まっしゅ★たわごと

街歩き、建築、音楽、フランス、それに写真の話題を少々

映画「ダ・ヴィンチ・コード」を見た!

2006年06月03日 21時19分33秒 | フランス

「パリ歩き倒し」からちょうど1ヶ月が経つためパリの記憶が新鮮なうちにと思い、早速話題の映画を鑑賞してきた。梅田では3つの映画館で上映されていて、私はそのうちのHEPナビオに赴いた。数あるスクリーンのうち3つのスクリーンで上映されていたにも関わらず、10時半頃に劇場を訪れた私は希望の時間での料席は確保できず、16時過ぎのやや前目の席で妥協せざるを得なかった。

肝心の映画評はというと、ちょっと複雑な心境なのだ。

  こ
  の
  先

  ネ
  タ
  バ
  レ
  有
  り

  未
  見
  の
  方
  は

  ご
  注
  意
  を

ガラスのピラミッドやカルーゼル橋や街の風景の中に見えてくる市交通局のバスの側面などを見ると「おぉ!」と思うし、原作内で「サンラザール駅からリール行きの」と書かれていたものが「北駅からブリュッセル行きの」と修正されているのにはアイディアの跡が見て取れるし、銀行の暗証番号やクリプティクスのストーリーを簡潔にして上映時間を150分にまとめたのも称賛に値するものだとは思う。

また、制作陣自ら公言していたようにラストこそ原作と同じではあったが、そこに至る過程の中の特に必要性を感じられない部分(特にファーシュのくだりがイマイチ!)で無意味な脚色がされており、前評判の割には今ひとつ手放しで「面白い!」と評している人に巡り合えない理由がわかるような気がするのだ。

だが、それ以上にこの映画の中でことごとくカットされていたあるモノによって、原作そのものに漂う独特の雰囲気が損なわれてしまっているように思えた。一体何か?原作の中で、まるで通奏低音のように描き込まれている「人間愛(または慈愛・慈悲など)」である。

キリスト(人間?神?預言者?)とマグダラのマリア(娼婦?嫁?)との愛のカタチがこの物語の主要なテーマになっているにも関わらず、この小説には「人間が人間に」注いでいる愛の姿が綿々と挿入されているのである。

それは「アリンガローサがシラスに」「ファーシュがアリンガローサに」「コレ警部補がファーシュに」「ソニエールがソフィに」「ソフィがラングドンに」と原作では描かれていたように思う。善人悪人や男女の区別ではなく無く、また神と人間の間におけるそれでもない。

例え、いくらラストが原作と同じであっても、これらが無視されているどころか、むしろそれらのほとんどのシーンを「怒り」や「憎しみ」や「哀れみ」に転化させてしまっているところに、この映画の中の救いがたい問題点が潜んでいるように思えた。