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軽井沢からの通信ときどき3D

移住して11年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

八田別荘とコクサギ

2017-04-21 00:00:01 | 軽井沢
 今回は蝶の幼虫の写真がたくさん出てきますので、嫌いな方はご注意またはご遠慮ください。

 旧軽井沢銀座通りの一筋南東側の通りには有名な軽井沢会テニスコートや軽井沢ユニオンチャーチがある。この通りを南西の方角に散歩していて、珍しく「コクサギ」の生垣をめぐらしている古い別荘風の建物に出会った。門柱脇の別荘表示板には「八田」と書かれていた。2015年の夏のことである。

 後に知ったのだが、この八田邸は軽井沢に建てられた日本人初の別荘であった。この八田邸がなぜコクサギの樹を生垣に選んだのか不思議であった。

 コクサギといっても、多くの人には何のことか判らないと思う。もちろん植物に詳しい人は知っているのだろうが、コクサギという名を知っているのは、一部の蝶に関心を持っている人くらいではないだろうかと思う。

 アゲハチョウの仲間の幼虫の多くはウンシュウミカン、カラタチなどのミカン科の植物の葉を食べて大きくなるのだが、中には同じミカン科でも栽培種は好まず山野のコクサギ、カラスザンショウ、キハダなどを好んで食べる種類もいる。

 オナガアゲハ、カラスアゲハなどがそれで、特にこの2種の幼虫はコクサギの葉を好んで食べるといわれている。昨年の夏、軽井沢で撮影したこの2種の蝶を次にご紹介する。


「クサギ」の花で吸蜜するオナガアゲハ(2016.8.8 撮影)


「クサギ」の花で吸蜜するカラスアゲハ(2016.8.8 撮影)

 名前が似ていて紛らわしいが、2種の蝶が吸蜜しているのは「クサギ」の花であり、ミカン科の「コクサギ」とは別種、シソ科の植物である。

 コクサギの方は枝から出る葉が左右に2枚づつになるという特徴があるので、判ってみると見分けやすい。


コクサギの葉のつき方(イメージ図)

 まだ鎌倉に住んでいたころ、逗子の公園を散歩していて、妻がコクサギの樹が有るといって近づいていった。そしてすぐに10mmほどの小さな褐色の幼虫が一匹、葉の上にいるのを見つけた。この時はオナガアゲハかカラスアゲハの幼虫ではないかと話し合っていたが、まだ確証はなかった。


コクサギの葉でみつけた幼虫(2014.9.15 撮影)

 この幼虫を連れて帰り育てたのだが、最初は現地から持ち帰ったコクサギの葉を与え、これがなくなってからは、オナガアゲハとカラスアゲハの両方の餌になると思われるイヌザンショウの苗木をネットで見つけて購入し、この鉢植えに幼虫を移して保護用の網で覆って庭で育てた。コクサギの苗木は手に入らなかったためであった。

 逗子から持ち帰った幼虫はその後、体の文様と臭角の色を見てオナガアゲハの幼虫であると確認したのだが、この時期もう一つ思いがけないことが起きていた。

 通販で埼玉県川口市から購入したイヌザンショウには別の幼虫がついて送られてきていたのである。最初は気が付かなかったが、しばらくして幼虫が少し大きくなってからそのことに気がついた。妻とは刺客付きの苗木が来たねと言って笑ってしまった。

 せっかく購入したこのイヌザンショウを食べてしまうこの刺客幼虫はしかし、ミヤマカラスアゲハの幼虫であった。最終的にこの2匹の幼虫は庭で蛹になるところまでを見届けたのだが、残念ながら翌年春の羽化は見られなかった。3月には蛹たちを残し、これらを家族に託して我々は軽井沢に転居してきたからであった。


終齢に成長したオナガアゲハの幼虫(2014.10.2 撮影)


終齢に成長したミヤマカラスアゲハの幼虫(2014.10.2 撮影)

