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軽井沢からの通信ときどき3D

移住して11年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

軽井沢文学散歩(5)津村信夫

2019-02-01 00:00:00 | 軽井沢
 今回は津村信夫。これまで室生犀星(2017.10.13 公開)、堀辰雄(2017.11.10 公開)、立原道造(2018.2.9 公開)、正宗白鳥(2018.6.27 公開)と軽井沢ゆかりの作家をとりあげてきたが、これらの作家の軽井沢での日々をみると、その中に決まってと言っていいくらい登場してきていたのが津村信夫であった。

 しかし、軽井沢町で発行している「軽井沢文学散歩」を調べても、津村の名前を見つけることはできない。津村信夫は軽井沢にしばしば来ているが、ここに住むことはなかったし、また、氏の文学碑も軽井沢にはないことがその理由であろう。

 津村信夫が最初に軽井沢にきたのは慶応大学在学中のことらしく、室生犀星の「我が愛する詩人の伝記」(1974年⦅昭和49年⦆ 中央公論社発行)には次のように書かれている。

 「(兄津村秀夫の紹介で)その弟の津村信夫が登場した軽井沢の家では、まだ白面豊頬の青年で慶応の学帽をかむり、いつも闊達に大声で談笑した青年であった。・・・軽井沢では(津村)秀松博士は三笠ホテルに毎夏滞在され、博士も見えられ私も訪ねたが、温顔謹直な紳士であった。信夫は軽井沢では鶴屋旅館に泊ったが、宿泊料はいつも支払わずに立ち去った。後から秀松博士が来沢された折に、支払う習慣になっていて至極暢びりした風景だった。・・・だんだん親しくなると私は信夫のことをノブスケ君と呼び、ノブスケと呼び放しにした。家の娘や息子もやはりノブスケさんと呼び、ノブヲとは呼ばなかった。彼は(大森の家の)門から這入って来ると、もう笑いを一杯に顔の中にならべて、おっさん、留守か、と子供たちばかり出て迎える様子にそれを察して言った。子供達は今日はだぶちんは出掛けていない、宜いところに来たと言わんばかりであった。・・・」

 また、室生犀星の娘朝子の著書「詩人の星 遙か」(1982年⦅昭和57年⦆ 作品社発行)にも次のように紹介されている。

 「慶応の制服の金釦を胸に光らせて、体格がよいというより太った津村信夫が、書斎で犀星と話をしていた姿が、私の第一印象として強く残っている。年譜によると大正十五年の夏、父津村秀松氏と一緒にいた信夫は、軽井沢の万平ホテルで犀星と会ったのが最初とあるが、私の記憶は昭和八、九年頃からである。・・・」

 この年譜とは「津村信夫全集・第三巻」(1974年⦅昭和49年⦆ 角川書店発行)記載のものと思われるが、その大正十五年・昭和元年の項に、「八月 始めて家族とともに軽井沢のマンペイホテルに避暑生活を送り、生涯の師となった室生犀星を見識る。」とある。


万平ホテル(2016.7.25 撮影)

 室生朝子のもう一つの著書「父室生犀星」(1971年⦅昭和46年⦆ 毎日新聞社発行)には、津村信夫が立原道造を伴って、室生犀星の別荘を訪問した際のことが次のように書かれている。

 「立原道造は東大の学生であった頃、津村信夫につれられて父のところに来た。背の高い瘠せた道造は、金ぼたんの学生服がよく似合った・・・・」

 津村信夫は立原道造より5歳年上であり、1909年(明治42年)1月5日生まれであった。これまでに紹介した、軽井沢ゆかりの明治・大正期に生まれ活躍した文士達と共に、津村信夫の生没年を次の図中赤で示す。


明治・大正期に生まれ活躍した文士と、その中の室生犀星、堀辰雄、立原道造、正宗白鳥と津村信夫(赤で示す)

 軽井沢での津村信夫と堀辰雄、立原道造の様子も、前記の書に紹介されている。少し引用すると次のようである。

 「彼(立原道造)はいつも軽井沢の私の家に先き廻りして、追分から出て来ると、次の列車で堀さんも今日は出て来るといい、それがその日の一等愉しい事であるらしかった。
 列車が付く時間になると、表の通りに出て行ってもうそろそろくる時分だが、お客でもあったのかと独り言を言い、落ち着かずそわそわしていた。そうして堀の姿が丘の上に現れると、嬉しそうに来た、来た、と言って私に知らせる時なぞ、まれに見る子供っぽい友情の細やかさがあった。そして堀と私が話をしていても何も言わずに、邪魔をしないで一人遊びするように、娘なぞと遊んでいた。
 そんな日の帰りには堀の買い物を持ってやり、一緒に追分村に夕方には連れ立って帰って行った。絶対に堀を好いていた彼は、堀辰雄のまわりを生涯をこめてうろうろと、うろ付くことに心の張りを感じていたらしかった。そこに津村信夫が東京から来合せたりすると、彼はますます機嫌好くなって、津村を誘って町に出て行って永い間返らなかった。
 私もつい気になり堀と一緒に町まで出かけて、テニスコートの周辺や喫茶店やにぎやかな横丁なぞを探して歩くことがあった。探している間は決して見つからないこの二人は、突然、町の下手の方から登って来たりして、にこにこして落ちあい、喫茶店にもはいらずにただぶら付くだけで、暑い日の下を愉しく歩いた。
 異様ともいえるこの四人づれは結局、私の家にもどるのがせいぜいだったが、話もせずただむやみに機嫌好くぶらつくことが、心を晴れやかにする重要な要因であった。しかもこの若い三人の友達はさっさと先に死んでしまい、私は一人でこつこつ毎日書き、毎日くたびれて友を思うことも、まれであった。・・・」

 「土曜日の午後一時頃、軽井沢への直行が着く時分になると、信夫は革の鞄を提げて現れた。これから戸隠の山に行くとか、ちょっと千ヶ滝まで行くのだとか、また一、二日軽井沢に遊びに来たとか言い、毎週の土曜ごとに例の快活そうに笑い、機嫌よく泊っていった。そして、二三日するとこれから帰京するのだと言い、出先から戻って来ると、また一泊した。この忙しい小旅行の中心地が軽井沢から、やや離れた千ヶ滝附近にあるよりも、もっと遠い距離にあるらしく、しかも千ヶ滝の旅館に直行することもあって、ちょっとわかりかねる地理の不分明があった。或日信夫は茅野粛々の別荘の位置と、草深い構えとを説明してああいう家に住みたいといい、芒とか萩とかが一杯別荘の周囲にあることを美しく話し出した。茅野粛々は慶応の教授で詩人だったから、信夫も在学中からしたしんでいたのである。・・・」

