新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

安倍内閣の新型コロナウイルス対策への疑問

2020-04-28 13:49:00 | コラム
「後手・後手の継ぎ足し方式」と批判はしたが:

私は安倍内閣は新型コロナウイルス制圧対策に出来得る限りの手は打っておられると、心から思って敬意を表しているし、その後苦労には頭が下がる。だが、正直に言えば「これらの点をもう少しお考えになって、こうして頂ければもっと良くなるのだかな」と思っている。何処をどのようにして頂ければ良いのだがと願う事柄を順序不同で並べてみよう。

専門家会議への依存
先ずは、私には過度であるとしか思えない「専門家会議への依存」である。あの会議は諮問機関であるのならば、これまでやって来られたように尾身茂副座長を表に出して「オーバーシュート」のような間違った英語を使った声明を出させるとか、「10の何とか」という指示を会議の代表に言わせるのは、私から見れば政府の責任放棄のように見えて仕方がない。新たな対策の公式発表は、もし総理でなければ、最悪でも西村康稔大臣に責任を持ってやらせるべきだとお思う。専門家会議の代表に言わせるべきだとは思えない。諮問機関は陰の存在ではないのかな。

その点では昨27日のPrime Newsで日本大学・危機管理学部の福田充共助の指摘が極めて尤もだと思って聞いた。福田教授は「専門家会議には感染症や疫学のお医者様以外に公衆衛生学の先生も入っておられるが、危機管理の専門家が入ってないのは・・・」と指摘された。私は既に「この会議の構成員が発表になったとは知らない」と言っていたので、昨夜初めて聞いた次第だ。私は既に「お医者様は患者を診察し診断し、治療法をお考えになって処方箋を書かれるのが仕事である。そういう職業が専門の方に、政治的な判断業務までさせるのは酷ではないか」と指摘してあった。

厚生労働省の責任:
次はPCR検査までに4日間連続で37.5度の発熱を条件とするという類いの厚労省か専門家会議の指令である。某局では「この指示は専門家会議の尾身茂副座長が発表されたのであり、その理由は感染症(だったか?)に指定してしまった以上、陽性となれば全員入院させねばならず、検査能力も不足しているし、病床数も不足しているから、そういう仕組みにする」とされた。だが、ある医師は「その1月だったか2月の頃は、現在のよう感染者の数が増えるとは予期できていなかったから出来た仕組み。現状に合わせて可及的速やかに調整すべきではないか」と厳しく批判された。

私はこの「手遅れ振り」は専門家会議でも勿論尾身茂副座長の責任でもないと思っている。状況の急速な変化と事態の悪化を厚生労働省を統括し統率すべき地位にいる加藤勝信厚生労働相の仕事だと思っている。マスコミは事情を知ってか知らずにかは知らないが、現場で最も労働過剰になっている保健所の勤務する人たちが気の毒だというような報道をするが、あの態度は到底加藤厚労相の無為・無策を批判しているとは思えない。加藤厚労相は「4日がおかしければ即刻短縮するか、37.5度の正当性を再考せよ」と現場に指示するのが責務ではないか。その職務怠慢は歳費を2割り削減で済むような程度ではない。

消極的な責任回避の姿勢:
私はどうしてもその職務怠慢というか、責任逃れの度が過ぎるというか、この国難とでも言いたい危機に直面して、大臣に任じられた元官僚のお二方、即ち、西村康稔大臣と加藤勝信厚労相の「自分が責任者なのだから何かなんでもやってやろう」とでも言いたいような積極的な姿勢が全く見えず、何かと言えば「専門家のご意見を聞いて」とぼかしてしまう責任逃れが非常に不満なのだ。特に西村氏にはその点が目立ちすぎる。「営業を続けるパチンコ屋に対して罰則かを科せば」と訊かれたら「専門家に伺って」と答える始末。「決めるのは大臣である君だ」と言ってやりたい。

私は偶々この元大蔵省と通産省のお二方の巧みな責任回避術が目立ったので非難するが、アベノマスクの不良品問題についての菅官房長官の煮え切らない姿勢も決して褒めたものではないと思う。閣僚でも誰も彼もが未だ嘗て経験したことないような難しい事態に直面して「さー、速やかに巧みにこの難問を解決して見せろ」と求められて、即座に「素晴らしい」とか「妙案だ」と賞賛されるような手が打てないのは当然であるから、後手・後手の継ぎ足し方式に回ってしまうのは仕方がない。それは責めないが、私は責任逃れは許さないのだ。

