新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

12月25日 その2 外国人労働者受け入れを考える

2018-12-25 14:32:11 | コラム
外国人たちは自分たちで雇用を推進している:


私のメル友の貴重な一人であるYI女史から下記のようなご指摘を含むEメールを頂いたので引用してみる。


「あんな法案作らずとも現実に労働者は入ってきている建設業の環境です。」


であり、私の方からの返信もご紹介する次第です。

誠にその通りと思うご指摘です。ここ百人町/大久保界隈のハラルフード兼八百屋の小売業やエスニックとでも言うべきレストランでは経営者も雇われ人たちも同国人です。言うなれば「自分たちだけで仕事(job)を創造しては雇用(employment)を生み出しているので、彼らには人手不足はない」のです。

我がアパートの道路を隔てて反対側にあるイオンの食料品専門小型スーパーではレジの外国人は激しく入れ替わっていますが、だが、その筋に明るい者に言わせれば「一箇所で固定して仕事をさせないように回している」とかです。

兎に角、我が街ではどこからともなく流入してくる中国人、ベトナム人、バングラデシュ人、ネパール人、パキスタン人(?)、イラン人等々は自国人同士で群れて商いをして、必要な人員は同国人を当てる作戦のようです。但し、大久保通りで猖獗を極めている韓国の何とかドッグの店内は覗くことすら出来ませんが、恐らく韓国人がやっているのでしょう。だが、呼び込みも販売も会計も綺麗な日本語です。だから、在日韓国人が考え出してやっていると疑っているのです。

私はどうしても政府の34万5千人導入計画は腑に落ちないのです。我が家と新大久保の駅の間に少なくとも5校はある日本語学校の膨大な数の生徒たちを留学生ヴィザの週28時間以上働かせられるようの変えただけで、日本語をある程度以上こなす若い労働力が確保できる気がします。但し、そこには中国人が圧倒的に多いのは気になります。「安全保障上の問題が発生するかも知れないので???」


潔い国と潔くない国との交渉

2018-12-25 08:06:56 | コラム
外務省金杉局長は何をしに韓国に行ったのだろう:

報道によれば、金杉局長は韓国の軍艦の我が国自衛隊の哨戒機にレーダーを照射したことと「戦中の朝鮮人労務者への賠償判決」についての協議でソウルを訪れたのだそうだ。そして、レーダー照射問題については遺憾の意を表明して改善策を求めたとなっていた。私に言わせて貰えば「これでは何も抗議せず、何も言わなかったのと同じ」に過ぎないのだ。そもそも、我が国は世界でも希有な事である「謝罪の文化」を持ち、「潔く自己の過失を認めて謝罪するのが美徳」となっているのだ。

一方、韓国も勿論そのうちだが、世界の大勢は「謝罪しない、自己の非を潔く認めない文化」を長年維持してきたのであるから、潔くないのだ。韓国側が「それは申し訳ありませんでした。我が方が照射しました。今後かかる過ちを犯さぬよう軍を指導します」などと言う訳がない。私は外務省の局長ともおろうお方がその辺りの文化の違いを心得ずに交渉の席につかれたとは思いたくないのだ。ならば局長は一体何をしに行かれたのだろう。改善策要求程度ならば、東京での官房長官の談話で十分だったのではないのか。

私はこのような無意味とも言いたいような交渉しか出来ない辺りに外務省というお役所の限界があると思っている。私は韓国の当局により厳しく当たっていく為には「経済制裁を科す」とか、トランプ様式に「潔く自国の非を認めないのならば、我が国が輸入する韓国製品に高率の関税をかける事の検討に入る」とか「韓国の運動選手や芸人に日本国内で活動可能なヴィザの発給の停止を考える」くらい切り出しても良かったのではとすら考えている。

だが、残念なことに上記の諸対策は全て外務省の権限内にはないのではないのだろうか。である以上、金杉局長にはかかる案件を切り出す権限もなく「遺憾の意の表明と改善策要求」の範囲内に止まったのだろうと思う。また、戦中の朝鮮人労務者への賠償判決については、強硬に非難も批判も言えるだろうが、法的な対抗措置は外務省の権限外だったのではないだろうか。そうだったならば、彼は何の為に何をしに行ったのだろうか。何故、経産省・法務省・防衛省等からは誰も付いていかなかったのだろう。

