本の読み方の設計図。

本の構造を明らかにしていく。
論拠・主張

論証=事例、引用。

<私>の可能性 ① : その後@3

2006-01-20 00:00:00 | その後
ニヒリズム―その概念と歴史〈上〉

理想社

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ここでは、私という概念の可能性を探求して行きたい。1/25日に提出した卒業論文での議論をさらに拡張させ、今を生きる私たちに応用するという試みがこの「<私>の可能性 」である。このブログでのジャンルが、ビジネスの中のスキルという区分となっているのも、哲学というものを実生活に役立てるという、役立ちうるということを証明しようという私のライフワークのマニフェストである。

さて、以下、卒業論文での議論に加筆修正を施したものである。
まずは、サルトルという人物の哲学思想が、いかに、今を生きる私たちに応用されうるかということを見る前に、今と時代の気分をみておこう。

【ニヒリズム、神なき時代を克服するサルトル思想】

 サルトルが対自-即自をして自己原因者たらしめるにいたった神なき時代の実相というものを見ていこう。サルトル自身は、「1848年。王政の瓦解によって、ブルジョワジーは自分をも守ってくれた『覆い』を奪い去られる。一挙に<詩>は、その伝統的な二つのテーマ、すなわち<人間>と<神>とを失う。」 (J-P・サルトル,平井啓之,渡辺守章(訳)『マラルメ論』中央公論社,1983年,27頁)というように、1848年の二月革命によりナポレオンが大統領として即位したことを「神なき時代」の幕開けとして捉えているようだが、ここでは、哲学の範疇でそれを捉えられればと思う。
 
 【ニヒリズムの概念】

先の(ここも、次以降のブログを参照人されたい)サルトルの「神なき時代」の引用から見えることはどういうことであろうか?神なき時代が意味するところは、これまで頼りにしてきた価値観が崩壊を意味するということはいうまでもない。「神の喪失はニヒリズムの問題を提起する。その根底には根拠の喪失がある。根拠の喪失をさらに遡れば、究極根拠のとしての神の喪失、神の死がある」(岩波哲男『ニヒリズム-その概念と歴史』(上)理想社,2005年,65頁)というように、対自-即自存在としての人間存在が自ら神性を打ち立て、自己原因者たりえなければならない原因としては(このことに関しては、ここでは、次のブログを参照されたい)、根拠の喪失としての神の喪失がある。


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死:その後@2

2006-01-19 00:00:00 | その後
人間は、性的な経験に小さな死を求め
その地を求めるというのは、
バタイユの言説だが、
死という概念は、人生において、
肯定的にも捉えうる。

すべての終わり。
私という存在の終焉。
死すべきと想定した上での死の不在。
終焉の不在。
終焉という縁から転げ落ちるという意味での真の死ではなく、
人生という私の創り出した概念の中における虚構としての死。
縁ではなく、再生としての死。
再生としての死わたしたちは、いま死を操りうる存在としてここに在る。

written at 2006.1.27.am.1:18
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その後:その後@1

2006-01-18 00:00:00 | その後
その後
その後・・・
「その」という概念のあとに措かれる「後」
「その」の「前」を意識して上での概念
その後
前を否定しているわけでも、肯定しているわけでもない。
その「前」と「後」の絶え間ない断絶・・・
私という媒体は、いま「その」を境にその「後」に身を移していくこととなる。


written at 2006.1.27am1:12
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ジャーナリズム : 松山情報発見庫#388

2006-01-17 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
新編 悪魔の辞典

岩波書店

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この本の中で、ジャーナリズムというものへの定義として、
「きわめて強力な拡大器であって、この器械は、編集者たちの発言と印刷用のインクとの助けを借りてハツカネズミの泣き声を論説委員の獅子吼に変え、国中の人々が(察するに)その発する声に生きを凝らして聞き入ることになっている。」(122頁)
というように述べている。
この国に関していえば、広告主のお眼鏡に適うようにしかその拡大器は使われていないようにしか思えない。
いつも、同じ意見、似たような報道がほぼ異口同音に繰り広げられるだけだ。
異なる論理をぶつけ合うということは、めったにない。
というかない。
多少あるにしても、おふざけ程度であったり、横暴な司会者の思うがままに仕切られたりという程度だ。

