新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

カタカナ語は英語まで乱しているのだ

2014-07-20 14:54:40 | コラム
カタカナ語は英語まで乱しているのだった:

後難を怖れて言えば、ここに私が乗せる英語関連のものは余り歓迎されていないと思っている。それは既に「少数派であることを誇りに思う」都言っていることでも明らかにしている。だが、これが本当だと思って頂ける日を楽しみにしている。

私はもしかすると勘違いしているのではないかと、ここ数日間に気が付き始めた。それは、プロ野球の中継でホームランを打った者がベンチに帰ってきた時に仲間と手を上げて掌を合わせる儀式をアナウンサーたちは躊躇わず「ハイタッチ」と呼んでいることに疑問を持ったことから始まった。これをカタカナ語集に取り上げようと考えていて「あれはただ単に目の前で起きている現象を勝手に単語を並べて表現しただけで、英語では何となるかなどを等閑視しているだけである」と気が付いたからだ。

ハイタッチ   high five、
解説)これも単語を並べただけの言葉であり、それが如何にも英語らしく聞こえるだけの代物。これを聞いたか見たかした人は「これは英語だろう」と思い込むだろう。しかし、英語は "high five" なのである。新聞社でもテレビ局でもアメリカに特派員か駐在員を置いているのだろうから、妙な造語を仕立て上げる前にせめて野球場に行って、現地人に「あの現象を貴方たちは何と形容するなりや」くらいは尋ねられたのではないか。私に言わせて貰えば「こういう造語をすれば、英語を乱していることになりはしないか」なのである。一寸苦しいかな。

この造語の感覚は最早「拳骨で撲る」の「拳骨」が消滅して、何時の間にか「グー」になってしまったことに似ている。何故こういうことを採り上げたたかと言えば、近頃は「ハイファイヴ」ではなく実質的に「ハイフィスト」(= "high fist" になってしまってのだから。即ち、皮肉を言えば最早「ハイグー」なのである。ここではカタカナ語(疑似国語)まで乱すことになる。最初に「ハイタッチ」を言い出したのは何処の誰だろう。

セコハン   secondhand、
解説)この言葉を見て直ちに何を意味するかが解った方は、昭和も10年代生まれの方かそれ以前のお生まれかと思う。これは「中古品」ないしは「中古」のことだ。言い換えれば、これを商う店は言葉の誤用の一例である「リサイクルショップ」なのである。時移り人変わって「セコハン」が消滅し「リサイクルショップ」が一般化してしまった。これは国語をおかしくした造語であろうと思っている。

ここから先は余談だが、"second-hand" と間にハイフン(="hyphen")を入れると「秒針」になってしまうし、入れなくとも「又聞き」か「間接に聞いた」となってしまうことだ。即ち、"secondhand information"のような例になる。また "second" を "first" に入れ替えて "firsthand information" とすれ「他人か第三者を介在させずに自分で聞いた来た情報」となる。因みに、"minute hand" は「分針」である。

ターンオーバー  turn over、
解説)言うまでもなく?ラグビーやフットボールで自分たちの失敗か反則を犯して相手にボールを取られてしまうか、攻撃権を失うことを指す。では何でこれが造語かとの疑問は出るだろう。ここで言いたいことは、英語では「連結音」(= "liaison”)といって前の言葉の終わりの子音と次ぎの言葉の最初の母音が繋がって、屡々恰も一つの言葉のように発音されるのである。

しかし、試合の中継を担当するアナウンサーたちは迷わず(学校で教えられたように?)二つの言葉を別けて発音して造語をしてしまうのだ。これはやや厳しい指摘だが、ここでは「ターノーヴァー」か「ターンノーヴァー」のようになるのが正しい英語なのだ。すなわち、英語を乱した発音をして全国に流すことは余り褒められたことではないのだ。

