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軽井沢からの通信ときどき3D

移住して11年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

SC軽井沢クラブ

2018-02-23 00:00:00 | 軽井沢
 今年のピョンチャン冬季五輪には、当地軽井沢から男子カーリングに代表チームとして「SC軽井沢クラブ」が出場し、健闘した。軽井沢駅の改札口前にはこのSC軽井沢クラブの出場を祝う横断幕などが飾られているが、町内でも盛り上がりを見せていて応援シールも町民に配られている。また、南軽井沢の風越公園にある軽井沢アイスパークでは競技のある日にはパブリックビューイングも開催されている。


軽井沢駅改札口前の風景(2018.2.18 撮影)


軽井沢町民に配布されたSC軽井沢クラブ応援シール

 ジャンプ、ノルディック、ハーフパイプ、スピードスケートでの銀・銅メダル獲得に続き、期待の男子フィギュアスケートでは羽生選手が金メダルをとり、66年ぶりの2連覇達成を喜んでいたら、翌日には選手団長で長野県出身の小平選手が女子スピードスケート500mで初の金メダルを獲得、21日には女子団体追い抜き(パシュート)ではオランダを破り五輪新で金メダルを獲得するなど、後半に入り金メダルラッシュになり、連日目が離せない状況になっている。

 そうした中で、我が家では熱心にSC軽井沢クラブが出場している男子カーリングを見て応援をしてきた。長野県はもともと冬季五輪には多くの選手を送り出してきているが、カーリングでは初出場で、日本全体でも男子の出場は開催国出場した1998年の長野五輪以来だという。

 カーリングでは、他の団体競技とは異なり、五輪に向けた選抜チームというものを作らない。国内戦で勝ったチームがそのまま代表チームとして出場するルールになっている。

 より優れた選手を選び、最高のチームを結成して臨めばいいように思うのだが、カーリングの場合はどうもそうではないらしい。

 これまでカーリングでは女子チームの方が話題になることが多く、男子の方はあまり取り上げられることはなく、地味な存在であったように思う。

 軽井沢は、長野県内でもカーリングに力を入れている地域で、長野オリンピックの時には、軽井沢でカーリングの試合が行われた。そうした経緯もあって、町内に新たにとても立派な施設、軽井沢アイスパークが2013年に建設された。ここには国内最大級、6シートを備えた通年型カーリングホールがある。2階には、20年前の長野オリンピックの時に軽井沢でカーリング競技が行われた様子や、カーリング関連の展示を行うカーリング・ミュージアムが設けられている。

 
軽井沢アイスパーク外観(2018.2.18 撮影)


6シートあるカーリングホール(2018.2.18 撮影)


2階にあるカーリング・ミュージアム展示スペース(2018.2.18 撮影)


1998年長野オリンピック時の様子を伝える展示(2018.2.18 撮影)


カーリング用ストーンの変遷を示す展示(2018.2.18 撮影)


カーリング・ストーンの伝統的な製法と運搬用革袋を示す展示(2018.2.18 撮影)

また、カーリング競技のある日にはパブリックビューイングも開催されていて、三々五々観客が集まり、応援をしている。


軽井沢アイスパーク玄関のパブリックビューイングの案内板(2018.2.18 撮影)


2階のパブリックビューイング会場(2018.2.18 撮影)
 
 ピョンチャンでの「SC軽井沢クラブ」の戦いぶりを見ると、2月14日の初戦では、元世界王者の格上ノルウェーを撃破した(産経新聞の記事)。私も見ていたが、危なげない戦いぶりで、最終第10エンドで同点に追いつくことを狙ったノルウェーの第7投目がアクシデントだろうか、目標のサークル(ハウス)に届かなかった。次の日本の第8投でノルウェーの敗北が決まり、ノルウェーは最終投球をしないままに勝負が決し、日本が勝利した。

 このノルウェー戦での戦いぶりを再現してみた。


初戦のノルウェーとの戦いにおける、各エンドの最終ストーン配置

 その後、イギリス、スイスに敗れたが、イタリア、アメリカに勝ち、続いてスウェーデン、カナダに敗れ、デンマークに勝った結果、4勝4敗になった。次の最終戦で勝利すれば決勝トーナメント進出の可能性もあったが、残念なことに韓国に大敗する結果となり、通算4勝5敗で8位となり、4強進出はならなかった。しかし、初出場での4勝5敗は大健闘であったと思う。

 ちなみに、女子カーリングの方は5勝4敗で、決勝トーナメント進出を果たし、メダルの期待が膨らんでいる。こちらも大健闘である。

 さて、男子の戦いぶりにもどり、快勝となった2月18日のアメリカとの試合を見ると、第7エンドを終了した段階で、日本が8対2と圧倒していたので、アメリカがコンシードというルールに従い、敗北を認め3エンドを残して、日本が勝利している。この時の最終第7エンドの戦いぶりを見ると次のようである。日本は不利な先攻で2点を取り、試合を決定づけた。









アメリカ戦・第7エンドの第1投から最終投球までのストーン配置の様子

 このカーリングという競技、これまでにも女子チームの活躍が話題にはなったものの、まだまだルールがよく判らなかったが、今回、SC軽井沢クラブが出場したこともあり、TVで連日観戦するようになり、ようやく得点の計算方法が理解できるようになってきた。

 そこで、競技を行う場所やルールの詳細について調べてみたところ、意外にも競技場の構成には、世界カーリング連合、日本カーリング協会、軽井沢アイスパークの展示の間で微妙な表現の違いがあることに気づいた。

 下の図で、世界カーリング連合と日本カーリング協会とでは、Free Guard Zone が塗り分けられているが、その領域が異なっている。

 また軽井沢アイスパークのミュージアム展示図では、ハックという選手が投球時に足をかける部分の位置からバックボードというシートの端部までの距離が規定の1.829mに対して、1.22mと短くなっている。
 

世界カーリング連合の規定によるカーリングシート構成図


公益社団法人 日本カーリング協会 公式ホームページ記載のカーリングシート構成図


軽井沢アイスパークのカーリング・ミュージアムの説明パネル記載のカーリングシート構成図(2018.2.18 撮影)

 このほか、SC軽井沢クラブの試合のストーン配置図を作成していて、ハウスの中心部にある一番小さい円(ボタンと呼ぶ)の大きさが、TV画面で見ているものは規定の寸法とは異なることに気づいた。

 世界カーリング連合と日本カーリング協会の規定では、サークル半径は、外側から6-ft(1.829m)、4-ft(1.219m)、2-ft(0.610m)、6in(0.152m)とされている。

 TV画面に映し出されているピョンチャン五輪会場のボタンの大きさは、一回り大きく半径はおよそ8inである。

 また、TV観戦後に出かけた軽井沢アイスパークで撮影したハウスの写真から見ると、ここのボタンの大きさは更に大きく、半径は1-ftほどあるように見える。

 これはどうしたことか、恐らくは、規定には許容範囲があり、会場ごとに許される範囲が別途定められているものと思われるが、競技内容以外のちょっと面白い発見であった。


国際カーリング連合・日本カーリング協会の規定によるハウスの構成(前記の規定に従い筆者作成)


TV放送で見たピョンチャン五輪会場のハウス構成(2018.2.14 TV画面より)


軽井沢アイスパークのカーリングホールのハウス構成(2018.2.18 撮影)

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軽井沢文学散歩(3)立原道造

2018-02-09 00:00:00 | 軽井沢
 今回は立原道造。1914年(大正3年)7月30日、父立原貞次郎、母立原登免(とめ)の次男として東京市日本橋区(現・東京都中央区)に生まれる。昭和初期に活動したが、1939年(昭和14年)3月29日、結核性肋膜炎のため24歳と8か月の若さで急逝した詩人である。