私はもうそろそろ我が国の政治家と官僚は「我が国と諸外国の文化と伝統を違いを十分に理解し認識して、その違いを衝いていくとか、違いの隙間を鋭く攻めていくような交渉をし始めても良い頃では」と思っている。韓国辺りでも「どうせ相手は日本だ。突っぱねておけば何時かは雲散霧消してしまう案件だろう」くらいに高を括っているかも知れないのだ。その程度の交渉しかしてこなかった外務省に対して「大いなる遺憾の意を表明」して終わる。


12月24日 その2 振替休日に大久保通りを歩けば

2018-12-24 15:33:35 | コラム
女性で大賑わいのNew Koreatown:

先ずお断りしておけば、“New Koreatown”は私の造語である。一時は寂れていたKoreatownが「~ドッグ」と彼らが銘打った「アメリカン・ドッグ」のもじりのような串刺しにして揚げたのであろう粉ものに、チーズやトマトケチャップ風の色々なトッピングとでもいえば良いようなものまぶしたスナック菓子を食べに長蛇の列をなす若い女性たちで、振替休日の本24日の午後1時頃には大久保通りは本当に歩行もままならない大混雑だったのだ。即ち、2~3年前までの業態から大きく変化して婦女子目当ての街と化したので“New”を冠したまでである。

私に言わせて貰えば、少し前までは慰安婦問題、近くは「戦中の朝鮮人労務者への不当な賠償判決」、極く新しい事案では「自衛隊機へのレーザー照射」と誠に怪しからん所業を繰り返す韓国に、恩恵(英語にしたら“favor”か)などを与える必要など皆無だとなる。だが、婦女子は群がるのである。JR新大久保駅の改札口周辺は乗降客の大集団が押し合いへし合いで動きが取れないように見えた。あの有様では来年の春頃に完成という駅舎の改造の完成こそが焦眉の急ではないのか。

本24日は亡父の81回目の祥月命日で、寒風の中を巣鴨の染井霊園まで出掛けたのだった。巣鴨駅も丁度高岩寺のとげぬき地蔵さんの「四の日」の縁日だったので、ここもまたかなりの混雑だった。駅から寒風吹きすさぶ霊園まで20分は歩いただろうか、無事に墓参を終えて折角こまで来たのだからと地蔵通りに行ってみた。ここでも高齢者の集団で大混雑だった。でも、何とか洋品店の「マルジ」で防寒用の厚手の靴下を買い求めて、帰路はシルバーパス利用の都営地下鉄を利用した。そして、上記の大久保通りを歩いて帰宅する結果となったのだった。

その大久保通りに出る前には大江戸線の東新宿駅から職安通りを通ってから、ドンキホーテのところから路地を抜けるのだ。ところが、以前はその路地は韓国料理の小規模な食堂が多かったのだが、そのほとんどが「~ドッグ」の専門店に衣替えしている有様で、ここでも若い女性たちの流れに逆らって歩くしかなかった。不思議だなと思ったことは、あれほど韓国の食べ物屋が流行っていても、何処に行っても先ず韓国語が聞こえてこないのだった。すると、あの商いをやっているのは在日韓国人かと考えさせられた。

本日も職安通りでも大久保通りでも、その混雑の中を大きな音を立ててトローリーケース(カタカナ語では「キャリーバッグ」である、念の為)を引き摺って移動する集団に何組か出会った。彼らが何処の国から来たのかまたは帰るのか知らないが、どう見ても買い物に来た観光客とは見えなかった。観光でも買い物でもなかったら、彼らは如何なる目的で日本に来たのだろう。だが、ドンキホーテの免税のレジではカップ麺を買い物カゴにして3杯分も買い求めていた者もいた。如何なる目的の買い物なのだろうか。

私が言いたいことは「政府は観光客が3,000万人超も来たと喜んでいるが、中には何が目的てやって来たのかと訝らせてくれる者たちがここ新宿区の百人町/大久保界隈には溢れているのだ。その手の来日者が増えたことがそれほど有り難いことか感激すべき事なのか、閣僚も国会議員も関連する諸々の官庁の役人たちには是非ともこの地区を視察してから検討して貰いたいものだ」なのである。先日は矢張りドンキホーテで¥148/リッターの牛乳をカゴ一杯買っていた異邦人がいた。兎に角、この周辺は異様な外国人が多いのだ。


英語とその教育論

2018-12-24 09:10:22 | コラム
私が考える英語とは:

私が何時も残念に思っていることは、私が唱える英語とその教育に関する議論に対して賛同して下さる方が少ないことだ。嘗て14年8月に週刊新潮の9月4日号には成毛真氏の優れた英語論があったのでその成毛氏の説を力にして論じたことがあった。そこでその当時の駄文に加筆・訂正してみようと思い立った次第だ。

元の日本マイクロソフト社長・成毛真氏の週刊新潮の連載のコラム「逆張りの思考」の書き出しは

日本人の9割には英語は要らないというのが私の持論だ。どれだけ一生懸命に英会話を身に付けても、ほとんどの人にとっては外国人と話すことはないからだ」

と指摘しておられた。私は9割以上賛成である。10割としないのは我が国の学校教育の英語では会話というか“How to express oneself in English.“の能力はほとんど身に付かないが、執拗に単語を覚え去る教育を異常なほど推進しておられるので、その成果だろうか多くの方々が非常に高い読解力を備えておられる現象があるので、その点を評価して日本式英語教育の長所であると認めているのだ。

私は以前にも「日本人に英語力を身に付けることは不要であるし、目的と意味が不明な英会話の勉強などは全く無意味だ」と主張してきた。そして「W社リタイヤー後15年も経ったが、その間に有り余る英語力を抱えていても、街で外国人に道を尋ねられたことは3回だけ。私は外国人たちからは英語を理解できない顔付きに見えるらしい」と書いて、この繰り言に賛成して下さった方もおられた。因みに、今年でリタイヤー後24年を経たが「3回」は変わっていないのだから恐ろしい。

私はこれまでに何度も何度も「外国人に道を尋ねられて答えられずに恥ずかしい思いをした。何とかして英会話の力を付けたい」という感想や反省文を読み且つ聞いたことがあった。私は率直に言えば「我が国の学校で英語を学んだ以上、外国人を相手にして意思の疎通が出来なかったことを悔やむ必要などない。そもそもそういう目的で英語を教えていないとまで言われた高校の英語教師がおられるのだから」話せないのは当たり前だと認識している。

因みに、旧知の某有名私立大学の社会学の某教授はベルリッツなどで会話の勉強をされた経験がおありでも、UKに出張された後に「道を尋ねるとか買い物が出来ることが英語力ではないと痛感した」と述懐された。私は誠にその通りであると思って承った。要するに上記の“I know how to express myself in English.”とは「自由に自分の思うところを英語にして表現出来きる能力があって、初めて1人乃至は複数の人と会話が楽しめる」のであるという意味なのだ。買い物程度がが出来ることとは次元が違う。

上記の週刊新潮は48頁に“小学校3年からの「英語教育」で英語も国語もダメになる”との特集を掲載しているが、この内容も私の年来の主張とほぼ同じで、気分爽快な思いで一気に読み終えた。英語教育改革の少数派である私の「英語勉強法」をお読み頂いた方もおられると希望的な思いはあるが、私は中学校1年からと言うか、ある程度以上の国語の力がついてから、英語を勉強し始めても決して遅くないと主張し続けて来た。現実に、私が敵性語だった英語を初めて見たり聞いたりしたのは中学に入学した昭和20年だったが、それでも立派に間に合っていた。

私は長年英語の確実な勉強法としての音読と暗記と暗唱の必要性を強硬に論じてきた。単語帳無用論も、英文和訳無用論も指摘してきた。英作文が最も端的に実力が判明するとも指摘して来た。更にはNative speakerに依存することの危険性も唱え続けてきた。TOEICやTOEFLの重用も批判し続けた。ここまでに対して大方の不賛同を得てきたことを誇りにすら思っている。週刊新潮の特集記事もこれらの主張とほぼ同じだと都合良く?解釈している。

まして「社内の公用語を英語に」などは論評にも値しないと思っている。その意味は「我が国の学校教育で教えられた科学としての英語で如何に流暢に自己表現できて他者のいうことが理解できても、それはそこまでのことであって、科学としてお英語とは全く異なる(あるいは「似て非なる」“English”による“How to express myself in English.”への道には通じていないからだ。

私は寧ろ今回の週刊新潮の記事などは遅きに失したとすら思っている。これまでの我が国の「科学としての英語」を教え込んだ単語や妙に文法に執着したやり方の輝かしくない成果を、実際のビジネスの世界で20年以上も見聞というか経験してきたことから言っているのである。私の周囲におられる改革論者の先生方が、この記事で少しでも勢いをつけて下されば良いのだがとすら願っている。