「きわめて強力な拡大器」を持ち、ハツカネズミの意見をすら国中に届ける力があるということをしっかり自覚し、奮起して欲しい・・・
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真理 : 松山情報発見庫#387

2006-01-16 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
真理と実存

人文書院

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真理とは二律背反的な性格を持つ。
「閉じられていると同時に、開かれている。真理は即自それ自身の現前として、視線を閉じる意味作用の円環的な地平とともにあら現れる。そして同時に真理は、その意味作用が検証されておらず、ただ推定されているだけだというかぎりにおいて、また、それゆえ、〔未来の自分である〕他の自分や、後の時代の他者たちがこの真理をどのように使うかは不確定なものにとどまるという意味で、開かれている。(中略)つまり、真理は全体的なものとしてしかありえない(定立)―部分的な諸真理がありうるのでなければならない(反定立)。」(133頁)
というようなものだ。
ここでの記述は大変興味深い。
「実存は本質に先立つ」という命題を再度取り上げると、
サルトル、実存主義は本質を、神性をあらかじめ措定しはしないという意味において、本質は形づくられるものとなるということを思い出す必要がある。
サルトルにおける本質とはないものであり、あろうとするもの、つまりは、ここでいう真理というのが、本質というものであるといえなくもないという性格を帯びている。

真理は全体的であり、部分的である。
こういう性格があるからこそ、「私が真理を他人に与えるとき、彼がそれを見ているという直観を私はもちうる」(135頁)というここと同時に、
真理の「私の真理であり、他者にとって生成した真理であり、普遍的な真理」(同)という性格をもちうることがあるわけだ。
「見ているという直観」を持つということ、見られているということは、存在と無の対他観のところで述べたが、即自として受け取られていることを述べているにすぎない。
真理が「私の」真理にすぎないし、部分的であるだけであるゆえに、そこに互酬性というものが生じ、私の心理として対他的に贈与された真理は他者にとっても、私の真理を渡すことを促すこととなる。
「他者と交流すれば、彼が私よりうまく見てとったものを指摘してもらい、盗まれたものを私に返してもらうことができる。しかし、彼はまた返さないこともできる。」(136頁)
というように、真理を贈与することはある種の危険性をも伴う行為であり、
「他者たちの好きにさせるために、真理は与えられる」(135頁)という性格が重要となるのである。
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無知 : 松山情報発見庫#386

2006-01-15 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
真理と実存

人文書院

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人間存在は何故、私の真理を他者に与えるのか?
それは先に述べたように、その存在が根源的に無知であるからである。
真理の構造として、
「存在するものが、存在しないものによって照射されるというものになる。真理-検証の動きは、存在しない将来から、現在へと向かう。」(53頁)
という性格がある。
存在と無の即自存在についての記述でも見たように、われわれは<私>があるところのものが何であるかしらない。知りえないそれゆえ、検証ということが必要となる。
「現在の〔=現前する〕存在は来るべき〔=将来の〕非在である。いたるところで、この現前する存在を取り囲む非在がある。」(63頁)
非在ゆえに、その存在がなにであるかは知りえない。
知りえないということは、知りえたいというという欲求を喚起する。
それゆえ、<私>の現前する存在は、他者へ問いかけなければならない。

他者へ呼びかけるのと同様に、対自的に即自を暴き出そうとする。
「無知は運命への呼びかけ」(89頁)なのである。
*運命については、おそらく、後にニヒリズムについて検証する際に検証予定。
「無知は純粋な存在とではなく、借り物の存在とのみ関わり」(95頁)を持つことをする。
純粋な存在とは、今、それではない存在として、非在として現前する即自=真理である。借り物とは、検証段階における即自、対他的状況に置ける問いかけらる-べき-存在としての存在である。
無知ゆえに問いかけを待つ。

無知には、3つの危惧が含まれている(95頁)という前提がある。
それは、①暴きだされる即自に対する恐怖②暴き出しを行う対自に対する恐怖③暴きだされた即自と暴き出しを行う対自との関係に対する恐怖。というものである。
ここでは、無知というものは真理を見ることを恐れるものとして描かれている。
しかし、同時に、
「無知を認めることは、寛大さgenerositeであり、解放」(135頁)という性格と共に、「行動するためには無知でなければならない」(142頁)という性格もあるというようにも論じられている。
行動する条件であると同時に、時に恐怖を起こす要因ともなりうるもの、それが無知の性格のようだ。
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問いかけの存在 : 松山情報発見庫#385