 軽井沢とのかかわりについては、先に紹介した室生犀星や堀辰雄が軽井沢に住み、ここを拠点として作品を発表しているが、立原道造は滞在期間も比較的短く、また、若かったこともあり定住する場所を持つことはなかった。

 師事した室生犀星と堀辰雄との関係を年表で見ると次のとおりである。また、最下段には軽井沢で交流のあった、画家の深沢紅子を付記しておいた。


明治・大正期に生まれ活躍した文士と、その中の室生犀星、堀辰雄と立原道造(赤で示す)

 立原道造の略年譜は次のようなものである(信濃デッサン館の展示内容を基に編集)。

1914年(大正 3年) 7月30日、誕生。
1923年(大正12年) 関東大震災で自宅消失のため、千葉県新川村(現・流山市)の親戚宅に避難する。
1924年(大正13年) この年の夏から武州御岳山での避暑生活をほぼ恒例とする。
1927年(昭和 2年) 東京府立第三中学校(現・都立両国高校)に入学。13歳のこのころ、北原白秋を訪問するなど、既に詩作への造詣を持っていて、口語自由律短歌を『學友會誌』に発表、自選の歌集である『葛飾集』・『両國閑吟集』、詩集『水晶簾』をまとめるなど、才能を発揮していた。
1928年(昭和 3年) 三中の教師で歌人の橘宗利の指導で作歌を開始。同級生の妹・金田久子にひそかな思慕を寄せ、片恋を主題とした短歌や詩を制作。
1929年(昭和 4年) 1学期間を神経衰弱のため休学し、新川村で静養。自宅の本建築が完成し、2階テラスで天体観測に耽る。
1931年(昭和 6年) 第一高等学校理科甲類に天文学を志して進学した。一高短歌会の会員となり、高校時代を通じて詩作を続け、『校友會雜誌』に物語「あひみてののちの」を掲載した。前田夕暮主催の『詩歌』に三木祥彦(さちひこ)の筆名で投稿し、採用される。この年、堀辰雄と面識を得、以後兄事する。
1932年(昭和 7年) 内外の文学書を耽読し、次第に詩への関心を深める。自らの詩集である『こかげ』を創刊する一方、手書きの四行詩集『さふらん』編纂も手がけた。
1933年(昭和 8年) 高校最後の年を迎えた詩集『日曜日』・『散歩詩集』を制作。
1934年(昭和 9年) 東京帝国大学工学部建築学科入学。夏、堀の誘いで軽井沢を訪問し、初めて信濃追分に滞在、この地の風光を愛し、以後多くの詩の背景としている。室生犀星の知遇を得る。秋、萩原朔太郎を訪ねる。この年から1937年(昭和12年)までは、建築学科で岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三・浜口隆一が1学年下、生田勉が2学年下に在籍した。一高同期でもあった生田とは、特に親しく交わった。
1935年(昭和10年) 課題設計「小住宅」が」辰野賞を受賞(以後在学中3年連続で受賞)。夏、信濃追分の油屋旅館に滞在し、洋画家深沢紅子が油屋旅館を描いているところを、部屋の内から見かける。その後、再び松原湖で出会い、その後5年間の交友が始まる。
1936年(昭和11年) 大学卒業年次を迎えたこの年に、テオドール・シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。
1937年(昭和12年) 卒業設計「浅間山麓に位する藝術家コロニイの建築群」を提出、東京帝国大学建築科を卒業。石本建築事務所に入社し、「豊田氏山荘」を設計。また、浦和の別所沼付近に独居住宅「ヒアシンス(風信子)ハウス」を計画。10月、肋膜炎で発熱。翌月、静養中の油屋で火事に遭うが、辛うじて救出される。詩作の方面では初め前田夕暮主宰の『詩歌』に自由律短歌を発表したが、三好達治の四行詩に触発されて詩作に転じ、ついで堀辰雄、室生犀星に師事、津村信夫や丸山薫、リルケ、『新古今和歌集』などの詩風を摂取しながら、繊細な詩語を音楽的に構成した独自な十四行詩型(ソネット)を創出した。物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ他、詩集『萱草に寄す』、『曉と夕の詩』と立て続けに出版、発表し建築と詩作の双方で才能を見せた。
1938年(昭和13年) 同じ建築事務所のタイピスト水戸部アサイと愛を深める。肺炎カタルのために休職し、大森の室生犀星宅で静養。8月11日、軽井沢の室生犀星別荘を水戸部アサイと共に訪問。9月15日-10月20日、北方旅行。盛岡の深沢紅子女史の父の別荘に滞在。11月、近畿、中国を経て九州へ旅行するが、12月6日に長崎で発熱・喀血し帰京。年末に東京市立療養所に入所、アサイの献身的な看護を受ける。
1939年(昭和14年) 第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞。3月、小康状態が続き、「五月のそよ風をゼリーにして持ってきてください」と友人に依頼する。29日、病状が急変し結核性肋膜炎のため24歳の若さで急逝。没後、堀辰雄により『優しき歌』(1947)が刊行された。

 立原道造は、詩以外に短歌・俳句・物語・パステル画・スケッチ・建築設計図などを残した。道造の優しい詩風には今日でも共鳴する人は多く、文庫本の詩集もいくつか刊行されている。また存命中に今井慶明が立原の2つの詩を歌曲にして以来、柴田南雄、高木東六、高田三郎、別宮貞雄、三善晃などが作曲しているとされる。

 1997年(平成9年)3月29日、立原道造の58回目の命日に、東京都文京区弥生に私立の「立原道造記念館」が設立され、堀辰雄夫人・堀多恵子氏が館長に就任している。

 私は訪れる機会がなかったが、設立記念プレートには次のように記されていた(立原道造記念館HPより抜粋)。

 暮 春 嘆 息
  -立原道造君を憶ふて-

 人が 詩人として生涯ををはるためには
 君のやうに聡明に 清純に
 清潔に生きなければならなかった
 さうして君のやうに また
 早く死ななければ!
    三好達治

 立原道造(1914.7.30~1939.3.29)
 
 東京生まれの詩人、立原道造は、詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめています。
また、立原は、建築家でもありました。東京大学在学中、3年連続して「辰野賞」を受賞し、卒業設計「浅間山麓に位する芸術家コロニイの建築群」を構想して壮大なリゾート計画を示し、「風信子ハウス」に象徴される小住宅設計にも意欲を燃やしました。
 立原の魅力は、多くの文学者や建築家によって今日もなお語り継がれてきていますが、24歳8か月という夭折の生涯を惜しんだ三好達治は、上記のような追討詩を寄せました。私どもは、現代文学に少なからぬ影響を与えた才能と資質とを普遍であると確信し、立原が旧制一高以来の青春を過ごした向ヶ岡弥生の地に記念館を設立し、新しい世紀に向けて永続的に顕彰していく所存です。
      (1997年3月29日/立原道造記念館 館長 堀多恵子/理事長 鹿野琢見)

 この記念館は、その後2010年9月27日に休館し、展示品などは翌2011年2月、長野県上田市郊外の「信濃デッサン館」内に「立原道造記念展示室」を新設し移設した後、2011年2月20日に閉館されている。


前山寺参道から見た信濃デッサン館(2018.2.7 撮影)


信濃デッサン館に新設された「立原道造記念展示室」の案内板(2018.2.7 撮影)


信濃デッサン館入口(2018.2.7 撮影)

 この「信濃デッサン館」は作家・水上勉氏の子息窪島誠一郎氏が建設し、1979年に開館したもので、大正時代の天才といわれた村山槐多や関根正二をはじめ、主に大正期から昭和にかけて活躍し、結核や貧困の中で早く世を去った画家たちの作品を中心に展示している美術館である。

