女性と仕事をすれば見えてくること:
安倍総理は熱心に女性の有効的な活用を目指しておられるので、ここに私が見聞し実際に経験してきた女性たちの働きぶりとその使われ方をアメリカの例とともに振り返ってみます。
私は2社通算で22年半、秘書6人と本社の本部の女性マネージャー、担当者、他の事業部の責任者等と仕事をしてきました。また、個人的な事情を言えば、父を4歳の時に交通事故の被害で失っていましたので、言わば母子家庭で育った上に、昭和20年の中学1年生の末期からはGHQの秘書の方と英語で話して過ごした時間が長く、”ladies first”は当然の世界で過ごしました。
W社をリタイヤーするまでの12年間労苦をともにした、いやご指導賜った秘書との時間が最も長く、女性の端倪すべからざる能力を十二分に知り得た次第です。彼女(E子さんとでもしておきます)の何事に付けても読みの鋭さと早さ、抜群の記憶力、ファイル等の整理の適確さ、客扱いの巧みさ、ボスということになっていた私の性格と短所(と、もしあったならば長所)の見極め、英語力の進歩、本部から勝ち得た信頼、それに忘れてならない社交性の高さ等々は、年月を経るに付けて目に見えて向上してきました。もしも短所ありとすれば、類い希なる酒豪振りでしょうか。
私はE子さんの実力の向上を見て、「判断業務と外回りは私の責任として、それ以外は安心して一切を任せる」としましたが、最後まで何か失敗があったという記憶がありませんでした。素晴らしい秘書さんでした。例えば、その読みの鋭さは、当時はFAXの時代で本部に送るレポートは手書きの原稿を渡してタイプアウトして貰っていました。原稿を書き終えたのが5時過ぎのような場合に遠慮して「明日でも良いから」と言って渡すと「はい、解りました。直ぐ打ちます」という具合でした。私が何でも直ぐにやらないと気が済まない性格だと読み切られていたのでした。
スケジュールなどは全て任せていたので、毎朝「今日は何をすれば良いの」と尋ねるだけで十分でした。また、私の好き嫌いが激しい性格を読み切って「今日はお嫌いなこの方とのアポイントを入れてありますから、チャンと対応なさって下さい」と告げてくれました。この辺りが、私は女性は単に巷間言われている「女の勘」だけで物事を判断しているのではないと考えるようになった切掛けだと思うのです。
また、女性は男どものように妙に何かに気を遣ったものの言い方をせずに「ズバリ」と単刀直入に言うので、たとえその内容が厳しくないものでも、時には「グサリ」と刺さってくるものだとも認識させられました。それに解ったような顔で感情的になるのが男だとすら感じる時がありました。
ここでアメリカの女性たちにも触れておきます。何と言っても馴れるまでに最も苦しめられたことは「女性たちは男に対する対抗心というのか、対等意識が極めて強く、当初は何か敵対勢力にでも出会ったかという一種の恐怖心すら抱かせられました。その原因には「日本語とは異なって顕著な女性語を使う表現がないこと」と「敬語が少ないこと」があると思います。中には明らかに対抗意識を前面に出してくる人もいて対応に悩ませられました。そこで肝腎なことは「女性と見て侮るな」ではなく、女性だからと見て遠慮せずに飽くまでも論理的に自分の思うところを語って徹底的に議論することだったのです。
究極的に行き着いたのが、本部の責任が重く最も多忙な仕事としていた2名と2名の秘書とは本部に出張する度に副社長秘書さんに一晩空けるスケジュールを組んで貰い、女性軍のお好みのレストランで夕食会を開催して語り合う会の開催でした。ここではお堅い話題ではなく、如何なることでも腹蔵なく語り合って信頼と友好関係の確立を目的としました。英語力は漸くこの辺りでものを言うようになりました。実は、この分の予算は密かに副社長に申請して許可を取っていました。
私がこのように女性たちとの交流に努めた理由の最大のものは「アメリカは意外にも男社会で、以前にも指摘してきたように”Blondie”の漫画が象徴したような「女性軽視」の世界だったという、一般の方には一寸信じがたいようなアメリカの文化があるということです。だからこそ、彼女らは敵愾心を持っているし、「女性の能力を見よ」とばかりに精一杯頑張るのだということです。この辺りは”Believe it or not”の領域でしょうが、この世界に1945年から身を置いてきた私が経験談を語っているのです。
少なくとも、私が見聞してきたアメリカのビジネスの世界では女性が大きな事業部の長として腕を振るうというよりも、男性の至らなさをその女性独特の能力で補って業績を挙げていく使われ方がされていたと思います。私が思うには「女性ならではの『ズバリ』と『グサリ』式の物の表現の仕方と意見の述べ方に感情的になり『だから女は』などと言いそうな(あるいは言っている)男性側にも問題なきにしもあらずだ」ということ。使う方にも、使われる側にもよく考えてみるべきことがあると思うのですが。
結論としては「将に将たる」女性を見出したのならば、大きな組織を任せて良いだろうし、「男性の愚かさと至らなさを効率よく補ってくれるだろう」女性が現れれば、その力を最大限に活かして男性の補完を依頼すれば良いだけのことではであり、そこで功績があった女性には禄を以て報いるのが良いと信じているのです。男性でも優れた営業マンだったからと言って課長なり部長なりに昇進させて無能レベルに達して無残な結果に終わった例などいくらでもあったではありませんか。
女性の適性を見抜くのは長たる男性の重要な仕事であり責任であるのではありませんか。アメリカでもその内勤として事務能力を買って営業職に抜擢したところ、得意先でいじめに遭って潰れてしまった例がありました。これは明らかに事業部長の適性を見抜けなかった失敗の例だったと彼自身も述懐していました。
