7月18日に日野原重明先生が105歳で亡くなったというニュースがネットに流れました。
日野原重明先生はいつまでも生きられると思っていましたが、やはり人間寿命があるということを
再認識しました。
中日新聞の「中日春秋」というコラムに日野原先生のことを書かれていました。
日野原重明さんは、その105年の生涯で、主治医として千人を超える人々の
最期をみとったという。
その最初の一人は、16歳で逝った少女だった。
少女は80年前の7月、大きな目を見開きながら、こう語ったそうだ。
「私はこれで死んでゆくような気がします」。
日野原さんは懸命に治療を続けつつ、励ました。
「あなたの病気はまたよくなるのですよ。元気を出しなさい」。
しかし、その言葉もむなしく、少女の心音は消えた。
医師として初めて受け持った患者の死は衝撃だった。
だが、それ以上に日野原さんは重い石を胸に抱え込んだのだろう。
こう自問し続けたという。
なぜ、死を受容した患者を受け止めることができなかったのか。
むなしい励ましの言葉ではなく、ただ黙って手を握ってあげればよかったのではないか。
(『僕は頑固な子どもだった』)
そんな日野原さんには、「理想の死」があったという。
自宅で家族に「ありがとう」と柔らかに響く声で伝えてから、
静かに逝った祖母。
幼かった日野原さんも恐怖や悲しさより、あたたかさを感じたほど、
安らかな最期だったという。
戦争や天災、テロ。
あまりに多くの不条理な死を目にしてきた日野原さんにとって、
一人でも多くの人に静かな最期を迎えてもらうことこそ、
医師の使命だったのだろう。
「ありがとう」と口にしつつ、静かな最期を迎えたそうだ。
以上です。
「その最初の一人は、16歳で逝った少女だった。」。
この話は、NHKテレビで放送された日野原先生の逸話で知っていました。
Wikipediaで日野原先生を調べましたら、素晴らしい功績の持ち主ですね。
その中で2点興味を持ちました。
1点目は、日野原先生は小学生時代「金時さん」と同級生から渾名がつけられるほど、
赤面恐怖症であったそうです。関西学院中等部の弁論部以外に、演劇、ピアノ演奏、合唱の指揮などで
人前に出る事で克服をしたと語られていたそうです。
テレビで拝見した日野原先生からは、まさか赤面恐怖症だったなんて、
信じられませんでした。
もう1点は、日野原先生は東京大空襲の際に満足な医療が出来なかった経験から、
「過剰投資ではないか」という批判を抑えて、
大災害や戦争の際など大量被災者発生時にも機能出来る病棟として、
広大なロビーや礼拝堂施設を備えた聖路加国際病院の新病棟を1992年(平成4年)に建設された。
この備えは1995年(平成7年)の地下鉄サリン事件の際に遺憾なく発揮され、
通常時の機能に対して広大すぎると非難されたロビー・礼拝堂施設は、緊急応急処置場として機能した。
院長であった日野原先生の判断により、
事件後直ちに当日の全ての外来受診を休診にして被害者の受け入れを無制限に実施し、
同病院は被害者治療の拠点となり、朝のラッシュ時に起きたテロ事件でありながら、
犠牲者を最少限に抑えることに繋がった。
誰もが過剰な投資だと思っている設備を過去の東京大空襲の経験から、
広大すぎるロビー・礼拝堂設備を備えた新病棟を建設された慧眼に、
驚きます。
サリン事件が起こるなんて誰もが「想定外」の筈ですが、日野原先生は
過去の苦い経験を生かされました。
誰も出来なかったことだと思います。
先生の著作を読んでみたいと思います。
ピーター・ポール&マリー(PPM)/虹と共に消えた恋(Gone The Rainbow)
日野原重明先生はいつまでも生きられると思っていましたが、やはり人間寿命があるということを
再認識しました。
中日新聞の「中日春秋」というコラムに日野原先生のことを書かれていました。
日野原重明さんは、その105年の生涯で、主治医として千人を超える人々の
最期をみとったという。
その最初の一人は、16歳で逝った少女だった。
少女は80年前の7月、大きな目を見開きながら、こう語ったそうだ。
「私はこれで死んでゆくような気がします」。
日野原さんは懸命に治療を続けつつ、励ました。
「あなたの病気はまたよくなるのですよ。元気を出しなさい」。
しかし、その言葉もむなしく、少女の心音は消えた。
医師として初めて受け持った患者の死は衝撃だった。
だが、それ以上に日野原さんは重い石を胸に抱え込んだのだろう。
こう自問し続けたという。
なぜ、死を受容した患者を受け止めることができなかったのか。
むなしい励ましの言葉ではなく、ただ黙って手を握ってあげればよかったのではないか。
(『僕は頑固な子どもだった』)
そんな日野原さんには、「理想の死」があったという。
自宅で家族に「ありがとう」と柔らかに響く声で伝えてから、
静かに逝った祖母。
幼かった日野原さんも恐怖や悲しさより、あたたかさを感じたほど、
安らかな最期だったという。
戦争や天災、テロ。
あまりに多くの不条理な死を目にしてきた日野原さんにとって、
一人でも多くの人に静かな最期を迎えてもらうことこそ、
医師の使命だったのだろう。
「ありがとう」と口にしつつ、静かな最期を迎えたそうだ。
以上です。
「その最初の一人は、16歳で逝った少女だった。」。
この話は、NHKテレビで放送された日野原先生の逸話で知っていました。
Wikipediaで日野原先生を調べましたら、素晴らしい功績の持ち主ですね。
その中で2点興味を持ちました。
1点目は、日野原先生は小学生時代「金時さん」と同級生から渾名がつけられるほど、
赤面恐怖症であったそうです。関西学院中等部の弁論部以外に、演劇、ピアノ演奏、合唱の指揮などで
人前に出る事で克服をしたと語られていたそうです。
テレビで拝見した日野原先生からは、まさか赤面恐怖症だったなんて、
信じられませんでした。
もう1点は、日野原先生は東京大空襲の際に満足な医療が出来なかった経験から、
「過剰投資ではないか」という批判を抑えて、
大災害や戦争の際など大量被災者発生時にも機能出来る病棟として、
広大なロビーや礼拝堂施設を備えた聖路加国際病院の新病棟を1992年(平成4年)に建設された。
この備えは1995年(平成7年)の地下鉄サリン事件の際に遺憾なく発揮され、
通常時の機能に対して広大すぎると非難されたロビー・礼拝堂施設は、緊急応急処置場として機能した。
院長であった日野原先生の判断により、
事件後直ちに当日の全ての外来受診を休診にして被害者の受け入れを無制限に実施し、
同病院は被害者治療の拠点となり、朝のラッシュ時に起きたテロ事件でありながら、
犠牲者を最少限に抑えることに繋がった。
誰もが過剰な投資だと思っている設備を過去の東京大空襲の経験から、
広大すぎるロビー・礼拝堂設備を備えた新病棟を建設された慧眼に、
驚きます。
サリン事件が起こるなんて誰もが「想定外」の筈ですが、日野原先生は
過去の苦い経験を生かされました。
誰も出来なかったことだと思います。
先生の著作を読んでみたいと思います。
ピーター・ポール&マリー(PPM)/虹と共に消えた恋(Gone The Rainbow)