新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

10月7日 その3 日本代表のサッカーの試合

2017-10-07 15:24:42 | コラム
6日夜の対ニュージーランド代表戦:

1週間も悩まされた体調の不備から漸く脱出しかけた夜の試合だった。相手はFIFAの112位とかでは、楽勝しても何の不思議ではなかったはずだ。だが、香川真司が嘆いていたと報じられたように「何の為に、何がしたくて雨中でやった試合なのか」が良く解らなかった。

その疑義を呈していた香川真司だが、不思議な選手のようで、ドイツでやればあれほど輝きもあり鋭いパスのセンスを示すのだが、前任者のザケローニに続いてハリルホジッチ監督も何故か香川を一試合使い切らないで交替させてしまうのだ。と、自分で言ったが、私は彼の悲劇は中田英寿と同じで、「周囲の10人というか9人が香川真司ではなかったこと」が悲劇の主たる原因だと謎をかけるのだ。

その心は「ドイツのドルトムントにいれば周囲は世界各国からはせ参じたサッカーが本当に上手い選手だけで構成されたテイ―ムだからこそ、香川真司を活かして使うことができるし、彼独特のパスのセンスに合わせて動いてくれるから」と解くのだ。昨夜の動きというかパス出しは決して悪いとは思わなかったが、周りがドイツでの試合のようには合わせてくれなかったのではないか。それにシュートを外しすぎた。

前半の流れでは、なるほど我が国のサッカーでも流石に40位だけのことがあるようだと思わせてくれた。だが、あれほどシュートを外していたのは形ができていなかったのことに加えて、相変わらず不正確だったという恨みが残った。これほどチャンスを逃しているようでは後半に苦労すると思わせてくれた。だが、あの程度の相手で手こずっているようでは駄目だ。

ハリルホジッチ監督の選手起用と言う前に、招集の仕方がおかしいと何時も感じている。昨夜も6名の交代枠を考えても17人しか出せないのにも拘わらず24人も集めて、GKの2人まで含めて7人は雨中を座ってサッカーを見ていただけに終わらせた。私が以前から指摘していたことで、GKの川島は顔が怖いだけでヘボだから、折角呼んできた中村だったかを使って経験させる手はあったと思う。

後半に入ってラグビーの世界の強豪国であるニュージーランドのサッカー代表は、恐らくラグビーをも経験していたことに起因するだろうと思わせる理不尽に近い当たり方もするようになって、一気に攻勢に転じて、アナウンサーが「高さがある」というヴァレーボールの中継放送ででも言い出したのだろう妙な日本語で「身長が高い」Woodと言う191 cmの選手に吉田麻也の頭越しにヘディングシュートを決められて同点にされてしまった。「だから言ったじゃないか」だった。

結局は終わりに近くなって2点目を取って辛うじて勝ったが、勝って当然の相手に僅差で勝てて喜んでいる場合ではない。本番のW杯の試合ではニュージーランド代表などとは比較しようもない相手ばかりになるのに決まっている。それなのにも拘わらず112位の国と練習試合を組んで何とする。協会は何を考えているのかと尋ねたい。香川真司が疑問だと言ったのも当然だろう。

肝心の点を取ることだが、アナウンサーも解説の都並他が期待して見せた久保も負傷上がりの武藤も不発だった。彼らは何かというと大迫を褒めたがるが、ポスト役が上達しても得点がPKだっただけでは褒める訳にはいかない。NPBに来ているヘボのMLBの落第生の連中をみよ。常に「目に物見せてやろう」とばかりに目茶苦茶に近い積極性を発揮して前後を考えずに初球から振って行くではないか。彼らに溢れんばかりの自己顕示欲がある

FWの連中はもう少しだけ外国人式の自己顕示欲を出して、シュートまで持って行ってやろうというあの対オーストラリア戦で井手口が見せた強引な積極性を出して見せて欲しい。アナウンサーに、とんだ蹴り損ないのシュートを「惜しい」などと慰められていても無意味だろう。