2006-01-14 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
真理と実存

人文書院

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この本の性格をひとことでいうなら、澤田氏が以前取り上げた『<呼びかけ>の経験』にて、第1期の本来性のモラルと呼ぶ時期の後期のモラル論となる。
『存在と無』の最後にて、
「これらの問いはすべて、非共犯的で純粋な反省へとわれわれを向かわせるのであり、その答えは倫理の領域においてしか見出されないであろう。本書に続く著作を、この問題にあてるつもりである」(1140頁)
と述べられているものにサルトルが答えようとして構想したノートである。
つまり、一冊の著作物として完成したものという性格ではなく、構想段階のノートとなのである。 
澤田氏が、芸術家のアトリエの例を上げて述べているように、それゆえわれわれ自身による解釈の自由度が、『存在と無』にくらべて高いといえる。
サルトル自身の真理に対しての呼びかけを促すという意味で非常に面白い本だ。

-----

さて、この本の主題は、
「人間は世界に問いかけを到来させる存在である。しかし、人間とは、自分に関するものでありながら自分自身では解くことができない問いかけが世界の内に彼へと到来するような存在である。それゆえ、人間は一つの根源的な無知との関係によって定義される。人間はこの無知との深い関係を持っている。この無知のあり方に応じて人間は、自らはなにであり、何を探求しているのかを定義するのである。」(29頁)
というものを分析していくことでなされていく。
ということで、
①解かれるべき問いかけ
②根源的な無知
③真理
*真理に関しては論述を追うことで見て欲しい。
の3つを追うことでこの著書での論理を追うことにしたい。

まずは、①の問いかけについてみてみよう。
これは、ここでも何度か述べているように、人間存在が対自的に行う即時的存在への問いかけを言い表している。
対自が即自に対して行うこの検証こそが問いかけであり、この問いかけの結果として現れるのが真理とサルトルのいうものである。
「真理とは存在の漸進的な暴き出し」(32頁)である。
対自ー即自として暴き出したものを「真な者として他者に与える」(44頁)というのが、人間存在における問いかけの発端である。
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ライブドア錬金術にみる モラル論 :日経新聞かじり読み#8

2006-01-13 00:00:00 | 日経新聞かじり読み
written at 1/17

この記事の関連記事@日経新聞

モラル、
それを定義しようと試みるならば出発点としては、
個人、一人の人間存在があり、その人間存在の一つの選択が社会へともろに影響を行使するということを認識することからモラルというものは樹立可能となるだろう。
自己愛というのが即、社会へと発展するということを感じ取る能力。
それがモラルといっても可能であろう。
自己愛生人格障害とは逆のベクトルになるだろうが、
企業人としてのモラルとは、逆に自己愛というものを世界との連関で捉えること、
<私>という一人間存在が世界-内-存在であるということを理解すること。
モラルはそれに尽きるといえるだろう。
サルトルのモラル論、その可能性が1月17日に世間で話題となったライブドアの事件から着想が得られた。

一見空疎に思えるサルトルのいう一つの行為の全体化という概念ひとつの行為が全体に関連しているという概念。
そのような概念こそ、実は今の日本社会の要請にこたえるものなのかもしれない。
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まなざし : 松山情報発見庫#384

2006-01-12 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
存在と無 上巻

人文書院

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ようやくずっと予告してきた『存在と無』の対他存在についての論述に移れる。
澤田直氏の指摘するようにこの『存在と無』でのモラル感は少しこれまで幾度かここで述べてきたような「個人主義的」な傾向がないわけではない。
*ただ、『存在と無』(下)2おけるサルトルの記述を追うかぎりそれほど個人主義的なものとは思えない。
モラルというものをここでは厳密に定義することはしないが、少なくとも、私という人間が対他的にいかに振舞うかということの教えであるとするならばここでの対他存在としての人間存在のありかたを省みることも、サルトルでのモラル観を考えるうえで参考になるであろう。

