽井沢に赴任したのは1949(昭和24)年のことであるが、「サナトリウムは」その後1967年まで継続し、ついに廃院とされ、さらに建物は「軽井沢ヴィラ」として1995年まで利用されたのち、築後71年目に解体される。

 マンロー病院の建物の写真は多く残されていて、文章にもあるようにベンガラ塗りの赤と、白い窓枠などの外観を見ることが出来る。古いものとしては、建設時に近い大正13年頃のもので、周囲にまだ何もない荒野に建つ姿が絵葉書として残されている。

 ただ、建物のあった場所について調べようとすると、今年で解体後26年目ということもあり、周囲の人に聞いても正確に覚えている人は少なくなっているし、先に示した資料を読んでも明確なことは判らない。

 そうした中、「心の糧(戦時下の軽井沢)」の著書のある大堀聰氏のホームページにマンロー病院の敷地図が紹介されていることを知った。これは国会図書館蔵の資料で、原所蔵機関は米国国立公文書館とされる。

 この敷地図と、現在の軽井沢の地図とを見比べていて、「サナトリウムレーン」に面した一角とぴったり一致することがわかった。次のようである。敷地の広さはアデール夫人名義で購入し、後に避暑団に売却したとされる三千坪とよく一致する。
 

マンロー病院の推定所在地

 この土地に、前記の敷地図にある建物を配置すると堀辰雄の書き残した野薔薇の生垣の植えられていた場所や日光室の籐椅子に休む患者の姿も次第に浮かんでくるように思える。

 現地の現在の様子は次の写真のようであり、軽井沢会のテニスコート専用駐車場として利用されていることが判る。撮影場所は配置図の①、②の2地点からである。

撮影ポイント①からの現在の様子(2021.12.22 撮影)

撮影ポイント②からの現在の様子(2021.12.22 撮影)

 このように、マンロー病院の歴史と、かつて建物の存在した場所、建物の配置が私なりに明らかになった。これまで紹介したマンロー病院の歴史と今回のこの物語に登場した人物について一覧表にすると次のようである。


マンロー病院とマンロー博士、チヨ夫人、堀辰雄、桑原千代子の年表
 
 来年2022年はマンロー氏没後80年にあたる。我が家からもほど近い軽井沢外国人墓地を訪ねると、少し傾きかけたマンロー博士の墓を見ることが出来る。外国人墓地の入り口に設けられた石碑には次のように刻まれている。

 軽井沢外国人墓地
 
 軽井沢ゆかりの外国のひとびとがここに眠る
この共同墓地は外国人避暑客による公益委員会と
村人たちによって大正2年に設立された。同年
  公益委員会は軽井沢避暑団となり、のち昭和17年 
に財団法人軽井沢会と名称を改め、現在に至る
 
           財団法人 軽井沢会

軽井沢外国人墓地の入り口に設けられた説明文の刻まれた石碑(2021.12.18 撮影)

 マンロー博士の墓は、外国人墓地入り口から入って少し先を左に折れたところにある。


南西側から見た外国人墓地の全体(丸印がマンロー博士の墓 2021.12.11 撮影)

墓石表面は相当読みにくくなっているが、次のように刻まれている。

 表には、
   NEIL GORDON 
                  MUNRO
            M.D. & C.M.

 BORN  JUNE 16    1863 
              EDINBURGH

    DEAD  APRIL   11    1942
                NIBUTANI

 右横には、
   
          醫学 并
        考古学者 満郎 先生墓
  
 裏には、
   妻 千代子 建
 
と刻まれている(チヨ夫人の名はここには千代子とある)。

 次の写真は、雪の降った日の午後に改めて出かけて撮影したものであるが、マンロー博士の墓にはどなたかが先に来ていたようで周囲には足跡が見られた。

マンロー博士の墓正面(2021.12.18 撮影)

マンロー博士の墓右側面(2021.12.18 撮影)