 この美術館の展示室内に、特別に部屋を設けて立原道造の残した詩「窓」・「ある人は」などの自筆原稿、若いころの「無題・二匹の魚」などの多くのパステル画、信濃追分滞在時(1983年)に描いた「観音像のある追分風景」・「ゆうすげの咲く追分風景」のペン画スケッチ、石本建築事務所勤務時に取り組んだ「秋元邸新築工事設計案Ⅰ(1938年5月6日)」図面などが展示されている。

 スケッチに描かれた「観音像」と思われる像は、今も国道18号線沿いにある追分別去れの石碑の奥に建っている。


「観音像のある追分風景」に描かれたものと思われる「観音像」(2018.2.6 撮影)

 また、立原道造が詠んだ次の詩『むらはづれの歌』の中に「馬頭観世音」として登場するのもこの観音像であろうか。

 咲いてゐるのはみやこぐさ と
 指に摘んで 光にすかして教へてくれた-
 右は越後へ行く北の道
 左は木曽へ行く中仙道
 私たちはきれいな雨あがりの夕方に
  ぼんやりと空を眺めて佇んでゐた
 さうして夕やけを背にしてまっすぐと
  行けば私のみすぼらしい故里の町
 馬頭観世音の叢に 私たちは生まれて
  はじめて言葉なくして立ってゐた
        (「立原道造詩集」より)

 東京の「立原道造記念館」の機能の一部は、南軽井沢にある「軽井沢高原文庫」移されたが、ここには「立原道造記念館」開設の4年前に、前庭に「立原道造詩碑」が設置されたゆかりの地であった。


「軽井沢高原文庫」の前庭に設置されている「立原道造詩碑」(2016.11.13 撮影)


代表作「のちのおもひに」の刻まれた立原道造詩碑(2016.11.13 撮影)


立原道造詩碑の設立趣意文の書かれているパネル、1993年7月30日付(2016.11.13 撮影)

 ここには次の文が刻まれている。

 立原道造詩碑

 詩人であり、建築家でもあった立原道造(1914.7.30~1939.3.29)は、1934年の夏、初めて軽井沢を訪れ、以後38年の夏まで幾度となく滞在し、ソネットに代表される詩や物語を生み出した。詩人が愛した浅間山麓の自然と風景は、昭和の抒情詩を代表する作品になるとともに、壮大な都市計画構想「浅間山麓に位する芸術家コロニイの建築群」にも示された。現代文学に少なからぬ影響を与えたその才能と資質を、私たちは普遍であると確信し、磯崎新氏に設計を依頼して、有志971名が相集い「立原道造詩碑」を建立した。

    碑文 立原道造自筆    詩碑 チタン鋳造    台座 イタリア産
   「のちのおもひに」より   CAST TITANIUM   PIETRA CARNIGLIA

                                  1993年7月30日
                             立原道造詩碑建立発起人会


新しい立原道造詩碑の説明パネル(2016.11.13 撮影)

 この設立趣意文にも書かれているとおり、定住はしなかったものの、立原道造と軽井沢・信濃追分とのつながりには深いものがある。

 室生犀星の「我が愛する詩人の傳記」の立原道造の章には、犀星がかつて住み現在は記念館として保存されている住居を、立原道造が訪れた時のことなどを次のように記している。

「立原道造の思い出というものは、極めて愉しい。軽井沢の私の家の庭には雨ざらしの木の椅子があって、立原は午後にやってくると、私が仕事をしているのを見て声はかけないで、その椅子に腰を下ろして、大概の日には、眼をつむって憩んでいた。・・・部屋では仕事をしながら私はそれを見て、或るしめくくりに達しるまで原稿を書いていた。・・・いつ来ても睡い男だ、そよかぜが顔を撫で、昏々と彼はからだぐるみ、そよかぜに委せているふうであった。・・・
 
・・・私の家を訪ねる年若い友達は、めんどう臭く面白くない私を打っちゃらかしにして、堀辰雄でも津村信夫でも、立原道造でも、みな言いあわせたように家内とか娘や息子と親しくなっていて、余り私には重きをおかなかった。・・・

・・・
    夢のあと
  《おまへの  心は
   わからなくなった
  《私の  こころは
   わからなくなった  (後略)

 追分村の旧家に一人の娘がいて、立原はこの娘さんを愛するようになっていた。この「夢のあと」一篇は立原にはめずらしく、心に突きこんだ現れを見せている。抒情の世界で溜息をつく詩の多い中で、この「夢のあと」は或日の机の上で書きちらしている間に、突然、殆んど自然にこんな現われを見せた四行を彼は別の紙に書いて、のこしても宜い詩のうちへ入れたものらしい。・・・

・・・私はその娘さんを一度も見たことはないが、一緒に散歩くらいはしていたものらしく、その途上にあった雑草とか野の小径や、林の上に顔を出している浅間山なぞが、娘さんのからだのほとぼりを取り入れて、匂って来るような彼の詩がいたるところにあった。娘さんとの交際は一、二年くらいのみじかさで終り、東京の人と結婚したらしい。いわば失恋という一等美しい、捜せば何処にでもあってしかも何処にもないこの愛情風景が温和しい立原に物の見方を教えてくれただろうし、心につながる追分村が、ただの村ざとでなくなっていたのであろう。

・・・また夏が来て或る日立原が軽井沢の私の家に、午前にやってきた。いつもとは違う気合が見え、そわそわとして私の言葉がよく彼の耳に落ち着いて聞こえぬらしかった。そうして今日は戸隠にいる津村信夫を訪ねるかたわら、戸隠にしばらく滞在するつもりだといった。戸隠に行くのに、何も態々来なくともよいのに、変だと私は彼の顔を見ると、立原はうわのそらにある眼付に狼狽の色をあらわし、突然、庭に出ていって表の道路の方を見たりした。その時分、立原に東京の人で第二の愛人ができているということを聞いていたので、私は彼をおちつかせるために言った。
「誰かと一緒に来たんじゃないか。」
「浅路(筆者注:水戸部アサイのこと)さんが東京から来ているんです。」
「それで、」
「前の土手に待って貰っているんです。」
「この暑いのに表に待たせるなんて、早く呼びたまえ。」・・・

・・・この浅路さんは二十六歳の若さで、中野療養所で昭和十四年三月に亡くなるまで、立原に付添って看護をしてくれた。・・・
・・・この長身痩身の詩人がたった二十六歳で死んだことは、死それ自身もあまりに突飛で奇跡的だ。・・・晩年、盛岡の深沢紅子の生家に滞在し、途中、山形の竹村俊郎の家に寄り、帰京後、旅の魔にとりつかれた彼は、山陰道を廻って長崎に着き、そこで一ヵ月近く滞在すると、暮の十二月に帰京した。この間の旅行の疲れがたたり肺を悪化させ、クリスマス前後に市の療養所に移った。・・・

・・・彼はいつも軽井沢の私の家に先き廻りして、追分から出てくると、次の列車で堀さんも今日は出てくると言い、それがその日の一等愉しい事であるらしかった。・・・そんな日の帰りには堀の買い物をもってやり、一緒に追分村に夕方には連れ立って帰っていった。絶対に彼を好いていた彼は、堀辰雄のまわりを生涯をこめてうろうろと、うろ付くことに心の張を感じていたらしかった。・・・
・・・(津村信夫を交え)異様ともいえるこの四人づれは結局、私の家にもどるのがせいぜいだったが、話もせずただむやみに機嫌好くぶらつくことが、心を晴れやかにする重要な要素であった。しかもこの若い三人の友達はさっさと先に死んでしまい、私は一人でこつこつ毎日書き、毎日くたびれて友を思うことも、まれであった。こういう伝記をかくときだけに彼らは現われ、私は話しこむのである。・・・」(以上、室生犀星著 「我が愛する詩人の傳記」1974年中央公論社発行から抜粋)

