まっしゅ★たわごと

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続・佐村河内事件

2014年02月09日 00時42分18秒 | 音楽
FBで知人が某音楽家氏の書かれた文章をシェアしていたので読んでみた。いろいろと共感するところと思うところがあったので書いてみることにする。
http://www.morishitayui.jp/samuragochi-niigaki/

この記事の中で筆者氏は「常に轟音の鳴り響く中で霊感の降臨を待って作り上げた物」に対する違和感を語っている。私は「常に轟音の鳴り響く中で霊感の降臨を待って作り上げたこと」に対して、幾度も幾度も想像した。『本当にそんなことが可能なのか』と。何度考えても私の思考は途中で停止した。この事件の第一報を知った時はもちろん驚愕したが、その次の私の感想はと言えば「ホッとした」というのが本当のところである。

『本当はそんなことは起こっていなかった』のだから。

更に言えば、次第に全容が明るみになるにつれて私の安心感は増して行ったのである。あの耽美的な美しい旋律や情動的に激しいパッセージは心優しき魂によって作られたのだと思ったからである。

20世紀に入って新たなシンフォニーの創作行為が事実上止まってしまい、21世紀に至っては殆どと言って良いほど作られなくなってしまっているのは既知の事実である。筆者氏が語る「使い古された書法も聞き飽きた調性の世界もつまらない」もまた作曲界に於いての真実であろう。だがしかし、聴衆は新しい感動を期待しているというのもまた事実だと思う。現に新たな旋律美を見つけた多くの聴衆たちが甘い蜜に群がる虫たちのように飛びついたのだ。

新垣氏が「自発的にあのようなタイプの作品を書くことは不可能だった」のであれば、今後「依頼主からの受注生産を続ける」という行為としてのクラシック音楽の創作活動の場が増えることを期待している。新垣氏だけでなく、他の作曲家さんたちによるものでもいい。「映画やアニメ、ゲームのBGMとして発注された曲」ではなく、たとえそれが「クラシック音楽のシンフォニーとして依頼主から発注された曲」だとしても私は聴きたいと思っている。

作られた曲に罪は無いと思うし、事件後もあの音楽は聴いている。いや、これからも聴き続けていきたいと思っているし、新たなシンフォニーがこれからも生まれ続けて欲しいと思っている。


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