危機管理:
私は我が友YM氏の「先ずは範囲を極力広く採った作戦を立てることから入って、事の成り行きで縮小するか部分的に手直しをして行くのがマーケティング戦略である」というのに基づいて、「対抗策を小出しにして、これが駄目だったらあれで行ってみようかというような継ぎ足し方式では宜しくない」と主張し続けてきた。日本大学の福田教授も「最初には厳しい規制を課して、状況に応じて緩めて良いところは緩和していくのか危機管理である」と指摘しておられた。

私は尾身茂副座長を始めとする専門家会の医師の方々は、偉いお医者様であられても危機管理の専門家ではないと思っている。そう看做しているから、専門家会議への依存はほどほどにして、国家の重大事を決めて貰う為に、我々国民が選んで国会議員に送り込んだ閣僚や議員さん方が先頭に立って、対策を立案して実行して行ってくれると密かに期待している。小池百合子東京都知事論にしたり顔で「ステイホーム」などと万人が理解するかどうかも不明な英語擬きを言うのを、大臣や議員さんたちに拱手傍観していられては堪らないと思っている。


4月27日 その2 少数派の英語論:

2020-04-27 15:16:23 | コラム
少数派であることは私の誇りである:

私は英語とその基礎からの勉強法、英語による自分の考え方の表現の仕方、英語教育改革論等々については、遺憾ながら少数派であると確信していると同時に、そうであることを誇りにして良いと思っている。

私は1990年5月頃から、紙パルプ産業界の専門誌に光栄にも英語やアメリカ等についてのコラムというか、エッセー風のものを書く機会を与えられた。それまでは自分が書いたものが活字になった経験など皆無だったので、感激していた。そのごく初期に以下のように書いていた。

「我が国の学校教育の英語は生徒や学生に優劣の差をつける為、即ち5段階の評価をすることが目的で教えているので、会話の能力をつけるような意図などは最初からない」

これは私が言ったのではなく高校の英語の女性教師であり、その場はテレビでの公開の討論会だった。私は正直なところ「なるほど。そういう事だったのか」と妙に納得し、我が国の学校教育における英語の在り方を再確認出来たのだった。要するに「実用性などは頭から無視して、ただひたすら試験の為の枝葉末節なEnglishとは無縁の「科学としての英語」を教えているのだということだ。

その我が国の英語教育は21世紀の現在になっても、その手法も質も一向に改善されるどころか全く何らの変化もしていない様子なのだ。それだけには止まらず今や小学校3年生から英語を必須にして未だ頭が柔らかい子供の頃から英語に親しませて、将来国際人となれるように育てようなどという愚にもつかない事まで言い出したのだ。

その大目的の為に如何にもアメリカから輸入されたかのように装ったTOEIC等の我が国の至らざる英教育の成果を試す試験を導入して、ビジネスの世界にまで普及させてしまった。このテストで良い点が取れていないと大学を卒業させないであるとか、就職出来ないとか、昇進も昇給も出来なくなるとかいう呆れ返った事態までが生じている始末だ。あのテストがアメリカ産だと信じ切っている人々が多いというに至っては、最早漫画的な“naïve”なことである。言うまでもないが、これが英語では「ほとんどBAKA」という意味である正しい「ナイーヴ」の使い方である。

私はこれまでに何度か述べてきたが、私独自の「中学校1乃至2念の教科書の音読・暗記・暗唱」に加えるに「単語帳もカードも作らない」、「英文和訳も英作文もやらないで試験に備える」という勉強法を続けてきた。そしてその重要な背景には、GHQの秘書の方に厳しく教え込まれた「聞いたことは英語のままで受けとめて、英語だけ考えること」、「言いたいことを先ず日本語で思い浮かべてそれを英語の直そうなどと一切しないこと」があって、英語話す方法を教え込まれていた。

このように、私は我が国の学校教育の「科学としての英語」で無理やり育てられた方々とは異なる独自の勉強を採っただけで、22年以上もアメリカ人と言うべきか“native speaker”の中に入って意思の疎通では何ら苦労することなく、アメリカの大手紙パルプ林産物の会社の井賃として生きながらえることが出来たし、アメリカやヨーロッパの諸国と我が国との文化の違いを知る機会を与えられて、その経験が英語力を伸ばす貴重な材料にもなっていったのである。

正直に回顧すれば、私の英語の勉強法はどう考えても「我が国の科学としてのEnglishではない英語の教育法に真っ向から逆らったもの」だったと思っている。だが、結果的にはそれほど逆らっても大学卒業までの間に英語も試験で90点以下だったことは2度しかなく、そのうちの1度は大学の頃にアルバイトが過ぎて試験範囲を誤っていた失策だったのだ。

