とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

夏目漱石作「倫敦塔」読書メモ

2023-04-17 09:19:39 | 夏目漱石
 「倫敦塔」は明治38年1月雑誌『帝国文学』に発表された。同じ月に『吾輩は猫である』の第一回と「カーライル博物館」も発表されている。『吾輩は猫である』が戯作調であるのに対して、「倫敦塔」は写生的であり、時には美文調である。

 内容はエッセイ風である。自信がロンドン留学中に「倫敦塔」を見物に出かけたことを語り聞かせるとう内容である。おそらくその時の感想を書いたものであろう。だから語り手は「余」である。「余」とは漱石自身であるように読者は読む。しかし後で加えた解釈によって虚構の部分も多く含んでいる可能性もある。

 語り手は、
「『塔』の見物は一度に限ると思う。」
と言う。なぜか。おそらく語り手が「倫敦塔」の歴史の悲惨さを想像し、その想像した情景に苦しめられたからであろう。

 語り手はこうも語る。
「倫敦塔は宿世の夢の焼点の様だ。」
 これは次のように説明される。
「倫敦塔の歴史は英国の歴史を煎じ詰めたものである。過去と云う怪しき物を蔽える戸張が自ずと避けて龕中の幽光を二十世紀の上に反射するものは倫敦塔である。すべてを葬る時の流れが逆しまに戻って古代の一片が現代に漂い来れりとも見るべきは倫敦塔である。人の血、人の肉、人の罪が結晶して馬、車、汽車の中に取り残されたるは倫敦塔である。」
 つまり「倫敦塔」は英国の歴史のシンボルなのである。しかもそれは「死の歴史」である。「倫敦塔」を見物する語り手は英国の歴史の中に放り込まれ、英国の歴史に押しつぶされそうになる。そのために「余はこの時既に常態を失っている。」のだ。

 余は「中塔」から見物を始める。次は「鐘塔」を紹介する。「鐘塔」は歴史の多くの瞬間にならされてきた。その鐘の音は永遠の中に閉じ込められている。これは芭蕉の
「閑けさや岩にしみいる蝉の声」
の句を思い起こさせる。

 次に「逆賊門」を紹介する。名前からして恐ろしげだが次の説明を聞くともっと恐ろしくなる。
「古来から塔中に生きながら葬られたる幾千の罪人は皆舟からこの門まで護送されたのである。彼らが舟を捨ててひとたびこの門を通過するやいなや娑婆の太陽は再び彼らを照らさなかった。」

 「血塔」に行く。「草の如く人を薙ぎ、鶏の如く人を潰し、乾鮭の如く屍を積んだのはこの塔である。」と説明されるのですでに恐ろしい。

 さてここで余は幻想を見る。その後、余は歴史的事実やシェークスピアの作品に基づいた幻想を見ることになる。この幻想こそが、この小説が小説たらしめている。これがなければただの旅行記にすぎない。今自分が見ているものの中に、歴史の幻影が見えて来るのである。作者の手腕はここに発揮される。

 見えてくる幻想はシェークスピアの『リチャード3世』のようだ。今見ている風景の中に舞台が見えてくるのである。その空想も「時計の音と共に敗れる。」

 「白塔」に行く。ここではヘンリー4世の幻影が現れる。

 「ポーシャン塔」に行く。中に「仕置場の跡」がある。これは処刑場という意味なのだろう。ここはポーシャ塔に囲まれた屋外のようだ。青天が見える。処刑の場面の幻想が襲ってくる。カラスが飛んでくる。そこに「傍らに七つばかりの男の子を連れた女が立って鴉を眺めている」。女は男の子に「あの鴉は五羽居ます」と云う。これが謎めいたセリフなので、何か意味があるように語り手は感じる。読者は怪しい雰囲気を覚える。

 語り手は「倫敦塔の歴史はポーシャン塔の歴史であって、ポーション塔の歴史は悲酸の歴史である。」と言い、さらに恐怖をあおる。語り手の悲酸な歴史の想像は広がる。一階室に「百代の遺恨を結晶したる無数の記念を周囲の壁上に認ぬる」と、鉄筆で壁を掘って書かれた文字を紹介する。これも悲惨な歴史による死者の怨念を感じさせる。

 死者たちの魂は倫敦塔の恐怖を高めていく。余は悲酸な過去を想像し恐怖感を高めていく。首切り役の歌まで登場する。語り手の幻想はどんどん膨らむ。語り手は幻想の中で苦しめられる。「自分ながら少々気が変だと思」いながら、「無我夢中に宿に着」く。

 しかし、最後に種明かしがされる。語り手の恐怖の空想は実はそんなに深い意味があったわけではない。例えば女性が語った鴉は奉納の鴉であり、五羽と決まっているので、不足すると足すのだということがわかる。鉄筆の文字はほとんどがいたずら書きだったようだ。意味ありげだったものが、特別な意味があったわけではないという落ちなのだ。これではまるで落語である。

 事実と、語り手の心の乖離が明かされる時、何か別の効果が表れているようだが、そこに作者の意図があるのではないか。その意図を考える必要がある。

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市川左團次さんのこと

2023-04-16 18:18:10 | 社会
市川左團次さんが亡くなった。豪快で器の大きな歌舞伎役者らしい役者だった。残念だ。

私が歌舞伎を見始めたのは大学生のころ、1980年くらいからである。左團次さんを襲名したのは1979年なので、私にとってずっと「左團次さん」だった。もうこんな人はめったにいなくなってしまった。