 「・・・彼ははじめて繁々と東京と千ヶ滝の間を往復するわけを話し出した。自分としては余りに内気でおとなしい人であることが気に入り、不達の美点につながっているのだと、その話し振りには私にその女の人を一遍見せたい気がたくさんあるだけに、見せるのを惜しむような気もあるらしい。・・・
・・・ある日津村信夫は私の家の上手の小さい丘から、嘗つて立原道造がつれて来て見せた愛人と同じ道を、信夫は一人の少女を伴うてもう門の前からにこにこして、どう思われるかという心づかいを忘れて了い、ただ、事の新鮮無類ないきさつの愉快さで、わざと大きい声で、や、今日は暑くてバスが混んで了ってと言った。背後であんしんした微笑の顔が、ちょっと足を停めてシトヤカに頭を下げて見せた。眼が大きくいっぱいに開かれ、その眼にも微笑があふれていた。『昌子さんです。』と、彼は彼女を紹介した。・・・
・・・かれらが夕方、長野市に向け出かけてゆくので、はじめて昌子という人が長野にいることが判った。千ヶ滝あたりの別荘に滞在していたことも実際だが、長野の町にいるのでは、暑いのに度たび東京から訪ねて行ったことは大変だったであろう。
 夕方、かれらは軽井沢の駅で、西と東に別れて列車に乗った。かりそめの宿を求めた私の家は、その後も、しばしばこの二人をかくまった。誰も知らずまた知る必要もない二人は、どんな時でも、音も言葉も、話し声も立てないで四畳半にこもった。立原道造も泊り堀辰雄も泊った離れは、百田宗治、萩原朔太郎も旅行にくると此処で昼寝をして、立って行った。・・・」


軽井沢歴史のみち・犀星の径の案内板(2017.10.8 撮影)


津村信夫ら多くの文士が訪れた室生犀星別荘の離れ(2017.10.8 撮影)

 「・・・父を愛し母を愛し姉を愛し兄を愛した彼は、昌子を貰うために飽くまで父と戦い母と戦い兄とも戦い、兄秀夫を先ず味方に惹き入れ、ついに父母の城をおとしいれた。
 ・・・ある日、父秀松博士は私の家に大きいオーヴァーを着用に及んで、あれには困ったものですが、何とか媒酌の労を取って下さいと言いに見えられ、私はついにこの城を陥しいれた彼のまごころに、ひそかに舌を捲いたくらいである。・・・」(「我が愛する詩人の伝記」より)。

 室生犀星の娘朝子の著書にも、昌子とのことが次のように描かれている。

 「母の口ぞえも力があったのかもしれないが、なんといってもノブスケの昌子さんに対する情熱が、母君の心を動かしたのだろう。犀星と母が仲人担って結婚は決まった。結婚式の日どりも決まると、昌子さんは一ケ月ほど家に来て、母と一緒に料理を作ったり、買い物に出掛けたりして日を過ごした。・・・
 昭和十一年十二月十八日、東京会館で豪華な結婚式が行われたのであった。
 ノブスケと昌子さんの新居は、目黒の原町であった。買い物の品々は三日目に配達になるというので、その日の午後、私は昌子さんについて原町の家に行った。『信夫さんが白がいいと言われたから、壁などもすべて真っ白にしたのよ』
 洋間が一部屋あって、門も白いペンキで光り、門から玄関までのアーチには、薔薇の蔓が巻いていた。・・・
 結婚後五年して長女初枝さんが生れ、ノブスケ夫婦の喜びは深かった。すべてが倖せであったにもかかわらず、その頃奇病といわれたアジソン氏病にとりつかれ、終に昭和十九年六月二十七日に亡くなった。
 葬儀は北鎌倉の浄智寺でとり行われた。・・・
 初夏の強い陽の光が老木の杉の枝を透かして、照りつけていた。暑い日であった。一粒種の初枝ちゃんはまだ三歳になったばかり、葬式の意味もわからずに、人々の間を歩き廻っていた。犀星の囲りの親しい人がまた一人欠けた。・・・」(「詩人の星 遙か」より)

 軽井沢には、津村信夫の詩碑あるいは文学碑はないとはじめに書いたが、それは戸隠にあった。室生朝子の「詩人の星 遙か」に次のように紹介されている。

 「ノブスケがはじめて戸隠に行ったのは、昭和八、九年頃で、昌子さんが案内をされたのだそうだ。ノブスケは戸隠を愛し、詩に、作品にたびたび戸隠を書いた。
 昭和四十九年六月二十七日、ノブスケの三十回忌に、戸隠に文学碑が建ち、その除幕式が行われた。
 私も出席したが、久しぶりに昌子さんや初枝さん、秀夫氏ご夫妻にお会いして、若かったノブスケの思い出話に花が咲いた。ノブスケのふるさとでもない戸隠に、人間ノブスケと作品を愛する人たちの手によって、完成した文学碑は、なかなか意味のあるものであった。
 中社の右側の石段を登り五斎神社の横の細い道を入ると、左側の杉の木立の中に、文学碑は立った。横約1.5メートル、高さ約1メートルの自然石に、黒御影石の碑文がはめ込んである。

  戸隠姫

  山は鋸の歯の形
  冬になれば人は往かず
  岸の風に屋根と木が鳴る
  こうこうと鳴ると云ふ
  「そんなにこうこうつて鳴りますか」
  私の問ひに
  娘は皓い歯を見せた
  遠くの薄は夢のやう
  「美しい時ばかりはございません」
  初冬の山は不開の間
  峯吹く風をききながら
  不開の間では
  坊の娘がお茶をたててゐる
  二十を越すと早いものと
  娘は年齢を言はなかった
             津村信夫

 碑の横の石には、
  津村信夫を愛する人々の集まり 
  津村信夫三十回忌に建之
  碑面「戸隠の絵本」原稿より
  昭和四十九年六月二十七日」(「詩人の星 遙か」より)

 この、津村信夫の文学碑を訪ねるべく、1月25日に妻と戸隠にでかけてきた。翌日は大雪との情報もあり、その前にとの判断があった。軽井沢から戸隠までは上信越高速道路を使っても2時間はかかる。午前10時に自宅を出た。
 戸隠は豪雪地帯でもあり、目的の文学碑を見ることができるものかどうか判らなかったのであるが、とにかく出かけてみようとの思いであった。

 長野市内からは、バードラインが整備され、除雪もきちんとされていたので順調に中社の前に来た。ちょうど昼時でもあったので、妻がまだ学生時代に家族と立ち寄ったことがあるという、蕎麦屋「うずら家」の主の元気な声にも誘われて、中に入った。


バードラインからの戸隠山(2019.1.25 撮影)

 そばを食べ終わって、さてこれから文学碑を見に行こうと思っていた時、テーブルの上に置かれた伝票の裏に書かれている文の中の津村信夫という文字に目がとまった。「・・・詩人の津村信夫や作家の開高健氏は厳冬の戸隠で、蕎麦や酒を愉しんだ・・」とある。


蕎麦屋「うずら家」の伝票の裏面の文

 そば代金を支払いながら、そのことに触れ、店を出ながら文学碑のある場所を店員に聞いていると、先ほどの元気のいい主が、雪が深いので今は近くには行くことができないと教えてくれた。文学碑の内容を記したものなら、2階にあるので見ていくといいと言っていただいたので、再び店内に戻り2階に上がった。

 それは、2階の座敷の上の方に掲げられている1枚板に刻まれたもので、津村信夫の文学碑の内容をそのまま写しとったものであった。


「うずら家」の2階座敷にかけられていた津村信夫の文学碑の内容を写した板額(2019.1.25 撮影)


上記板額の文面(2019.1.25 撮影)

 礼を言って店を出て、ここまで来たのだから少し近くまで行ってみようということで、中社に向かった。正面階段脇の案内板には、津村信夫の文学碑の案内も出ていた。ここだけはしっかり除雪されている正面の石段をのぼり、右手の五斎神社の方に向かったが、文学碑の方を示す案内柱は見えるが、それ以上進むことはできなかった。


中社の案内図(2019.1.25 撮影)


津村信夫の文学碑の場所も記されている(2019.1.25 撮影)


中社の大鳥居(2019.1.25 撮影)


正面の石段は除雪されている(2019.1.25 撮影)