私が敢えて強調したいことは「私のやり方以外で学校の教えkたに忠実だった方々の中で、どれほどの人数の方が、外国人に負けない英語で自分の思うことが自由自在に言えるようになったか」という点だ。

私が常に主張してきた「英語とEnglishの違い」や「英語教育改革法」や「小学校から英語を教えようなというのは愚の骨頂」などは、遺憾ながら何時まで経っても何処かピントの狂った極端な意見であるかの如くに受け止められているだろうとは思っている。だが、念の為に確認して置くが私は「実用性を重んじた英語を勉強しよう」等とは一度も言っていないのだ。だが、「英語は基本から学んでおこう。基礎を固めなくて何の英会話か」とは繰り返し指摘して来た。

思うに、このような勉強法の是非を世論調査にかければ(何でアンケートなどという言葉の誤用がまかり通るのだろう)恐らく10%の支持も得られないだろう。また支持して下さる方々には「何で今頃になってこんな当たり前のことを言うのか」と笑われるだろうと危惧している。

既に指摘したことで「我が国の英語教育の問題点には、『英語とは何であるか』というか 『English と何処がどう異なっているか』も知らず、上記の女性教師のような考え方で、英語をいじくり回して世界の何処に行ってもまともに通用しないものを恰も数学のように教え込み、試験の点数こそ全てのようなものに仕上げたために、自分が考えていること、言いたいことを表現することを不得手とせざるを得ない学問というか『語学』にしてしまったことだろう」と思っている。

このような誤った教え方を採り上げればキリがないが、念の為に何処かのテレビ局が「Youは何しに日本へ」という結構面白い番組を作ったのは良かったが、その英語の題名が “Why did you come to Japan?”という詰問調なのだった。いきなり見ず知らずの方に個人的なことを訪ねるのは英語の世界では非礼に当たるのだ。こういうことを教えていないから、こんな事になるのだ。私ならば“May I ask you what your purpose of visiting Japan is, this time?”とでも言ったかも知れない。

質問の話に戻るが、世の英語教師たちは他人にいきなり何かを問い掛けるのだったら “Excuse me."か “May I ask you some questions?" 辺りから入るのが最低の礼儀だとは教えてないのか。何故文化と習慣の違いくらい教えないのかという疑問だ。

この辺りで、英語圏との文化の違いと思考体系の違いを教えて置くべきだと指摘しておこう。この点を弁えておかないと、英語圏の国に入っていって「知らず知らずの間に無意識の非礼を犯して爪弾きされる結果を招くことになる」のだ。一つだけ例を挙げておくが“You’d better ~.”は軽い命令形であり、うっかり使うと「お節介な奴」と非難されるのだ。

私は何処に行っても恥ずかしくない英語が出来るように教えられるのが最上だと思っている。即ち、英語を母国語とする人たちの思想信条や哲学などを知って、その世界で十分に通用してきたような英語力の次元に達している経験を有する練達熟練者こそが最も優れた英語の先生になれると考えている。「そんな人がいる訳はない。偏った理想論だ」と言われそうだ。それは取りも直さず、「自分たち(現職の英語の教員には出来ない」と言うのと同じではないかと思うのだが。それだったならば、ご自身でそういう世界を経験して来られればどうだろう。それで自分たちの至らざる点が解るだろう。

さらに余談だが、嘗て某英字新聞社の出版局が私の英語関係の論文を纏めて出そうかとかという有り難い企画が持ち上がったことことがあった。しかし、出版部長はボツにされた。理由は「確かに貴方が書かれた多くの論文とうには興味深いものがある。だが、これらを出版した際に、それを読んで面白いと評価する方は、この本を必要とされない少数派だろう。故に商売にならないと判断した」だった。遺憾ながら妙に納得した。


偶にはノンビリした話題を

2020-04-27 07:50:20 | コラム
植木に水を上げる:

最近、黒柳徹子さんが“UBER EATS”のテレビ・コマーシャルに出てくるようになった。それはそれで良いのだが、私には気になる点がある。それが演出のせいなのか黒柳徹子さんの意向でそうなったのかは知る由もないが、若い女性の頭髪の上に鉢植えのような植木を乗せた彼女が「1日に1度お水を上げてね」という台詞が出てくるのが気になるのだ。私は「水はやるものだ」と信じている。念の為認容しておけば「遣り水」という言葉は広辞苑に出てくるが、「揚水」は全く意味が違う言葉だ。

