新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

8月6日 その3 やっとオリンピックが始まった

2016-08-06 15:07:13 | コラム
オリンピックが始まったことはやがて終わることだ:

私は率直に言ってマスコミの騒ぎ過ぎがうるさいと思っている。メダルを幾つ取るの、誰が何連覇するの等々は余計なお世話だと思っている。そういう点では早く終わればとすら思う時がある。メダル確実だのなんのと言われた方には、かえって要らざる重圧になるだけだろう。たとえ当人が知らなくとも、何処かで誰かが騒ぎ立てしまった場合に、ろくな結果にならなかった例がこれまでにいくらでもあったと思う。関心の度合いが低い人には騒音なだけではないかな。とは言っても、私は関心がない訳ではない。

私は我が国を代表して出て行った者どもがどれほどの成績を挙げるかには過剰な期待を持たないことにしている。日頃の精進が実を結んで優勝すれば(何でメダルを取ると言うのかが理解出来ない。4位以下に終わった者は賞賛の対象にならないような風潮は何処かが狂っていると思う)「良かったね」と素直に褒めてやれば良いし、何処かの党の次期代表候補ではないが「二番じゃダメなんですか」とも問いかけたい。苦しい練習を積んであの場に出られただけでも褒めてやることで十分ではないのか。

今朝は9時前からNHKが中継した開会式などはチャンと見ていた。参加国が確か205ヶ国だったと知ったのも参考になったし、景気がどうであるかを問わずに世界各国の選手たちの間にあれほどスマートフォンだったかが普及しているのも面白い現象だと思わせられた。また、難民を代表して参加して一団があったのも、興味深い出来事と受け止めた。景気が悪いの予算がないと言いながら、ブラジルが結構趣向を凝らした演出をしていたのも何処となく腑に落ちなかった。

開会式が選手たちにはあれほど嬉しがらせ、はしゃぎ回らせるのも不思議に近い現象に思えてならなかった。それは、不肖私は昭和23年(1948年)に第3回福岡国体に出場し、神奈川県代表の一員として開会式で入場行進した経験があるから言うのだ。始まるまでは「何ほどのことやある」と舐めてかかったいた15歳は、その重々しい雰囲気に全く圧倒され、緊張し且つ興奮の一時が(その頃の子供で腕時計など持っている奴は先ずいなかったので)どれほどの時間がったかなどわかる訳がなく、言わば夢の中のような状態だったのだ。それなのに選手たちは全員が「おっちょこちょい集団」と化していたのは、時移り人変わればこういう事になるのかと、極めて印象的だった。

さて、メダルを取ると監督さんが華々しく打ち上げたサッカーである。昨日はジムに行く予定を外す訳にはいかずに、エアロバイクを漕ぎながら2対2だった場面を少々と帰宅して鈴木武蔵が何とかタイムが終わる寸前に4点目を取ったところを中継で見ただけで、後はテレビのニュースで細切れに得失点の場面を見ただけに終わった。故に、何ら論評できる資料の持ち合わせがないのは面目ない次第だった。

ただ、このU-23の代表テイームについては「テイームの中心になっている者、例えば良いか悪いかは別にして、一頃の本田圭佑のような存在がいないことは問題ではないかとは指摘してあった。昨日の敗戦でもあの不利な状況を全員を鼓舞して建て直す役割を果たした者がいないかに感じた。それに、失点の場面をいくつかの局のニュースでみたが、何処にも言わば「セカンダリー」というか最終的な守りの態勢で残っていた者がいない、手薄な形しか見えなかったのは不味かったと思った。だが、見当違いの見方かも知れない。

テレビ放送では屡々解説者やアナウンサーが「気持ちを切り替えて」などと言うが経験上でも、大学生で大学一部や社会人リーグ等の経験者に尋ねても「そんなに簡単に敗戦で落ち込んだ気分から脱却できるものではない」としか聞いたことがない。あの惨めな負け方をした連中がその負けを引きずってしまうのではないかという辺りが心配だ。次に対戦するのがコロンビアという南米の強豪では楽観は禁物だと、悲観論者は危惧している。