マンロー博士の墓背面(2021.12.18 撮影)

 この墓所からは北西方向に浅間山を望むことができる。


外国人墓地から浅間山を望む(2021.12.18 撮影)

 








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軽井沢の夜話ー3/3

2021-11-26 00:00:00 | 軽井沢
 「軽井沢の夜話」に参加したことがきっかけとなり、「クリック博士の仮説」とは何か、また講話をしていただいた松井孝典さんの「宇宙と生命」に関する考えをさらに知りたいと思い、あれこれ調べてきた。

 軽井沢の夜話では、限られた時間でもあり、宇宙のはじまりから太陽系の誕生、そして生命の誕生に続く進化の過程を経て、人類文明までを俯瞰的に凝縮した形で話されたので、生命の誕生というテーマそのものについては、それほど詳しく話されたのではなかった。

 前回は、主にクリック博士の地球上の生命の誕生に関する仮説について、調べた事を書いたが、この「意図的パンスペルミア説」にいたる主要な発見と、その後もこの説を受け継いで探求を続けているフレッド・ホイルとチャンドラ・ウイックラマシンゲ博士らの展開する地球上の生命の誕生に関係した発表などを整理すると次のようである。


地球上の生命の誕生に関係した主な発見と発表

 クリック博士は、生命誕生の場を地球上だけに限らず、広く宇宙にその可能性を広げて考えようとしたが、その後生命誕生の確率を10の4万乗分の1と計算して見せたフレッド・ホイルとチャンドラ・ウイックラマシンゲ博士の論によれば、生命が誕生するためには、宇宙が無限に膨張と収縮とを繰り返すという宇宙論に行き着くことになった。

 見方を変えれば、地球上の生命の誕生についてその起源を考えることで、宇宙の成り立ちを考えることができるということにつながる。これでいいのだろうか。松井さんは現代の宇宙論は「精密宇宙論」であるという。その精度は宇宙の年齢とされる138億年についていえば、137.99(± 0.21) 億年 といった誤差で確認されている。

 こうした宇宙論の進歩の状況を考えれば、逆に、現在最も確からしいと考えられている、ビッグバン宇宙論やインフレーション理論に合わせて、謎に包まれた生命誕生のプロセスとその発生の確率を考えることが重要なのではないかと思われるのである。

 ただ、気になるのはこの精密宇宙論の中身で、138億年という数字の導出とその意味についてはにわかには理解できないのであるが。

 そういう訳で、今のところはビッグバン理論から導かれる宇宙の年齢をもとに、その限られた時間の中で生命が誕生し、進化したという前提の下、進化の過程について考えるということになりそうである。
宇宙の歴史と地球上の生物の発生の時間関係

 これについて、先に紹介した松井さんの「NHKカルチャーラジオ」での説明を聞いてみようと思う。 

 まず、最終回の第13回の講話「地球外生命を探る・星と惑星と生命」から引用すると、松井さんはこの中で地球上で生命が誕生した場として、最も可能性の高いところは、深海の熱水噴出孔のそばであるとして、その確率面について触れている。
 
 「・・・ダーウィンの池のようなある種のスープが与えられたとして、自然選択によって進化できる生命体が自然発生する可能性を考えることにします。・・・原始生命体は今の生命体と基本的には同じであり、核酸を複製の基礎として、タンパク質を活動の基礎として、生まれてそれが進化する。・・・
 この生命誕生のプロセスをどれくらい偶然なのか必然なのかということを考えてみます。生命の前駆体として可能性の高いRNAワールドのようなものを考えてみることにします。・・・
 ダーウィンの池のような場所で起こったとして、確率的にどれくらい頻度高く起こるのか、・・・RNAワールドのような複製系が形成される確率が、10億分の1だとすると実は5億年位の時間があれば生命は発生するということになります。これが、確率が1兆分の1なら可能性は五分五分くらいに下がるし、1000兆分の1なら可能性はほとんどゼロになります。
 これは、昔考えられていたダーウィンの池の場合ですが、すでに紹介したように熱水噴出孔の周りでの生命誕生のプロセスを考えると、これは確率が全然変わります。10億分の1よりはるかに高くなります。ということは生命の起源というのは偶然ではないということです。必然だろうと思います。問題は進化が起こるかどうかということです。それが地球になるか地球もどきになるかの違いですから、生命の進化が時間がどれくらいあれば起きるかを考えてみますと、地球生命で過去の例を調べると単純な生物ほど進化に時間がかかることが判ります。単細胞生物が多細胞生物に進化するのに約20億年かかっています。多細胞生物の進化はほぼ5億年で、我々のようなものまで生まれています。・・・」