この「上げる」とか「やる」という言葉遣いは何年も前に採り上げたことがあるが、「水をあげる」とか「鳩に餌をあげる」とか「野良猫に餌をあげる」などと言う人は多いのだ。これは誤りで「やる」が正しいと国語学者は指摘しておられた。思うに「あげる」という人は「丁寧語」でもあると錯覚しているのだろう。そういう錯覚というか誤りを、天下の大女優と言うべきか大御所とでも言うべきか大有名人が間違われては「黒柳さんも使っておられたのだから」と言って真似する者が出ることを、私は一人静かに恐れている。

この言葉遣いについては、余り笑えない実話があるので、敢えて紹介しておこう。「鳩には餌をやるというが正しい」と指摘された若い女性が、顔を赤らめて「やると言うなんて」と下俯いてしまったというのだ。「一体、この若き女性は何を考えたのか」とこの話を引用した方が結んでおられた。あーあ。

Speedy is the essence.

2020-04-26 11:05:23 | コラム
「仕事は早くしないと意味はないぞ」:

この先頃採り上げた文法的におかしい英語の表現を、ご記憶の方がおられれば幸せである。これは、先日私が1953年の大学の春休みに幸運にも経験したアメリカからやって来た真珠商人の通訳兼道案内のアルバイトで「早くやらないと意味はないぞ」と言われたときの表現で、67年を経た今でも忘れられないほど印象が強烈だったのだ。後々には「急がないと商機を逸するぞ」という意味だと理解するようになった。私はこの言葉を安倍総理以下全閣僚、就中西村康稔大臣と加藤勝信厚労相に捧げたいのだ。

こんな言い方をすれば「何を言うか。我が国では感染者の数を全世界の中でもあれほど少なく抑えているという成果を挙げているではないか」と叱られそうだ。だが、私に言わせて貰えば、これは結果論であって、これまでに講じられてきた対策は全て言わば対症療法であり、もとから断った訳ではないのだ。全てが後手後手の継ぎ足し方式であって、何をするにも財源の有無とか、法整備の至らなさとか、責任逃れ的な言動が多くて「俺に任せろ。俺が責任を取るから君たちは安心して事に当たれ」と言えない閣僚が多かったのだ。即ち、「スピード感の欠如」が目立っていた。

典型的な最悪の「遅い」という例が、10万円の一律給付に至る過程ではないのか。あれでは「こんなに早く給付して下さったのか。有り難い政府だ」と言って感謝する国民がどれほどいるだろうか。未だにテレビ局では推定の(?)申込用紙の書式を見せて記入法だとか、添付が求められる銀行口座や本人確認の書類かカードのコピーの話をしている。私は自宅にプリンタ兼コピー機を備えておられる家庭がどれほどあるかと疑っている。私は運転免許証もなく、パスポートは失効したままで、住民基本台帳のカードしか持ち合わせがない。

でも、申込用紙が来るのは今週になってからのようだ。それを区役所なり何なりに返送して、その時点から手続きが始まるのであれば「スピード感」など期待する方が間違っているだろう。私は所管の役所を責めているのではない。こんな面倒な手続きを省く方法を考えてスピード感を出すのが政府というか官僚の職務ではないのか。東京都からの50万円か100万円の給付の申し込みの書式をPC上で見た料理店の店主は「こんなに複雑で面倒では諦めるか」と嘆いて見せていた。こういうのを「禁止的」と言うのではないか。

私は一応世界の20ヶ国ほどを歩いてきた。そこで知り得たことは「我が国ほど如何なる場所というか組織でも現場の方々の事務処理能力の高さと速さは、(マスコミが往々にして礼賛したがる)アメリカやヨーロッパの諸国とは比べものにならないほど早くて正確なのだ。だが、不思議なのは事が政治家と官庁に及ぶと、突如として手続きが複雑になり、何をするにも、お願いするにも、時間と労力と手間がかかるのである。「我が国は法治国家である」と言われればそれまでだが、書式だの手続きに拘り過ぎてはいないのか。

とうに国家の重大事にとなっている「対新型コロナウイルス」の処理についても、橋下徹氏にあの特措法を“KUSO”呼ばわりされても、西村康稔大臣は緊急に対応する為には要請を「緊急に変える立法」を迫られても、のれんに腕押しのような返答で終わった。私にも言わせて貰えば、彼には危機感も責任感も欠如しているのだ。加藤勝信厚労相は埼玉県で感染者を自宅療養させて亡くなってしまったという悲しくも行政の不備が明らかな事件があっても、他人事のような顔で対応しているだけだ。ここは改善すべきであり、求められるのは“Speedy is the essence.”ではないのか。