 立原道造は追分村の油屋旅館で、生涯の夏の大半を送ったともいわれているが、その油屋旅館の建物は、立原道造の遺志を継ぐ活動を目的に、2012年NPO法人「油やプロジェクト」が発足し、その拠点として活用されている。


現在の油屋旅館の入り口に建つ看板(2018.2.4 撮影)


NPO法人「油やプロジェクト」の説明板(2018.2.4 撮影)


現在の油屋旅館の建物(2018.2.4 撮影)

 この油屋旅館の近くに新築された追分公民館の玄関脇の壁には立原道造のレリーフ(加太彫江作)があり「村はずれの歌」が刻まれているのは余り知られていないようだが、立原道造は、この信濃追分の人々から深く愛されていることが知れる。


追分公民館の外観(2018.2.4 撮影)


壁面に埋め込まれている立原道造のレリーフ(2018.2.4 撮影)

 最後に、軽井沢を離れて、埼玉県さいたま市南区別所沼公園に、2004年に「ヒアシンスハウスを作る会」が建設した既述の「ヒアシンスハウス」について紹介する。

 このヒアシンスハウスは立原道造が自分の別荘としてこの地に建て、水戸部アサイと共に利用することを夢見ていたもので、ヒアシンスハウスを作る会は次のように記している。

 「・・・立原は、この五坪ほどの住宅を《ヒアシンスハウス・風信子荘》と呼び、五十通りもの試案を重ね、庭に掲げる旗のデザインを深沢紅子画伯に依頼した。さらに、住所を印刷した名刺を作り、親しい友人に配っていた。しかし立原が夭折したため、別所沼畔に紡いだ夢は実現しなかった。

 立原が、「別所沼のほとりに建つ風信子ハウス」を構想してから六十六年の時が過ぎた二〇〇三(平成十五)年、別所沼公園が、さいたま市の政令指定都市移行に伴い、埼玉県からさいたま市に移管された。これを機に、別所沼周辺の芸術家たちの交友の証として、立原がかつて夢みた《ヒアシンスハウス》は、「詩人の夢の継承事業」として建設の機運が高まり、二〇〇四(平成十六)年十一月、多くの市民たちや企業、行政の協調のもと、ここに実現することとなった。

                                  二〇〇四年十一月 ヒアシンスハウスをつくる会」


埼玉縣浦和市外六辻村別所ヒアシンスハウスの住所が記された名刺(ヒアシンスガイド、ヒアシンスハウスの会発行より)

 私は、現地に出向いて写真撮影する機会を持てなかったが、妻の友人Kさんが快く応じてくださって、現地の写真を送っていただいた。お礼を申し上げて、その写真を掲載させていただく。


さいたま市の別所沼公園内にある「ヒアシンスハウス」外観(2018.2.2 K女史撮影)


さいたま市の別所沼公園内にある「ヒアシンスハウス」の内部(2018.2.2 K女史撮影)
 



 

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軽井沢文学散歩(2)堀辰雄

2017-11-10 00:00:00 | 軽井沢
 今回は堀辰雄。大正末期から戦中にかけて活躍した小説家であり、21歳で書いた「甘栗」が処女作。軽井沢を舞台にした「美しい村」「風立ちぬ」「菜穂子」などの作品で広く知られる。今回は、終の棲家であり、現在は堀辰雄文学記念館となっている信濃追分の旧住居と、ここに至る堀辰雄の軽井沢での住まいについて紹介しようと思う。

 堀辰雄(本名)は1904年(明治37年)12月28日、東京府東京市麹町区(現東京都千代田区)にて出生。実父・堀浜之助は広島藩の士族で、維新後上京、東京地方裁判所の監督書記を務めていた。母・西村志気は、東京の町家の娘。「辰雄」という名前は、辰年生まれにちなんで命名された。

 中学時代、数学が好きで未来の数学者を夢見ていた辰雄を、文学の方へ手引きし、目覚めさせたのが友人の神西清であった。同期には、小林秀雄、深田久弥、笠原健治郎らがいた。

 高校在学中の1923年(大正12年)5月に三中の校長である広瀬雄から室生犀星を紹介され、8月に室生犀星と共に初めて軽井沢に来ている。

 1925年(大正14年)4月に東京帝国大学文学部国文科に入学。室生犀星宅で中野重治や窪川鶴次郎たちと知り合うかたわら、小林秀雄や永井龍男らの同人誌『山繭』に『甘栗』を発表する。

 この時代に活躍した主な文士の生年と没年を表にすると次のようである。


明治・大正期に生まれ活躍した文士と、その中の室生犀星と堀辰雄(赤で示す)

 これをみると、室生犀星に誘われ、堀辰雄が初めて軽井沢を訪れた1923年(大正12年)というと、室生犀星が34歳、堀辰雄は18歳であった。この旅が契機となり軽井沢、信濃追分は堀文学における代表作の舞台となるが、室生犀星はこのように多くの詩人、作家の世話をよくしていた、細やかな心配りをする人であったといわれている。

 この後、堀辰雄は軽井沢に長く滞在することになるが、軽井沢での最初の住まいは、1938年(昭和13年)に結婚した多恵との新婚宅であった。結婚後すぐ軽井沢に住むことを決めた堀夫妻は、いったん室生犀星の別荘に住んで物件を探し回り、愛宕山水源地近くの835番(下の地図の「1」)の欧州風の大きな別荘を借りて半年間暮らした。

 その後、鎌倉や東京・杉並と軽井沢を往復しながら、1939年(昭和14年)7~10月に638番別荘(下の地図の「2」)、1940年(昭和15年)7~9月には658番別荘(下の地図の「3」)を借りて滞在した。

 1941年(昭和16年)にはアメリカ人スミス氏がオーナーだった1412番山荘(下の地図の「4」)を手に入れる。以後、1944年(昭和19年)までは夏になるとこの山荘で過ごした。この山荘には堀辰雄の没後に、画家の深沢省三・紅子夫妻が住んでいる。

 これら堀辰雄が住んだ別荘/山荘のうち、現存しているのは1412番山荘のみで、今は軽井沢高原文庫内に移設されている(当ブログ2016.11.18付で一度紹介している)。


堀辰雄が1938年から1944年までを過ごした4つの別荘。835番別荘「1」、638番別荘「2」、658番別荘「3」、と1412番山荘「4」(地図は©2017 Zenrin, ©2017 MICROSOFTより)。


旧軽井沢から移築した堀辰雄が愛した1412番山荘 1/2(2016.11.13 撮影)


旧軽井沢から移築した堀辰雄が愛した1412番山荘 2/2(2016.11.13 撮影)


別荘番号の1412が見える(2016.11.13 撮影)


「堀辰雄1412番山荘」の由来を示す説明板(2016.11.13 撮影)

 この説明板には次のように書かれている。

「堀辰雄の住んだ軽井沢一四一二の山荘

 昭和十六年の春求めたこの山小屋には、四年続けて初夏から秋にかけて過ごした。軽井沢でも古い古い建物のひとつに数えられている。大正七、八年頃、アメリカ人スミスさんの所有となり、戦争で帰国することになって、私たちが譲り受けた。よく燃える暖炉があり、炭で焚く風呂があった。厳しい冬を過ごすために追分に移ってから後、この山小屋には、戦争中も住む家を失ったドイツの婦人が住んでいたこともあった。辰雄の没後、深沢省三・紅子画伯夫婦が大切に住んで下さったので、やっと今日まで持ちこたえて来たが、崩壊寸前で「高原文庫」のかたわらに「堀辰雄の愛した山荘」として移築され、残されることになったのである。-堀多恵子「私たちの家・家」より」