 熱水噴出孔の発見と、その周辺で原始生命が発生する可能性が見いだされたことで、地球上の生命誕生のプロセスに対する考え方に大きな変化が起きていることが判る。熱水噴出孔の発見そのものは、1976年のことである。

 従来のダーウィンの池、すなわち暖かく有機化合物を多く含んだ水のある場所に比べて、熱水噴出孔の近傍ではRNAが形成される確率が非常に高くなると指摘されている。10億分の1は10の9乗分の1である。以前、1つの酵素誕生の確率を10の20乗分の1とした説明を松井さんは紹介していたが、それよりもはるかに高い確率ということになる。生命誕生のきっかけとなる化学反応を酵素からRNAに変えた仮説ということになるが。

 ここで登場したRNAワールドとは何か。これは1986年、ウォルター・ギルバート(1932.3.21ー、1980年ノーベル化学賞受賞)によって提唱されたもので、原始地球上に存在したと仮定されるRNA からなる自己複製系のことであり、これがかつて存在し、現生生物へと進化したという仮説が RNA ワールド仮説と呼ばれている。

 現在の生物は、酵素を触媒としてDNAやRNAといった核酸を合成し、核酸の配列を基に酵素を合成している。このどちらが起源なのかは長らくの疑問であった。しかし、触媒としてはたらくRNA(リボザイム)やRNAを基にDNAを合成する逆転写酵素が発見されたことで、RNAが酵素(ポリペプチド)と遺伝情報(DNA)両方の起源となりうることが証明され、RNAワールド仮説が提唱されるようになったものである。

 しかしながら、RNA ワールド仮説を生命の起源説として主張するにあたってはいくつかの問題点もまた指摘されているので注意を要する。

 もうひとつ、生命誕生の場として重要な役割が期待されるようになっている、熱水噴出孔とは何か、これについてウィキペディアから引用すると次のようである。

 「熱水噴出孔(ねっすいふんしゅつこう、英語: hydrothermal vent)は、地熱で熱せられた水が噴出する大地の亀裂である。・・・熱水噴出孔の英語表記やその構造物から、ベント(vent)やチムニー(chimney)と呼ばれることもある。・・・
 深海の大部分と比べて、熱水噴出孔周辺では生物活動が活発であり、噴出する熱水中に溶解した各種化学物質に依存した複雑な生態系が成立している。有機物合成を行う細菌や古細菌が食物連鎖の最底辺を支える他、化学合成細菌と共生したり環境中の化学合成細菌のバイオフィルムなどを摂食するジャイアントチューブワーム・二枚貝・エビなどの大型生物もみられる。
 地球外では、木星の衛星エウロパや土星の衛星エンケラドスにおいても熱水活動が活発であり、熱水噴出孔が存在するとみられている。また、古代には火星面にも存在したと考えられている。・・・
 熱水噴出孔で無機物や有機物から生命が誕生したという仮説も複数存在する。日本の海洋研究開発機構と理化学研究所は、熱水噴出孔の周囲で微弱な電流を確認し、これが生命を発生させる役割を果たした可能性があるとの研究結果を2017年5月に発表した。しかし、この仮説に対しては『熱水の組成には必須元素のマグネシウムが欠落している』という反論もある。」