中盤から後ろでは良くは守って良く繋いでくれたが、矢張り長谷部がいない為に中心人物が不在かとの感があった。監督さんは何故昌子源を外して最後まで私は格下と評価する槙野を使ったのだろう。井手口は未だ代表経験不足か、昨夜の出来はもう一つだった。浅野も同様だと見えた。23人を残す為の練習試合をやるのだったら、もう少し怖い相手とやって「何処までできるか」を試すべきではないのか。

昨夜などは長友だけは流石だと思わせてくれたが、それでは情けないのだ。彼も監督が今回呼ばなかった本田と岡崎と同じで永年勤続で世代交代を迫られる世代の一員ではないのか。「他人を以て代えがたし」とでも監督が見ているのだったら、それでは選手起用の方針にフラつきがあることになってしまう。GKだって同様だ。川島といい、川口といい経験者の尊重が過ぎる。結局、監督不信論になったかのようだが、矛先は協会にも向けたつもりだ。


10月7日 その2 英語の発音

2017-10-07 09:59:11 | コラム
カズオ・イシグロ氏の英語を聞いて思う:

テレビの画面ではほんの少しの間だけ流れたのだったが、イシグロ氏(マスコミ流ならばカズオさんか?!)の発音は、聞き取り能力が高齢化と劣化の両方で悩む私にもとても聞きやすかった。それは、彼の発音は今や私が苦手とする「典型的なQueen’s accent」ではなかったからだ。「では何だ?」とお尋ねならば、「日本式な発音の残り香もあるUKの英語だったから」とでも言っておこうか。

私が色々な意味で大きな影響を受けたワシントン大学のMBAであるBJ氏は「正調なアメリカ語の発音とは、アメリカ西海岸のそれである」と教えてくれた。それは大雑把に言えば「Queen’s Englishのような平板に流れずアクセントが強調され、ヒラリー・クリントンのように母音とrが絡んだ音で必要以上にrで舌を巻かないようにすること」だと、ご理解願いたい。

尤も、世の中にはへそ曲がりの方がおられるようで、私が信奉するアメリカ西海岸の発音の正調説を「英連邦をお忘れだ」など貶す方もおられるので、ご承知置き願いたい。私が知らない訳はないのです。UKの製紙会社の方とは転進前からお付き合いがありました。

ではお「前の発音は何だ」と訊かれそうだ。実は、イシグロ氏の英語を聞いていて「何だが、俺の発音が似ていないか」と感じたのだった。私はそもそも日本で生まれ育った日本人として、アメリカ式の発音は言うに及ばず、Queen’s流だって無理な相談だと思っていた。そこで、その両者の中間を中学の頃から目指してきたのだった。だが、育てられた環境からして、アメリカ式のアクセントを影響を強く受けるようになって、UK式とは一線を画すようになっていた。

では具体的に何を目指していたかと言えば、アメリカ人の会社に転じてから気が付いたのだったが、英語が上手いか下手かという議論はさて措き、兎に角明瞭で聞き取りやすくなっていたらしい。「らしい」と言う理由は、1988年に初対面で語り合った他の事業部の管理職に「その発音の“clarity“(=明快さとでも言おうか)が良い。それを維持しなさい(英語は“keep up with it“だった)」と言われて、初めて自分の発音の特徴に気付かせられたのだった。

それは「アメリカ人やUKの人たちの真似もするが、無理にrを響かせるとか何かではなく、原語にあるアクセントをしっかりと守って、何も速度を上げることなど考えずに、相手に聞き取って貰えるように努力すること」なのだ。だが、そこに加えるに「慣れと度胸を養って、自信を持って話すことを忘れてはならない」という意味でもある。

私が日頃唱えている「文化と思考体系の違いを弁えて話す」ようになるのは、発音が正確になることの遙か先にある問題。その意味では、カズオ・イシグロ氏の発音は非常に良いお手本になるかと思って聞いていた。あの辺りだと、日本人であって努力すれば、比較的容易に辿り着ける可能性を秘めていると思うのだ。だが、あのニュースの画面を録音された方がどれくらいおられただろうか。


