新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

続・私が内側に入って20年以上経験したアメリカを語ろう

2023-01-06 15:04:11 | コラム
キリスト教(プロテスタント)の国で経験した事:

私は既に大学1年の時に宗教学を最低の点で単位を取れた不勉強な学生だったと回顧してあったが、今回はアメリカの内側に入って出会ったキリスト教関連の出来事を振り返ってみようと思う。恐らく、誰もがアメリカに行って経験できることではないと思っている。

私はキリスト教で言う「神観念とは」くらいは少しだけ心得てアメリカ人の中に入っていった。私が最も親しくしていた業界の専門出版社の編集長は「彼らの思考体系では神は存在するという事すら議論の対象にはならないのだ」と喝破していたように、彼らの二進法的思考体系の基礎をなしているのが「神の存在」であると考えるようになった。

言葉では上手く表現しにくいのだが、アメリカの文化を何とか理解し、彼らと親しくなっても、最後に突き当たるフワッとしてカチンとくる壁のようなものを突き抜けて、彼らの世界に入っていく事をヤンワリと妨げるのが「宗教の壁」というか「キリスト教信仰の壁」だったと思っている、ビジネスの世界では、そこまでの表現に接した事はないが、彼らは如何なる天変地異が起ころうとも、それを「神のみ旨」と割り切れるのだ。

読者諸賢の参考に供そうと思って、そういう固い信仰の下だからこそ起こり得たのだろうと思う経験を振り返ってみよう。

“healing ministry”:
記憶は確かではないが1972年にジョージア州・アトランタのホテルでの経験だった。出張中の日曜日に暇を持て余してホテルの地下に降りたところ、大広間を使って何かの集会が開催されていて、看板に“Healing ministry”云々とあったが、意味が解らないままに覗いてみた。そこに展開されていたのはとても信じられない光景だった。

大勢の聴衆の前に立った青年がひとしきり説教をした後で「悩みがある人は前へ」と声をかけると何人もが立ち上がって、彼の前に立つのだ。すると彼は何か呪文のような事を唱えて彼ら一人ひとりの額の所に手をかざすのだ。すると殆どの者が失神状態になってその場に倒れて、介添え役の者が数人いて、床にぶつからないように支えて寝かしていくのだ。それがどうやら「癒やし」を意味するhealingかなど思って、驚きを以て見ていた。英語に言う“I can’t believe my eyes.”状態に陥った。

その私に受付に立っていた女性が寄ってきて「彼は“reformed Jew”と言ってユダヤ教からプロテンストに改宗してきた青年で『癒やし』の能力を備えている聖職者で、ここでこの街の悩める者たちを救っているのだ」と教えてくれた。そして「貴方も中に入って癒やして貰いなさい」と勧誘された。謹んで辞退したが、

私が痛感した事は「キリスト教は矢張り嘗ては新興宗教的だったと聞いたが、今でもこのような奇跡的な現象を起こす聖職者がいるのか」だった。何と言って表現して良いかに迷った珍しい貴重な経験だったと思っている。

Thanksgiving Day(感謝祭):
既に告白していたように宗教学では劣等生だった私は、感謝祭が11月の第4木曜日だなどとは露知らず、その日を含む出張をした事があった。1970年代の末か80年代の初めだっただろう。確かその日は休日で、その前にサンフランシスコにいて商社の駐在員と会談が予定されていた。それが終わって休みの日にやる事がなくなった私を、サンフランシスコ営業所のマネージャーが「自宅に親戚一同が集まって感謝祭を祝うから泊まりにおいで」と親切に誘ってくれて、言わば民泊になってしまった。

案内されて圧倒された事があった。彼の家は築100年を超えた堂々たる構えで鬱蒼たる古木に覆われた丘の上にあったのだ。格式を感じた。その夕食会は決まり事のようで、家長たる彼が七面鳥を焼き、食前に一同が食卓を囲んで集まり、手を繋いで輪をなして賛美歌を合唱して祈念するのだった。とてもスラッとは入って行ける雰囲気ではないので圧倒された。いや、厳かな行事だった。

伝え聞いていたように七面鳥は「パサパサ」しているだけで決して美味ではなかった。だが、一同は楽しく食べて語り合った。ここで参ったのはその話題だった。非常に広い範囲に及ぶのだった。例えば西洋美術史とか文化史になったかと思えば、クラシカル音楽が論じられるし、時事問題も出てくるのだった。無粋な(?)仕事の話は出てこなかった。