8月6日 その2 ここだけの話ですが

2016-08-06 09:04:55 | コラム
実は私の英語論は歓迎されていないようで:

このところ、連続して私の英語論を展開し、我が国の英語教育の問題点というか至らなさを指摘しました。するとどうでしょう。予想通りにアクセスが右肩下がりになってしまいました。以前から「少数派の英語論と英語教育論」であると言ってきましたが、繰り返し論じてきても一向に承認されないのです。残念です。

考え方はいくつかあるでしょうが、先ずは「こいつは何を言っているのか。我が国の優れた学校教育の英語を否定するだけではなく批判するとは身の程知らずだ」という辺りを思い浮かべます。次は「こいつの言うことはサッパリ解らない。単なる経験論か理想論に過ぎず、こんな奴の言うことを聞いて英語力が向上することはないだろう」が来るのかなと思うのです。

これらの二つは我が国の「科学として英語教育」を信じておられ、TOEICや英検等で立派な成績を残すことがグローバル化の時代に最適の英語力だ」と信じておられる方の素直なご意見だと思います。それは「私が主張するような勉強法では、学校の試験や大学や入試センター等で直ちに効果が表れるのかとの疑問を持たれるのはごく自然な現象だ」と心得ているからです。試みることなく非難や批判されても困ります。

そこで、そう言いたい方々に先日紹介した「英語ペラペラ」と覚しき方の英語をあらためて載せますので、この語りの文法的な誤りを正すことに挑戦して頂いたら如何かなと思うのです。その意味は「我が国の英語教育の中心にある文法をどれほど正確に身につけておられたか」が見える問題なのです。何度も言ってきましたが「文法を無視した英語は少なくともインテリではない」と見なされる世界がアメリカにもUKにもあります。

次の段階では、この語り手が言いたかったことを良い英語で正確且つ解りやすい綺麗な文章で言い直すことにも挑んで頂きたいとの問題です。これはこの語り手が何を言いたかったのかを読み取って頂きたいのです。一つだけ解説しておきますと、文法的な誤り誤りではないのですが、多用されていた”you know”は決して貴方が「有能」である事を示すものではなく非インテリだと告白するような表現だということを確認しておきます。これを会話の中で使うべきではないという意味です。

"Every years, I take vacation two months, you know. I go Europe with family , you know. Nowadays, children become big and go to school and cannot stay long, you know. So, we don’t go and wife complain and become angry."


「通じれば多少の文法的なことには目をつぶろう」と考えるか、いや「俺は格調高く品格のある支配階層の英語を目指して努力し続ける」等々の目標の中から、何れを選ばれるかは、英語を学ぼうとする方の選択であって、私の介入することではありません。だが、私は文科省の方針は断固として否定し批判します「あなた方は国民の英語力を世界の笑いものにする気か」と言って。


我が国の英語教育の問題点の考察

2016-08-06 08:49:44 | コラム
幼少期からの英語教育の弊害:

「何の効果があるのか」としても良かったかも知れません。「頂門の一針」第4080号に北村維康氏が傾聴すべき事例を挙げておられたので、少し長いが敢えて引用してみます。

>引用開始
ある大学教授は、自分は英語ができないので、「今度生まれた子供には英 語を教へてやらう」と、すごい意気込みで、奥さんともども、赤ん坊の時 からその子を寝かしたまま、朝から晩まで、英語の教材を聞かせ続けまし た。その間、抱いてもやらず、話しかけてもやらず、ただ英語だけを聞か せつづけてゐました。

そして3年が経ちましたが、なんとその子は知恵遅れになり、人とも目を 合はせることもなく、ただただ奇声を発するだけで、幼稚園に行っても、他の子とまったく協調性がありませんでした。その子が成人してからも、普通の人間にもなれずに、遂に殺人事件を起し てしまったのです。

