4『焦点人物』
「語り」についても大きな変化がある。これまでの漱石の作品は語り手が一人称であれ、三人称であれ、焦点となる人物は特定していた。
例えば『吾輩は猫である』は「吾輩」が語り手となる一人称小説であり、焦点はもちろん「吾輩」にある。それに対して『三四郎』は三人称小説であり、語り手は小説内の世界の人物ではない。だから本来ならば誰に焦点をあててもいいのであるが、基本的には「三四郎」だけに焦点があてられる。つまり「三四郎」の心の中だけは描かれるが、他の登場人物の心の中は描かれないのである。
大きな変化が現れたのは、後期三部作である。後期三部作の作品に於ては、語り手が交代するという方法がとられた。例えば『こころ』では、上と中の「私」と下の「私」は違っている。つまり一人称小説でありながら、語り手が交代することによってそれぞれの語り手の心の中が描かれるのである。
そして『明暗』では三人称小説でありながら、語り手は何人かの登場人物に対して焦点化を行い、複数の心理描写を可能にしている。それによって心理戦が描くことができたのである。
漱石の進化がうかがえる小説であり、その意味でもこの小説が未完でおわったことが残念である。
5『温泉場』
津田は病気療養という建前で、温泉場に行く。本当の目的はそこにいるかつての恋人清子に会うためである。この温泉宿のシーンが『草枕』を思い返される。似ている要素がありすぎるのである。
・旅館は広くて迷路のようである。
『草枕』でも同じように迷路のような宿で迷いそうになっていた。
・風呂に入ると女性が入ってきそうになる。
『草枕』では那美が画工の入っている風呂に堂々と入ってきている。
・旅館に鏡があり、その鏡に写る自分の姿に驚く。
『草枕』では宿では特別鏡は出てこないが、床屋のシーンで鏡が出てくるし、「鏡が池」に飛び込む女が手鏡をもっていたことも印象的に描かれている。
『草枕』では那古井は異空間として描かれている印象を与えている。温泉郷というのはそういう幻想を与える場所である。『明暗』でも異空間という印象を与えつつあった。そこに出てくるのが清子であり、異空間であるからこそ清子との関係に何かが起きそうな予感もする。さらにはお延も登場しそうだし、小林だって出てきそうな予感がする。まだまだこれから何が起こるか楽しみだ、という所で『明暗』は終わっているのである。
『草枕』はこのような異空間からスピード感ある展開で抜け出し、現実の世界に戻ってきたところで終わる。『明暗』はどこに行こうとしていたのか、想像するだけでも楽しくなる。
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