津村信夫の文学碑の方向を示す案内柱も雪に半分埋もれている(2019.1.25 撮影)

 もと来た道を戻り、先ほどの「うずら家」の前の道路までくると、急斜面の上方の雪の中に、津村信夫の文学碑が見えた。20mほどの距離があるので、刻まれた碑文内容を確認することはできなかったが、持参したカメラを超望遠にして撮影したのが次の写真である。


中社前の蕎麦屋「うずら家」(2019.1.25 撮影)


津村信夫文学碑(2019.1.25 撮影)


同上部分(2019.1.25 撮影)

 間近に訪れることはできなかったが、津村信夫の文学碑の場所を確認することができ、また思いがけずその文面を写しとった板額を見ることもできた幸運を喜びながら、雪道を駐車場に向かった。戸隠の人たちが津村信夫に寄せる思いの一端を感じることもできた一日であった。

 最後に、津村信夫の略年譜を記して、本稿を終る。
 
津村信夫、
・1909年(明治42年)1月5日生まれ
 神戸市葺合地区に法学博士津村秀松、久子夫妻の一女二男の末子としてうまれる。
・1915年(大正 4年)6歳
 葺合区熊内町の雲中尋常高等小学校尋常科に入学。
・1922年(大正11年)13歳
 尋常科を卒業し、雲中校の高等科に通学。このころ父が大阪鉄工所の社長に就任し、月の半分を東京で暮らすようになる。
・1924年(大正13年)15歳
 高山樗牛や国木田独歩を愛読する。
・1926年(昭和 元年)17歳
 家族と共に軽井沢に避暑し、室生犀星を知る。島崎藤村や石川啄木の詩歌に親しみ、自らも詩作を始める。
・1927年(昭和 2年)18歳
 県立神戸一中を卒業。信州の松本高等学校の受験に失敗。東京三田の慶應義塾大学経済学部予科に入学。父の寓居東京麹町区に移る。受験勉強も災いし肋膜炎にかかり、東京帝大附属病院に入院、その療養期間中に文学への素養を深めた。
・1928年(昭和 3年)19歳
 一家で軽井沢に避暑、室生犀星を兄・姉とともに数回尋ねる。高田町に白鳥省吾を訪問し、省吾の主宰する同人詩誌「地上楽園」に、初めて詩「夜間飛行機」を発表。
・1930年(昭和 5年)21歳
 丸山薫と文通を始め、丸山に兄事するようになる。室生犀星に師事し、生涯にわたってその指導と愛顧を受ける。
・1931年(昭和 6年)22歳
 父の親友の内池廉吉博士の次女省子を知り、信州・沓掛(中軽井沢)で暑中休暇を共にすごす。室生犀星の紹介で、「今日の詩」に詩「葱」「青年期」を発表。「三田文学」に詩「水蒸気、母」を発表。兄の知り合いの植村敏夫の紹介で、山岸外史や中村地平を知る。山岸の主宰する同人誌「あかでもす」に兄、植村、中村とともに作品を発表。兄、植村、中村と信夫で「四人クラブ」を結成し、同人誌「四人」を5号まで刊行。
・1932年(昭和 7年)23歳
 父が健康を理由に大阪鉄工所社長を辞して文筆生活に入り、母が結核のため再び入院する。慶應義塾大学経済学部本科一年に進級。フランス語学習のため、アテネ・フランセの初等科(夜間)に入学。入院中の三好達治を見舞い交友を深める。省子の不意の婚約によりその恋愛に破れる。「四人」四月号に省子との別れを記念した詩「小扇」ほかを発表。「センパン」に「林間地で」ほかを発表。「季刊・文学」に兄と共に、旧作詩8篇と詩「雪の膝」「海の思ひ」を発表。
・1933年(昭和 8年)24歳
 丸山薫を訪ねる。「四人」や「あかでもす」の同人による文学研究会「木曜会」に参加。室生犀星を通じて、堀辰雄や坂本越朗を知る。「文藝」に詩「若年」ほか2篇を発表。「帝国大学新聞」に詩「日記」を発表。
・1934年(昭和 9年)25歳
 長野で小山昌子と知り合い、交際するようになる。水上滝太郎邸で開かれていた「水曜会」に出席、「三田文学」の執筆者らを知る。丸山薫の推薦で「四季」の同人に加わる。四季を通じて、葛巻義敏、立原道造らを知る。「文藝」に詩「愛する神の歌」「我が家」を発表。太宰治の「青い花」に詩「千曲川」他3篇を発表。
・1935年(昭和10年)26歳
 慶應義塾大学を卒業し、東京海上火災に勤務する。四季社から処女詩集「愛する神の歌」を自費出版する、出版記念会が四季関係者によって催される。「四季」に詩「抒情の手」、丸山薫論「郷愁について」を発表。
・1936年(昭和11年)27歳
 室生犀星夫妻を晩酌人として昌子と結婚。目黒区に新居を構える。神保光太郎とともに信夫は四季の実務を担当する。「現代日本詩人選集」に「津村信夫詩篇」として詩「ある雲に寄せて」ほか2篇が収録。
・1937年(昭和12年)28歳
 辻野久憲、中原中也が結核で死去。「四季」は追悼号を発行。
・1938年(昭和13年)29歳
 東京海上火災を辞す。小説を書くことを志し、小説「風雪」「坊の秋」を構想。佐藤春夫の「新日本」に詩「ある遍歴から」を発表。
・1939年(昭和14年)30歳
 立原道造死去。「四季」は追悼号を発行。萩原朔太郎の主宰する「パンの会」に助講として出席。十二月二十九日に父が敗血症で急逝。
・1940年(昭和15年)31歳
 「文藝世紀」に同人として参加。抒情日誌「戸隠の絵本」を「ぐろりあ・そさえて」から刊行。父の遺著「春秋箚記」「春寒」が刊行され後書を添える。萩原朔太郎編集の「昭和詩鈔」に詩「夕方私は途方に暮れた」ほか4篇が収録される。「現代詩人集・第二巻」に24篇が収録される。
・1941年(昭和16年)32歳
 長女初枝誕生。神奈川県大船町に転居する。日産自動車会社内青年学校で教師を務める。丸山薫編集の「四季詩集」が刊行され、詩「詩人の出発」ほか四編が収録。
・1942年(昭和17年)33歳
 第二詩集「父のゐる庭」を臼井書房から刊行。健康を害し、アディスン氏病との診断を受ける。
・1943年(昭和18年)34歳
 健康不調のため授業を休講とする。築地の大東亜病院(現・聖路加病院)に入院。「文学界」に詩「冬に入りて」を発表。
・1944年(昭和19年)35歳
 第三詩集「或る遍歴から」を湯川弘文堂から刊行。6月27日死去、享年35歳。信夫死去の日を刊行日として「四季」廃刊となる。多磨墓地にある家族の墓に葬られる(多磨霊園8区1種2側5番地)。
・1945年(昭和20年)「善光寺平」刊行。
・1948年(昭和23年)兄の編集で、矢代書店から総合詩集「さらば夏の光よ」、小詩集「初冬の山」刊行。
(白凰社「津村信夫」年表、角川書店「津村信夫全集」を参考とした。年齢は現在の数え方による)





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紅葉と雲場池

2018-11-09 00:00:00 | 軽井沢
 今年もまた、軽井沢は紅葉の季節を迎えた。碓氷峠、愛宕山、離山、などの周囲の山々はブナやコナラ、ミズナラが黄褐色に変化して美しいグラデーションを見せている。町中にはカエデの木が街路樹として、あるいは別荘の庭木として植えられていて、こちらも美しい景観をつくりだしている。