 このころは、庭にユズやサンショウの木を植えていて、これら2匹とは別にナミアゲハ、クロアゲハ、カラスアゲハ、ナガサキアゲハなども一緒に大きなネットの中で飼育していた。育てることばかりに熱心で、成長の過程をほとんど撮影していなかったので、今探してみてもほとんど写真が残っていない。見つかった写真をご紹介する。


ナミアゲハの終齢幼虫(2014.10.13 撮影)


クロアゲハの終齢幼虫(2014.9.6 撮影)


カラスアゲハの終齢幼虫(2014.10.11 撮影)


ナガサキアゲハの終齢幼虫(2014.10.2 撮影)



カラスアゲハの前蛹(2014.10.13 ビデオ撮影からのキャプチャー画像)

 このカラスアゲハは前蛹になっているのに気が付き、室内に持ち込んでビデオ撮影を試みたが、照明を嫌ってか陰に回りこむようなしぐさを見せたので長時間にわたる撮影は中止した。2日後には無事蛹になっていた。


カラスアゲハの蛹(2014.10.15 撮影)

 さて、軽井沢に来てからは周辺の林の縁にコクサギがあることに気が付いてはいたが、別荘の生垣に植えられるようなものとは思わなかった。それで、一体八田さんとはどのような方であろうか、蝶に興味があり庭にオナガアゲハやカラスアゲハを呼ぶためにわざわざ生垣にコクサギを植えたのだろうかと妻と話し合っていた。

 しばらくして、新聞に軽井沢町が「八田別荘」を買い取ったというニュースが流れた。この時初めてこの八田別荘が軽井沢で日本人初の別荘であることを知った。

 八田別荘が建てられたのは、1893年(明治26年)であり、「100年以上経った今でも建築当時の姿で保存されており、『別荘地 軽井沢』を語る上で、とても重要な歴史的建築物である」とされている(軽井沢町公式ホームページから引用)。


現在の八田別荘の様子(2017.3.16 撮影)


別荘の門柱脇に現在も置かれている「八田」と書かれた別荘表示板(2017.3.16 撮影)

 別荘を建てた八田氏とは、旧陸軍大佐の八田裕二郎氏である。当時の軽井沢には宣教師など外国人が別荘を建てていたのだが、まだ日本人は別荘を建てることがなかった。

 八田氏は、すぐ近くにある群馬県の霧積(きりずみ)温泉に療養に来た際に、峠を越えた軽井沢を訪れ、高原の気候を楽しんだ。そして、海外生活が長く語学が堪能であったため、英国人たちと話が出来る軽井沢を気に入り、土地を購入したという。

 ちなみに、この霧積温泉は1977年に製作された角川映画「人間の証明」で「母さん、僕のあの帽子、どうしたでしょうね」というセリフで有名なところである。今年4月2日にTVでリメイク作品が放送されている。

 その後、1893年(明治26年)にはこの八田別荘を建てている。最初に購入した土地は現在よりも広く、西側に広がっていて、軽井沢本通りに面していた。

 創建時には電気、水道は引かれておらず、水は敷地内に井戸を掘って、明かりはランプを使い、夜出かけるときには提灯を下げて灯りとしていたとのこと。このランプによる明かりは1914年(大正3年)に配電が開始されるまで続いた。

 八田別荘はこのあと、3代にわたり120年以上受け継がれてきたが、2014年(平成26年)度に保存のため、軽井沢町が建物の寄贈を受け、用地を買い上げて、現在は町が保管している。

 軽井沢町の公式ホームページにある八田別荘の説明には、上記のほか庭の植栽についても記載があって、モミ、カラマツ、カエデ、モミジには言及しているものの、コクサギの生垣については触れられていない。

 軽井沢のこの周辺では、オナガアゲハやカラスアゲハも見かけることがあるので、この八田別荘のコクサギの葉にも産卵に来ているのではと思うのだが、これまでのところまだ産卵しているところを目撃できていないし、葉に食痕は見られず卵を見つけることも出来ていない。


生垣のコクサギの実(2017.3.26 撮影)


八田別荘の「コクサギ」の生垣、新しい葉はまだ見られない(2017.3.16 撮影)

