とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

古典の参考書第1回 「男もすなる」3

2021-12-27 13:35:54 | 国語
〔「男もすなる日記」の「も」は不自然である〕

 「男もすなる日記」の「も」は不自然に感じられる。普通に考えれば「男のすなる日記」という表現が適当である。
「男もするという日記というものを、女もしてみようとするのである。」
よりも
「男がするという日記というものを、女もしてみようとするのである。」
のほうが、自然な日本語である。なぜ「も」が使われたのであろうか。

 これを疑問に感じたのは国語学者の小松英雄氏の考察があったからである。小松氏は『古典再入門』(笠間書院)で「をむなもしてみん」には「をむなもじ(女文字)」という語が隠されていると指摘している。和歌には掛詞という技法があり、特に紀貫之が選者のひとりであった古今和歌集は掛詞が多用されている。ここでも掛詞のように「女文字」という言葉が隠されていたのだという指摘である。もちろん「女文字」とは仮名文字のことである。なるほどと感心させられる。

 さらに小松氏は「をとこもすなる」という不自然な言い回しに「をとこも(じ)(男文字)」という語が隠されていると言う。小松氏のこちらの指摘は私には無理があるように思われる。

 現存するものを間違いのないものとして解釈するのが解釈の基本的なルールである。「男もすなる」は「男もすなる」という表現が正しいものとして解釈しなければならない。だとすると「男もすなる」の「も」にはどういう事情があるのであろうか。私の思い付きの考えを紹介するのは気が引けるが、ここで紹介させていただく。
 
 「男もすなる」がある以上、その前に「(誰か)のする日記」があるはずだ。それが省略されたと考えるのが自然である。この「誰か」はおそらく公的な記録文書を書く人である。当時、宮中では当時公的な記録文書が書かれていた。それを真似て私的に日記を書いていた男がいた。だから「男も」と「も」を使っているのだ。「公人」ではない「男」という意味で「男」が使われたのである。

 つまり、
 「(宮中では公的な日々の出来事の記録として『日記』というものかれているそうだ。それを真似て)男の人も私的な『日記』を書いているという。その『日記』というものを女の私も書いてみようと思って書くのです。」
というのが冒頭の文の意味であるというのが、私の解釈である。

 この思い付きいかがであろうか。やさしいご批判をいただければ幸いである。

 1回目ということで調子にのっていらないことまで書いてしまったかもしれない。いずれにしてもいずれにしても、土佐日記の冒頭文はいろいろと考えさせられる。まずは暗唱し、文法を説明できるようになってもらいたい。そのあと、文学史的な意味を考え、古文の世界への幹を作っていただきたい。
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