 そうした中、雲場池の紅葉はTVで紹介されることも多く、たくさんの観光客でにぎわっている。先週末、周辺の道路は大渋滞になった。雲場池には2ヶ所駐車場が用意されている。一つは南方の離山通りに面した場所にあるもので、こちらは雲場池にもより近く、スペースが広く有料である。もう一ヶ所は東方のやはり離山通りに面した場所にあり、こちらは町営の無料駐車場である。(2021年4月1日追記、町営無料駐車場は3月末で閉鎖になりました。)

 この雲場池は、昨年から整備工事が行われ、池周囲をめぐる遊歩道も広くなり、池入口周辺の木も伐採されるなどして観光客が記念写真を撮るスペースなども広くなっている。地元の広報誌「かるいざわ」の表紙と中身にその様子が報じられている。

改修された雲場池の写真を表紙に掲げた、軽井沢町の広報誌「かるいざわ」2018年6月号

雲場池整備工事しゅん工記念式典の様子を伝える広報誌「かるいざわ」2018年6月号

 雲場池入り口に設置されている案内板も新しくなった。この案内板には、かつてこの雲場池に白鳥が飛来していたことから「スワンレイク」という愛称で親しまれたと書かれているが、いつからか白鳥の姿は見られなくなり、今は数羽のマガモが観光客の目を楽しませ、カメラマンの被写体になっている。

リニューアルされた雲場池入り口の案内板(2018.6.9 撮影)

広くなった池入り口付近(2018.6.9 撮影)

同上の場所での最近の撮影(2018.10.30 撮影)
 
 広報が配布された時期、新緑であった雲場池周辺も、10月末になり燃えるような紅葉で彩られた。

雲場池東側の紅葉 1/2(2018.10.30 撮影)

雲場池東側の紅葉 2/2(2018.10.30 撮影)

池で泳ぐマガモ(2018.10.30 撮影)

池の奥にある小島の紅葉(2018.10.30 撮影)

隣接する別荘の擁壁にからむツタも美しく紅葉している(2018.10.30 撮影)

池の最奥部から振り返る(2018.10.30 撮影)

遊歩道に沿って植えられているドウダンツツジ(2018.10.30 撮影)

 途中で折り返すルートもあるが、遊歩道を更に奥に進むと、小さな流れになる。そして、流れは道路の下をくぐり、さらに上流に続くことになるが、ここから先は個人私有地になっていて立ち入ることはできない。この流れの水源は上流の「ホテル鹿島の森」の近くにある「御前水」という湧き水である。

雲場池の遊歩道を最奥部まで進むと、小さな流れに変わる(2018.10.30 撮影)

さらにその奥は私有地になっている(2018.10.30 撮影)

 観光客の中にはこの雲場池だけでは満足せず、周辺の別荘の庭に植えられているカエデ、ドウダンツツジなどの紅葉を求めて散策する人たちも見られる。別荘のたたずまいと、紅(黄)葉の取り合わせもまたとても美しい。別荘地での紅葉狩りを楽しんでいただきながら本ブログを終わらせていただく。


















雲場池周辺の別荘地の紅葉(すべて 2018.10.30 撮影)


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バラの季節

2018-06-29 00:00:00 | 軽井沢
 軽井沢に住んで感じていることの一つは、軽井沢だけに限らず佐久平方面にでかけてもそうなのだが、バラがとても元気に咲いているということである。住宅の周辺などのバラの花がとても美しい。庭先や玄関脇などのほんの少しの場所などに植えられたバラが大きく生育して立派な花をつけているのをよく見かける。この地方の風土がバラに合っているのだろうと思う。

 当然、そうした好環境に恵まれている軽井沢にはいくつものバラ園があって、今の季節はバラが美しく咲き競っている。

 観光地として知られる南軽井沢タリアセン内のイングリッシュローズ・ガーデンに、まだ軽井沢にくる前に母と妹2人とを案内したことがあって、この園内のバラがとても美しかったことを思い出す。ここには現在200種、1800株のバラが植えられているとされる。

 移住後には、所用で南軽井沢にある別荘地・レイクニュータウンに時々出かけることがあるが、ここにあるレイクガーデンのバラ園もまたとても管理が行き届いていて、別荘に住んでいる人達だけではなく、観光客にも有料ではあるが開放されているので、訪れる人も多いようである。

 昨年、ちょうど今の季節に出かけて、このたくさんのバラを撮影してきているので、紹介させていただこうと思う。

 レイクニュータウンの別荘地内に入ると、管理事務所の建物があるが、この周囲がバラでとり囲まれるようになっていて、実に美しい。


レイクニュータウンの管理事務所周辺に咲くバラ(2017.6.30 撮影)

 この管理事務所の斜め前、道路をはさんだ対角線方向にバラ園への入り口がある。一般の観光客は入場料が必要だが、先日でかけた軽井沢周辺の蕎麦屋にもこのバラ園の優待券が置かれているのを見かけたので、それなどをうまく利用すればいいようである。


バラ園と付属施設の入り口(2017.6.30 撮影)

 私は、バラのことには詳しくないが、バラにはモダンローズとオールドローズと呼ばれる種類(群)があることは聞き知っている。では、その違いはというとあいまいであったので、今回調べてみた。

 オールドローズとは、北半球に150種ほど自生していたとされている野生のバラの中から10種あまりを基にして、人類が品種改良を始めた約4000年前から1867年までの間に開発された品種のことを指すという。一方、モダンローズの方は1867年以降に開発された新種のバラを指している。

 そして、この1867年という年に何があったかといえば、バラの新種開発の歴史の中でも画期的とされる品種が、それまでもバラの品種改良の先頭を走ってきたフランスで生み出された年ということになる。

 そのバラの名前は「ラ・フランス」とされた。このバラは、フランスのリヨンで育種に携わっていたジャン=バティスト・ギョ・フィスが1866年に偶然に圃場に生えた実生株を発見し、翌年の1867年に命名され公表されたものという。

 「ラ・フランス」は当時人気のあったバラに比べて、壮麗で花弁数も多く、淡いピンク色の花弁は外側のものでも平開することなく、花の中心部分のものは直立していた。また花の中心部はやや盛り上がって高くなり、花弁の縁は背側に巻き込む、今日言うところの剣弁高芯咲きの花型をしていたとされる。そして、何よりもそれまでのバラは、ほとんどが春のみの一季咲きであったのに対し、「ラ・フランス」は四季咲きであったことによる。

 「ラ・フランス」の両親とされるバラは、共に自然界には存在しない、純然たる人工のバラであったことから、この記念すべき年をもって、園芸バラのグループを新旧に2分することが、全米バラ協会から提唱され、その後定説として世界で広く受け入れられているというのが、その由来であった。

 さて、この分類を念頭に、レイクガーデン内のバラの写真を改めて眺めているが、そうかんたんには新旧ローズの区別がつかない。

 バラ園内では、それぞれのバラの脇に名前が記されていたので、それらを写真に転記しておいた。注意して記録したつもりであるが、あるいはミスで間違って書き写したものもあるかもしれない。その点は、なにしろバラの名前をまったく知らない素人なのでご容赦いただきたく思う。