カズオ・イシグロさんに思う

2017-10-07 07:51:14 | コラム
ノーベル文学賞受賞:

この一報がテレビの画面に「チンポン」という音で現れた時には、物を知らない私は「何のことか?」と一瞬判断ができなかった。そして「そうだったか文学賞である以上小説家か。それならば聞いたことはあった名前か」と思った程度だった。

その次に現れた現象にはもっともっと戸惑わせられた。産経新聞までが紙面を大きく割いて「日系英国人の受賞」を喜んだのだった。日本生まれで英国(UK→英連合王国の中のEnglandのことだろう)に渡られた方であれば、仮令帰化された後でも、その受賞を日系人として喜ぶ気持ちは解る気がする。

また、イシグロさんは「日本から受けた好印象の影響」を語られていた。自然な流れであると思う。だが、私が長年接触してきた白人国の人たちの優れた社交性では、日系人の方々がインタビューを受けてごく当たり前のようにあのようなことを言うのは普通であろう。特筆大書して褒め称えても良いが、それ自体も「社交辞令」のうちに入るのではないのか。何が言いたいのかと言えば「反応が過剰すぎないのか」である。

私は長年、特にアメリカの会社に転進して以降は、数多くの日系アメリカ人は言うに及ばず、多くの国を祖国に持つ白人のアメリカ人に出会い、共に仕事をしてきた。多くの日系人でも、私よりも一世代上乃至は同世代の方々は国籍こそ違え、頭の中の半分以上は日本人だったのである。簡単な例を挙げれば、日本語は我々と同じに話されるし、自由自在に書くこともできるのが普通だった。

私に英語で話すことを教えて下さったGHQの秘書だった方は日本語を話すどころか、筆で崩した字を書けるような方だった。私がアメリカの会社へ転進する切っ掛けを作って下さった日系カナダ人のGN氏は「古き良き日本の心と我が国の伝統を両親に教えられた」としっかりと、我々で悪ければ私以上に維持しておられた、古き良き日本人だった。

だが、それ以下の世代となると完全にごく普通のアメリカ人として生まれ育ったので、外見は日系人だが、言葉も思考体系もアメリカ人で「我が国を祖国としてみ見ているのではなく、かなり多くの点で異文化を持つ非常に親しみやすい優れた国」として認識ているようだとの印象だった。日本語で話せる方が例外的だった。

わたしはカズオ・イシグロがどのような方かなどは、報道された以上のこと以外は一切承知していない。しかし、立派な小説家だろうとは思う程度だ。だが、日系人だからと言って我がことのようにその受賞を言祝ぐのには一寸違和感がある。と言うのはイシグロ氏以外にも、マスメディアの目には止まらなかった優れた日系人で、我が国に遠くから貢献された方は数多くおられると思う。

「私に英語と日本語の学校では教えていないような違いから始まって、日米間の物の考え方の違い等」を思い知らせてくれた日本生まれで、中学進学前から渡米され帰化されたBJ氏のような優れた日系人」がおられるのだと敢えて言いたい。彼は我が国の製紙産業にも貢献された実績がある。彼はMBA取得後に就職し東京に転勤を命じられた。そして20年以上も離れていた日本語を勉強し直して、日経新聞を読みこなし、日本語を話す場合に英語の単語を挟むことを軽蔑し、もしも使いたければ現地の習慣に合わせて「カタカナ語の発音にすべし」とまで説いていた。

私はカズオ・イシグロの功績を称えることを云々するのではなく、寧ろ「色々な事情があって日本を離れて諸外国で生まれたか育った日系人とは」というような視点からの報道というか特集記事があっても良いのではないかと思っている。異文化の中で育った者が父祖の国をどのように見ているかを率直に語らせてみれば興味ある記事になると思う。しかし、私が20年以上も語り続けた「日米企業社会における文化と思考体系の違い」は未だ未だ一般受けしない。何故だろう。きっと、日本人だからだろう?!