ちなみに対他存在というものを考えるに当たり、間もなくここで取り上げる『真理と実存』における贈与と真理ということと比較して述べることは有用であろう。
まず、対他存在の意義というものをじっくり見てみよう。
以前ハイデガーについて論じた際に少し述べたが、サルトルはもちろん彼の用いる語句に対して厳密な定義を与える場合もあるが、たいがいは、あたかも芸術家が彫刻を創作する際のようにあらゆる記述からその概念を顕わにしていくという過程を経ていくことが多いといえる。答えを示すというより、道を示すというイメージであろう。
人間存在はこれまで見てきたようにその対自存在の即自存在への反省的作用により、「自分があるところのもの」(=真理=即自存在)措定しようと試みていく。
しかし、「私の反省の場においては、私は、決して私のものであるところの意識にしか、出会うことができない」(398頁)
それゆえ、他者という存在を現前とさせることが必要となる。
サルトルは、
「他者の出現そのものによって、私は、或る対象について判断を下すのと同様に、私自身字ついて判断を下すことができるようにさせられる。なぜなら、私が他者に対して現れるのは、対象としてであるから」(同)
というように述べる。
このことが意味するのは、以下のまなざし論とでもいうべき論理を追うことによって明らかになる。
ちなみに、ここでのサルトルのまなざし論は、澤田氏がサルトルモラルの「第一期 本来性のモラル」(『真理と実存』所蔵の「贈与としての真理」3頁より,)と呼ぶサルトルモラル論前期の所産であり、サルトルの最も完結されたモラル論における対他観とはかけ離れているといわざるを得ない。

さて、そういうことはさておき、サルトルのまなざし論というものを見ていこう。
サルトルは、
「せいぜいわれわれが言いうることは、〔=即自-対自存在としては〕『私はこの存在であると同時にこの存在であらぬ』ということぐらいである。『私が私のあるところのものである』ためには、他者が私にまなざしを向けているだけで十分である」(463頁)
というように述べている。
このことは、
「《他者によって見られている》ことは、《他者を見ている》こと」(454頁)
という論述こそあるが、まなざしというものが単に人間存在を他有化させるといっているにすぎない。つまり、ただ、実存としての現れの人間存在(=即自存在)が対他存在(他者にとっての存在)のまなざしにより、その姿のまま捉えられるということに他ならない。
つまり、ここでサルトルのモラル論が、嘔吐のそれから何か進歩した点があるとすれば、サルトル自身が、
「人間は、世界との関連において、また私自身との関連において、定義される」(454頁)
といっているように、その無定義性というか、対自による無化(=定義付けの試み)という視点を対他関係における関係性、つまりは、コミュニケートする人間存在というように発展させたということに尽きると思う。
以降の真理と実存における論述においても、そのモラル論の焦点はこの「実存は本質に先立つ」という以下に本質という定義づけを回避しつつも人間存在に根拠を与え、無化ではないニヒリズム的な「無=nihil」を克服するかという点に尽きるといえる。

*なお、ハイデガーについては、その「共存」という<世界-内-存在>における人間存在の特徴から論駁を試みられているものの、結局は、「実存は本質に先立つ」というサルトル哲学の根本律とでもいうべき命題と照らし合わせて結果「共存」といういわば決め付けを与えてしまうことはナンセンスというようなものであるのでっこでは詳述は省く。

-----

これでようやく、『存在と無』(下)の検証に移ることができる。
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けだま : 豆えっせい#17

2006-01-11 00:00:00 | 豆えっせい(#12~)
2005年のクリスマスに大切な人から手編みのセーターをもらった。
あったかい。
着ると抱擁をされているような感じ。
包み込まれるようなあったかさ。
このセーターを編んでくれていたときの思いそれがひとつひとつすごくあったかい。
ほとんど毎日うれしくてこのセーターを着ている。
さすがに半月ほど着ているとけだまが出てくる。

けだま
捨てられないけだま。
この欠片(かけら)も思いがこもっている。
そう思うととてもいとおしい。
一生の宝。
ずっと大切にしたいこのセーター。
大切な人。
ありがとう。
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sigur ros : 松山情報発見庫#383

2006-01-10 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
アゲイティス・ビリュン
シガー・ロス
エイベックス・マーケティング・コミュニケーションズ

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無解釈的な世界
無解釈的な音
なにもない
まどろみの中に身を沈めていくかのような音楽

歌詞も母国語アイスランド語と、HOPELANDICという彼らによる造語による
無解釈の自由な音
解釈などない実体
ただ身を沈めていく
捏粘物の中に・・・
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正しい社会科の教科書。 : 松山情報発見庫#382

2006-01-09 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
“呼びかけ”の経験―サルトルのモラル論