 上記の説明板にも記されているように、4か所の別荘に暮らした後、二人は信濃追分に15坪ほどの小さな住まいを建てている。この住居は1951年(昭和26年)夏に完成、堀夫妻は同年7月1日に入居している。おかねがなかったので最小限の間取りを二人で考えたというこの家には、床の間のある四畳半と、その隣の三畳間が真ん中にある。堀辰雄は晩年、この四畳半の部屋で仕事をし、読書をした。三畳間の方は、婦人が看病につかれて休むための部屋であった。床の間には川端康成が新築祝いに贈った自筆の書が掛けられている。床の間の脇の障子窓を開ければ、寝床からでも雄大な浅間山を一望できた。

 当初は別荘として夏の間だけ過ごす予定であったというが、多くの来客があり、また自身の病状が重くなっていたため、その後6畳の茶の間と台所、風呂場を増築し、井戸も掘り、通年使えるようになった。

 この新居では2年足らずの間過ごすことになるが、執筆活動だけではなく旅行も思うようにできず、数十通の手紙を知人たちとやりとりしたのみであったという。しかし、買い求めた本が次第に増え、前宅に置いたままになっていた書籍もあったため、庭に茶室風の書庫を造った。書棚は5段で書庫の2面を占めている。この書庫がようやく完成したのは堀辰雄が亡くなる10日ほど前のことであった。

 室生犀星は、その著書「我が愛する詩人の伝記」の中で、堀辰雄について次のように書きしるしている。

 「大正十三年八月はじめて信州軽井沢に、私を訪ねて来て鶴屋旅館に滞在(と書かれているが、前年にも一緒に来ていることは、先に書いた)・・・。
 堀は軽井沢の気候とか町の外の道路を愛した。鶴屋主人は堀さんがあんなに偉い人になるとは思わなかったと言い、後にいつのまにか堀センセイと呼ぶようになっていた。
 翌々年かに追分に行き、この町が気に入って死ぬまでこの地に滞在、たえ子夫人を貰い、家を建ててとうとうこの地で亡くなった。これほど追分の村里を愛した人はなかろう。ざっと三十年も軽井沢と追分にいたわけである。
 軽井沢を愛好していた詩人たちに津村信夫、立原道造、野村英夫らがいて、堀の数少ない友達になっている。少し遅れて福永武彦、中村真一郎が彼の家の茶の間に座っていた。中村真一郎はむんずりと黙り込み、福永武彦は早口の大声で話し、堀はにやにやと何時もきげんが好かった。」

 堀辰雄が最後に過ごすことになった追分のこの家は、それまで暮らした軽井沢からは西にやや離れた、信濃追分駅近くの旧中山道から少し入った場所にある。現在は軽井沢町が譲り受け、堀辰雄文学記念館として一般公開している。


堀辰雄文学記念館は、信濃鉄道の信濃追分駅から徒歩30分程度、旧中山道脇にある


堀辰雄文学記念館の入り口(2011.8.14 撮影)


堀辰雄旧宅外観 1/2(2011.8.14 撮影)


堀辰雄旧宅外観 2/2(2011.8.14 撮影)


堀辰雄が暮らした四畳半の居室とその隣の三畳の部屋が見える(2011.8.14 撮影)


川端康成が新築祝いに贈った自筆の書(2011.8.14 撮影)


女優の高峰三枝子が堀に贈った籐椅子と机(2011.8.14 撮影)


書庫内部の書棚(2011.8.14 撮影)


書庫におかれている説明板(2011.8.14 撮影)

 ところで、室生犀星の次に堀辰雄のことをこのブログに書こうと思っていたある日、大阪の古書店に立ち寄った時、偶然「風立ちぬ」の背表紙が目に入った。手に取ってみると昭和13年(1928年)に発行された初版本の復刻版(昭和49年発行)であった。後ろのページには、昭和十三年四月十日発行、定価二圓と書かれている。この復刻版がどこまで原書を忠実に再現しているかは判らないが、本の表紙と、箱の様子は次の写真のようなものである。


偶然古書店に立ち寄り見つけた、「風たちぬ」の初版・復刻本の箱と表紙
 

「風たちぬ、いざ生きめやも」の詩句が書かれているページ

 2013年に宮崎駿監督の映画「風立ちぬ」で話題となり、多くの観光客がこの堀辰雄文学記念館を訪れた。実在の人物である堀越二郎をモデルに、その半生を完全に創作して描いた作品であるが、堀辰雄の小説『風立ちぬ』からの着想も盛り込まれているとされている。そのため映画のポスターには両名の名を挙げており、2012年に公表された版では「堀越二郎と堀辰雄に敬意を表して」、翌年公表された版では「堀越二郎と堀辰雄に敬意を込めて」と記されている。




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軽井沢文学散歩(1)室生犀星

2017-10-13 00:00:00 | 軽井沢
 今日は軽井沢文学散歩。といっても、文学を語ることができるわけではないので、軽井沢ゆかりの文士に関連する場所の紹介をしてみたい。初回の今回は大正期から昭和中期までのあいだ活躍した日本文学を代表する詩人・小説家の一人とされる室生犀星。
  
 北陸新幹線が2015年3月に開通し、軽井沢と金沢が1時間あまりで結ばれたことを、室生犀星がもし生きていれば大層喜んだのではないだろうか。

 室生犀星(本名照道)は明治22(1889)年8月1日、石川県金沢市の生まれ。加賀藩・足軽組頭を勤めた小畠弥左衛門吉種を父に、女中はるを母として生まれたが、生後1週間後に赤井ハツのもとに養子として出され、命名されている。

 室生姓は、この養母赤井ハツが内縁関係にあった雨宝院住職の室生真乗の養嗣子になったことで、7歳のころから名乗るようになった。

 犀星の名は、金沢市内を流れる犀川の西で生まれ育ったことから思いついたとされ、西を星に変えて犀星としている。

 秋の連休の三日目、妻と二人で旧軽井沢銀座の人ごみの中を抜けて、ロマンステニスコートとユニオン
チャーチの間の道を歩き、万平ホテルに向かう。その途中、道を左に曲がるとすぐに、室生犀星旧居(記念館)の案内板が目に入る。


室生犀星旧居の案内板(2017.10.8 撮影)

 この案内板と道路をはさんで反対側には、軽井沢町内のあちらこちらに見られる、軽井沢観光協会が設置した金属製の道案内標識がある。内部には浅間石の小石が詰められていて、上部のプレートには説明文が記されている。


「犀星の経」の道案内標識(2017.10.8 撮影)


「犀星の経」道案内標識の上部に記された説明文(2017.10.8 撮影)

 この案内板を左に曲がり少し行くと右側に室生犀星旧居がある。現在軽井沢町教育委員会が記念館として管理していて、入場料は無料である。


室生犀星旧居入り口(2017.10.8 撮影)

 入り口を入るとすぐに美しい苔が目に入る。苔の向こうに見える左側の建物が母屋であり、正面に見えるのは来客用の離れである。また、母屋の左側には別棟の書斎がある。


室生犀星旧居の母屋(2017.10.8 撮影)


室生犀星旧居の離れ(2017.10.8 撮影)


室生犀星旧居の書斎(2017.10.8 撮影)

 室生犀星記念館で配布しているパンフレットには次のように記されている。

 「室生犀星がはじめて軽井沢を訪れたのは大正9(1920)年の夏のことです。軽井沢の清涼な空気と美しい自然に魅せられた犀星は、つるや旅館を常宿とし、萩原朔太郎・芥川龍之介・松村みね子らと交友を深めました。・・・