 八田氏がコクサギを生垣に採用した理由についてもまだ判らないのだが、オナガアゲハやカラスアゲハが実際産卵に来るものかどうか。もう少し様子を見守っていきたいと思っている。



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軽井沢飛行場

2016-12-16 00:00:00 | 軽井沢
 北陸新幹線が東京-長野間で開業し、軽井沢に新幹線が乗り入れたのが1997年10月、そして北陸新幹線が金沢まで延伸され、金沢と軽井沢が繋がったのが昨年2015年3月である。

 関西方面からは東京経由と金沢経由の2つのルートに新幹線が利用できるようになり、とても便利になった。私は大阪に出かけるときには主に金沢ルートを選択している。

 新幹線により最短で東京-軽井沢間が1時間3分、金沢-軽井沢間が1時間41分で結ばれることになった。

 このように東京へのアクセスが便利になっている現在、東京-軽井沢間を飛行機で移動しようと考えることはまず無いと思うのだが、大正から昭和初期には実際に軽井沢に飛行場があり、東京との間に定期便が就航していたということを知る人は少ない。

 その昔、碓氷トンネルが開通しアプト式軌道を新型機関車で登れるようになった明治26年(1893年)に、横川-軽井沢間だけでも1時間15分かかったといわれている。

 東京-軽井沢間となると、朝東京を出て、軽井沢には夕方到着するという状況であった(「軽井沢物語」宮原安春著、1994年7月15日 講談社発行)。

 そうした状況を考えると、東京-軽井沢間を飛行機で結ぼうとの考えが出るのももっともなことと思える。

 飛行場建設よりも少し前、大正4年(1917年)8月には陸軍飛行機が東長倉小学校庭に初着陸したという記録があり(http://karuizawa-kankokyokai.jp/knowledge/265/)、大正6年(1919年)8月29日には徳川大尉のプロペラ機がはじめて軽井沢の離山上空を飛行したという記録が残っているので、飛行場建設の機運は高まっていたのかもしれない(「思い出のアルバム軽井沢」)。

 「避暑地軽井沢」(小林収 著、1999年 株式会社櫟 発行)には、軽井沢飛行場のことが次のように記されている。

 「堤(康次郎)は千ヶ滝の別荘開発が一段落すると、南軽井沢の開発に着手した。彼は大正13年(1924年)に新軽井沢から南軽井沢に向けて、幅20間(約36m)長さ20町(約2180m)の道路建設に取りかかった。この道路は南の押立山の麓まで、翌14年(1925年)夏にはほぼ完成し、道路の両側には別荘を建設して売り出した。

 道路の西側には飛行機が発着できる滑走路をつくり、昭和2年(1927年)8月16日から東京-軽井沢間の定期連絡飛行の認可を逓信省からうけた。

 飛行機は十年式偵察機を使って、一日おきに東京-南軽井沢間を往復する計画であった。
午前9時に国立飛行場を出発し、50分で馬越飛行場に着陸し、午後4時に帰航する時刻表で、運賃は一人片道10円、荷物は1キロ60銭となっていた。

 また昭和3年(1928年)8月には浅間遊覧飛行を行った。9月1日より25日まで、毎日午前10時より午後3時まで鈴木一等飛行士が操縦することになった。

 600mの上空から浅間山や日本アルプスの山々を鳥瞰して一回一人10円であった。(中信毎日 昭三・八・三○)

 (中略)この飛行場は戦争が激しくなると昭和18年(1943年)に整備されて、熊谷飛行学校の飛行訓練場として使われ、19年には、陸軍特別航空隊学徒が使用することになって軍事色をつよめていくことになる。」とその変遷が記されている。

 軽井沢の飛行場の歴史にはもう一つの飛行場が登場する。「軽井沢という聖地」(桐山秀樹、吉村祐美 著、2012年5月1日 NTT出版発行)には次のように紹介されている。

 「軽井沢の「戦後」は、戦勝したアメリカ軍の「保養地」として始まった。(中略)
旧ゴルフ場はホテル、大別荘と共に接収され、乗馬用の放牧場になった。敷地内には馬小屋も建てられていた。また、現在の六番コースには、東京と軽井沢を結ぶセスナ機の滑走路まで作られた。

