新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

我が国の「働き方改革」に思う

2020-07-23 09:59:00 | コラム
本当に改革されたのだろうか:

何年前のことだったが、残業が諸悪の根源であるかの如き雰囲気となって、遂に安倍首相が先頭に立って「働き方改革」を推進され残業の時間が制限されたようだったと記憶している。最早と言うか、48年前に日本の会社を去った者としては、何がどう改革されたのか良く解らないので、論じる資格はないとは思う。だが、我が家から見える南の方角には数多くの高層建築のオフィスビルと、敢えてカタカナ語で表現する建物が数多く見えている。

それらの建物では夜の8時を過ぎようと9時近くになろうと、煌々と電気が点いているのだ。「何だ、残業しているじゃないか」と見ている。結局は政府が何を言おうと、何を決めようと、私企業である会社は思ったように仕事を進めるだろうし、ここからは見えない霞ヶ関の官庁街では深夜まで国会答弁の原稿を書いておられる優秀な官僚の方々が残っておられるのだろうと思う。私は我が国の会社の在り方では時間外の勤務を一斉に辞めさせるのはいうべくして不可能ではないかと、17年半ほどの経験からも言えると思っているし、現に電気は消えていないのだ。

私は我が国の会社の働き方の美風は「全員が定時に出勤して一斉に働き始め、全員が助け合って全員が合意した目的と目標を目指して、会社の為に奮励努力しているところ」にあると思っている。古い言葉を敢えて引用すれば「滅私奉公」の精神が未だに根付いているのではないかと思う時もある。それだけに止まらず「先輩が後輩を指導する」というアメリかではあり得ないような、年少者を労る美徳もあると思っている。私も新卒で入社した後の2~3年かは厳しい指導を受けたし、学校の頃よりも余程勉強させられたのだった。

大袈裟に言えば「全て皆の為であり会社の為」だった。だからこそ、私生活を多少以上犠牲にしても定時を過ぎても居残って、残務を片付けるのは当然だと思っていた。ある商社の新入社員は2日も3日も会議室に泊まって残務の整理に追われ「私の能力が足りないのか、課長の仕事の割り振りがおかしいのか、あるいは両方かです」と言って連日のように居残っていた。周囲の目も「そこを乗り越えられないようでは使い物にならない」とアッサリと割り切っていた。20数年前には未だに野球界で言う「千本ノック」のような鍛え方と仕事の仕方が残っていた。

私はここでそれが良いのどうのと言うつもりはない。ただ単に39歳から経験したアメリカ式働き方と、あらためて比較してみようと考えただけだ。即ち、得意とする「文化比較論」なのである。先ず39歳で転進して気付いたことは「新卒者を採用して社風に合わせて教育し、使えるようになるまで皆で訓練し支えていく」などということは(銀行・金融業界を除くが)一切考えておらず、「事業の伸展等に合わせて即戦力を採用してその地位を埋めていく方式であり、同じ仕事と言うか分野を複数で担当するような無駄はしない仕組みになっている」と知った。

換言すれば「個人が主体であり、その能力に依存していく仕掛けだ」という事。と言うことはその事業部が成長するかしないかで、人員が増減する仕組みになっているのだ。つい先頃何処かで「生殺与奪の権を握っているのは自分だ」と言われたが、アメリカの組織で事業本部長がその人事権というか部員の生殺与奪の権を握っているのだ。そこには我が国のような人事部は存在しないのだ。そこには、これまでに繰り返して引用してきた恐ろしいことに、ヘンリー・フォード2世が言われた“I don’t like you.”で副社長と雖も一瞬で馘首されるのだ。

次に実感したのが「個人の能力が主体である」という思想の現れだと思う“job description”(=「職務内容記述書」)を1枚与えられて、そこに記載された諸項目を、誰の援助を受けることなく、自分一人のやり方と能力でこなしていかねばならない仕事の進め方である。私は2社に勤務したし、直属の上司も何人か経験した。だが、仕事の進め方や手法について一切細かいことを言われたこと学、全て自分の判断で進めるしかなかった。