 この旧居は、昭和6(1931)年に建てられたもので、亡くなる前年の昭和36(1961)年まで毎夏をここで過ごしました。また、昭和19年から24年まで、一家をあげて疎開生活を過ごしたのもこの旧居です。

 この家には、堀辰雄・津村信夫・立原道造ら若き詩人たちが訪れたり、近くに滞在していた志賀直哉・正宗白鳥・川端康成ら多くの作家との交流もありました。・・・」

 犀星は母屋の縁側に座り、前にある離れのほうを眺めるのが好きであったと、管理人の女性から説明を受け、我々も同じように縁側に座って庭を眺めた。

 *このブログ記事を読んでくれた友人のNさんから、さっそく犀星の次の句があるよと連絡をいただいた。まさに、この縁側から庭の苔を眺めようとして立ち上がる情景が浮かんでくる句である(2017.10.13 追記)。

 ”庭石の苔を見に出る炬燵かな”


犀星が好きであったという縁側から離れと庭を眺める(2017.10.8 撮影)


母屋の縁側から見た離れの眺め(2017.10.8撮影)


母屋の縁側から見た庭の眺め(2017.10.8 撮影)

 当時も同じ様子であったかどうか定かではないが、現在庭は軽井沢特有の厚い苔で覆われていて、大切に保護されている。苔の種類は10種以上もあるということで、「コウヤノマンネンゴケ」という名前の、軽井沢ではここだけにしかないという珍しい苔も含まれている。この苔を川端康成が自宅に持って帰ったという逸話も残されている。


「コウヤノマンネンゴケ」(2017.10.8 撮影)

 軽井沢の冬はとても寒い。冬は今でもマイナス18度くらいになることがあるが、この建物の中でどのようにして冬を過ごしたのであろうか、厳冬期のきびしい暮らしが想像される。

 当時はまだ、水道は無く、玄関脇にある井戸を使用していたのであるが、水道はあったとしても、冬は凍結してしまう。現在でも別荘など冬には水が利用できなくなるところも多い。

 犀星の文学活動は大正7(1918)年の処女詩集「愛の詩集」とそれに続く「抒情小曲集」に始まる。最近の義務教育で教えられているものかどうか定かではないが、我々の年代の者には、「ふるさとは遠きにありて思うもの、そして悲しくうたうもの、よしや、うらぶれて異土の乞食となるとても、帰るところにあるまじや」という一節はよく記憶に残るところである。

 小説では翌年大正8(1919)年に自伝的小説「幼年時代」を「中央公論」に発表している。これに続く幾つかの作品で小説家としての地位を築くがやがて長い沈滞期を迎え、再出発したのは昭和9(1934)年の「あにいもうと」をはじめとする作品であった。

 軽井沢には堀辰雄を伴って来ており、これが契機になり堀辰雄は軽井沢と信濃追分を舞台とした作品を書くことにつながる。

 多くの作家との交友は続くが、昭和14(1939)年に立原道造が24歳で逝き、その後17(1942)年に萩原朔太郎、北原白秋、翌18(1943)年に徳田秋声、19(1944)年に津村信夫を相次いで失うことになる。

 昭和24(1949)年からの2度目の空白期間を経て、昭和30(1955)年に連載「女ひと」を「新潮」に発表して復活し、その後「杏っ子」で読売文学賞を受賞する。

 この後も旺盛に作品を書き続けたが、昭和34(1959)年に「かげろふの日記遺文」で野間文学賞を受賞した際の記念として、「犀星文学碑」を昭和36(1961)年、自らが土地の選定・設計を行い建設費を出し、矢ケ崎川のほとりに建立させた。そして、翌年昭和37(1962)年に肺がんのために永眠している。72年余の生涯であった。

 この文学碑は記念館から少し離れた場所にある。旧軽井沢銀座通りを抜けて碓氷峠の方に向かうと、矢ケ崎川にかかる二手橋に出る。橋を渡り右側に進むと碓氷峠であるが、道を左側にとり川に沿ってしばらく進むと左手に文学碑(詩碑)を示す案内柱が見える。


室生犀星詩碑の案内柱(2017.10.8 撮影)

 文学碑は右側の石垣に埋め込まれた形で造られている。その傍には、犀星が旧満州国旅行の帰途、京城(現ソウル)で買い求めたという石の俑人像が2体設置されていて、この文学碑を見守っている。


矢ケ崎川畔にある室生犀星の文学碑周辺の様子(2017.10.8 撮影)


室生犀星文学碑(2017.10.8 撮影)

 この文学碑には、昭和3(1928)年に刊行された詩集『鶴』の中の一編「切なき思ひぞ知る」が刻まれている。

 我は張り詰めたる氷を愛す
 斯る切なき思ひを愛す
 我はそれらの輝けるを見たり
 斯る花にあらざる花を愛す
 我は氷の奥にあるものに同感す
 我はつねに狭小なる人生に住めり
 その人生の荒涼の中に呻吟せり
 さればこそ張り詰めたる氷を愛す
 斯る切なき思ひを愛す。

      昭和三十五(年)十月十八日
            室生犀星
                之建


室生犀星詩碑説明板(2017.10.8 撮影)


室生犀星文学碑を見守る俑人像(2017.10.8 撮影)

 この犀星文学碑から200m先で道を右にそれて、ゆるい上り坂の山道を行ったところに、交流のあった正宗白鳥の詩碑がやはりひっそりと建っている。


正宗白鳥詩碑の案内板(2017.10.8 撮影)


正宗白鳥の詩碑(2017.10.8 撮影)

 旧軽井沢銀座の喧騒を離れて、この2箇所の文学碑・詩碑の回りにはこの時期訪れる人も無く静かである。


観光客で賑わう旧軽井沢銀座通り(2017.10.8 撮影)
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あさま山荘(1/3)

2017-08-18 00:00:00 | 軽井沢
軽井沢に住むようになって気になっていたことの一つが、「あさま山荘事件」のことであったが、事件の現場となった「あさま山荘」がどこにあるのか、詳しいことについては特に調べることもなく日が過ぎていた。

 南軽井沢の道路沿いに、この事件の顕彰碑である「治安の礎」が建てられていることには早くから気付いていたが、「あさま山荘」そのもののことはこれまで判らないままになっていた。

南軽井沢の道路沿いに建てられている「治安の礎」(2017.7.2 撮影)

「治安の礎」の石碑(2017.7.2 撮影)

石碑脇の木柱とパネル(2017.7.2 撮影)

 1973(昭和48)年2月28日、事件解決のちょうど1年後に建てられたこの顕彰碑には次のような碑文と、事件当時の様子を示すレリーフが刻まれている。

 『群馬県下の山岳アジトにおいて陰惨な大量リンチ殺人を犯した連合赤軍の幹部ら五名が、昭和47年2月19日、ここ南軽井沢「あさま山荘」に押し入り、管理人の妻を人質に、包囲の警察部隊に銃撃をもって抵抗するという、わが国犯罪史上まれにみる凶悪な事件を引き起こした。警察は、人質の安全救出を最高目標に、厳寒の中あらゆる困難を克服しつつ、総力を傾注した決死的な活動により、2月28日、219時間目に人質を無事救出し、犯人全員を逮捕した。
 この警備活動に当たって、警視庁から来援の
  故 第二機動隊長     内田尚孝警視長
  故 特科車両隊指揮官  高見繁光警視正
が殉職され、また、多数の警察官が重軽傷を負った。殉職の両氏は激しい銃火の中にあって、あさま山荘に突入する隊員を陣頭指揮中、凶弾に倒れ、白雪を鮮血に染めながら壮烈な最期を遂げ、人質救出と犯人逮捕の礎となられた。
 この碑は、軽井沢町民が相図り、両氏の功績を永く後世に伝え、再びこのような事件が起こることのないよう祈念し、建立したものであり、警備活動の責任者として依頼され一文を記した。
    昭和48年2月28日                                                                                                        長野県警察本部長 警視監 野中 庸  』