何故こんなことになったのか。それは、肉体的な行動を通してでなけれ ば、言語を通じて学習し、育つことができないからです。お母さんが子供 の眼を見て、優しく話しかけながら、おっぱいをやる。「這へば立て、立 てば歩めの親心」と言ひますが、すべては行動を通じて子供は成長するも のです。ただ単に英語ばかり聞かされても、それは実体を伴はない雑音、 騒音でしかないのです。その子の魂は、どんな暗闇を彷徨ってゐたのでせ うか。

>引用終わる

私には何と言って受け止めて良いか瞬間に判断できない程の衝撃がありました。大変勉強になりました。

私の幼児期からの英語教育を否定する根拠は多々ありますが、これまで多く見てきた海外駐在された方々の例から見ても「結局は成人してみれば何も残っていなかった」が余りにも多いという点があります。私はそれは日本語が十分に身についていなかった時期に外国語を覚えても(覚えさせても、あるいは自然に覚えていても)結局は残っていなかったか、役に立たなかったのだという風に解釈しておりました。

それに、私自身が昭和20年(1945年)4月の終戦前に旧制中学校に入学し、それまで見たことも聞いたこともなかった敵性語の英語を外見は完全に外国人の先生に、今にして思えば完全なアメリカ語の発音を教えられた幸運に始まり、私独特のずぼらな「音読・暗記・暗唱・単語無視で辞書尊重」等々のおよそ手抜きの勉強法で新制高校を卒業するまで押し通しました。

そして、昭和30年(1955年)の就職後から17年間英語とは全く無縁な仕事をしていながら、ある日突然偶然のことから英語を使う世界に舞い戻って全く不自由がなかったことから考えても、「最初にチャンとした基礎を固めておけば、後年その必要があって英語を使ってみても、崩れずに維持できるもの」との考え方が信念になったのです。この信念は「13歳からでも教えられ方(おかしな言い方ですが)と勉強の仕方如何では、十分に間に合う」ということにもなります。

また、某商社で24歳頃から個人指導の機会を与えられた若き精鋭は、短期間に彼の所属する課で一番の英語使いになって見せてくれました。これは彼自身の努力の賜物ですが、この年齢から本気になって取り組めば十分間に合うということを示しています。また、W社ジャパンにある大手メーカを55歳で定年退職されて加入された方は努力の結果で、数年後には我々(私?)でも最も難しい本社との電話での打ち合わせをこなされるまでに上達されました。これは「必要は何とかの母」を地で行った好例だと思います。勿論、この場合は我々が周囲で支えましたが、勉強法の善し悪しがここでも明らかだと思うのです。

以上は私の「少数派の英語論と英語教育論」の一部でしょう。それでも「いや、私はTOEICでの高得点を目指す」や「何を抜かすか。我が国の英語教育は立派なもので、お前如きに批判されたくない」と言われる方は沢山おられるでしょう。その通りだと思う点があります。それは我が国の学校教育の英語では、屡々私如きが及びもつかない読解力を備えた方は多いのですから。

私はこれまでに何度も「英語が話せたら良いのに」であるとか「どうやって勉強すれば英語がぺらぺらになるのでしょうか」というようなことを嘆かれる方々に出会いました。また、私に「教えて下さい」と言われた方にも何度も出会いました。これが我が国の「科学として英語」を最短で6年間学ばれた成果なのです。しかし、私はこれまでに学校教育の英語で育った方の中にも、十分に外国人と渡り合えるか、意思の疎通を図れるかとの実力を備えた方に出会っておりますが、その例は余りにも少なかったのは大変残念に思う次第です。

それは、既に繰り返し採り上げたある高校の英語教師が「話せるようになる為に英語を教えていない。それは5段階で評価し生徒に優劣を付ける為に教えているのだ。話せるようにならないという批判は当たらない」とパネルデイスカションで堂々と発言したことが十分に説明しています。「英語が話せない」と嘆く方はその教育を経たのですから「話せない」と嘆くのは誤りではありませんか。