この中には "r-linking" というさらに厄介なものがあり「前の言葉が “r" で終わった場合には、それが次ぎの言葉の最初の母音と連結された発音になるのが原則なのだ。簡単な例を挙げれば "There is a book on the table." では "There" の "e" ではなく "r" が次ぎの "is" と繋がって「ゼアリズ」のようになると言うことだが、余り簡単な例ではなかったかも知れない。

ここに採り上げた "liaison" と “r-linking" は遺憾ながら我が国の学校教育では徹底されていない感がある。これはある程度以上の階層ではこれに従うのが常識であり、そうなっていないと知識階級から見ると軽視されかねないのだと言って誤りではないと思う。即ち、英語が乱れていることになるとご理解願いたいのだ。


1 コメント

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外国語学習法について (林 勝昭)
2014-07-20 20:51:46
岡田英弘:「厄介な隣人中国人」より
外国語学習法についての抜粋です。前田様の考えに似ているのでも参考までに、メイルします。

外国語学習法
戴季陶は留学の最初の二年間はある師範学校で学び、一九〇七年(明治四十年)、十八歳で日本大学の法科に入学しました。後年、孫文の日本人同志、宮崎寅蔵(滔天)や萱野長知らが、戴季陶先生が長い演説をすると、かれの日本語はわれわれよりうまい、と言ったそうで、戴季陶の日本語は定評があります。その当時、日本に留学していた多数の中国人学生のうち、声だけを聴いては中国人とわからなかったのは、三人ほどしかなく、その中でも戴季陶がいちばんうまかった、といいます。後年、戴季陶は自分の日本語についてこう言っています。

日本に来たとき、会話にも聴講にも大して困難は感じなかったが、いちばん苦労したのは、言ったり聴いたりすることの理解が、依然として中国文、中国語であって、日本文、日本語をそのまま自然に受け取ることができないことであった。たとえば読書のとき、読んでいるものは日本文でも、頭の中で中国文に翻訳して、それでやっと理解し記憶する。話すときの最初の腹案も、話を聴くときの最終の理解も、みな中国語である。これでは自己翻訳とは言えるが、本当に直接に運用しているのではない。そのために聴くのも話すのも読むのも書くのも、理解がおそくて苦労した---。そのとき一人の先生が私に言った。
「私はむかしヨーロッパに留学して、言葉の不自由で苦労した。その後ある先生が教えてくれた方法を一年実行したら、突然らくになって、会話も読み書きも支障がなくなり、文法の応用のまちがいもだんだん減り、とうとうなくなった。その方法というのは、毎朝、新聞がきたら、社会面と小説を一篇づつ読み通すのだが、理解してもしなくてもよろしい。知らない言葉があれば、ひまがあれば字引を開けるが、ひまがなければそうしないでいい。ただし読むときにはかならず声を出し、調子はなるべく外国人に似せるのだ……。文法なんか読んでも、苦労するだけで役には立たない……」。〔その通りにしたら〕はじめは努力がいったし、口にまかせてただ読むだけで意味はよくわからなかったが、だんだん眼も口も慣れると苦労は減った。さらに進むと耳も眼と口に従って慣れて来て、読むにつれてわかり、以前のような自己翻訳ではなくなった。半年も経つと、他人が読んでいるのも聴いてすぐわかり、考えなくてもよくなった。そこで大いに喜んで、そのまま続けたので、しまいには話も読み書きも自由になったし、中国人にとってもっとも苦手でまちがえやすい動詞の語尾変化も、自然に思う通りにやって文法に合うようになった:・…。

その後、徳富藍花の『自然と人生』の一冊を、全部熟読して暗唱し、兼好法師の『つれづれ草』、紫式部の『枕の草子』を読み、また謡曲の中のすぐれたものを何篇か読んだが、数えてみると現代文も古代文も、読んだ物は十冊に満たない。しかし完全に暗諦できるように努力したことは、最初に習った漢文の勉強法の通りである……。

つまり戴季陶は、日本語を使うときは日本語で考え、日本語で感じることのできる、本当の意味での「二重言語使用者」(bilingual)だったのです。

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