石碑の側面に設けられている事件の様子を示すレリーフ(2017.7.2 撮影)

 この顕彰碑が建てられている場所は、碓氷軽井沢インターから軽井沢駅に向かう途中、72ゴルフ場の手前を西方向に向かう道が2本あるが、その2本が交差する地点にある。

 その後調べてみると、「あさま山荘」はちょうどこの「治安の礎」のある場所から見通せる方角、別荘地レイクニュータウンの中にあった。実際には、顕彰碑の背後にある木の陰になっていることと、「あさま山荘」の周辺にも木が生い茂っており、この場所からは直接建物の姿を見ることはできないが。

 ところで、「あさま山荘事件」は発生後すでに45年を経過し、私自身も当時の記憶が薄れてきているので、関係資料で事件の内容を再確認してみた。

 『1972年2月16日、犯人らが直前まで事実上の拠点として使用していた榛名山や迦葉山のベースの跡地が、警察の山狩によって発見されたことをラジオのニュースで知った坂口弘らは、群馬県警察の包囲網が迫っていることを感じ、群馬県妙義山の山岳ベースを出て山越えにより隣接する長野県に逃げ込むことにした。

 この時、最高幹部の森恒夫と永田洋子が資金調達のための上京によりベースを不在にしていたため、この決定は2人との連絡が取れない中で坂口を中心に行われた。

 森と永田もベースが発見されたことを前日に知り、坂口たちと合流すべくベースに戻るが、2月17日に山狩りをしていた警察官に見つかり抵抗の末逮捕された。

 ベースに戻り合流した坂口らは長野県の佐久市方面に出ることを意図してベースを出発したが、装備の貧弱さと厳冬期という気象条件が重なって山中で道に迷い、軽井沢へ偶然出てしまった。軽井沢レイクニュータウンは当時新しい別荘地で、連合赤軍の持っていた地図にはまだ記載されていなかった。そのため、メンバーはそこが軽井沢であるとは知らずに行動せざるを得なくなり、後に彼らが立てこもり先として浅間山荘を選んだのは偶然であった。

 2月19日午前、食料などの買い出しに出かけた植垣、青砥ら4名が軽井沢駅で逮捕される。こうして29名いた連合赤軍メンバーは、12名が山岳ベースで殺害され、4名が脱走、8名がこの時までに逮捕されており、事件発生直前には坂口弘、坂東国男、吉野雅邦、少年A、少年Bの5名を残すのみとなっていた。・・・(中略)

 2月19日の正午ごろ、メンバー5人は軽井沢レイクニュータウンにあった無人の「さつき山荘」に侵入し、台所などにあった食料を食べて休息していたが、捜索中の長野県警察機動隊一個分隊がパトカーに乗って近づいてきたことを察知し、パトカーに発砲した。

 15時20分ごろ、メンバーは銃を乱射しながら包囲を突破し、さつき山荘を脱出すると、自動車がある家を探す中で浅間山荘に逃げ込み、管理人の妻を人質として立てこもった。(Wikipedia あさま山荘事件 2017年8月1日 (火) 23:59 より)』

 この後「あさま山荘」では10日間にわたり攻防が続き、2月28日に全員が逮捕され、人質も無事救出されるが、この出来事については、当時警察庁から応援に派遣された佐々淳行氏の著書『連合赤軍「あさま山荘」事件』(1996年6月30日 文芸春秋発行)や、元長野県警幹部北原薫明氏の著書『連合赤軍「あさま山荘事件」の真実』(1996年12月11日 ほおずき書籍発行)などに詳しく書かれているし、関連図書も多い。

まず、佐々淳行氏の著書『連合赤軍「あさま山荘」事件』。

佐々淳行著『連合赤軍「あさま山荘事件」の真実』の表紙

 この本のあとがきで佐々氏は次のように書いている。

 『この本は、内閣の閣僚でもなく、どこかの国の大使でもない、全く名も無い一主婦を、非人道的なテロリストの魔の手から救出するために自らの命を捧げた正義の戦士のための鎮魂賦であり、傷つき倒れた勇敢で忠誠な治安の戦士たちの勇気を讃える武勲詩であり、後世にその人々の名を残す顕彰碑なのである。』

次は、元長野県警幹部北原薫明氏の著書『連合赤軍「あさま山荘事件」の真実』。

北原薫明著『連合赤軍「あさま山荘事件」の真実』の表紙

 この本のあとがきを見ると次のようにある。

 『なお最近では、警察庁より応援に派遣され、現地の警備本部の特別幕僚の立場で本事件にかかわったS氏も、当時の警備部隊の内部の状況を著して出版したが、その内容に事実と異なる点があることや、長野県警が一丸となって死力を尽くした点などが十分に記述されていないと思われる点もあるので、事件にかかわった一員としての責任から、浅学を省みず、改めて当時の資料に基づき、正確な事実と、当時の調査で解明できなかった点などを明らかにしたいと思って、本書を発刊することにした』

 また、上記の2書に先駆けて発行され、当時まだ16歳であった犯人の一人M少年の目で見た事件の一部始終という形で書かれた、白鳥忠良氏の著書「あさま山荘事件-審判担当書記官の回想-」(1988年1月20日 国書刊行会発行)には、違った視点での事件の記述がみられる。

白鳥忠良著「あさま山荘事件-審判担当書記官の回想-」の表紙

 この本のあとがきには出版の動機として次のような文章がある。

 『マスコミは挙って新聞・雑誌などで、いち早く報道されたが、あまりにも事案複雑、関係者多数のため、事件のすべてを詳細に網羅登載することができず、部分的なものにすぎなかった。また事件の真相を正確に把握してのものでもなかったと思う。・・・
 それに、今日までに成人の刑事事件として身柄拘束中の者、刑事終局処分後刑期に服しているもの、既に刑期終了後社会人になっている者らが、この事件の真相とか実録と称して、雑誌などで発刊しているらしいが、その殆どは、同僚に罪を転嫁したり、自己に都合のよいところのみ記載されたものや、刑の言い渡し前に、世間の人々から同情を得ようとしたものにほかならない。・・・
 そこで私は、(中略)この事件の担当者として体験した事実を再現すべく、この錯綜した難事件のすべてについて、もちろんマスコミなどで報道されていない隠れた部分をも盛り込み、最も信憑力のある著書として後世まで、これを伝えたいと考え、拙文をも省みず敢えて執筆するに及んだ』

 あさま山荘事件の結果は、警察官の犠牲2名、民間人の犠牲1名、重軽傷者27名であった。

 また、逮捕された5名の裁判の結果は、次のようなものであった(年齢は事件当時)。

坂口 弘(25)
 1993年2月19日、最高裁判決により死刑。
坂東國男(25)
 1975年8月4日、日本赤軍によるマレーシアのクアラルンプール事件によって、「超法規的措置」として釈放され日本赤軍に合流。現在国際指名手配されている。
吉野雅邦(23)
 1979年3月29日、検察の死刑求刑に対し、東京地方裁判所は無期懲役を言い渡した。
 死刑を求めていた検察は控訴したが、1983年2月2日に東京高等裁判所は控訴を棄却。検察側が上告しなかったため無期懲役判決が確定した。
少年A(19)
 1983年2月、懲役13年の刑が確定し、三重刑務所で服役。1987年1月仮釈放。
少年B(16)
 1983年2月、中等少年院送致と判決が確定した。