 やがて、この飛行場で、事故が起こったため、軽井沢から南に延びる20間道路(現プリンス通り)の南半分を“臨時飛行場”とし、セスナ機着陸の連絡が入ると警察が道路を一次遮断して、飛行場の離発着を助けていた。(中略)

 ところが、臨時飛行場のままでは占領軍も不便なため、当時、地蔵ヶ原と呼ばれていた南軽井沢の湿地帯を飛行場用地に選び、所有者の箱根土地株式会社(現国土計画)の社長だった堤康次郎と交渉した。

 そして占領軍の手で地面を掘り下げ排水した後、浅間山の砂利を敷き詰め、現在の72ゴルフコース西コースに「軽井沢飛行場」をオープンさせた。

 この軽井沢飛行場は、昭和27年(1952年)の講和条約締結まで約3年余り、東京-軽井沢間を僅か25分で結ぶ米占領軍の将校専用飛行場として利用されていた。」とある。

 その後、この軽井沢飛行場は遊覧飛行場として使用されたとの記録はあるがやがて消滅し、1971年7月にはその一帯に広大な72ゴルフ場がオープンしている。

 軽井沢ではこのように飛行場建設が何度も試みられてきた。昭和初期に作られた軽井沢飛行場と、戦後米占領軍により作られた飛行場とは共に南軽井沢の20間道路の西側ではあるが、滑走路が同一居場所であったのかどうかは前出の2冊の本の記述からは判らない。


現在の20間道路の南軽井沢交差点付近から軽井沢駅方面を望む(プリンス通り)(2016.12.5 撮影)


現在の20間道路の南軽井沢交差点付近から72ゴルフ場方面を望む(2016.12.10 撮影)

 今その痕跡を探すこともできないようだが、飛行場の跡地である72ゴルフ場はゴルファー憧れの地として多くの客を集めていつも賑わっている。どれだけのゴルファーが、この場所に飛行場があったことを知っているのだろうか。


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浅間石(3)

2016-11-25 00:00:00 | 軽井沢
浅間石に新たな仲間、それも国指定天然記念物(昭和13年指定)の仲間が加わるかもしれない。
群馬県前橋市の市街地にある「岩神の飛石」がそれである。


岩神稲荷神社にご神体として祀られている「岩神の飛石」(2016.9.17 撮影)


岩神稲荷神社(2016.9.17 撮影)

この「岩神の飛び石」は岩神稲荷神社のご神体で、従来は赤城山からもたらされたものと考えられていた。

少し長いが、この「岩神の飛び石」の前に立てられている金属製の案内板の説明を引用する。

「国指定天然記念物 岩神の飛石
所在地:前橋市昭和町三丁目29-11 岩神稲荷神社

 周囲が約60m、高さは地表に露出した部分だけで9.65m、さらに地表下に数mは埋もれているこの大きな岩は、「岩神の飛石」と呼ばれています。昔、石工がノミをあてたところ、血が流れ出したとの伝説があります。

 岩は赤褐色の火山岩で、表面には縞のような構造も見えます。しかし、大きさのそろった角ばった火山起源の岩や石が多い部分もあります。この岩は火口から溶岩として流れ出したものではなく、火口から噴出した高温の火山岩や火山灰などが、冷えて固まってできたものと考えられます。

 この地点より約8km上流の坂東橋の近くの利根川ぞいの崖では、10万年以上も前に赤城山の山崩れでできた厚い地層の中に同じ岩が認められます。このことから、この岩は赤城火山の上半分が無くなるほどの大規模な山崩れに由来することがわかります。

 さて前橋の街の地下には、「前橋泥流」と呼ばれる地層が厚く堆積しています。これは約2万年前に浅間山で起こった山崩れが、水を含んで火山泥流に変化して流れてきてできた地層です。この地層の中にも、「岩神の飛石」と同じような石が多く含まれています。

