〔定番「羅生門」〕
芥川龍之介の「羅生門」は高校の国語の教科書の定番である。しかし意外にも教科書に最初に収録されたのは1956年だということだ。戦前には「羅生門」は収録されていない。1956年から60年余り過ぎ、「羅生門」は「定番」となった。いまや収録していない高校の教科書はほとんどない。もちろん収録しないと採用しないという高校の国語教師のわがままが最大の原因ではあるが、それでも「羅生門」がここまで生き残った理由はその作品自体に国語教材の力があるとも言えるはずである。
「定番」であるために指導方法も「定番」になりがちだ。60年もたっているということは、現在の高校の国語教師のほとんどが自分も高校時代に学んでいる。すると自然に教自分が学んだように教える。だから指導法も同じにならざるを得ない。無批判に60年前の指導法が現在も行われていることになる。現実にそれはあたっていなくもない。指導法に工夫して新たな授業を取り組んでいる教員もいるが、多くの教員はオーソドックスな方法で授業を展開する。
これはあまりいいことではない。時代にあった指導法を研究すべきだ。「オーソドックスな方法」が果たしていい授業なのかは検証が必要なはずなのに、しっかりとした検証が行われていない。
そもそも本当に「国語」という教科が必要なのだとすれば、「国語」においてどういうことを学ばせるかのしっかりとした骨格がなければいけないはずだ。ところが骨格というものなどない。実際には「国語」は何を教え、何を学ぶべきかが明確になっていないのだ。だから一度方法が定着してしまうと、ただそれを繰り返すだけになってしまう。定番教材というのはそうなりやすい。
ただし教師側の立場に同情する余地はある。問題は現在の教師には教材研究するような時間的なゆとりがないのだ。現実には1年の最初のほうの教材であると、他の事務処理に追われて教材研究に時間をさくことができず、しょうがなく「定番」に頼ってしまうというのが実情であろう。すると当然のごとく「オーソドックス」な方法にならざるを得ないのだ。
今年度私は「羅生門」を3年ぶりに授業で扱った。様々な試行錯誤をくり化してみた。結果的に少しだけ変化した授業をおこなった。その授業について紹介していく。
芥川龍之介の「羅生門」は高校の国語の教科書の定番である。しかし意外にも教科書に最初に収録されたのは1956年だということだ。戦前には「羅生門」は収録されていない。1956年から60年余り過ぎ、「羅生門」は「定番」となった。いまや収録していない高校の教科書はほとんどない。もちろん収録しないと採用しないという高校の国語教師のわがままが最大の原因ではあるが、それでも「羅生門」がここまで生き残った理由はその作品自体に国語教材の力があるとも言えるはずである。
「定番」であるために指導方法も「定番」になりがちだ。60年もたっているということは、現在の高校の国語教師のほとんどが自分も高校時代に学んでいる。すると自然に教自分が学んだように教える。だから指導法も同じにならざるを得ない。無批判に60年前の指導法が現在も行われていることになる。現実にそれはあたっていなくもない。指導法に工夫して新たな授業を取り組んでいる教員もいるが、多くの教員はオーソドックスな方法で授業を展開する。
これはあまりいいことではない。時代にあった指導法を研究すべきだ。「オーソドックスな方法」が果たしていい授業なのかは検証が必要なはずなのに、しっかりとした検証が行われていない。
そもそも本当に「国語」という教科が必要なのだとすれば、「国語」においてどういうことを学ばせるかのしっかりとした骨格がなければいけないはずだ。ところが骨格というものなどない。実際には「国語」は何を教え、何を学ぶべきかが明確になっていないのだ。だから一度方法が定着してしまうと、ただそれを繰り返すだけになってしまう。定番教材というのはそうなりやすい。
ただし教師側の立場に同情する余地はある。問題は現在の教師には教材研究するような時間的なゆとりがないのだ。現実には1年の最初のほうの教材であると、他の事務処理に追われて教材研究に時間をさくことができず、しょうがなく「定番」に頼ってしまうというのが実情であろう。すると当然のごとく「オーソドックス」な方法にならざるを得ないのだ。
今年度私は「羅生門」を3年ぶりに授業で扱った。様々な試行錯誤をくり化してみた。結果的に少しだけ変化した授業をおこなった。その授業について紹介していく。
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