とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

「フィギュアスケート・全日本選手権女子フリー」

2017-12-24 08:33:55 | スポーツ

 テレビで フィギュアスケートの「全日本選手権女子フリー」を見ていた。ほとんどが10代の選手で、その中で真剣に戦っている姿は感動があった。それぞれの選手に様々な心の動きがあり、それが同時進行しながら時間とともに変化していく状況は、言葉にならないドラマがあった。

 宮原知子さんはケガからの復帰であり、その中でほぼ完ぺきな演技ができた。日本のエースとしての存在を示してくれた。

 坂本花織さんは無邪気で天真爛漫な雰囲気がする。ジュニア時代からの逸材であり、これから伸びそうな予感をさせる選手だ。

 紀平梨花さんは、才能は抜群である。あきらかに次代の世界チャンピオン候補だろう。

 樋口新葉さんは、今回ちょっとしたミスがあったが、精神的な強さを感じさせる選手である。
三原舞依さんはショートのミスを取り返すすばらしい演技をしてくれた。

 本郷理華さんは身長が高いのでジャンプに苦労したのであろうが、その分表現力を磨き、独自の世界を表現していた。

 本田真凜さんは表現力はすばらしい。しかも華がある選手だ。

 すばらしい戦いを見ることができた。すべての選手に拍手を送りたい。
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感覚の形容詞はネガティブ?(「折々のことば」より)  

2017-12-23 09:59:00 | 折々のことば
 今日の朝日新聞の「折々のことば」で日本語学者の森山卓郎さんのおもしろい発見が紹介されている。

 感覚について言えば、不平不満が「形容詞」には渦巻いているようでもある。(森山卓郎)

 色名は無数にあるのに、まずい、辛い、苦い、酸っぱいなど、味覚を表す形容詞は意外に少ない。昔の人は素材をそのまま食し、どうもいけない、というヤバい味をおもに「○○い」と表現したからではないかと日本語学者は推理する。痛いや痒(かゆ)い、暑いや寒いもそう。感覚とは微(かす)かな異変の察知のことを言うのかも。連載エッセー「日本語ノート」(「船団」第115号)から。(鷲田清一)


 「快」の状態は当たり前なので「言葉」にならないが、「不快」な状態は当たり前でなくなるので、他者に伝えたくなる。なるほど、言われてみればその通りかもしれない。
 
 それをさらに発展されれば、人間が話し合うということは、「不快」を訴え合うためなのかもしれない。そう考えれば人をほめるという行為は本来的な人間の活動とは違う。意識的に行わなければならない行動である。逆説的に言えば、だからこそ、人間的な行為なのかもしれない。

 
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大掃除はむずかしい

2017-12-23 09:45:53 | お題
 年末に大掃除をするというのは、新しい年を身を清めて迎えるという意味でいいとは思うのです。しかし私は雪国に住んでいるので、この時期の大掃除はかなりむずかしいことです。昔はこの時期にやっていたのですが、やっぱり無理だと感じるようになりました。水が冷たすぎますし、窓ガラスなども外から拭くことができないのです。

 ではいつならばいいのでしょうか。夏は逆に暑すぎて大変ですし、3月の年度終わりにというのは仕事が立て込んで無理です。ということは結局、いつも理由をつけて大掃除をさぼろうとしているだけなんですね。

 結局ぐうたらなだけなんです。
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スポ少や中学校の部活動はなんとかならないのか

2017-12-20 16:47:31 | 教育
 スポーツ少年団や中学校の部活動は、昔は学校の教員が指導し、放課後や土日だけの活動であった。これはこれで教員の負担になり、やりすぎではあったが、そんなにお金もかからずに、保護者が出る幕もなかった。

 しかし私の住んでいる地域だけの話なのかもしれないが、最近は違ってきている。スポーツ少年団や中学校の部活動は学校単位の団体でありながら、運営は保護者にまかされている。だから夜、遅くに学校の体育館を保護者会が借りて保護者の責任のもとに活動することになる。学校としては基本的にはノータッチという立場をとれるのである。これはこれで教員の負担はなくなるという長所もある。しかし問題なのは保護者の負担が大きくなってしまうということである。夜の活動であるために、保護者が必ず送り迎えしなければならないのだ。熱心の保護者ならばいいが、そこまで熱心でない場合、あるいは金銭的に苦しい場合、もしくは片親で送り迎えが困難な家の場合、不可能になる。さらにそこに熱心な保護者とそれほどでもない保護者の溝ができてしまい、人間関係が大変になってしまう。なによりその犠牲になるのは子どもたちなのだからたまったものではない。

 こんなにいびつになってしまうがために、高校に来ると部活動なんかしたくないという生徒が多くなる。部活動をさせたくない親だって増えてきているのだ。

 たとえ部活動をやりたいと思っても、あまり充実感を得られない生徒が増えている。この事情はこうである。部活動が2極化し、一方では勝つことが義務づけられたような強豪校も出現し、一部のエリート部員はひたすら強くなっていく。そういう生徒はいい。しかし一方では大半は普通に部活動をしたい生徒である。楽しくやれればいい。ところがその程度の考えの生徒は当然試合には出られないか、弱小校での活動になってしまうので、試合で勝つ喜びも味わえなくなり、やっている意義をみいだせなくなってしまうのだ。学校教育はスポーツを嫌いにさせてしまっているのが現状なのだ。

 学校の課外活動にとっての早急な思い切った改革が必要である。
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イルミネーションなんて「やめればいいのに」

2017-12-19 18:54:29 | お題
 イルミネーションについて思い出したことがあったので、「お気に入り」ということではないが書かせてもらいたい。

 10年くらい前に、仙台の県民会館で大貫妙子と坂本龍一のコンサートがあった。坂本龍一のピアノで大貫妙子が歌うコンサートだった。12月である。当然、仙台の光のページェントが話題になった。その時、坂本龍一が
 「やめればいいのに、資源の無駄だ。」
という趣旨のことを言ったのだ。なんてカッコいいんだろうと思った。

 今はなんでもかんでもほめなければいけない時代だ。その時に信念に従って自分の意見を言うことができるというのは、すばらしいことだと思った。

 その後、大震災が起こり、節電の数年があった。そしてその数年をすっかり忘れたような最近のバブル傾向になった。

 今、私が「イルミネーションなんてやめればいいのに。」なんて言えるだろうか。言ってみたいけど言えないんだろうなと思うと、いやになってしまう。
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