 これら新品種の名前は、開発者が自由に命名できるとあって様々で、現在3-4万種あるとされる中から、今回撮影した品種を探し出すのは容易ではなく、バラ図鑑では見つからない名前も多い。それぞれの写真の下に、判ったものについては、作出年や国名、花の大きさ、香りの有無などの説明を付記しておいた。その作出年を見ると、ほとんどモダン・ローズであることがわかる。

 バラの種類は、樹形、花形、花色、香り、一季/多季咲きなどで分類されるが、今回は花の色ごとに分けて紹介させていただく。先ずはバラといえば・・・真っ赤なバラから。


イル・ルージュ、2007年作出、フランス、8cm、微香(2017.6.30 撮影)


サン・テグジュペリ、2003年作出、フランス、10cm、中香(2017.6.30 撮影)


テス・オブ・ザ・ダーバーヴィルズ、1998年作出、イギリス、強香(2017.6.30 撮影)


オマージュ・ア・バルバラ、2004年作出、7-8cm、 微香、フランス(2017.6.30 撮影)


トゥール・エッフェル2000、1998年作出、フランス、微香(2017.6.30 撮影)

 そして、妖艶な紫色系の花。


シャトルーズ・ドゥ・パルム、1996年作出、フランス、9-14cm、強香(2017.6.30 撮影)


ミステリューズ、2013年作出、フランス、6cm、スパイス系香(2017.6.30 撮影)


ムンステッド・ウッド、2008年作出、イギリス、7-8cm、ダマスク系強香(2017.6.30 撮影)


パープル・ロッジ、2007年作出、フランス、強香(2017.6.30 撮影)


ディオレサンス(2017.6.30 撮影)


ヴィオレット、1921年作出、フランス、微香(2017.6.30 撮影)


ラプソディー・イン・ブルー、2000年作出、イギリス、7-8cm、スパイス系香(2017.6.30 撮影)

 次に、ピンク系のバラ。園内で最も多いのがこのピンク系のバラ。濃いものから白に近いものまでとても幅広い。


ローズ・オブ・ピカーディー、2004年作出、イギリス、微香(2017.6.30 撮影)


ドクトール・マサド(2017.6.30 撮影)


ジェネラシオン・ジャルダン、2009年作出、フランス、7-8cm、中香(2017.6.30 撮影)


ゼフィリーヌ・ドリーアン、1868年作出、フランス、強香(2017.6.30 撮影)


レジス・マルコン、2014年作出、フランス、9-14cm、強香(2017.6.30 撮影)


ブルノ・ペルプワン(2017.6.30 撮影)


メアリー・ローズ、1983年作出、イギリス、強香(2017.6.30 撮影)


ブラザー・カドフィール、1990年作出、イギリス、強香(2017.6.30 撮影)


プリンセス・アレキサンドラ・オブ・ケント、2007年作出、イギリス、9-14cm、強香(2017.6.30 撮影)


レイモン・ブラン(2017.6.30 撮影)


ガートルート・ジエキル(2017.6.30 撮影)


ラヴェンダー・ラッシー(2017.6.30 撮影)

 以下はより白味の強い種類。


ペッシュ・ボンボン、2009年作出、フランス、9-14cm、強香(2017.6.30 撮影)


ピエール・ド・ロンサール、1986年作出、フランス、9-14cm、微香、日本で最もポピュラーな種類(2017.6.30 撮影)


アベイ・ドゥ・ヴァルサント(2017.6.30 撮影)


ワイフ・オブ・バス、1969年作出、イギリス、微香(2017.6.30 撮影)


セプタード・アイル、1996年作出、イギリス、強香(2017.6.30 撮影)


キャスリン・モーリー、1990年作出、イギリス、強香(2017.6.30 撮影)


クイーン・オブ・スウェーデン、2004年作出、イギリス、7-8cm、強香(2017.6.30 撮影)


アンヌ・ボレイン、1999年作出、イギリス、微香(2017.6.30 撮影)


シャポー・ド・ナポレオン、1827年作出、フランス、7cm、強香(2017.6.30 撮影)

 ややニュアンスの異なる色のものもある。


スウィート・ジュリエット、1989年作出、イギリス、強香(2017.6.30 撮影)


ラ・パリジェンヌ、2009年作出、フランス、中香(2017.6.30 撮影)

 次に黄色~オレンジ色のバラ。


ブライス・スピリット、1999年作出、イギリス、中香(2017.6.30 撮影)


シャルロット、1993年作出、イギリス、中香(2017.6.30 撮影)


ソレイユ・デュ・モンド(2017.6.30 撮影)


バターカップ(2017.6.30 撮影)


ソレイユ・ヴァルティカル(2017.6.30 撮影)


ゴールデン・セレブレーション、1992年作出、イギリス、強香(2017.6.30 撮影)
 
 次は白いバラ。


アンナプルナ、2012年作出、フランス、7-8cm、さわやかな香り(2017.6.30 撮影)


シフォナード(2017.6.30 撮影)


パール・ドリフト(2017.6.30 撮影)


ウィリアム・アンド・キャサリン、2011年作出、イギリス、7-8cm、中香、2人の結婚を祝して命名(2017.6.30 撮影)


ブランシェ・カスカドゥ(2017.6.30 撮影)

 最後にモザイク状の斑入りのバラ。


モーリス・ユトリロ、2003年作出、フランス、強香(2017.6.30 撮影)


アルフレッド・シスレー、2004年作出、フランス、中香(2017.6.30 撮影)


カミーユ・ピサロ、1996年作出、フランス、中香(2017.6.30 撮影)


ギー・サヴァオ、2001年作出、フランス、9-14cm、強香(2017.6.30 撮影)

 ずいぶん多くのバラを見ていただいたが、もちろんこれでも園内で撮影した写真の一部である。お気に入りのバラは見つかっただろうか。

 これらの美しいバラに魅せられ、これまでは山野草にばかり関心を持っていたのであるが、昨年我が家にも数種類のバラを植えることにした。冒頭、軽井沢の風土にはバラがよく合っているようだと書いた。実際ご近所の庭ではバラがよく育っていて、美しく咲いているのを見ている。

 しかし、実際に植えてみるとなかなか難しいことがわかってきた。微妙な日当たり条件や、土質によって生育と花付きが大きく異なる。 アリマキもつくし、病気にもなる。当然のことだが、庭先にごく自然に咲いているように見えていたバラも、それぞれの家庭で、きちんと管理されていたのだといまさらのように気がついた。

 我が家でも頑張って美しい花を咲かせたいと思うのだが。

 

 

 






 



 
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軽井沢文学散歩(4)正宗白鳥

2018-06-22 00:00:00 | 軽井沢
 今回は正宗白鳥(まさむね はくちょう)。明治から昭和にかけて活躍した小説家、劇作家、文学評論家。1879年(明治12年)3月3日、岡山県和気郡穂浪村(現在の備前市穂浪)の生まれ。本名は正宗忠夫(まさむね ただお)。

 名前は知っているものの作品を挙げてみろと言われると出てこないということで、私には馴染みの薄い存在である。ただ、「現代日本文学大系16・正宗白鳥集」(1969年 筑摩書房発行)には次のような記述も見られるので、代表作が思い浮かばないのは私だけではないのかもしれない。

