君自身の意見を聞きに来た:
以前に採り上げて論じたことがあることで、アメリカのビジネスマンたちは "first-hand" 即ち、自分で調査したかあるいは何処からか聞き出して自分の意見として練り上げた情報を評価するが、 "secondhand" と言うか「伝聞」を伝えても多とはしないのだ。
それ即ち見出しのように「私は君の意見か見解を聞きに来たのであって、誰かから仕入れた伝聞やマスコミの情報などは聞きたくない」となるのだ。彼らの世界では第三者からの伝聞の情報が如何に有益であっても、それでは評価の対象とはならないのである。ここで認識して頂きたいことは「アメリカの企業社会では、各自の意見を尊重する文化がある」という点だ。
そこで、英語の解説に入っていこう。私は個人の意見を尊重するとの文化と思考体系の違いも重要な問題だとは思うが、我が国の学校教育における英語の教え方にも問題があると思っている。それは、「It ~ that ~.」 の構文というのか、先ず "It" を先行させて "that" 以下の "clause" 何かを表すことや、"They say ~." や、"I was told that ~." のような形で文章を作っていくと教えられているようなことを指しているのだ。
これでは他人の意見を伝えることを先ず教えていることになってしまうのではないか。私がW社で日系人のワシントン大学のMBAだったJ氏に厳しく指導されたのはこの点だった。それは「そういう言い方ではなく、飽くまでも貴方の意見を I think that ~. のような表現で「自分」を前面に出しなさい。さもなければ上司は評価しない」ということだった。
「教しえられているような」としたのは、自分自身が最早学校で教えられる機会もなく、中学や高校の英語を教えている現場に立ち会った訳ではなく、22年半も対日輸出をして多くの同胞の英語に接してきた間に、このような第三者からの伝聞を伝える英語がごく普通に使われていたので、そのように推理したまでのことだ。
彼等アメリカのビジネスマンはこのような伝聞を伝える文章が、仮令文法的に正しくても「伝聞では意味がない」と批判するだけでなく、有り難がることは先ずないのだ。私自身も何度か「君自身の意見を具申せよ。第三者が如何に良い意見を出しているかを聞きに来たのではない」と窘められた経験があった。
しかし、中学校の英語教育ではこのような文化比較論にまで触れる必要もないだろう。だが、何時か何処かの段階でこの辺りにまで触れておかないと、折角良い情報だと思って報告しても、「日本人は伝聞をさも有益な情報だと思って語るのは困ったものだ」という意外な結果になってしまうものだ。故に、私は遅くとも高校の3年辺りか大学の教養課程では文化比較論まで教える必要があると考えている。
しかし、このような“first-hand information”尊重の文化比較論は、一般的な所謂「日常会話」の中で問題にされることがないのは言うまでもないので、万人にまで教える必要はないと認識している。
視点を変えれば、アメリカでは「個人の主体性」がどれほど重要で、どれほど尊重されるかは大いなる我が国との文化の違いであることは教えておくべきだということ。また、彼らには「皆が一丸となって」であるとか、「テイーム全体が一塊になって」とか「全員野球で」といったような思想は先ずないと思っていて誤りではないということでもある。因みに、我が生涯最高の上司だった副社長兼事業部長は “team effort”とは言ったが、「テイ―ムワーク」にはついぞ触れたことはなかった。
以前に採り上げて論じたことがあることで、アメリカのビジネスマンたちは "first-hand" 即ち、自分で調査したかあるいは何処からか聞き出して自分の意見として練り上げた情報を評価するが、 "secondhand" と言うか「伝聞」を伝えても多とはしないのだ。
それ即ち見出しのように「私は君の意見か見解を聞きに来たのであって、誰かから仕入れた伝聞やマスコミの情報などは聞きたくない」となるのだ。彼らの世界では第三者からの伝聞の情報が如何に有益であっても、それでは評価の対象とはならないのである。ここで認識して頂きたいことは「アメリカの企業社会では、各自の意見を尊重する文化がある」という点だ。
そこで、英語の解説に入っていこう。私は個人の意見を尊重するとの文化と思考体系の違いも重要な問題だとは思うが、我が国の学校教育における英語の教え方にも問題があると思っている。それは、「It ~ that ~.」 の構文というのか、先ず "It" を先行させて "that" 以下の "clause" 何かを表すことや、"They say ~." や、"I was told that ~." のような形で文章を作っていくと教えられているようなことを指しているのだ。
これでは他人の意見を伝えることを先ず教えていることになってしまうのではないか。私がW社で日系人のワシントン大学のMBAだったJ氏に厳しく指導されたのはこの点だった。それは「そういう言い方ではなく、飽くまでも貴方の意見を I think that ~. のような表現で「自分」を前面に出しなさい。さもなければ上司は評価しない」ということだった。
「教しえられているような」としたのは、自分自身が最早学校で教えられる機会もなく、中学や高校の英語を教えている現場に立ち会った訳ではなく、22年半も対日輸出をして多くの同胞の英語に接してきた間に、このような第三者からの伝聞を伝える英語がごく普通に使われていたので、そのように推理したまでのことだ。
彼等アメリカのビジネスマンはこのような伝聞を伝える文章が、仮令文法的に正しくても「伝聞では意味がない」と批判するだけでなく、有り難がることは先ずないのだ。私自身も何度か「君自身の意見を具申せよ。第三者が如何に良い意見を出しているかを聞きに来たのではない」と窘められた経験があった。
しかし、中学校の英語教育ではこのような文化比較論にまで触れる必要もないだろう。だが、何時か何処かの段階でこの辺りにまで触れておかないと、折角良い情報だと思って報告しても、「日本人は伝聞をさも有益な情報だと思って語るのは困ったものだ」という意外な結果になってしまうものだ。故に、私は遅くとも高校の3年辺りか大学の教養課程では文化比較論まで教える必要があると考えている。
しかし、このような“first-hand information”尊重の文化比較論は、一般的な所謂「日常会話」の中で問題にされることがないのは言うまでもないので、万人にまで教える必要はないと認識している。
視点を変えれば、アメリカでは「個人の主体性」がどれほど重要で、どれほど尊重されるかは大いなる我が国との文化の違いであることは教えておくべきだということ。また、彼らには「皆が一丸となって」であるとか、「テイーム全体が一塊になって」とか「全員野球で」といったような思想は先ずないと思っていて誤りではないということでもある。因みに、我が生涯最高の上司だった副社長兼事業部長は “team effort”とは言ったが、「テイ―ムワーク」にはついぞ触れたことはなかった。