 またここは火山泥流の堆積後、平安時代以前までの間に、利根川が流れていたところでもあります。

 これらのことから、この岩は現在の坂東橋のあたりに堆積していた地層の中から、約2万年前の火山泥流によってこの近くまで押し流されてきたものと思われます。さらにその後の利根川の洪水によって、今の場所まで運ばれてきたと考えられます。「岩神の飛石」は、私たちに前橋とその周辺の自然の歴史とその営みを教えてくれます。

 文化庁・群馬県教育委員会・前橋市教育委員会」

とある。

ここに書かれているように、現在のこの場所は利根川の左岸で、川からの距離はおよそ500mくらいであるが、古い写真によると、神社のすぐそばを廣瀬川が流れている様子が示されている。


明治時代の岩神神社の様子
(国指定天然記念物 岩神の飛石環境整備事業報告書2016前橋市教育委員会刊 より)


「岩神の飛石」の前にある天然記念物を示す石碑と由来の説明板(2016.9.17 撮影)

ところが、この飛石の由来については2000年ごろから説明板にある赤城山由来ではなく、浅間山由来ではないかとの説が提出されていた。

しかし、この飛石は神社のご神体ということもあり、その由来を明らかにするための科学的な調査は行われてこなかった。

そうした中、2011年3月11日の東日本大震災で、この飛石が動いたのではという懸念が出て、安全性の確認に関する詳細な調査が企画され、同時にこれまで疑問が提起されていた由来についても調査することになったという。

そして、3年にわたる調査の結果、これまでの10万年以上前の赤城山噴火に由来するという説を覆し、約2万4000年前の浅間山噴火に由来するものであるとされた。

岩石の結晶の状態や組成を分析した結果、浅間山由来であることが確実視されている群馬県中之条町にある巨岩「とうけえ石」に最も近いことが判明し、浅間山由来の決め手になった。

一方、岩石の生成年代については熱ルミネッセンス法による年代測定が行われ、2~3万年以前のものと推定されている。

この結果は、2016年3月15日に前橋市教育委員会から発表され、翌16日には新聞各社が一斉に伝えることとなった。

現地にある説明板の内容は、私が訪問した2016年9月17日の段階ではまだ従来のままになっていたが、その表面は先に写真を示したとおり不明瞭で文字もはっきりと読み取れない状態になっていた。これは、今回の調査内容を受けて、手が加えられていたのかもしれない。


「岩神の飛石」の側面(2016.9.17 撮影)


「岩神の飛石」の背面(2016.9.17 撮影)

この「岩神の飛石」が浅間山由来であるとかねて主張をしていた群馬大学の早川由紀夫教授によると、外観が赤い「岩神の飛石」によく似た巨岩は浅間山の南側にも多数発見されていて、これが浅間山由来の根拠のひとつとされていた。

早川教授が2003年に上毛新聞に書いていたという文章がある。

「岩神の飛石 浅間山が崩壊し流れ着く
 前橋市北部にある「岩神の飛石」は、周囲の平坦な地表から10メートルも高く突出した大きな火山岩です。その鮮やかな赤色のために、稲荷としてまつられています。この岩は、マグマのしぶきが火口の周囲に積み重なってできたものです。そのような岩は火山の火口のすぐ近くにしかできません。では、むかし岩神に火山があったのでしょうか?

 いいえ、そうではありません。飛石と同じ岩は、吾妻川沿いにたくさんみつかります。そのなかでも中之条町の国道145号脇にある「とうけえし」が一番立派です。小野上村村上の畑の中や吾妻町岩井田中の吾妻川河床にも大きなものがあります。

 いまから2万4000年前、浅間山がまるごと崩れました。崩壊した大量の土砂は北に向かって流れて吾妻川に入り、渋川で利根川に合流し、関東平野に出て、そこに厚さ10メートルの堆積層をつくりました。

 「岩神の飛石」は、この崩壊土砂のひとつとして浅間山から前橋まで流れてきたものです。
 飛石になった岩は浅間山の心棒をつくっていた硬い部分だったから、大きいまま前橋にたどり着きました。その後、利根川の水流によって、飛石の周囲にあった小さな石は運び去られましたが、飛石は大きすぎたのでこの場に残りました。高崎市の烏側川床にある聖石も同じものです。つまり前橋市と高崎市は、浅間山の崩壊土砂がつくった台地の上に形成された都市なのです。