安倍総理は熱心に女性の有効的な活用を目指しておられるので、ここに私が見聞し実際に経験してきた女性たちの働きぶりとその使われ方をアメリカの例とともに振り返ってみます。
私は2社通算で22年半、秘書6人と本社の本部の女性マネージャー、担当者、他の事業部の責任者等と仕事をしてきました。また、個人的な事情を言えば、父を4歳の時に交通事故の被害で失っていましたので、言わば母子家庭で育った上に、昭和20年の中学1年生の末期からはGHQの秘書の方と英語で話して過ごした時間が長く、”ladies first”は当然の世界で過ごしました。
W社をリタイヤーするまでの12年間労苦をともにした、いやご指導賜った秘書との時間が最も長く、女性の端倪すべからざる能力を十二分に知り得た次第です。彼女(E子さんとでもしておきます)の何事に付けても読みの鋭さと早さ、抜群の記憶力、ファイル等の整理の適確さ、客扱いの巧みさ、ボスということになっていた私の性格と短所(と、もしあったならば長所)の見極め、英語力の進歩、本部から勝ち得た信頼、それに忘れてならない社交性の高さ等々は、年月を経るに付けて目に見えて向上してきました。もしも短所ありとすれば、類い希なる酒豪振りでしょうか。
私はE子さんの実力の向上を見て、「判断業務と外回りは私の責任として、それ以外は安心して一切を任せる」としましたが、最後まで何か失敗があったという記憶がありませんでした。素晴らしい秘書さんでした。例えば、その読みの鋭さは、当時はFAXの時代で本部に送るレポートは手書きの原稿を渡してタイプアウトして貰っていました。原稿を書き終えたのが5時過ぎのような場合に遠慮して「明日でも良いから」と言って渡すと「はい、解りました。直ぐ打ちます」という具合でした。私が何でも直ぐにやらないと気が済まない性格だと読み切られていたのでした。
スケジュールなどは全て任せていたので、毎朝「今日は何をすれば良いの」と尋ねるだけで十分でした。また、私の好き嫌いが激しい性格を読み切って「今日はお嫌いなこの方とのアポイントを入れてありますから、チャンと対応なさって下さい」と告げてくれました。この辺りが、私は女性は単に巷間言われている「女の勘」だけで物事を判断しているのではないと考えるようになった切掛けだと思うのです。
また、女性は男どものように妙に何かに気を遣ったものの言い方をせずに「ズバリ」と単刀直入に言うので、たとえその内容が厳しくないものでも、時には「グサリ」と刺さってくるものだとも認識させられました。それに解ったような顔で感情的になるのが男だとすら感じる時がありました。
ここでアメリカの女性たちにも触れておきます。何と言っても馴れるまでに最も苦しめられたことは「女性たちは男に対する対抗心というのか、対等意識が極めて強く、当初は何か敵対勢力にでも出会ったかという一種の恐怖心すら抱かせられました。その原因には「日本語とは異なって顕著な女性語を使う表現がないこと」と「敬語が少ないこと」があると思います。中には明らかに対抗意識を前面に出してくる人もいて対応に悩ませられました。そこで肝腎なことは「女性と見て侮るな」ではなく、女性だからと見て遠慮せずに飽くまでも論理的に自分の思うところを語って徹底的に議論することだったのです。
究極的に行き着いたのが、本部の責任が重く最も多忙な仕事としていた2名と2名の秘書とは本部に出張する度に副社長秘書さんに一晩空けるスケジュールを組んで貰い、女性軍のお好みのレストランで夕食会を開催して語り合う会の開催でした。ここではお堅い話題ではなく、如何なることでも腹蔵なく語り合って信頼と友好関係の確立を目的としました。英語力は漸くこの辺りでものを言うようになりました。実は、この分の予算は密かに副社長に申請して許可を取っていました。
私がこのように女性たちとの交流に努めた理由の最大のものは「アメリカは意外にも男社会で、以前にも指摘してきたように”Blondie”の漫画が象徴したような「女性軽視」の世界だったという、一般の方には一寸信じがたいようなアメリカの文化があるということです。だからこそ、彼女らは敵愾心を持っているし、「女性の能力を見よ」とばかりに精一杯頑張るのだということです。この辺りは”Believe it or not”の領域でしょうが、この世界に1945年から身を置いてきた私が経験談を語っているのです。
少なくとも、私が見聞してきたアメリカのビジネスの世界では女性が大きな事業部の長として腕を振るうというよりも、男性の至らなさをその女性独特の能力で補って業績を挙げていく使われ方がされていたと思います。私が思うには「女性ならではの『ズバリ』と『グサリ』式の物の表現の仕方と意見の述べ方に感情的になり『だから女は』などと言いそうな(あるいは言っている)男性側にも問題なきにしもあらずだ」ということ。使う方にも、使われる側にもよく考えてみるべきことがあると思うのですが。
結論としては「将に将たる」女性を見出したのならば、大きな組織を任せて良いだろうし、「男性の愚かさと至らなさを効率よく補ってくれるだろう」女性が現れれば、その力を最大限に活かして男性の補完を依頼すれば良いだけのことではであり、そこで功績があった女性には禄を以て報いるのが良いと信じているのです。男性でも優れた営業マンだったからと言って課長なり部長なりに昇進させて無能レベルに達して無残な結果に終わった例などいくらでもあったではありませんか。
女性の適性を見抜くのは長たる男性の重要な仕事であり責任であるのではありませんか。アメリカでもその内勤として事務能力を買って営業職に抜擢したところ、得意先でいじめに遭って潰れてしまった例がありました。これは明らかに事業部長の適性を見抜けなかった失敗の例だったと彼自身も述懐していました。