熱水噴出孔の分布地図(ウィキペディア『熱水噴出孔』最終更新 2021年8月12日 (木) 22:17 から引用)

 この熱水噴出孔については、松井さんの第7回の講話「生命の起源・深海における【熱水噴出孔仮説】」で詳しく述べているのであるが、1970年代に発見され、その後の調査で生命誕生の場の有力な候補と考えられるようになっているという。概要は次のようである。

 「・・・いずれにしても生命の起源を辿ろうと思ったら、やはり地球の上の生命(炭素系)の起源を辿る以外にない。海水とか大気とか岩の下で生まれたんだろうと想定して、そうして生まれた生命分子が構造化し、複雑化していくという流れを辿るということになります。・・・生命が誕生するというプロセス、それは化学反応が数多く起こるということですが、・・・基本的に鉱物表面が触媒的に働いて促すような化学反応ということになります。・・・地球上の表面にある鉱物(堆積岩や粘土鉱物などの多孔性物質)の表面積を考えて計算をすると、非常に稀にしか起きない化学反応が起こり得るということになり、そう考えると鉱物表面で生命分子あるいはそれが集積した大型分子さらには構造化されていくような物に至る反応群というものは必然的なものと考えることができます。・・・
 この考えは、従来の(ミラー・ユーリーの実験のような)生命起源論ではあまり声高に言われてきたものではありません。・・・どちらがリーズナブルであるかと考えるには、どのようにして生命が誕生したのかを考えることが必要ですが、その点をご紹介しますと、生命の発生には次の4段階が起きる必要があると考えられます。

 1.アミノ酸、ヌクレオチド、リン酸塩などの簡単な小型有機分子がつくられる
 2.タンパク質や核酸などの大型分子ができる
 3.液滴のような構造化・区画化がすすむ
 4.区画化された構造の内部で、大型で複雑な分子の複製能力を獲得する

 (ここで、参考までに第一段階で示されているアミノ酸とヌクレオチドについて、人体のタンパク質を構成している20種のアミノ酸と、核酸を構成している8種のヌクレオチドの構造を見ておくと、松井さんが示しているのではないが、次のようである。)


参考:ヒトのタンパク質を構成する20種類のアミノ酸


参考:RNAを構成する各種のリボヌクレオチド(RNA中では mono状態)


参考:DNAを構成する各種のデオキシヌクレオチド(DNA中では mono状態)

 これは化学進化と呼ばれるものですが、そういう4段階の反応が起きる場として新たに登場したのが、熱水噴出孔という考え方です。これは1970年代に深海底で発見され、周辺で原始的な生命に近いものが発見されたことで、一躍ミラー・ユーリーよりも優れた場として登場しました。

 ドイツのレヒターズ・ホイヤーは鉄・硫黄ワールドという考え方を提唱しています。硫化鉄が有機分子合成の触媒になるという考え方です。

 ただ、熱水噴出孔の最大の難点は温度が高いということです、300℃もの高温下ではDNAもRNAも壊れてしまい、反応が進むかどうかが疑問視されます。そこで、別のタイプの熱水噴出孔が考えられました。

 それは、アルカリ熱水噴出孔というもので、21世紀になり発見された全く新しいタイプのもので、温度が低く生命の誕生には都合がいいものになります。私自身はこれが有力なものと考えています。・・・」 

 このように、生命誕生の確率についての考え方は、熱水噴出孔の発見と、その付近で硫化鉄表面の触媒作用を利用して有機化合物が合成されていたことで大きく変わってきたようである。特にアルカリ熱水噴出孔の発見により、松井さんの生命発生についての見方が大きく変化していると推察される。

 松井さんは、(地球上の)生命誕生は必然か偶然かというと、必然だろうと考えているという。従って、地球に似た惑星が数多く存在していることがわかってきた宇宙でも同様であろうと推察する。