 「百科事典や文学辞典の『正宗白鳥』の項には、『小説化・戯曲家・評論家』とあるものの、評論家の彼には権威があるが、小説家、戯曲家の彼は、あまり人気がない。
 しかし、小林秀雄は、白鳥の小説は『みなおもしろいよ。ただ正宗さんという人物がわからないとおもしろくない。自然主義ではない。才はないさ。才というよりはもっと違ったものを持っちゃった人だ。』と言っている。
 数年前、私は『正宗白鳥・文学と生涯』という本を書いた時、明治末葉の自然主義台頭期に、花々しく売り出した当時と、功成り名遂げて老熟した年代の彼の本が、どれだけ売れたかを調べてみて、それが近年の純文学の新人にすら、遥かに及ばないのを知って、唖然とした。・・・
 ・・・白鳥の代表作と言えば、何だろう。戯曲なら『人生の幸福』『安土の春』、評論なら『作家論』『自然主義盛衰史』を挙げることが出来るが、小説となると、容易ではない。さきに述べた『何処へ』や『微光』、それに『入り江のほとり』『牛部屋の臭ひ』『人間嫌ひ』『今年の秋』などを挙げるのが、通説であろうが、私に言わせると、代表作がない、というのが彼の特色である。・・・」(付録、正宗白鳥の生涯 後藤 亮)

 一方、軽井沢町の公式HPによると、軽井沢とのかかわりは深く、正宗白鳥が初めて軽井沢を訪れたのは1912年(大正元年)、伊香保を訪れた折のことで、33歳であった。その後、1940年(昭和15年)61歳の時に六本辻に別荘を建て、以後夏を中心に過ごしている。第二次大戦中の1944年(昭和19年)8月に疎開してから1957年(昭和32年)まで同所に住んだということなので、これまでに紹介した室生犀星、堀辰雄、立原道造と同時期に軽井沢に滞在していた。


明治・大正期に生まれ活躍した文士と、その中の室生犀星、堀辰雄、立原道造と正宗白鳥(赤で示す)

 立原道造は1939年に没しているので、軽井沢での正宗白鳥との直接のかかわりはないようだが、堀辰雄が軽井沢に最初の住まいを構えたのが1938年のことで、1941年には1412番山荘を手に入れ、以後、1944年(昭和19年)までは夏になるとこの山荘で過ごしている(当ブログ2017.11.10付参照)から、同時期に軽井沢の住人であったことになる。

 また、室生犀星記念館のパンフレットには次のような記載がある(当ブログ2017.10.13 公開)ので、交流のあったことが知れる。

 「この旧居は、昭和6(1931)年に建てられたもので、亡くなる前年の昭和36(1961)年まで毎夏をここで過ごしました。・・・この家には、堀辰雄・津村信夫・立原道造ら若き詩人たちが訪れたり、近くに滞在していた志賀直哉・正宗白鳥・川端康成ら多くの作家との交流もありました。・・・」

 この交流の具体的内容が、前記の「現代日本文学大系16・正宗白鳥集」に室生犀星が寄せた「正宗白鳥論」の中で次のように書かれている。

 「娘が結婚をするので正宗さんになこうど役をおたのみしようかという相談が、娘や息子や妻やむこの青木和夫の間で起った。堀辰雄君は臥ているし夫人も病勢によっては出席不可能かもしれないから、兎も角、正宗さんより外にはなこうどになって貰う人はいない。・・・
 ・・・その日にすぐ正宗さんをお訪ねして話をすると、私は殊更になこうど役を正面から切り出しもしない世間話のなかに含み込ませて、式も軽井沢で挙げ諸事簡単にやるつもりだと言ったが、有耶無耶の間にどうやら正宗さんは話が解ったらしく、若しご都合がお悪いようだったら出席していただかなくてもいいんですよと遠慮していうと、旅館は近くではあり暇もあるから出ますよと、もう話が決められて了ったように承諾してもらえた。・・・
 おなじ土地の旅館で式を挙げたが、なこうど役というものは末座にすわるようになっているから、正宗さんは先生は此方へとあんないする女中の言葉に、一番末座にきゅうくつそうなフロック姿を四角にたたみこむように座られた。・・・
 式が済むと一人でこつこつと冬の日の往還をかえって行かれるのを、私たちは旅館の玄関まで見送りに立った。肩の上がったフロックの背後姿は正宗白鳥の感じであるよりも、普通の田舎人の感じであった。・・・」

 「正宗さんと私の家は軽井沢でも、二十五分くらいかかる道のりだったが、戦時中、新聞は配達してくれないので販売店まで取りに行かなければならなかった。私の家からは近くであったが、正宗さんのお宅からは浅間下ろしの吹きさらしになっている長い街道を行かなければならず、その街道の冬はさえぎるものがないから、寒さは想像外のものだった。正宗さんは毎朝防空頭巾を深々とかむって、新聞を朝ごとに取りに行かれた。・・・
 防空頭巾といえばそれをかむって歩いていられるものだから、或る時、家で通いの縫物婆さんを雇っていて仕事をさせていると、そこに正宗さんが見えたので婆さんは驚いて、いまお宅に見えた方は一たい何をしている方でしょうか、と彼女は敢てたずねて素性の分らない一老人の身元をたずね、そこで人がらを説明するとそんなに名のある方だとは思わなかった、宅の前を変な格好をして毎日新聞を取りに行かれるものだから、何処で何をしている人かと皆で噂していたんですよ、そうですか、こちらの先生のようなお仕事で、先生の先生のような方ですかと、婆さんはあきれたふうであった。こういう不思議な思いをしていた人は軽井沢ではどれだけいたか分らない、・・・」

 軽井沢町公式HPの文学者プロフィールには、「戦後まもない頃、ニッカーボッカー姿で街を歩く正宗白鳥の姿は有名だった。」と紹介されていて、写真集「思い出のアルバム軽井沢」(幅 北光編 1979年 郷土出版発行)には旧軽井沢入り口を、帽子をかぶり、コート姿でとぼとぼ歩いて行く正宗白鳥の後ろ姿(昭和22年)と前からその姿を捉えた写真(同年)の2枚が掲載されている。

 この写真の頃書かれた小説「日本脱出」は軽井沢が舞台だとされていて、戦時中に山中にある別荘の地下室へ十人ばかりの戦争忌避者が集まって、世忘れの会を催すという小説である。室生犀星はこの「日本脱出」を引き合いに出して、「正宗白鳥は五年とか十年めくらいに、人の気を引きもどして白鳥を見直させるものを書かれていた。戦後の『日本脱出』がそれだ、そういう五年十年めに立ち直りを見せている波の起伏は、自然にそうなっているものか、勉強をしてそうなったのか、・・・」(正宗白鳥論 前出)