 事件後10年ほどは、「あさま山荘」は観光名所となり、観光バスのコースにもなっていたという。その後、大半を取り壊して建て直され、アートギャラリーとなったのち、現在は中国企業の所有となっているとされている。

 先日現地に行ってみたが、建物の老朽化が進み、ほとんど使用されていないように見えた。

 一方、現在のレイクニュータウンでは、初夏になるとバラ園にたくさんの美しいバラの花が咲き、観光客の目を楽しませている。

下の道路から見上げた現在の「あさま山荘」(2017.7.2 撮影)

上の道路から見た現在の「あさま山荘」の玄関付近(2017.7.2 撮影)

別荘地レークニュータウンの入り口(2017.7.2 撮影)

レークニュータウン管理事務所の前庭に咲くバラ(2017.6.30 撮影)

レークニュータウン内にあるレイクガーデンのバラ園1/2(2017.6.30 撮影)

レークニュータウン内にあるレイクガーデンのバラ園2/2(2017.6.30 撮影)

 この事件については、社会の大きな関心を集めたことも手伝い、多くの小説、映画、TV番組、舞台作品が発表されている。

 映画では、前記佐々淳行氏の『連合赤軍「あさま山荘」事件』(文藝春秋刊)を映像化した作品『突入せよ!あさま山荘事件』などがある。

 この映画のキャストには、佐々淳行:役所広司、後藤田正晴警察庁長官:藤田まこと、国松孝次広報課長:田中哲司などの名前を見ることができる。

 私自身はこれらのごく一部を見たに過ぎないが、新潟県上越市に赴任していた時に、前記の映画のロケがあり、上越市の市民もエキストラとして出演していて、事件のことも身近に感じていた。また、事件の解決に用いられた鉄球は現在もロケ地となった長野・新潟県境にある「光が原高原」に展示されている。

あさま山荘事件に集められた鉄球(左)と映画撮影に用いられた鉄球(右)(2002.9.22. 撮影)

鉄球脇に建てられた石碑(2002.9.22. 撮影)

 小説では、あさま山荘事件を直接扱ったものではないが、軽井沢在住の作家小池真理子さんが「恋」(第114回直木賞受賞作品)で、この事件当日に起きた女子大生によるもう一つの殺人事件をテーマにしている。

 「あさま山荘事件」に話を戻すと、犯人の一人が海外に逃亡していることもあり、現在でも警察関係者の中にはこの「あさま山荘事件」はまだ終わっていないとする人達もいるが、事件のことは我々の記憶からは次第に遠ざかっている。

 先日偶然この事件が起きた年の報道写真集を古書店で入手したが、この年の出来事の一部を抜粋すると以下のようなものが見られる。写真と添えられている文章を見ていると当時の様々な出来事が思い起こされる。

 亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、今回のこの記事を終える。

朝日新聞報道写真集1973の表紙

1972年1月
・初の訪朝議員団出発・・・16日、自民党の久野忠治代議士を団長とする初の超党派訪朝議員団が羽田を出発。
・グアム島で元日本兵生還・・・24日夕、グアム島で元軍曹横井庄一さん(56)が発見された。
2月
・札幌オリンピック開会式・・・3日、アジア初の第11回冬季オリンピック札幌大会開会式が行われた。
・銀盤の名花リン・・・5日、女子フィギュア自由演技の女王、アメリカのジャネット・リンが華麗な演技を披露。
・妙義山で過激派幹部逮捕・・・16日、群馬県警が妙義山中で、5人を発見、うち男女2人を逮捕。17日、森、永田の2名を逮捕。
・人妻を人質に山荘占拠・・・19日、妙義山を脱出した連合赤軍5人が午後3時、浅間山荘に逃げ込み、管理人の妻を人質にした。
・ついに浅間山荘突入・・・28日、朝10時、ついに人質の強行救出作戦を開始。クレーン車の鉄玉で玄関を破壊。
・警察に殉職の犠牲・・・28日、攻撃開始から人質救出まで8時間余、警視庁第2機動隊長内田警視、特科車両隊高見警部が殉職。
3月
・トゲトゲしい阪大入試・・・3日、国立大学一期校の入学試験で、豊中市待兼山の阪大教養部では、機動隊が遠巻きにし、試験場入場は有刺鉄線で部外者の立ち入り禁止に。
・新幹線岡山まで開業・・・15日、新幹線の新大阪-岡山間161キロメートルが開業。
4月
・王者アリ、KO不発・・・1日、ヘビー級1位のアリと9位のフォスターが日本武道館で行われ、アリが判定勝ち。
・川端康成氏を悼む・・・17日、16日夜にガス管をくわえ、自殺したノーベル賞作家川端康成氏の通夜が行われた。
5月
・輪島功一、初回KO勝ち・・・7日、ジュニアミドル級タイトルマッチで輪島功一が6位のチベリアを1回KOで下し、初防衛。
・関脇輪島が初優勝・・・28日、大相撲夏場所で、花かご部屋の関脇輪島が12勝3敗で初優勝。
6月
・将棋名人に中原8段・・・8日、挑戦者中原誠8段が4勝3敗で大山康晴名人に勝ち、名人位を奪取。
・来日したキ補佐官・・・9日、夜、キッシンジャー米大統領補佐官が来日。12日まで滞在、佐藤首相、福田外相などと精力的に会談。
・首相、異様な引退表明独演・・・17日、午前11時、佐藤首相の引退記者会見は、興奮の応酬から記者団が一斉退場した。
・株式市場空前の暴落・・・24日、英ポンドの変動相場制移行に伴い、ダウ平均株価242円安の史上最大の下げ幅になった。
7月
・自民党新総裁に田中氏・・・5日、自民党の総裁選挙が行われ、田中角栄氏が第6代総裁に選ばれた。
・豪雨、東海地方も急襲・・・13日、未明、愛知県西三河地方と岐阜県東濃地方が1時間70ミリ以上の記録的豪雨に見舞われ、死者49名、行方不明48人を出した。
・四日市公害も患者側勝訴・・・24日、「四日市ぜんそく訴訟」の判決が言渡され、患者側の勝訴となった。
8月
・科学衛星「でんぱ」・・・19日、東大宇宙航空研究所は、電波探測衛星を積んだ4段式ミュー4S型4号機の打ち上げに成功した。
・高校野球に津久見優勝・・・23日、第45回全国高校野球選手権大会で中九州・津久見が初優勝した。
・ミュンヘンオリンピック・・・26日、第20回オリンピック・ミュンヘン大会の開会式が行われた。
9月
・田中首相、毛主席と会う・・・27日、田中首相は北京で毛沢東中国共産党主席となごやかに会談。
・日中国交を樹立・・・29日、日中両政府の共同声明調印式が北京の人民大会堂で行われた。
10月
・ルバング島に元日本兵・・・19日、フィリピンのルバング島で、元日本兵2人が警察軍と撃ち合い、小塚金七氏が死亡、小野田寛郎氏が逃亡。
11月
・パンダちゃんお目見え・・・4日、中国から贈られたパンダ2頭の贈呈式が東京・上野動物園で行われた。
・踊る歌手、山本リンダ・・・22日、山本リンダのNHK紅白歌合戦2度目の出場が決まる。
12月
・王者ショーター2連勝・・・3日、福岡市で行われた第7回国際マラソン選手権大会で、ミュンヘン五輪で金メダルの米ショーターが初の2連勝。
・笑いとまらぬ社会党・・・11日、上げ潮ムードに乗った社会党は118議席を獲得し、成田委員長が早々と勝利宣言。


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