新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

10月24日 その3 ここでは side について

2017-10-24 16:38:29 | コラム
Websterにはsidekickは載っていなかった:

何としたことか、アメリカの辞書でありながら sidekick は見つからなかった。一寸した驚きだった。

そこで、あらためて side を考えてみよう。Side とはジーニアス英和には①で「側(がわ)、面《◆前後・左右・裏表・内外・上下の面・点・線・方向に用いる》」とあり、②では[通例 the / one’s ~]側面、わき、横、そば」とある。私は「傍ら」が最も相応しいかと思って使っていた。Oxfordには either of the two halves of a surface, an object or an area that is divided by an imaginary central line となっていた。この方が簡単明瞭か。

実は、このような小難しい英語の講釈が本意ではない。sideが日常的にどう使われるかと採り上げたかったのだ。食事の注文などの時に、例えばビーフステーキを頼むとしよう。その際にウエイターたちはほぼ間違いなく side order はと尋ねてくるだろう。これは添え物の料理のことである。本来の注文品の傍らに添える副菜である。傍らの注文ではない、念の為。これは慣れるまでは意外に面倒で、何と言えば良いのか迷うのだ。

その場合には、アメリカ独特の美味でも何でもない hash browns (=ジャガイモを細かく刻んで油で揚げたか炒めた料理)であるとか Crispy bacon や baked potatoes (文字通りジャガイモを焼いて真ん中ら切ってあり、そこに色々な調味料のようなものを加えて食べる)を頼むのがアメリカ式である。その際に一寸格好を付けて、I’d like to have baked potatoes on the side. などと最初から言っておけば事は簡単に済むのだ。

他の例を挙げよう。アメリカのような車社会では歩道のことを sidewalk などと称するのも面白い現象だと思う。「人は傍らを歩け、道路は車のものだ」と言っているように私は受け止めた。flip side という表現もある。これはOxfordには 1 different and less welcome aspect of an idea, argument or action, とあり、ジーニアス英和には[比喩的に]悪い面、望ましくない側面、マイナス面(downside)などと出てくる。

言いたかったことは side のような簡単そうな単語にも、使い方次第で色々な異なった意味になるのが、英語のイヤらしさだということである。同時に「単語だけを覚えなさんなよ。流れの中で覚えてこそ初めて意味があるのだ」という点を強調したかったのだ。

10月24日 その2 立憲民主党に思う

2017-10-24 08:42:33 | コラム


あれは嘗ての菅内閣そのものではないか:

枝野幸男が率いる形となった立憲民主党はまさしく菅直人内閣の、あの失政だらけの無残な無能内閣の閣僚が糾合した政党です。その政党に「反対」以外の何が期待できるのかという前に、私が呆れ且つ嘆いたことがあります。

それは福島原発後の大失政に続き、1ミリシーベルト等の数々のいらずもがなの混乱を生じさせた大失態を演じた民主党内閣の連中を、如何に希望の党の不手際があったにもせよ、全国であの顔触れを支持する偏向したか、あるいは旧民主党を支持する者があれほど残っていたという、一種の恐怖感です。つい5年前までの歴史認識の不足現象でしょう。

その立憲民主党を朝日新聞以下が一向に批判したいのは当然でしょう。それは彼ら自身が戦後の左翼を以て貴しとなす精神を引きずっている以上、未だ以て左翼をこそ我が生きる道という考えから脱却できていません。しかも、それを援護する偏向した憲法学者や大学教授たちが数多くいるのだから堪りません。

だからこそ、枝野は安倍政権を「上から見る政治だから、草の根からの政治に変えよう」となどとほざくのです。辻元清美が参加したのは理解できますが、長妻は不思議だったと思いました。嘗て、国民会議で講演した際に理路整然として、言わば少なくともリベラルとは聞こえないことを語った時には、自民党側の講演者・船田元よりは優れているとの印象がありましたので。

組織を運営する能力

2017-10-24 08:34:08 | コラム
政治家を志すならば先ず実社会を経験せよ:

これは先日あらためて紹介した故緒方竹虎が同家で書生をしていた地元の名門修猷館高校を経て早稲田大学政経学の学生が、大学を卒業する時に教え諭した台詞である。私は諭された当人(同期入社だった)から聞いて、そういうものかと思った。私は政治家の手腕の発揮の仕方にも色々と分野や乃至や種類があるのだろうくらいには考えている。そして、人によっては政治家になるまでに一定以上の人数で構成されている会社、団体のような組織の長を経験しておく必要があるだろうとズーッと考えてきた。

それは「組織の長たる者はどのように組織を作り上げ、人を動かしていくかを経験しておくことが将来必ず役に立つはずだ」と信じているからだ。そういう組織と人を統治していくことは県会議員等の地方議員を経て国会に出来た方には経験する機会も暇もなかったと思っている。そういう議員が当選回数も少なく、失礼を顧みずに言えば「数合わせ要員」である間は何の苦労もなく問題も生じないだろう。「組織と人を動かすこと」は秘書さんたちを使うこととどれほど違うゲームかを学ぶ機会はないだろう。

また、幸運にも閣僚に任じられれば、そこにあるその議員が長となる官庁は恐らく我が国で最強の部類の組織だろう。新大臣の能力如何に拘わらず動いていける組織ではないのか。そのような統治をする能力のことを、我が国の議員たちかマスコミか知らないが、何故か「ガヴァナンス(governance)のようなカタカナ語を使って格好を付けてようとしたが、私に言わせれば、英語擬きを使って自らの至らなさを補おうとでもする企みだろう。Oxfordには”the ability of governing a country or controlling a company or an organization” とあるから、意味は間違いではないようだ。

小池百合子さん率いる希望の党はこの度の選挙では、発足当時に豪語したほどの結果が出ずに議席を減らしたのだが、私はマスコミが挙って貶すような惨敗ではなく、予測できた当然の結末だったと思っている。その主たる原因の一つとして先ず言えることは、指導者である小池百合子東京都知事と希望の党の組織の結成と運営と指導の経験が全くなかったことがあると思う。しかも、小池さんは自らが掌握した全権を如何に適正に行使するかを、全く経験してこられなかったので、独断専行も多かったし、発言にも誤りが多かった。推測すれば、側近に人を得ていなかったも知れないのか、人を見る目を鍛えれる暇もなかったとも言えるだろう。

私は何もここで小池批判を繰り返している気はない。言いたことは「自分が全権を掌握する組織を作り上げて(「立ち上げる」という妙な表現を流行らせたのは何処の誰だ!?)それを成長させる経験を積んでこそ指導者たり得るのである」なのだ。しかも、組織の長は「組織の構成員一人一人に権限を委譲して責任を持たせて仕事をさせることが、どれほど恐ろしいかを知るべきなのだ。その経験なくして部下に任せる度胸も備わっていなかったにも拘わらず、何でも自分でやろうと思えば、失敗することが多いのは当たり前ではないか。

それほど簡単ではない自分の組織の運営が滞りなく行っていない状態で、他社(他党?)との経営統合や合併を企図するのは時期尚早であると言える。そこまで企てるのならば、周囲によほどカタカナ語にすれば「スタッフ」(=参謀)である手練れの経験者か法律の専門家がいない限り、組織の長が狙ったような成果が挙がる確率は低いと思う。ここで、いきなりアメリカの会社の例に話が飛ぶが、かの国では事業本部長は自ら面接してこれと思う者たちを集めて新規事業に進出を企てるのだ。アメリカ礼賛ではない、飽くまでも比較論の一端である。

矢張り、小池さんの批判の如きになってしまったかも知れないが、私は実社会(会社勤務でも良いだろう)の経験もなく、そこで自分の責任で組織を任されて、部下に権限を与えて仕事をしたことがある人が国政の場に出ていく方が、故緒方竹虎の言にもあるように、望ましいと考えている。では、どのような会社でも良いのかと言えば、そこには容易ではない選択がある。その人物が会社を選べるのはなく、選ぶのは会社側の権限なのだから。