 ここで、前出書などから主に軽井沢との関連項目を中心に、正宗白鳥の経歴をたどると次のようである。

1879年(明治12年)3月3日 岡山県和気郡穂浪村(現在の備前市穂浪)に父浦二、母美禰の長男としてまれる。本名は、忠夫。
1892年(明治25年)13歳 9歳から通った隣村の片上村の小学校高等科から漢籍を主とする藩校閑谷黌(しずたにこう)に進む。
1894年(明治27年)15歳 近村香登(かがと)村のキリスト教講義所に通う。ついで、岡山市に寄宿し、米人宣教師経営の薇陽学院で英語を学ぶ。
1895年(明治28年)16歳 薇陽学院閉鎖に伴い故郷に帰る。
1896年(明治29年)17歳 上京を決意し、牛込横寺町に下宿し、東京専門学校(後の早稲田大学)英語専修科に入学。
1897年(明治30年)18歳 市谷のキリスト教講習所で植村正久・内村鑑三の影響を受け、植村正久牧師によりキリスト教の洗礼を受ける。
1898年(明治31年)19歳 東京専門学校英語学部卒業、さらに新設の史学科に入学。ローマ史に興味を持つ。
1899年(明治32年)20歳 史学科が廃止になり、文学科に編入。 
1901年(明治34年)22歳 文学科を卒業。早稲田の出版部に勤務する。この年、内村鑑三に対する畏敬の念を失い、「基督教を棄てた」と後年作成の年譜に自らの手で記載し、後に否定。
1903年(明治36年)24歳 「読売新聞」に入社。文芸・美術・演劇を担当した。
1904年(明治37年)25歳 処女作品となる「寂寞」を『新小説』に発表し文壇デビューする。
1907年(明治40年)28歳 本格的に作家活動に入り、1月に「漱石と二葉亭」、2月に「塵埃」を発表、文壇の新人として認められる。
1908年(明治41年)29歳 日露戦争後の青年像を描いた「何処へ」を『早稲田文学』に連載し、10月に貿易風社から刊行。自然主義文学に新分野を開き注目された。
1909年(明治42年)30歳 多くの作品を手がけ、最初の新聞小説「落日」を『読売』に連載。秋、京都に遊び、有馬、大阪を経て帰郷。
1910年(明治43年)31歳 6月、7年間勤めた『読売』を退社して、信州に遊ぶ。10月「微光」を『中央公論』に発表し、この時期の代表作として推称された。この年、森鴎外が「青年」を発表、なかの一人物大石路花は、自然主義の新人白鳥をモデルにしたものといわれている。
1911年(明治44年)32歳 甲府市の油商清水徳兵衛の二女つね(後につ禰、明治25年生まれ、19歳)と結婚、牛込矢来下天神町に住む。
1912年(明治45年/大正元年)33歳 伊香保を経て、軽井沢にはじめて行く。
1918年(大正07年)39歳 これまで毎年多くの作品を手がけていたが、この頃、人生に対する倦怠感が強まり、執筆難となる。
1919年(大正08年)40歳 10月、夫妻で伊香保に行き、京阪に遊び、11月帰郷。一時文学を捨て、都会生活を止めようとまで思ったりした。
1920年(大正09年)41歳 5月、郷里の生活にも堪えられず、伊香保、軽井沢で四、五ヶ月生活する。9月、「浅間登山記」を『人間』に発表。10月、大磯に移住。
1923年(大正12年)44歳 9月、関東大震災で家は半壊、生命の難は免れた。
1928年(昭和03年)49歳 11月下旬に、夫人同伴で、世界漫遊の旅に出発。
1929年(昭和04年)50歳 1月、米・仏・伊・英・独の各国を廻り、その紀行文を『読売』『大阪朝日新聞』『中央公論』などに寄稿。
1933年(昭和08年)54歳 東京洗足池畔に家を買い、大磯から転居。
1935年(昭和10年)56歳 外務省文化事業部の呼びかけに応えて島崎藤村・徳田秋声らと日本ペンクラブを設立。北海道、樺太、北支を旅行。
1936年(昭和11年)57歳 再び欧米旅行に出発、ソ連・仏・独・米の各国を訪れ、その紀行を『読売』や『中央公論』に寄せた。
1937年(昭和12年)58歳 ニューヨークで新年を迎え、2月に帰国。6月、帝国芸術院会員に推薦されるが辞退。
1940年(昭和15年)61歳 2月、財団法人国民学術協会理事となる。4月、弟の丸山五男の三男有三(昭和9年生まれ)を養嗣子とした。8月、軽井沢に小宅を建てる。再び勧められて帝国芸術院会員になる。
1943年(昭和18年)64歳 11月3日から1947年(昭和22年)2月12日まで日本ペンクラブ会長(2代目)。
1944年(昭和19年)65歳 8月17日、一家、軽井沢に疎開。
1946年(昭和21年)67歳 この年は『新星』などに多く書き、永井荷風とともに、大家の復活とみられた。
1949年(昭和24年)70歳 1月、「日本脱出」を『群像』に連載。8月、「日本脱出」を講談社より刊行。
1950年(昭和25年)71歳 3月、「日本脱出」後篇を『心』に連載。11月、文化勲章受章。
1957年(昭和32年)78歳 4月、軽井沢住まいをよして、大田区南千束に移る。
1958年(昭和33年)79歳 10月、「軽井沢と私」を『群像』に発表。
1960年(昭和35年)81歳 11月、「一つの秘密」を『中央公論』に発表。
1962年(昭和37年)83歳 3月、室生犀星の葬儀で、弔辞を読んだ。8月下旬、飯田橋の日本医大付属病院に入院。10月28日 膵臓癌による全身衰弱のため、同病院で死去。30日、大久保の柏木教会で、牧師植村環(18歳で受洗した時の、植村正久牧師の娘)の司式で葬儀。死後、終始クリスチャンでありながら、生涯棄教者を装っていたのではないかとされるなど、キリスト教への回帰をめぐり、論議さかん。11月、「一つの秘密」を新潮社より刊行。墓所は多磨霊園にある。
1965年(昭和40年)   7月、丹羽文雄の発案、ジャーナリズム、文壇からの醵金で、東京工業大学教授谷口吉郎氏の設計による十字型の「正宗白鳥詩碑」が軽井沢町に建立された。

 軽井沢町が発行している「軽井沢文学散歩(改訂新版)」の最初のページにこの美しい碑の写真が掲載され、目を引いている。

 旧軽井沢から碓氷峠に向かう旅人を宿の女人が送って二手に分かれたという二手橋を渡り左に川に沿って進むと、先ず室生犀星の詩碑が左側にあり、さらに少し進むとすぐ右の足下にこの碑の案内板がある。細いのぼり道を右にとり進むと、今は使われていないユースホステルの建物があり、これを過ぎて更に進むと道が大きくカーブするところに正宗白鳥詩碑がある。


今は大きな杉木立が詩碑のすぐそばに見られる(2017.10.8 撮影)


正宗白鳥詩碑周辺の様子(2017.10.8 撮影)


黒御影石で作られている十字型の詩碑(2017.10.8 撮影)


詩碑の横に設けられている説明板(2017.10.8 撮影)

この説明板には次のように書かれている。

 「この碑は、こよなく軽井沢を愛し、ここに居住した文士の一人である正宗白鳥が日常愛唱したギリシャの詩を、自筆で描き刻まれています。また、この文学碑に使用したみかげ石は、遠くスウェーデンから取り寄せ、碑の台下には故人愛用の万年筆が埋められています。碑は東京工業大学教授谷口吉郎氏の設計により昭和40年建立された。

 花さうび 花のいのちは いく年ぞ 時過ぎてたずぬれば 花はなく あるはたゞ いばらのみ 」

 ところで、正宗白鳥が住んだという六本辻の住まいとはどのようなもので、今はどうなっているのだろうか。室生犀星と堀辰雄の住まいは現在記念館として保存・公開されていて訪れる人も多い。軽井沢町のHPと書籍・軽井沢文学散歩をあたってみたが正宗白鳥の旧宅については何も書かれていない。

 そこで、地元の年配者に聞いてみると、六本辻のラウンドアバウトを雲場池の方に進んだところに、今も建物が残っているという。その場所に行ってみると次のような状況であった。


六本辻に残されている正宗白鳥のものとされる別荘1/3(2018.6.9 撮影)


六本辻に残されている正宗白鳥のものとされる別荘2/3(2018.6.9 撮影)


六本辻に残されている正宗白鳥のものとされる別荘3/3(2018.6.9 撮影)