 浅間山のような大円錐火山が崩壊することはめずらしいことではありません。むしろ大円錐火山にとって、崩壊することは避けられない宿命のようなものです。ゆっくりと隆起してできる普通の山とちがって、火山は突貫工事で急速に高くなりますから、とても不安定です。大きな地震に揺すられたり、あるいは地下から上昇してきたマグマに押されたりして、一気に崩れます。

 2万4000年前の浅間山崩壊で発生した土砂の流れは、北側の群馬県だけでなく、南側の長野県にも向かいました。佐久市には、まさに赤岩という地名があって、田んぼの中に小さな丘が点在しています。それらは、浅間山の崩壊土砂がつくった流れ山です。そこにも赤い岩がたくさんみつかります。

 浅間山の崩壊土砂がつくった土地の上にはいま、群馬県で50万人、長野県で10万人が住んでいます。私たちはこのことをどう考えればよいのでしょうか。答えは、簡単にはみつかりそうもありません。いろいろな角度から研究を進める必要がありそうです。(早川由紀夫)上毛新聞に2003年9月4日に掲載された郡大だより65教育学部を、わずかに書き換えた」
とある。

ここに書かれている浅間山の南側にある佐久平の赤岩地区と、別な情報源から得た軽井沢下発地にもあるという赤い岩を訪ねてみた。


佐久平の赤岩交差点から浅間山を望む(2016.11.5 撮影)

この赤岩交差点を北側に入った所に赤岩弁天堂がある。ちょうど紅葉が美しい時期であった。


紅葉が美しい佐久市塚原赤岩にある赤岩弁天堂(2016.11.8 撮影)

巨大な赤岩が社殿を支えるように配置されている。また、周囲の石垣や階段などに用いられている石も多くが赤い色をしており、赤岩を加工して作られたものと思われる。


赤岩弁天堂を支える巨大な赤岩(2016.11.8 撮影)

階段を上ると左側にも巨大な赤岩があり、こちらは社殿の壁に一部が食い込んでいる。また、岩の上には像が建てられている。


赤岩弁天堂の壁面に食い込むように取り入れられている赤岩(2016.11.8 撮影)

この赤岩弁天堂から西に100mほどの畑の中には、赤い岩が点在していて、中には巨大なものもみられる。


佐久市塚原赤岩の畑の中にある赤い岩の南側から浅間山を遠望(2016.11.4 撮影)


同上の赤い岩の西側面(2016.11.4 撮影)

これら点在している赤い岩のある場所は、北陸新幹線の佐久平駅からも直線距離では500mほどの場所にあり、イオンモールにも近く、周囲には住宅が迫っている。

もうひとつ、軽井沢の南西部に広がる下発地の畑の中にもよく似た赤い岩がある。主要道路から外れているので、これまで気がつかなかったのだが、南軽井沢の別荘地に行くときにたまに通ることのある道路から50mほど入った畑の中にあった。岩の周囲は木に覆われていて遠くからは判りにくい。


周りを畑に囲まれた下発地の赤い岩から浅間山を望む(2016.11.4 撮影)


下発地の赤い岩(2016.11.4 撮影)


赤い岩の下に祀られているお地蔵さん(2016.11.4 撮影)

軽井沢の街中にある浅間石に始まって、浅間石のことを見てきたが、1783年の天明の大噴火に伴うもの、1108年の平安時代の大噴火に伴うものに続いて、2万4000年前の古代の浅間山(黒斑山)の山体崩壊による巨岩を見ることができた。

今回の「岩神の飛石」や佐久平と軽井沢の赤い岩は、浅間山由来と判明してはいるものの、今のところまだ浅間石とは呼ばれていない。が、これらも浅間石と呼んでもいいであろうと思う。