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これでいよいよこの本について述べるのは最後である。
つくづく思うが、澤田氏の本がなければ卒業論文は完成し得なかったであろう。(現時点では未完成)

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今回はサルトルの倫理思想がこの概念に集約されるとも言える「アンガジュマン」という言葉についてみてみよう。
人々が一般的にこのアンガジュマンという言葉から連想するのは、「社会参加」「政治参加」「現実参加」などの意味であろう。
しかし、これらのどちらかというと、容易に政治的な行動、示威行為と結びつきかねないような用法はサルトル自身インタビューの中で否定している使われ方であるようである。
サルトルは、アンガジュマンという概念に関して、
「作家のアンガジュマンは、伝達不可能なもの(生きられた<世界-内-存在>)を伝達することであり、それは共通言語のうちに含まれる脱情報の部分を用いることでなされる」(『シチュアシオンVIII』454/332)
というように述べている。

これは、これまでの記述で追ってきたように、「作家の」という言葉をとって考えるなら、一般的なモラルへの連関が見えてくるだろう。
「アンガジェした作家の真の仕事とは、指し示し明らかにし、瞞着を暴き、神話や物心を批評という酸に浸して溶解することなのだ」(『シチュアシオンIX』35/28)
というようにも述べている。
このようなことが必要となる背景には、
「だれもが状況に入り込んでしまっているのだとしても、そのことをみんなが完全に意識しているわけではない。多くの人は、自分の拘束状況を自分に隠すために、時を過ごす。〔…〕作家が参加していると私がいうのは、彼が状況に入り込んでいることについてもっとも明晰で、最も全体的な意識を持とうとしているからだ。つまり、彼は、自分と他人のために、この拘束=参加を無媒介的な自発性から、反省的なものにしようとしているのだ。」(『文学とは何か』98/83)
というようなことがあるからだ。

このように、アンガジュマンとは、作家という文脈からすると、繭に閉じこもってしまっている事実を、彼が<真理>と信じる形で指し示すことであり、私たち一般的な文脈においては、これまでのべてきたように、贈与することであるということである。
つまり、アンガジュマンとは、ほかでもない、贈与のことであり、他者へのコミュニケーションのことなのであろう。(簡略化していうと)

ps.
ここから怒涛のように未記述であった『存在と無』(上)の「対他存在」以降をようやく読解を得たということもあり、述べて生きたいと思う。
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ニヒリズム哲学 〈私〉の真理。 : 松山情報発見庫#381

2006-01-08 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
“呼びかけ”の経験―サルトルのモラル論

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私は与えられる。
メディアとして、そのメディアとは、いかなるものであろうか?
このメディアとは、後に存在と無について述べる際に詳述するが、〈私=自分=即自的存在〉を発見するために対自的存在としての<私>が構築したものであろう。
ということは、このメディアとは、<私>にとってのその時点での真理であろう。
「真理は他者に対する私の要請としての規範である。私は真理を他者に与える。私は、贈与するものとしての私の自由を彼が承認することを要求する。つまり、それが真理であることを要求する。」(『真理と実存』180/37)
対自的に私が懸命にこさえてきた<私>を対他として引き渡す際のメディアそれは、私にとっての真理である。
これは、即自の神性という『存在と無』で結論付けられていることを参照しなければならないが、神なきニヒリズム的な時代においてはこの即自的な<私>が神性を帯び、これが<私>を脆くも根拠付けるものであるということを述べておこう。

呼びかけの関係であるゆえに、引き渡さなければならない。
サルトルにおける<世界-内>の人間存在は、ハイデガーにおけるそれと違い、人間存在がたち現れたからといって世界が現れるわけではない。(ハニーさん解説を(爆))
サルトルは、『存在と無』におけるそれとは趣は異なるが、世界内存在ということに関して、
「人間はジェネロジテであり、人間の出現は世界の創造なのだ。人間はまず存在し、それから創造するのではなく(神の場合はしばしばこのように考えられる)、その存在自体いおいて世界の創造なのである。」(『倫理学ノート』514頁、本書122頁より)
というように、
世界は他者への呼びかけとして構築していかなければならないものとして捉えられている。