その先生方の1人が私の英語を「支配階層の英語だ」と評された。その通りだと思う。W社とはそういう極めて少ないアメリカの指導者層の人たちが集う世界だったのだ。その点を衝かれたこの先生のご意見の意味は深いものがある。日本語でも育ちというか所属する集団によっても異なってくるものがあれば、方言も訛もある。そういう違いが英語にも当然のようにあるのだ。即ち、どの階層というか集団の英語を以て標準とするかが解らない方が「教えるべき、学ぶべき英語」を決めてはならないのだと思う。

より解りやすく言えば、UKにも階層があれば好ましくない訛も方言もある。英連邦を尊敬する余りにオーストラリアやニュージーランドの訛を真似て良いとは言えまい。ここに指摘した英連合王国独特にアクセントや訛りを聞き分けて指摘できない方が英語を教えるべきではないと言いたいのだ。ところで、アメリカにも東海岸独特のアクセントもあれば、南部訛を貶す人たちもいるのは確かだ。だが、どれが南部訛かを聞き分けることを我が国の学校教えてくれるのだろうか。あり得ないのではないか。

私は一度ここ新宿の路上で英会話学校の教師になるために来たと嬉しそうに言った若いアメリカ人に「貴方は外国人に英語を教える資格を取得してきたのか。何処かでその方法を学んできたのか」と尋ねたことがあった。彼は「資格もなく経験もない」と言うので「それではほとんど犯罪的である。直ちに荷物を再度纏めて帰国せよ」と決め付けたら目を白黒させたことがあった。手柄話をしているのではない。Native speaker何てこの程度だということを認識して貰いたいから言うのだ。

彼には「日本人が英語を学ぶ際に何処でどの辺りで最も悩み苦しむのか承知しているか」とも質問したが、答えられなかった。私は39歳で初めてアメリカの本社に行った際に、機内で知り合ったアメリカ人にサンフランシスコの空港で乗り継ぎの便を待つ間に”I’ll buy you a drink.“と誘われて、何のことか理解できるまでに数秒を要した。「それは一杯おごるよ」だった。

また、初めて訪れたM社本社のマネージャーの秘書の方がコーヒーを出してくれる時に "How do you take it?" と尋ねられて「カップから飲むに決まっているではないか。何という質問か」と悩んだ。これは「砂糖とクリームが要るか」という意味だった。アメリかでは「コーヒーにミルクは入れないで、クリームを入れる」ということもこの時に学んだのだった。

アメリカ人にはこんな簡単な事でも当惑する日本人がいるとはに解らない者たちは多いと思っている。その人たちにどうやって日本人に「「科学としての英語」と“English”との違いを弁えて会話を教えるのかも知れないのだ。私はnative speakerとはこんな程度だと認識していた方が良いと思っている。反対に「貴方は日本とアメリカの違いを心得て、アメリカ人に日本語の会話を教えられる自信がありますか」と伺って見たいのだ。

話が本題を逸れたが、英語とは何であるかの基礎を固めてから、各人の希望や目的によって進むべき方向を目指せるように英語を教えるべきであり、万人がペラペラになって道を教えられるようにしても、成毛氏が指摘されたように使い道がないだろう。週刊新潮が指摘したように、小学校から教えては英語嫌いをその段階から養成するような結果に終わるのではないかと真剣に危惧する次第だ。


アメリカへの憧れ

2018-12-23 10:36:30 | コラム
アメリカの何に憧れたのだろう:

昭和20年4月に中学に進んで8月に戦争が終わり、進駐軍にアメリカの物質文明というか豊かで豊富な食べ物や衣料品を見せつけられた私は、矢張り例外たり得ず高校の頃には「アメリカに留学したい」と憧れ熱望する一人だったと思う。だが、今にして思えば「アメリカに行って何を学びたいのか」のような具体的な考え方はなかった。その頃には高校の英語の先生が何人か「フルブライト資金」だったかで1年行ってこられたのを見ても「僕も行きたいなー」となったのも当然かも知れない。

後年知ったことだが、私は高校では「英語しか出来ないサッカー部の生え抜き」として知られていたが、私が高校1年の頃に既にアメリカ人の中に入っても言葉で苦労はしないという「会話能力」があることはほとんど知られていなかったし、自分でもそういうことは先ず言い出さなかったように記憶する。その英語が話せるようになっていたのは、GHQの秘書の方に後にアメリカ人たちにも褒められたような教え方をして頂いた賜物だった。