 ここでは、例示されている確率についての数値の根拠は示されていないが、アルカリ熱水噴出孔という場が新たに見つかったことで、地球上の生命の誕生の場を宇宙に求めるのではなく、ビッグバン宇宙論の示す範囲内で、地球上に求めることができるという可能性が示されたことになる。

 NHKカルチャーラジオでの松井さんの講話のタイトルは「地球外生命を探る」である。クリック博士らの説は、地球の生命の起源を宇宙に求めたが、ここではそれとは逆に地球上の生命誕生のプロセスを理解することで、広い宇宙に、地球以外にも生命は存在するのだろうかという問いかけになっている。
 
 そして、生命は地球上で誕生したこと、そしてその類推から広く宇宙にも生命誕生の場は存在するであろうという結論に導いている。ただ、地球以外の惑星上で、それら原始生命が進化して高等な生命にまで到達できるかどうかはまだよくわからない。

 微生物が進化して知的生命体に至るには、特別な条件が必要であり、それは環境の変化であり、稀にしか起きない、場合によってはたった1回しかおきなかった出来事を存続させる力、淘汰圧が必要だという。こうした環境変化はどの惑星でもおきるとは限らない。

 すなわち、宇宙に存在する数多くの惑星上で無機物から有機物が合成され、やがては生命と呼べるようなものにいたるところまでは必然であるが、それが知的生命体にまで進化するかどうかは偶然が支配し、極めてまれにしか起きないことと考えれれるのだという。

 もしそのように考えるのであれば、広い宇宙に人類のような高度に発達した生命体が存在する可能性が非常に小さなものであり、地球人類が滅亡する前に、その種を、将来広大な宇宙のどこかで再び進化を遂げて人類として繁栄する時の来ることを願って、松井さんの提案する、宇宙の彼方に向け、ロケットに地球上の生命を乗せて送り出すという計画もまた意味のあるものと思えるのである。

 そうすると、地球から宇宙に向けて送り出す生命体として、どの程度進化した状態のものを送り出すべきかが重要になるということになる。

 SFめいた話題になったが、話を元に戻す。生命の誕生から人類に至るまでの壮大な物語は、まだ探求の途上であり、これまで見てきたように有力な仮説がいくつか提示されているようになってきているので、松井さん達の探求が実を結び、その実態が明らかにされることを期待したいと思うのである。 

 こうしたことを調べている最中、2021年11月7日から3週間にわたり、読売新聞のサイエンスFocus欄に「生命を探す・母なる地球編」が掲載された。

 ここで示されている多くの科学者の研究成果を紹介して一旦本稿を終ろうと思う。この記事の中には、松井さんのひきいる千葉工業大学のチームが、気球を上げて上空のどの範囲で微生物を採取できるかを調べる実験も登場している。

 11月7日 生命を探す・母なる地球編 【上】
 誕生の場 深海の熱水噴出孔有力
 「地球の生命はいつ、どこで、どのような仕組みででき、豊かな生態系を育んでいったのだろうか。その答えを求め、深海から30億年以上前の記録が刻まれた地層にいたるまで、世界各地で研究者らの探査が精力的に続けられている。」