このうち「岩神の飛石」は国指定天然記念物であるが、佐久平と軽井沢の赤い岩にはまだ何の指定もないままに畑の中に放置されているものもある。

これまでは地域の人々の素朴な信仰心に支えられて保存されてきたが、「金島の浅間石」周辺の状況に見られるように、いつこれらが取り崩されて持ち去られてしまうかもしれない。

浅間山の過去の活動を現在に伝えるこうした自然遺産を大切にして、後代にも引き継いでいきたいものだ。
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浅間石(2)

2016-11-04 00:00:00 | 軽井沢
軽井沢の町で石垣などに多用されている「浅間石」は、1108年平安時代の浅間山噴火にともなう追分火砕流の中から掘り出されたものとされているが、同じく「浅間石」と呼ばれているものには1783年江戸時代の浅間山の天明大噴火にともなって発生した火山泥流にによるものもある。

この天明大噴火の時に浅間山の北側に流れた溶岩は、今は観光名所になっている鬼押出しを形成したが、同時にこのときに発生した火山泥流は、浅間山の北側を流れる吾妻川を流下して利根川にまで流入したとされている。

この時に泥流と共に巨大な岩塊が運ばれていて、現在もその姿を見ることができ、火山活動のすさまじさを今に伝えるものとなっている。その一つが群馬県渋川市川島地区にある「金島の浅間石」である。

この「金島の浅間石」は現在吾妻川の右岸段丘上、上越新幹線の橋脚のすぐ近くに見ることができる。近くに寄って正面から見ると左右で様子が異なることに気がつく。


群馬県渋川市川島にある「金島の浅間石」(2016.10.29 撮影)


「金島の浅間石」の右側部分(2016.10.29 撮影)

正面から見て右側半分は、大きなひとかたまりの岩塊に見える。


「金島の浅間石」の左側部分(2016.10.29 撮影)

一方、左側は小さな岩塊をまとめたようで、部分的にセメントで結合して積み上げたようにも見えた。


「金島の浅間石」の右側面からの写真(2016.10.29 撮影)

前に設けられた説明板によると、この「金島の浅間石」は昭和27年11月11日に群馬県指定天然記念物になっていて、その大きさは高さ4.4m、上面の直径は東西15.75m、南北10m、周囲は43.2mとされている巨大なものである。

石質は普通輝石と紫蘇輝石を含む両輝石安山岩とされていて、天明3年(1783)の浅間山大噴火の際、吾妻郡の鎌原一帯を押し流した泥流によって吾妻川を伝い、当地に運ばれたとしている。


「金島の浅間石」の由来を書いた説明板(2016.10.29 撮影)

この巨大な岩塊が、浅間山から直線距離でみても50kmほども離れた場所まで運ばれたことに驚くのだが、古文書には、火が燃え煙が立つ「火石」として記録されていることにさらに驚かされる。

通常、火山泥流は常温とされているが、この巨大岩塊は高温のまま泥流に飲み込まれて数十キロも離れた場所に運ばれたことになる。その時速は100kmにも達するといわれている。

にわかに信じがたいようなことではあるが、この「金島の浅間石」は磁化測定でキュリー温度である395~400℃を現地で保っていたことが示されていて、古文書の「火石」の記述は正確であることが実証されている。

僅か、230年ほど前にこうした火山活動が起きていたことに驚異と共に脅威を感じる。

この「金島の浅間石」は群馬県指定の天然記念物となっているということだが、途中特に案内表示などは無く、私が現地に行った時も車で近くまで行き、ガソリンスタンドで詳細な場所を聞くこととなった。

その時、場所を教えてくれた年配の店員が、「あの石や、周辺の石に触れたり移動したりすると死人が出るという言い伝えがある」と教えてくれた。

これは、巨大な浅間石と共に、周辺に散在している小さな浅間石をも大切に思った昔の人たちの知恵ということであろうか。

しかし、それにもかかわらず、「この地区では段丘内の川砂利が採石され、田畑中に残されていた浅間石が取り崩され、この一部は庭石として持ち去られている」とこの浅間石のことを調査研究している中村庄八氏はその報告の中で嘆いている(地学教育と科学運動 32 号 1999年10月 p61)。