折角身につけた英語力だったが、就職活動をする頃には「英語を使って仕事をする会社は希望しない」と考えるようになっていた。その根拠は、ほぼ4年間続けたアルバイトと、その中で別途経験した通訳の仕事から、「日常の職務に英語を使わねばならないことは余分な負担となるし、現在の(その当時の)アメリカ人の我々に対する扱いを経験した結果で、外資は雇って頂きない先だと決めていたからだ。

そして17年間英語とは全く無縁の製紙会社の国内向けの営業担当者として働いている間では「アメリカに行きたい」とも「行こうとも」とも「行ける機会が巡ってくる」などと考えたこともなかった。「もう、英語は趣味にでもしておけば良いか」くらいに考えていた。そこに1969年に全く予想もできなかった偶然の積み重ねで社内で「英語が出来る」と常務に披露してしまうことがあって、運命が大きく早く回転し始めてしまった。

結果的にはお世話になり育って頂いた会社を辞めて1972年にアメリカの会社に転出してしまうことになって知ったのだから、運命など予測しがたいもので「行きたいとも行けるとも行こう」とも思っていなかったアメリカに行くようになったのだった。初めて渡ったカリフォルニア州からジョージア州、ニューヨーク市と目まぐるしく旅している間にその物質文明の素晴らしさには確かに感動したものだった。

最初の転進先であるM社に入社直後の25日間の「トレーニング」という出張が終わる頃には、「アメリカに永住しても良いかな」と思ったほど人々も親切で明るかった。「矢張り憧れていただけの価値があったな」という辺りが偽らざる感覚だった。即ち、未だ未だ「企業社会における仕事の手順、仕来りという文化の違い」も弁えることが出来ておらず、生活習慣の違いなどには触れる機会などなかった。

だが、大きな家と芝生の綺麗な庭、ガレージに付けられているバスケットボールのリング、発達して広く行き渡っている家庭電器、自動車を下駄というかスリッパのように単なる移動手段として乱暴に扱っている感覚の違いがあるなど、驚かされたことが多々あった。

そして1975年に縁あってW社に転出することになって、そこで数少ない日本人の社員X君に出会う機会もあった。彼はICUを経てUCLAのビジネススクールでMBAを取得した精鋭で、W社が世界的にも誇る“M&ER”(直訳すれば経済・市場調査部)のエコノミストだった。余談になるが首席エコノミスト、リン・マイケリスなどは我が国が講演を依頼して招聘したほど著名だった。

だが、X君はW社が人員を増やして売り上げを伸ばした後で、リストラで人員削減を繰り返して成長していった中で、リストラに対象になってW社ジャパンの営業職に変わってきたのだ。彼が言うには「我々の能力や才能は決して彼らに劣っていないと思う。だが、UCLAのビジネススクールで優等生を取れなかったのは教育の方式の違いだった。我が国では学校で教えられたことの範囲内で十分に予習・復習を繰り返していくと良い成績が取れるが、ここにアメリカとの違いがある」と教えてくれた。

彼は「その違いはアメリかではただ単に教えられたことだけやっていたのでは埒があかないのだ。自分から積極的に先生や教授に言われていない範囲のことまで身につけておくことが評価の対象になるのだ。特にビジネススクールともなれば研究の領域を自分でどんどん拡張していく姿勢が身に付いていないとアッという間に評価が落ちてしまうのだ。自分が小学校からそういう教育で育った来ていれば、彼らアメリカ人に負けなかったと思うが、ビジネススクールまで来ては手遅れだったのが残念だった」と述懐した。言わば「文化の違い」に大きく左右されたのだった。

X君の話はここで終わっていない。彼がリストラの対象としてM&ERで2名候補が指名された時に、彼の競合相手がアメリカ人だったそうだ。彼曰く「能力だけならば負けていなかったが、英語力では遺憾ながらnative speakerよりは劣るので、自分が切られると覚悟した」と言っていて、実際のその通りとなってしまった。私はこれまでに色々と「企業社会における文化比較論」を述べてきたが、アメリカの教育の仕方にはかかる違いがあったことに触れるのは最初かと思う。

ここで活きてくるのは上述の「何を何処で学ぶか」を考えずに「教育のシステムと言うか評価の仕方の違い」を知らずにアメリカに留学しても容易に成果が挙がらないかも知れないのである。YM氏は「遺憾ながら我が国からの留学者の英語力では・・・」と繰り返して指摘していた。換言すれば「単なる憧れだけでアメリカに渡るのは考えものでは」となるかと思う。