 *海洋研究開発機構・高井研部門長ら・・・2002年、インド洋の「かいれいフィールド」で、熱
  水噴出孔(チムニー)の採取資料から、地球の生命の共通祖先に近い微生物の1種「メタン生成
  菌」を発見。
 *海洋研究開発機構などのチーム・・・2015年、東シナ海の熱水噴出孔周辺の海底の表面に
  電流が流れていることを発見。
 *海洋研究開発機構の北台紀夫・副主任研究員・・・2021年、ニッケルと硫黄の化合物に電気を
  流すと、水のなかのCO2から反応性の高い一酸化炭素ができ、さらに「チオエステル」という
  有機物の一種をつくることに成功。別の実験では、アミノ酸の水溶液に硫黄と一酸化炭素を加
  えるなどして混ぜると、たんぱく質のもと(ペプチド)ができる仕組みを解明。
 *東京工業大学・上野雄一郎教授ら・・・オーストラリア西部のピルバラ地域にある約35億年前
  の地層で、鉱物の石英に閉じ込められていた気泡の中に、メタン生成菌が作ったメタンを発
  見。
 *東京大学・小宮剛教授らのチーム・・・2017年、カナダ東部・ラブラドル半島にある約39億年
  前の堆積岩の地層から、微生物の痕跡とみられる「グラファイト」を発見。
 *英国のチーム・・・2015年、隕石が衝突した生命誕生前の地球を模した実験で、RNAのもとに
  なる「ヌクレオチド」の生成に成功。
 *東京薬科大学・山科明彦名誉教授ら・・・RNAはヌクレオチドがひものようにつながってでき
  ており、これらがくっつくには乾いた環境が必要だ。このため、生命は地上の温泉や水のた
  まったクレーターなど、乾燥環境を併せ持つ場所で生まれたと見る。
 *海洋研究開発機構・高井研部門長ら・・・東京工業大学や宇宙航空研究開発機構(JAXA)
  の研究者と共に、土星の氷衛星「エンセラダス」の氷の下に見つかった熱水の存在する海の
  環境が、地球の太古の海に近いとして、探査する計画を構想中。
 
 11月14日 生命を探す・母なる地球編 【中】
 3度の「全球凍結」 進化の引き金に
  「誕生から46億年の時を刻んできた地球。その長い歴史の中で、惑星のほぼ全てが凍り付く『全球凍結』など、想像を絶する環境変化に見舞われてきた。こうした過酷な環境下で、生命はどう生き延び、繁栄の時代をむかえたのだろうか。」

 *米国の研究者・・・1990年代に氷河が赤道付近まで広がっていたことを明らかにした。
 *東京大学・田近英一教授・・・全球凍結は、およそ23億年前、7億年前、6億3900万年前
  の少なくとも3回。当時の生命は、絶滅の危機に直面したはずと語る。
 *東北大学・海保邦夫名誉教授・・・2021年、当時の堆積物に含まれる生物由来の有機物の含有
  量から、最後の凍結後に真核生物が繫栄したと発表。
 *東京工業大学地球生命研究所・関根康人教授・・・地球環境と生命が相互に影響し合う
  『共進化』の仕組みを解き明かせば、地球外生命の発見に向けたヒントにもなる。
 *海洋研究開発機構などのチーム・・・南太平洋の水深3740~5695メートルの深海底の地層
  からバクテリアなどの微生物を発見。培養にも成功。
 *千葉工業大学などのチーム・・・2019年から実験を開始し、狙った高度で微生物を採取する
  装置を開発。高度13~26kmでは確認できず、生命圏の上端は成層圏と対流圏の境界付近で、
  成層圏には微生物は日常的にはいないと推定した。

 11月21日 生命を探す・母なる地球編 【下】
 誕生の過程 実験室で明らかに
 「地球の生命は、どんな道のりを経て誕生したのだろうか。実験室で、その過程を見出そうと、古今東西の研究者たちが挑んできた」

 *米化学者・スタンリー・ミラー・・・メタンや水素などが混ざったガスをフラスコに入れて
  放電すると、アミノ酸ができた。
 *東京工業大学地球生命研究所・松浦友亮教授・・・2019年、化学物質ヒスタミンを加えて、
  膜の中でたんぱく質を合成する人工細胞を作成した。
 *広島大学・松尾宗征助教・・・2021年、アミノ酸を含む化合物を水中に入れると、たんぱく
  質のもとであるペプチドの塊に成長した。
 *東京大学・市橋伯一教授・・・2021年、2種類の遺伝子を組み込んだ輪のような形のDNAを
  人工的に作り、複製させることに成功。進化する能力こそが、生命を特徴づける重要な
  ポイントと指摘。


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