私の知識と言葉の能力では容易にその輪の中にはいっていける性質ではなかった。何か置いて行かれたような感が濃厚で辛かった。語れそうな話題もあったが、語彙が及ばなさそうで諦めていた。だが、「かくてはならじ」と気を取り直して、最も見近で手軽なMLBとNFLの話題を取り上げて何とか輪の中に入っていった。だが、彼らが彼ら独自の文化・文明を語り合っているのだから、異文化の日本人の私が参加出来なくても屈辱ではないと割り切る事にした。

食事が終わってからは双子の長男がサキソフォン、二男がトロンボーン、奥方と長女がヴァイオリン、所長さんがキーボードを演奏して広範囲の楽曲を聴かせてから解散となった。キリスト教の文化(で良いのだろうか)を経験することが出来た貴重な一夜になった。言うなれば「異教徒の私を迎え入れてくれたサンフランシスコ営業所長のジョージの度量の広さに感謝すべき事だった。

Easter(復活祭):
これにも殆ど知識が無く、往年の上智大学では「4月の第2日曜日がEaster Sundayで、この日の後に新学期が始まる」くらいに考えていた。これが正しいかどうかは別にして、在職中には年間に6回も7回もアメリカの本部に出張していれば、Easter Sundayにも出会った事があったはずだが、2000年の4月にリタイア後に初めてビジネスではなく“pleasure trip”でワシントン州に行ったときに、このお祭りに出会って、貴重な経験が出来た。

リタイア後に、6年も経ってしまったので、懐かしさもあり往年の上司や同僚に会いたくなったし、工場の連中もどうしているかと思って一人旅に出掛けた。この時も中間にEaster Sundayが入ってしまい、永年の仲間だったcustomer serviceの女性マネージャーが「復活祭のミサ(massと書くが、何故か我が国では「ミサ」になっている)に参加したら」と招待してくれて、その後の彼女の里の両親との会食にもどうぞとなった。

当方は信者でもないというか言わば異教徒であるので、具合が悪くないのかと確認したが「全く関係ない」と保証されたので、勇気を出して普段着で参加してみた。私の乏しい知識では「カトリックは形式を重んじて全てが儀式張っているが、プロテスタントはそういう事はない」となっていた。ところが、いざ教会内に入って着席するや、荘厳な儀式が始まったのだった。少し慌てた。その格式には圧倒された。

牧師のお祈りと説教(sermonか?)が終わると全員が立ち上がり、誰彼を問わずに抱き合って“Happy Easter”と言祝ぎ合うのだった。部外者だと思っていた私にも周辺にいる人たちが寄ってきて祝福しようと誘われたので、不慣れながら何とかその祝福の輪の中に入って誰彼の見境なくなって祝福し合っていった。

するとどうだろう。何とも名状しがたい興奮状態になり「ハッピー・イースター」と唱えていると、その雰囲気に誘われたか負けたのかで、涙が止まらなくなってしまった。形容しようがない不思議な感覚だった。

この精神が高揚した状態は、1999年にイタリアをパック旅行したときにバチカンを訪問して、かのサン・ピエトロ寺院の中に一方足を踏み入れたときのカトリックの信者でも何でもない私は涙が滂沱と出て止まらなかったのと極めて似ていた。昭和一桁生まれの私は、見ず知らずの余所の男女と抱き合う事など全く経験がなかったが、あの時は実に自然に教会内の何とも形容しがたい雰囲気に誘われて、プロテスタントの信者の仕来りに染まっていったようだった。

この時も痛感した事は、あのアトランタの「癒やしの聖職者」の力が示していたように、集団でその場の荘厳な(あるいは異様なと言うか慣れない)雰囲気に呑み込まれれば、何もかも忘れて信じてしまうだろうと痛感させられていた。それは具体的に言えば「そのように信じてしまえば、浄財の寄付なり慈善活動なりに、指導者に指示されれば、献身的に突入する事になるだろう」という事だ。

幸か不幸か、信仰心が希薄だった私は「非常に貴重な異文化の経験をさせて貰えた」と彼女に感謝したし、一神教というのかキリスト教というのか知らないが、宗教の儀式を経験出来たので、「信仰」がどのような経験を基にして生まれてくるかも学んだと思っている。

私はこの程度の経験だったが、本当の信者の方々からすれば「神を信じる事はそんな軽々しいものではない」と叱られるかも知れないが、20年以上もアメリカ人たちの内側に入って、彼らの一員として行動していたからこその貴重な経験だったと思い、敢えて公開した次第である。