 正宗白鳥が没したのは1962年のことで、現在すでに56年が経過している。没後にどのような形で管理されていたのかは不明であるが、今は荒れ放題で、全く管理されていないように見える。後を継ぐ方が誰もいなかったためであろうか。

 正宗白鳥が残した、詩碑に刻まれている詩が妙にこの住まいの現状を現しているように思えて心痛む思いである。

 <花さうび 花のいのちは いく年ぞ 時過ぎてたづぬれば 花はなく あるはたゞ いばらのみ>

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内田康夫さん

2018-04-13 00:00:00 | 軽井沢
 作家の内田康夫さんの訃報を新聞で知ったのは、大阪滞在中の先月19日のことであり、その日の新聞によると、内田さんは3月13日、敗血症のため83歳で東京都内で亡くなったとのことであった。

 内田さんといえば、我々軽井沢在住のものにとっては、TVドラマの「信濃のコロンボ」や、軽井沢を舞台とするいくつかの小説でもなじみ深い。また、1983年(昭和58年)からは軽井沢在住中でもあり、戦時中には長野市の戸隠に疎開するなど長野県にゆかりがあるといわれる。

 内田さんの小説に関して言えば、私自身はそれほど熱心な読者ではなかった。しかし、広島県の三次に単身赴任していたころ、同僚のTさんが寮で内田さんの作品ばかりを熱心に読んでいて、私もその中から何冊か借りて読んだことがあったし、当時はまだたまにしか会うことがなかった母も図書館で内田さんの作品を借りてきていたので、私も自然にいくつかの作品は読んでいる。それに、私の2人目の孫娘の名前はサクラコ(桜子)だが、同じ呼び名の女性”サクラコ(桜香)”を題材にした小説「風のなかの桜香」をその頃、偶然読んだということもあり、共感を覚えたことがあった。

 内田さんは、1934年(昭和9年)、東京生まれ、コピーライターやCM制作会社の経営を経て、1980年(昭和55年)に「死者の木霊」を自費出版してデビューしている。この小説は、TVドラマ化されている「信濃のコロンボ」シリーズ第一作である。

 また、主人公が旅先で事件に挑むベストセラーの「浅見光彦」シリーズの第一作は1982年(昭和57年)刊行の「後鳥羽伝説殺人事件」であるが、この作品の中では、私が赴任していた三次市のJR三次駅の跨線橋が出てくるという設定であった。

 多作でも有名で、同時にいくつもの作品を新聞や週刊誌に連載していたことがあって、書き始めるときにはまだストーリーの全体像が決まっていないのだが、書き進むうちに次第にはっきりとしてきて、最後はうまくまとめ上げることができるのだと、何かに書かれていたことを思い出す。

 その内田さんをしのぶ献花台が3月23日から4月23日まで、軽井沢町の「浅見光彦記念館」内の内田さんの書斎を再現した展示場に設けられ、ファンが別れを惜しんでいる。私も妻と今月開店したばかりの店の定休日を利用して、10日に献花に出かけたが、浅見光彦記念館も生憎の休館日(火曜・水曜日が休館日)であった。


軽井沢町塩沢地区にある浅見光彦記念館(2018.4.10 撮影)

 この浅見光彦記念館は、内田さんのファンクラブのクラブハウスとして、1994年(平成6年)に建てられ、2016年(平成28年)からは記念館として直筆の原稿やテレビドラマで使われた衣装などの展示を始めている。

 ここには、以前まだ新潟県の上越で仕事をしていた頃にも、母と妹2人と共に来たことがある。そのときも建物の前の駐車場には、浅見光彦の愛車「ソアラ」が展示され、運転席には内田さんの写真が置かれていたのであったが、今回行ってみると、そのときと同じ状態でソアラが展示されており、運転席からこちらを見つめる内田さんの写真姿にハッとさせられた。


展示車、初代ソアラに乗る内田さん?(2018.4.10 撮影)

今回は、さらにもう一台の2代目ソアラが玄関前に展示されていた。


玄関前に展示されている2代目ソアラ(2018.4.10 撮影)

 この2台のソアラの内部、助手席には次のような説明文が置かれている。

 浅見光彦が乗る初代ソアラ。ソアラの初登場は『「首の女」殺人事件』。それから多くの事件で旅をしてきた愛車だったが、「熊野古道殺人事件」において軽井沢のセンセに大破させられてしまい廃車となった。尚、事件後、ニューソアラを入手したため、愛車は変わらずソアラである。尚、展示のこの車は、内田康夫が実際に使用していたもの。(初代ソアラ)

 浅見光彦が乗る二代目のソアラ。初代ソアラは軽井沢のセンセに大破させられてしまったが、そのお詫びとして、ニューソアラがプレゼントされた(ただし頭金の一部を払ってくれただけだった)。新しいソアラは女性のように映るらしく、浅見は「愛しいソアラ嬢」と形容している。尚、展示のこの車は、内田康夫が実際に使用していたブルーイッシュシルバーメタリックの車体を白く塗装したもの。(ニューソアラ)


新旧2台のソアラ(2018.4.10 撮影)

 前回2009年に、ここを訪れたときには、ちょうど特別企画展「後鳥羽伝説殺人事件」展の最終日であった。案内板に書かれているのだが、その時は内田さんの自筆原稿も展示されていた。


特別企画展「後鳥羽伝説殺人事件」展の案内板(2009年6月29日 撮影)

 展示室にはその他にも常設の展示品があり、浅見光彦の乳歯が、母親の雪江夫人から特別に借りたという説明文付きで展示されており、笑いを誘っていた。


浅見光彦の乳歯展示(2009年6月29日 撮影)

 1階の売店では、内田さんのサイン入りの著書などの販売もされていて、母は何か一冊記念に買い求めていた。


1階の売店ではサイン入りの書籍が販売されている(2009年6月29日 撮影)

 今回、献花に訪れたときには内部に入ることができなかったが、玄関脇には2月1日から6月25日まで開催中の特別企画展「内田康夫夫妻と愛犬キャリー」の案内ポスターがあり、妻で作家の早坂真紀(本名・内田由美)さんと一緒の内田さんの生前の姿が愛犬の姿と共に掲示されていた。


企画展「内田康夫夫妻と愛犬キャリー」の案内ポスター(2018.4.10 撮影)

 この浅見光彦記念館から少し離れたゴルフ場の近くの道路沿いには、内田由美夫人が開いている林の中のティー・サロン「軽井沢の芽衣」がある。

 私も2009年に母と妹達と訪れて以来、その後も何回か利用させていただいたが、緑の美しい季節にはとても気持ちよく過ごせる場所にある。


緑に囲まれたテラス席でお茶を楽しめる「軽井沢の芽衣」(2009年6月29日 撮影)

 今回訪ねてみると、お店はオープンしていたが、まだ周りの緑がほとんどなく心なしか寂しい雰囲気であった。


ゴルフ場の間を通り抜ける道路沿いにある「軽井沢の芽衣」の看板(2018.4.10 撮影)


「軽井沢の芽衣」の現在の様子(2018.4.10 撮影)

 内田さんは、2015年(平成27年)7月に脳梗塞で倒れ、リハビリに励んだが2017年3月、小説の休筆を宣言し、浅見シリーズ114作目の「孤道」を未完のまま出版、同作の完結編を公募し、4月末に締め切りが迫っている。

 この完結編が誰の手によって書かれ、どのような内容になるか、興味深い。

 謹んで内田さんのご冥福をお祈りする。



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