新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

英語の教えかと学び方

2019-09-21 11:23:09 | コラム
英語は何の為にどうやって勉強するか:

昨20日に採り上げたMaryさんの“It’s me.”の文法的説明の後追いとして、彼女とその夫であるBob(決して「ボブ」とは言わない「バブ」が一般的である)とは本部の出張した時には必ず1度は昼食乃至は夕食会で語り合っていたし、時にはMaryとだけのこともあった。彼らが住んでいたシアトル近郊では最高の住宅地帯であるマーサー・アイランドのお宅にも何度もお邪魔していた経験を通じて、我が国の英語教育を一寸批判してみたい。

彼らとの会話の中で「何故私が英語で話せるようになったのか」との質問が出たことがあった。そこで、1945年の中学1年の時から「話せるようになる為」にGHQの秘書の方に教えられたことを説明し、秘書のHelenに先ず厳しく教えられたことが「言われたままの英語を覚え、それを日本語にして考えることをしてはならない」即ち、「英語で話す時には英語だけで考えるようにして、これから話そうとすることを日本語で思い浮かべてから英語に訳そうなどとしないこと」だった。

次に厳しく仕付けられたことは、未だ英語を学校で勉強するようになった13歳の子供が、意味が通らないかまたは文法的に誤っている文章を話すと返事もしてくれなかったのだったし、彼女とは日本語で会話することも許されていなかった点だった。更に言葉に詰まったら黙っていないで“Let me see.“と言って繋ぎなさいとも言われた。その他に厳禁されたことは話の間に”you know“を挟むことは絶対にしてはならないとの点だった。要するに「出来る出来ないの問題ではなく、英語だけで考えるようにすること」を徹底的に仕込まれたのだった。

この回顧談を聞いたBobとMaryの夫妻は「それは素晴らしい教え方だ。その秘書の方が立派だった」と賞賛された。このようなHelenの教え方は学校の英語教育とはかなりかけ離れた方法だったが、何故か彼女が週末に我が家に息抜きに来ていた間は、訳も解らずに英語だけで話をしていたことは、学校で教えられていた英語の勉強の妨げにはなっていなかった。即ち、中学と高校での英語の成績は「英語しか出来ない蹴球部の彼奴」として知れ渡ってしまった事からも立証出来ると思う。

私がずっと主張してきている「音読・暗記・暗唱方式」に移っていったのは記憶は定かではないが、単語帳だのカードだのということが面倒で手を抜いて勉強する為に中学の頃から始めていたと思う。これも既に回顧したことだが、文法は理屈っぽくて敵わないので適当にお茶を濁していたが、音読・暗記・暗唱方式で何とかなっていたし、英文和訳もほとんどやったことがないままに試験ではチャンと点が取れていた。英作文は受験対策も含めて何とかせねばと思って、佐々木高政先生の「英文構成法」には必死で真剣に取り組んで十分に成果は挙がったと思う。

この考えようによっては手抜きと聞こえる勉強法は大学1年の時から2年ほど家庭教師のアルバイトで教えた中学1年の男子は高校を出るまで英語は「オール5」だったそうだし、彼は高校卒業の時には担任に「英語だけが高校教育の狙いだったとしたら君は満点だ」と褒められた(くさされた?)程効果があったそうだ。また、リタイア後に1年ほど個人指導した某商社の若手もチャンと彼が所属した課で随一の使い手と認められるような現実的な効果があったのだった。

私がこれまでに何度も指摘して来たことだが、英語の勉強を「文法」、「英文和訳」、「英作文」、「英会話」等々に小分けして教えることもそれなりに良いのだろうが、現在までの我が国の学校教育のように「科学として英語」を数学のように教え、しかも一教科として生徒か児童を5段階でも何でも良いが、優劣の差をつける為に教えていたのでは「自分が思うままに外国人にも解って貰えるように話せること」あり得ないのだと言いたくもなる。それではどうするべきかと問われれば「英語というものを総合的に教えて、先ず基礎から固めてやるべし」と言うしかないと思う。

現在のように科学として教えた挙げ句に、その成果の程を英検だのTOEICだのTOEFLだのという、その科学としての英語教育の結果を試そうとするテストで縛り上げてどうするかと、嫌みの一つも言ってみたくなる。これも何度か採り上げたことだが、ある大手企業の人事部長さんが「当社はTOEICの点数を重要視していない。それは当社の海外部門で最高の成果を挙げている者は500点程度の成績だ。問題は如何に外国の取引先を説得するだけの論旨を効果的に組み立てられるかである」と指摘されたのである。現に、私はそういう論旨を組み立てられて日本語で交渉に臨まれ、私が通訳しながら唸っていた論客に何人も出会った。

それは同時に「ただ単にペラペラと英語で話せれば良い」ということでもなく、「英語のテストで高得点を取ってあれば良い」ということでもないのだ。また、我が国の学校教育の英語の勉強法に忠実に従われ、妙に単語の知識だけが豊富になって「口語と文語の言葉入り交じっていたり、アメリカ人たちがwordyと呼ぶ堅苦しい単語と熟語を多用した語り方や通訳の仕方になってしまう例にも接してきた。言いたいことは「何を目標にして、どのように外国を勉強するか」が問題であるという点だ。

これまでに何度も指摘して来たことだが、実際にアメリカ人の中に入って過ごしてみれば、平易な単語を使って難しい内容でもわかりやすく表現するのが普通なのだと解る。嘗て我が社の技術サービスマネージャーが高校3年の英語の教科書を見て「日本では高校の頃から英文学者にでも育てようとする気か。アメリカの学校ではこんな難解な文学作品を教科書には採用しない」と叫んだことがあった。それはそれで良いかも知れないが、実用性を身につけさせようとか、海外でも通じる英語力をつけさせようとするのならば、現在の英語教育には改革すべき点が多々あるのではないか。

文科省や我が国の英語教育の先生方は「アメリカの支配階層の中で、彼らの育ちと家庭教育と日常的に使われている英語の質を経験されていたのだろうか。アメリカ語と英連邦系の英語の何処がどのように違うかを身を以て経験されたのだろうか。アメリカでもUKでも同じだが、低層階級では当たり前のようにswearwordが使われているとご承知なのだろうか。それがslangとは別物だとご存じなのだろうか。こういうことを心得た上で英語を教えられる教師がどれほどいるのだろうか。小学校3年から英語を教えている場合かと問いかけて終わる。



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