ある運送会社の社員は「方々で見てきたが、ここまで来れば実感としては東京都と埼玉、神奈川、千葉の交通網を遮断するくらいの手を打たないことには、感染は止まらない気がする」と語っていた。大阪府では営業を辞めないパチンコの店名を公開したら、かえってお客が殺到したとの報道があった。スピード感という点から見れば、条例でも改正して強制的に閉鎖させねばならないのだろうが、補償という難問もついて回るだろう。政治家は兎も角、官僚は頭脳明晰なはずだから「スピードを上げる方法」を素早く考案して欲しいものだ。

最後に英語の講釈にも触れておけば、“Speediness is essential.”とすれば文法的に正しくなるように思う。Oxfordには“speedy”は“happening or done quickly or without delay”と先ず出てきて、次には“moving or working quickly”とあった。ジーニアス英和辞典には「迅速な、すみやかな」とあった。当たり前かなと思った。


4月25日 その2 大久保通りではマスクは欲しいだけ買える

2020-04-25 14:47:53 | コラム
マスクが欲しければ新宿区百人町へ:

昨日だったか、フジテレビのテレビの夕方のニュースで「山積み、品薄マスク 何故」と題して採り上げていた場所は、例によって「新大久保」となっていた。だが、あの画面に出ていたのは山手線の内側であり、通称“Koreatown“の辺りのことで、正確な地名は「大久保」である。新大久保というのは山手線の駅名である、念の為。

本日はドンキホーテでないと良い値段で入手できない食料品を買いに、山手線の外側になる大久保通りを言うなれば北上してきた。なるほど、そこに展開されていた光景は大袈裟に言えば「何処に行ってもマスクが積み上がっている」という状況だった。この件は既に去る17日に調剤薬局の店長さんから聞いた話として「イスラム横町の連中は協同でコンテイナー1本分を輸入した模様」として採り上げておいた。それをテレビ局は今頃になって報じるのかと言いたくもなるのだ。

中には1週間毎に出店者が変わる貸店舗でも、何処の国の者かも解らない人物が50枚で4,000円近い値段で売っていて、人だかりがしていた。ドンキホーテでは「洗濯できる」と銘打たれたガーゼのマスクが1枚で498円で売られていたし、消毒用のアルコール製品も1,300円ほどで出ていた。ラグビーのW杯の頃にニュージーランド人が泊まっていた小さなホテルの入り口でも、テーブルを出して3,500円ほどで売っている女性がいたが、ホテルの従業員かどうは判然としなかった。

昨日は別の企画で群馬県太田市のFR社という言わば専業の会社の社長が「漸く中国からコンテイナー1本分、即ち60万枚が入荷した」と嘆いていた。それほど中国からの入荷は少ないようで、その数量では市内の病院関係と市役所が市民に配布する分だけで消えてしまうのだそうだ。私には60万枚が40フィートまたは20フィートのコンテイナーで1本なのか知らないが、新宿区内で共同購入した連中の販売は当分続くのかなと、ふと考えていた。中には日本語が印刷された50枚入りの箱があったから、輸入(中国の業者の横流し)の経路は一つだけではないのかも知れない。

帰路にあらためて先鞭を付けたイスラム横町のハラルフード販売店の様子を当たってみると、1箱3,000円の分は未だ店頭に積み上がっていた割りにはその店は閑散としていた。だが、数メートル先の何故か3,500円の店には人だかりがしていて、5箱も買っていた人もいた。因みに、バラ売りは何処に行っても300円なのは面白い現象だと思った。何れにせよ、嘗ての市価の6~10倍の出費を厭わない覚悟があれば、ここまで来れば幾らでも買えるという状態だ。

私には中国の政府か業者か知らないが、高く買う先を優先して出荷しているとしか思えないのだ。それが不当であるとかないとかを論じるよりも、そういう中国という国からの供給に依存する態勢を作っていた我が国の方にも問題なきにしもあらずと思えるのだ。それにしても、政府は大きな枚数を手配されたと聞くが、正常な価格で既存の薬局やドラッグストアで買えるのは何時頃になるのだろうか。マスクを1枚1枚ミシンで縫製していては労務費が高い我が国では1枚10円で出てくる訳がないと思う。中国のような機械を導入しなければ、大量生産は望めないのではないか。