教皇様は言わばカトリックの総本山の最高権威者であらせられる:
私にはあの教皇が通過される沿道に群衆が集い、スマートフォンなどで写真を撮ることに狂奔している光景には限りない違和感を覚えていた。あの人々は果たしてカトリックの信者なのだろうかと疑ったという意味だ。彼らは教皇のファンなのであろうか。教皇自身はの歓迎振りどのように感じておられたのだろうかとすら考えていた。
教皇は各地で核兵器の廃絶を説かれた。これは持論であり、何ら反対することがない正論であるとは思う。だが、畏メル友のO氏は「ローマ教皇はそれを仰るのであれば、中国に向かってこそ仰って欲しい。」との主張しておられたが、私は大賛成であるし、少なくも我が国に向かって仰せになることではないのではないかと受け止めていた。それを如何にも重大な発言の如くに伝えるマスコミは、キリスト教というかカトリックが何であるか解っていないようだと感じていた。
私は教皇が所属しておられたイエズス会が運営する学校に4年も通っていたので、一般の方々よりも神父様たちが何をどう考えておられるかは少しは承知していると自負している。神に身を捧げた神父様たちとは如何なる方たちかを知らずして、気安く報道するなと言いたくなる。後難を恐れずに言えば神父様たちは「神に全てを委ねた非常に屈託がない生活をしておられる、純粋で純真な方たち」なのだ。神を信じない人たちは哀れだと思っておられるのではとすら感じたこともあった。即ち、俗世界の風に当たられる機会は少ない日常を過ごしておられると思う。神学生の人たちも同様に生真面目で純粋な学生だった。
私は教皇を尊敬するのは本来はカトリックの信者の人たちだけだとすら信じている。キリスト教の信者であるのかどうかも疑問に思える人たちが、教皇の通過を沿道でスマートフォンで写真を撮って騒ぐのには限りない違和感しかなかった。カトリックが何たるかも知らず、教義を承知しているとは思えない人々が騒ぎ立てるのには、私には異常だとしか見えなかった。カトリックでは「神は厳然として存在するだけではなく偏在され、誰の頭と心の中にもおられるのであり、その神に心を上げて語り合のが祈りであり、人々は死ぬまで完成を目指して努力するのだ」辺りが最低限の知識として心得ている人たちがどれほどいたのだろうか。
私はキリスト教の信者ではないので、お出でになったことは非常に有り難いことだろうとは思っていたが、それ以上でも以下でもない思いであの過密ではないかと思わせられたスケジュールで駆け巡られた教皇を尊敬申し上げていた。マスコミはあれほど過剰に報道するのであれば、少しは「カトリックとプロテスタントの違いくらいを専門家を呼んで解説して貰えば良いのに」と考えていた。あれではプロ野球の優勝テイームや相撲の優勝力士のパレードと同じのミーハー向けの騒ぎと同じだ。教皇を何と心得ているのかな。
何処の局だったか「信者の数が今や南米が最大で、ヨーロッパでは減少しつつある」と指摘していたのは意外であり興味深い数字だったが、その程度では何の解説にもなっていない。この機会にせめて世界の三大宗教の違いでも解説するくらいの啓蒙活動をしても良いのではないか。野党の後押しをして「桜を見る会」報道で浮かれているよりも、この方が余程知的ではないのか。尤も、マスコミに知性を求めるのは「木に登って魚を求める」ようなものか。
私にはあの教皇が通過される沿道に群衆が集い、スマートフォンなどで写真を撮ることに狂奔している光景には限りない違和感を覚えていた。あの人々は果たしてカトリックの信者なのだろうかと疑ったという意味だ。彼らは教皇のファンなのであろうか。教皇自身はの歓迎振りどのように感じておられたのだろうかとすら考えていた。
教皇は各地で核兵器の廃絶を説かれた。これは持論であり、何ら反対することがない正論であるとは思う。だが、畏メル友のO氏は「ローマ教皇はそれを仰るのであれば、中国に向かってこそ仰って欲しい。」との主張しておられたが、私は大賛成であるし、少なくも我が国に向かって仰せになることではないのではないかと受け止めていた。それを如何にも重大な発言の如くに伝えるマスコミは、キリスト教というかカトリックが何であるか解っていないようだと感じていた。
私は教皇が所属しておられたイエズス会が運営する学校に4年も通っていたので、一般の方々よりも神父様たちが何をどう考えておられるかは少しは承知していると自負している。神に身を捧げた神父様たちとは如何なる方たちかを知らずして、気安く報道するなと言いたくなる。後難を恐れずに言えば神父様たちは「神に全てを委ねた非常に屈託がない生活をしておられる、純粋で純真な方たち」なのだ。神を信じない人たちは哀れだと思っておられるのではとすら感じたこともあった。即ち、俗世界の風に当たられる機会は少ない日常を過ごしておられると思う。神学生の人たちも同様に生真面目で純粋な学生だった。
私は教皇を尊敬するのは本来はカトリックの信者の人たちだけだとすら信じている。キリスト教の信者であるのかどうかも疑問に思える人たちが、教皇の通過を沿道でスマートフォンで写真を撮って騒ぐのには限りない違和感しかなかった。カトリックが何たるかも知らず、教義を承知しているとは思えない人々が騒ぎ立てるのには、私には異常だとしか見えなかった。カトリックでは「神は厳然として存在するだけではなく偏在され、誰の頭と心の中にもおられるのであり、その神に心を上げて語り合のが祈りであり、人々は死ぬまで完成を目指して努力するのだ」辺りが最低限の知識として心得ている人たちがどれほどいたのだろうか。
私はキリスト教の信者ではないので、お出でになったことは非常に有り難いことだろうとは思っていたが、それ以上でも以下でもない思いであの過密ではないかと思わせられたスケジュールで駆け巡られた教皇を尊敬申し上げていた。マスコミはあれほど過剰に報道するのであれば、少しは「カトリックとプロテスタントの違いくらいを専門家を呼んで解説して貰えば良いのに」と考えていた。あれではプロ野球の優勝テイームや相撲の優勝力士のパレードと同じのミーハー向けの騒ぎと同じだ。教皇を何と心得ているのかな。
何処の局だったか「信者の数が今や南米が最大で、ヨーロッパでは減少しつつある」と指摘していたのは意外であり興味深い数字だったが、その程度では何の解説にもなっていない。この機会にせめて世界の三大宗教の違いでも解説するくらいの啓蒙活動をしても良いのではないか。野党の後押しをして「桜を見る会」報道で浮かれているよりも、この方が余程知的ではないのか。尤も、マスコミに知性を求めるのは「木に登って魚を求める」ようなものか。