なぜ、呼びかけなければならないのか?
それは、サルトルをして、人間存在の対自-即自の関係がアプリオリなものであるといってしまうように、アプリオリだからであろう。
「あらゆる真理は、私が知ることのない外部を持っている。ここで問題となっているのは、私の真理を構成している乗り越え不可能な無知である。」(『真理と実存』,117-,本書129頁より)
というように、
あくまでも、真理は<私>の「真理」であり、無知に基づいた「真理」でしかない。
それは、われわれが擬似<神>ともいえる即自的な<私>でしかないからであり、そのような様態においてしか存在し得ない存在欠如であるからである。
(奇妙なことに存在欠如ということを想定する時点でニヒリズムは破綻してしまうのではないかと思う。)

澤田氏自身はこの本では指摘していないが、サルトルが『真理と実存』で述べている真理とは、即自存在の外面性、対他性というものに過ぎない、それゆえ、あえてジュネ論を参照するまでもなく、ジェネロジテという概念が絶対性を帯びないものであることは自明である。
しかし、だからといってそこにモラルが成り立たないというようには、先に述べたのと同じくならない。
ニヒリズム的状況においてのなお、生きなければならない、懸命にも真理と呼ぶまでに、ニヒリズムでありながら、寄りかかろうとする人間存在のけなげさというか、儚さ・・・
その生のむず痒さ・・・
それこそが、モラルでありえよう。
向き低のむず痒さ、それこそ人間存在の生の「真理」ではないだろうか。
(という即自的記述)
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〈私〉というメディア : 松山情報発見庫#380

2006-01-07 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
“呼びかけ”の経験―サルトルのモラル論

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哲学者は、おそらく、問題としている何かをあまり露骨に伝えたくない、もしくは直視しないように直視するためにそのような文体をとり、
小説家は、根拠付けるため、もしくは衝動付けるために、そのような文体をとり、
詩人は、訴えるために、そのような文体をとるのだろう。
訴えの届かぬ詩人、
物語の届かぬ小説家
露骨に伝わってしまう哲学者
彼らはあまり幸せとは言えないのではないだろうか。

------

さてさて、
上のように感じた今日このごろではあるが、実は上のことは今回取り上げるサルトルのジェネロジテという概念に結びつく。
ジェネロジテとは、フランス語のge´ne´rosite´のことである。
辞書的な意味はここでは、さておき、サルトル的な文脈においては、「贈与性としての自由」(106頁)ということになる。
これまでの呼びかけの部分でも見てきたが、贈与とは、交換とは異なり、互酬性を伴ったものである。
サルトルは、この贈与ということとジェネロジテというものを結び付けて、論じているようだ。
「〔私の〕観念が他人のものになってしまうことを受け入れること。歴史の行為者の徳、それがジェネロジテである。」(『倫理学ノート』,53頁からの引用として本書115頁より)
サルトルによれば、ジェネロジテとは、自分の即自的なもの、観念が他者へと引き渡されること、もしくは、引き渡すことである。

サルトルは、さらに、

「あらゆる創造はひとつの贈り物であり、与えられることなしには、現実に存在することはできない。『donner `a voir(みさせる〔=見えるように与える〕)』という表現があるが、まさにそのとおりだ。私はこの世界を他者が見るために与えるのだ。つまり、ひとがそれを見えるようにと私は世界を実存させるのであり、その行為のうちで私はひとつのパッションとして、自らを失うのである。したがって、ここではモラルは、すでに即自的に存在するものを対我々的に(つまりわれわれにとって)実存させるということである。言いかえると、含意されていた意味に過ぎなかったものを、非共犯的によって、われわれの行為の明示的な主題とすることである。これが絶対的で際限のないジェネロジテであり、それは固有な意味での情念=受難(パッション)であり、唯一の存在の方法なのである。与えるということ以外に存在する理由はない。そして、贈り物であるのは、作品=行為だけではない。性質もまた贈り物なのである。自我とはわれわれのジェネロジテを統一する見出し語なのだ。」(『倫理学ノート』137頁)

これは、『存在と無』において人間存在とは、「存在選択」(1097頁)といっていたことからダイナミックに飛躍したといえる。
存在する方法としては選択すること。その選択は、他者への相克ではなく、他者へ自らを引き渡すこと、自分という即自的メディアとしての存在を対他的に引き渡すこと、それが存在の方法である。
これがサルトルのモラル論の鍵となるジェネロジテである。