即ち、雇った方は「それだけの能力を備えている」という前提で雇ったのだから、無駄な口出しも指導もしないのである。雇われた者は割り当てられた仕事(job descriptionの内容)を恙無く消化する為には出勤も退勤も仕事が捗っているかしないかにかかってくるので、朝何時までに出勤するか夜は何時に帰るかの問題ではないという事。要は「年俸が高い者が余計に働け」という世界なのだ。我が生涯の最高の上司だった副社長兼事業部長は朝は7時には出社していたし、土・日もなく東京の私の家に電話で指示をしてきていた。

担当する仕事と分野は同じ事業部内の誰とも重複していないのだから、少し論旨が飛躍するかも知れないが、後輩の指導などという項目は職務内容記述書にはない。同時に隣の個室にいる同僚の仕事を手伝うなどとの項目はないし、第一そういうことをする為の給与は貰えないのだ。それが、英語では“I am not paid for that.”となっているのだ。要するに、ここまでを纏めてみれば「夜に何時までも残っているかいないかは各人の能力の問題だ」となるのだ。故に、往年のW社の社員食堂は朝6時から開かれていた。その時刻に出勤しないと間に合わない者がいるということ。

次なる文化の相違点は新卒を採用しないで、即戦力だけを必要に応じて雇用していく方式。故に、我が国のような「同期入社」がいないし、同じ部内の誰とも採用された時点での条件が異なるのだから、自分の年俸を同僚と比較する意味がないという点。但し、学歴と職歴は大いに年俸を左右するようだとは思う。伝え聞くところでは「今や大手企業で生き長らえようとする為には、MBAは必須条件となっているという。これ即ち、それだけの学費を投資できる余裕がある家庭に生まれろという残酷な条件があると言える気がする。

最後になるが、我が国ではあり得ないことだと言える点を挙げておこう。「職務内容記述書にある全項目を恙無くこなさなければならない」とは言ったが、実は、それだけしか出来ないようでは一生涯ウダツが上がらない世界なのだ。有名な州立大学でMBAを取って日本人の同僚が回顧していたことは「アメリカの大学では講座で教えられた範囲の研究しか出来ないし、教授が講義された範囲内だけの勉強しか出来ないようでは劣等生扱いになる。自力で勉強や研究の範囲を広げていくことが重要だった」だった。我が国の方式のように受け身では通用しなかったと述懐していた。

この考え方は職務内容記述書にも通用するのだ。極言すれば「同僚の仕事の分野にまで侵入しても、職務内容記述書の項目を自分の手で増やしていくことに挑戦していけ」となるのだ。私の場合は日本市場の営業担当マネージャーとして雇用されたので「技術や製造の分野には手出しをしないで宜しい」と言われていた。だが、現実には、我が国のように細かい点を疎かにしないうるさい(失礼)市場を担当すれば、頻繁に発生する品質問題を一々本社の技術陣にお伺いを立てて処理していては、無駄に時間がかかって得意先の信頼を失うだけだった。

そこで、手を出すなと指示されていた品質問題(クレームのこと)の処理と、職能別労働組合の質に起因する製造の分野の問題にも勝手に処理を買って出て、遂には「一任する」という本部長のお墨付きを獲得して「項目」の追加に成功した。これは自慢話ではない。「アメリカ人の中で仕事を自分が思うように進めようとするならば、このような積極性を持って動き、自分自身を苦境に追い込んでしまわないようにせねばならない」という例を挙げたまでだ。私は自分の身を守る為に挑戦したのだが、後にそういう世界だと悟ったという意味だ。

私は日本式の仕事の進め方と、何処まで行っても個人の主体性に依存している方式の何れが良いか、優れているかとの議論に挑んでいるつもりはない。もしも何か言うのであれば、我が国でも少しはアメリカ式に「職務内容記述書」方式の良い点があれば取り入れたら如何と思っている。アメリカ側に向かって言いたいことは「偶にはテイームウワークを尊重して全体で一丸となって事に当たっていく我が国の方式の長所を見習ってみればどうか」なのだ。私には偶々アメリカ式が合っていた気がするのだが。



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