左團次さんの演技は豪快だった。役になりきるというよりは、左團次さんがそのままその人になってしまうという印象だった。それがいい。器用さは少しかけていたかもしれないが、左團次さんそのものがいいのである。貴重な役者だった。

裏表がないのでみんなに慕われたのだろう。テレビのバラエティに出ても、特に何かをするわけではないのに、やはり話がおもしろい。人柄がよかったのだ。

私が見てきた歌舞伎役者はだんだん年をとり、亡くなる人も多くなった。若い役者はいい役者が多いが、しかし何かが物足りない。歌舞伎が歌舞伎として生き残るために今、がんばりどころのように感じられる。
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映画『AIR エア』を見ました。

2023-04-15 05:29:28 | 映画
NBAのスーパースター、マイケル・ジョーダンと契約するためにナイキがどういう努力をしたのかを描く映画『AIRエア』を見ました。現代的な攻めのビジネスが刺激を与えてくれる映画です。

当時のナイキは陸上のシューズには強いがバスケットシューズに関しては3流企業でした。コンバースやバスケットに関しては新興のアディダスに後れをとっています。そんなナイキがバスケットシューズでシェアを獲得するために、新人の一流選手と契約しようとします。まずはそこでマイケル・ジョーダンを選ぶ目を持っていたことが成功の第一歩でした。

次にナイキを快く思っていなかったジョーダンと契約するために、シューズの色のルールを逸脱し、違反してもその罰則金をナイキが支払うという手にでます。これには賛否両論あるだろうと思われます。日本人ならばルールはルールだと非難轟轟でしょう。しかしこれをやってしまうのがアメリカです。ルールを変えても前に進もうとするビジネスの力を感じます。北海道の新球場の問題もこれに近いもののようにも思えます。

最後に大きなハードルが待っています。マイケルの母親からシューズの売り上げの一部をマイケルの収入にするような提案がなされます。当時はそういう契約はありえなかったのです。しかしそれを認める決断をします。これによってそれ以降の超一流アスリートはビジネスの主人公となり、莫大な収入を得ることができるようになります。スポーツが巨大ビジネスへと変貌したのです。この歴史的な変革をどうとらえるかは人それぞれです。しかし現代のスポーツビジネスの巨大化はここにあったことがよくわかります。

ナイキの宣伝映画のようにも感じますが、攻めの生き方を学び、今後の自分の生き方を考えさせられる映画でした。
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三谷幸喜作『笑の大学』を見ました。

2023-04-10 15:21:49 | 演劇
 三谷幸喜作の演劇『笑の大学』を仙台市・電力ホールで見ました。戦時下だからこそ、権力に屈せず笑いを描こうする喜劇作家の心意気が、見るものを泣かせ、感動を与える素晴らしい芝居でした、

 戦時下の日本。国民の娯楽である演劇は、警察に台本の検閲を受けなければならなかった。瀬戸康史演ずる劇作家、椿一は、内野聖陽演ずる担当警官・向坂睦夫に無理難題を投げかけられ何度も書き直しを命じられる。しかし椿はその無謀な条件をクリアしつつ、より笑える芝居へと書き上げることで自己の心意気を示す。しだいに向坂は椿の姿に共感を覚えるようになる。しかし、向坂には召集令状が届いてしまう。

 真摯に議論を重ねて次第にお互いを尊重していく二人の姿が感動を呼びます。国家の力よりも人間の共感のほうが強いものであり、そんな人間の力こそが戦争よりも大きいと感じさせてくれます。

 同時に喜劇の持つ意味の偉大さに感動させられます。喜劇を書き続けることが三谷幸喜の信条であり、それこそが平和な世の中を作ることだと考えているのだと思います。三谷さんの心意気に感動してしまいます。

 二人芝居であすが、二人の熱演もすばらしい。この二人も超一流の「喜劇役者」でした。
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映画『ワース 命の値段』を見ました。

2023-04-09 10:15:30 | 映画
9.11アメリカ同時多発テロの被害者遺族への補償金を分配するという仕事を引き受けた弁護士を描く映画『ワース 命の値段』を見ました。苦しい仕事であるのは予想がつく。しかしそれは大きな価値のある仕事です。それを成し遂げる人間の苦悩がいたいほどわかる映画でした。

弁護士のケンは、同時多発事故の被害者遺族への補償金を分配する困難だとわかっている仕事を引き受けます。対象者は約7000人。ケンはこの困難な仕事をできるだけ公平におこなうために、例外を認めないという方法に固執します。私がそういう仕事をするとしてもそうしているでしょう。例外はひいきです。そんなひいきをしてはいけないと考えるからです。

しかしうまくいきません。被害者遺族は納得しません。自分の個別の事情を訴えます。ケンは最初はそれを無視しようと努力していたのですが、補償金の申し込み者が少ないことによって追い詰められていきます。自分のやり方のなにがいけなかったのか、苦しい日々を過ごすことになります。

ケンのやり方は正当なものです。しかし遺族の主張も正当なものなのです。遺族によりそった解決策を見つけるのが本来のケンの仕事だったということに気が付きます。遺族の主張には聞けないものもあります。しかしその主張を政府や自治体に伝え、交渉することはできるはずです。

ケンの努力を人々は認め、補償金の申し込みは締め切りまじかになって9割を超えます。

人の命に値段はつけられないのは当たり前です。しかしそれでは前に進めません。とは言え機械的に人の命を扱うわけにもいきません。だからこそ人間の力が必要なのです。AIの時代だからこそ人間の力を信じなければいけません。

仕事の意義を見つめなおすきっかけになる、いい映画でした。
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