新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

通訳無しだったそうだ

2017-08-09 08:04:48 | コラム
河野新外務大臣がテイラーソン国務長官と会談:

河野外相はこの初めての会談では通訳を介さず(得意の)英語で話し合ったと報じられていた。産経もこの通訳無しには懸念を示していたが、私は何とも微妙な問題だとは思う。河野外相は豊富な留学経験がおありで英語での意志の表現には自信があったのだろう。何故、産経は「得意の」と付けたのだろう。どういう意味だろう。

嘗てこういうことがあった。それは田中角栄元総理のロッキード問題が騒がしかった頃に、我がW社の事務所の隣にあったユーナイテッド・ステイ―ル社(現ユニマット・ホールディングス)のオウナー、シグ・カタヤマ氏が国会に証人喚問されたことがあった。言わば隣人のカタヤマ氏は日系米人だが、流暢な日本語を話していたのを我々は承知していた。だが、彼は国会では英語で押し通した。

「何故か」と思った私は、彼と普段から英語で話している我が社の日系人・J氏に尋ねてみた。J氏は「あのような公式な場面で重要なことを話さねばならないのであれば、私も最も安心して自分の思うことが言える英語にするだろう」と言った。因みに、J氏の日本語力は日経新聞を読みこなし、我々とはごく普通に何の問題もなく日本語で会話をしているほどのものだった。それでも、難しい場面では英語にすると言うのだった。

私も「通訳も出来る商談の当事者」と戯称していたので、J氏に「一度くらい誰かに通訳して貰い、自分は黙って座っているだけにしたい。そして、開放感を味わってみたいと思うことがある」と偽らざる所を述べてみた。J氏は「それは一寸意味が違うが、生半可に外国語で語る危険を冒さなかったカタヤマ氏の英語での証言は当然であり、賢明だと思う」と語った。

そこで、河野外相だが、私は事前に外務省の人たちに通訳無しで語り合うと通告していたのなら話は変わるが、矢張り日本語にしておいた方が良かったと思う。それは、外相が日頃から英語を使う必要がある生活環境にいたかどうかという問題もあろうが、安全なはずの日本語で語って通訳がどれほど正確に訳してテイラーソン長官に彼の意志を表現しているかを吟味していれば済むことだと思う。もしも思い通りの通訳ではなかったならば、自分で訂正することも出来ると思う。

それでは、閣僚は常に日本語だけで話しているべきだと言っているかのようだが、相手が述べていることを英語で聞きながらその内容を自分で解釈し、更に通訳の翻訳を聞いて二重に確認するだけの英語力があるのに越したことはないと思う。最も危険なことは、中途半端な英語力で「通訳は不要だ。自分で話す」と乗り出すことだ。会談終了後に「あの人は何を言いたかったのか。どうも良く解らなくて弱った」と上司に嘆かれたことが何度かあった。

何れにせよ、通訳の存在も微妙なのだ。私は可能ならば初見の方の通訳は辞退したいと思っている。何故かと言えば、私は生涯最高の上司と呼んでいた副社長の通訳は10年以上も務めたので、彼の人柄も承知しているし、その日のご機嫌のほども読めるし、如何なる言葉を使えば何を言いたいのかと解っているからだ。初見ではどうしてもおざなりになってしまう危険性があり、責任が持てない。

しかも、時と場合によっては、上司が実際に述べていないような発言の背景にある事実などを持ち出して、補強・補足が出来るのだ。それでは越権ではないかと言われそうだが、私は「通訳も出来る当事者」と先ほどお断りしてあった。しかしながら、通訳を職業としておられる方々はこうはいかないと思う。河野外相の信念はどうなっているのだろう。外務省の通訳担当者はどうお考えだろうか。

最後に私の結論めいたことを言えば「初めてのテイラーソン長官との会談に通訳無しで臨まれたことは勇敢だったとは思うが、矢張り依存された方が無難且つ安全ではなかったのかな」辺りだ。



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