-----

サルトルは、贈与の構造について、
「贈与によって三項関係が成立する。贈与する人と、贈与されるモノと、贈与を受ける人である」(『倫理学ノート』382頁からの引用として本書120頁より)
というように述べている。
それでは、われわれが引き渡すものとは何だろうか?
「他の人との真の関係〔は〕けっして直接的ではない。〔それは〕作品=行為(oeuvre)を媒介とした関係である。私の自由は相互承認を含んでいる。しかし、人は事故を与えることによって自己を失う。ジェネロジテ。愛。
 私の対自と私の対他の新たな関係。つまり作品=行為による関係。私は他者に私が創造した対象物として私自身を与えることによって、自らを定義する。他者が私に客観=対象性を与えてくれるように。」(同,487頁)
といようにサルトルは述べる。

われわれはメディア(=作品)としての自分を周囲の他者に提出することによって解釈を試みられることを期待する。

次に、それでは、このメディアというものは私にとってどういうものかということを見てみよう。


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ART of Being : 松山情報発見庫#379

2006-01-06 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
“呼びかけ”の経験―サルトルのモラル論

人文書院

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実存による呼びかけにより、共同体への可能性が広げていくということについてみたが、澤田氏の指摘で面白いのが、芸術論とモラル論との間での相関関係だ。
サルトルは、『実存主義とは何か』の中で、
「道徳的選択は芸術作品=行為の構築に比べるべきである。〔…〕描くべき定義された絵などはなく、画家は自分の構築のうちに自己を拘束するのであり、描くべきえとは彼が描き終える絵である。」(75-76/71頁)
というように指摘しているようだ。
この指摘は、エーリッヒ・フロムの『よりよく生きるということ』(The Art of Being)という本の題からももろに見えるように。

フランス語においてもおそらくそうであろうが、英語においてArtという言葉が、芸術という意味と、技術という意味を内包しているということと比してみると大変興味深い。
描くべき絵というのが、サルトルのいう即自存在というものであり、この言葉に、澤田氏がプルーストの言葉として引用している

「〔美しい本の偉大ですばらしい特徴のひとつは〕著者にとって書物が〔結論〕と呼ばれうるものなら、読者にとってこれは『うながし』とも呼ばれうるということだ。われわれの叡智は、著者のそれの終わるところで始まる、ということがはっきり感ぜられる。われわれは著者に回答を与えて欲しいと思うのだが、実は、われわれに欲望を与えるということが著者のなしうるすべてなのである。しかもこの欲望を著者は、彼の芸術の最後の独力によって達しえた思考の美を凝視させることによってでなければ、われわれのうちに喚起することができない。しかし精神の視覚の、奇妙な、だが天の摂理のように見事な法則によって(おそらくその法則は、われわれが誰からも真理をうけることができず、それを自分自身で創り出さなければならないということを示しているのであろう)、著者の叡智の終わりはわれわれの叡智の始まりのようにしか見えないから、こうして著者が言いうることをすべていいつくしてしまった瞬間に、われわれのうちに彼がまだ何も言っていないような印象が生じることになる。」(『プルーストの文芸評論』180頁)

というのを加味して考えるなら、それは後に詳述する予定のサルトルの対他存在へとつながるものへとなっていく。
われわれは、他者に対して自分を即自として指し示すことを求め指し示す、しかし、それによって即自としてのあるがままの自分というものは一向に見えはしない。多くのさまざまなタイプの他者とのふれあいの中で、自分の姿が措定されていくという具合にだ。
このように、サルトルの対他観へのつながりを示唆しておいて、
『倫理学ノート』におけるサルトルの呼びかけというものを再確認しておくと澤田氏の構築せんと試みているモラル論へよりボリューム感を与えることができると思う。

「呼びかけとは目的を、他者の前で明確にするために、よりいっそう明らかにしようとする努力であり、目的を設定する行為の延長である。それゆえ、呼びかけとは自分の投企が外面性を持つこと、つまりそれが他者のために存在することの承認である。呼びかけとは言葉の本源的な意味における献身であり、私が自分の企図を他者に捧げることを意味する。私はそれを自由に他者の自由に対して表明する〔…〕この意味で、呼びかけとはジェネロジテである。あらゆる呼びかけには贈与がある。」(293頁)

サルトルのモラル。
それは、対他として自分を贈与することに始まる。
次に、この贈与ということについて第二章を振り返ってみよう。

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