1000年に一度という地震・津波災害に見舞われたばかりの日本であるが、これに伴って活発になったといわれている火山による災害がもたらす規模の大きさについても改めて思い起こしたいものだ。

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秋の香り

2016-10-13 14:04:01 | 軽井沢
 昨年の秋、ちょうど今頃のこと、南軽井沢の別荘地内の公園を散歩しているときに、あたりにいい香りがしているのに気がついた。妻にそのことを話すと、カツラの黄葉した葉から香りが出ているのだと教えてくれた。

 今年も同じ場所に行ってみたが、そのカツラの木の周りには昨年同様ベッコウアメのようなほのかな甘い香りが漂っていた。


甘い香りを漂わせる南軽井沢の別荘地内のカツラの木(2016.10.2 撮影)

 軽井沢に来た昨年春、葉の形がとても可愛いところが気に入り、庭に株立ちのカツラの木を植えていたのだが、こちらは植えてからまだ日が浅かったためかやや元気がなくて、昨年の秋にはこの庭のカツラの木からはこうした香りは感じられなかった。

 その庭のカツラも今年は僅かながら甘い香りを漂わせるようになってきた。


黄~赤く色づき、香りを漂わせるようになった庭のカツラの葉(2016.10.2 撮影)

 軽井沢ではこのカツラの木をよく見かける。国道18号バイパスの塩沢交差点から塩沢湖の方に曲がるとすぐにカツラの木が続く。このカツラは背が高くなかなか立派な並木である。


塩沢湖に向かう道路沿いのカツラ並木(2016.9.11 撮影)

 ここのカツラも9月にはすでに色づき始め僅かながらにおい始めていた。


同上(2016.9.11 撮影)

 先の南軽井沢の別荘地内にあるレストハウスの前庭には、みごとな枝垂れのカツラが植えられているが、これもまた同じような甘い香りを漂わせている。


南軽井沢の別荘地内にある枝垂れカツラ(2016.10.2 撮影)

 秋の香りといえば、マツタケも筆頭に挙げられる。長野の上田地方は秋になるとマツタケ小屋ができて賑わいをみせ、特に今年は「真田丸」効果もあって小屋は繁盛しているのではと思う。

 こちらは匂いだけではなく味覚のほうでも王者かもしれない。ただ、そうそう気軽に楽しむわけにはいかない。

 香りの面ではキンモクセイも代表格といえるが、まだ軽井沢ではキンモクセイに出会ったことがない。暖地性の植物だからであろうか。どこかの別荘の庭にはあるのだろうが、数は少ないのかもしれないと思う。

 その点、カツラは日本の気候に合っているのか北海道から九州まで広く分布しているし、軽井沢でも元気である。

 ちなみに、手元の「新・日本名木100選」(1990年、読売新聞社発行)によると100本の中に3本カツラが選ばれている。

秋田県由利郡の「千本カツラ」推定樹齢600年
富山県婦負郡の「大カツラ」推定樹齢700年
福井県大野市の「カツラ」推定樹齢1200年以上
である(所在地は本の発行当時のもの)。いずれもこれまで大切に守り育てられてきたものであろうと思われる。

 ところで、カツラの葉から出るとされているこの甘い香りの元は何だろうか。調べてみると、それはマルトール(CHO)というピロン環を持つ香りの成分ということであった。

 このマルトール、フリー百科事典『ウィキペディア』によると「マルトール(Maltol):は天然に存在する有機化合物で、香料、食品添加物として用いられる。(一部略)。天然には松葉などに含まれ、また糖類を熱分解したとき(カラメル、パンや焼き菓子など)に生成し、これらの甘い香りの原因の一つである。マルトールという名も焦がした麦芽(英語:malt)に由来する。」とある(2016年7月19日(火)13:07 UTC)。

 ベッコウアメに似た香りだと感じていたが、まさにそのものベッコウアメの香りであった。

 この香りにちなんで、カツラの木は方言で”おこーのき”、”しょーゆのき”などと呼ばれているという。カツラを身近に見ていた人々の感性豊かな呼び名である。








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