新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

8月11日 その2 オリンピックのサッカーに考えさせられた

2016-08-11 15:50:35 | コラム
矢張りサッカーが心配になった:

昨10日の夜は途中から気が付いて対スエーデンの「負けたら予選敗退が決定」の試合を見た。画面一杯に溢れていた空気は「直向きさの欠乏」というか「切迫感に乏しい」試合運びだった。大体からして、この私に「どうしても見なければ」と思わせないほどの情けない試合が続いていた過去2試合の成績だったのだ。

確かに良くパスは回っていたが、例によって例の如く「華麗にして見事なバックパス」多用で相手と比較しても多過ぎた。そこには、どうしても危険を冒してでも攻め込んで何点でも取ってやろうという気迫が手に取りたくても一向に滲み出てこないサッカーで、貪欲さが見えず危険を冒さず、綺麗事に終始したのには失望させられた。相手には余り大した技術もなく、何としてでも勝ち上がって見せようという意欲も見えなかったので、その意味では良い勝負かと思って観戦した。

全くの余談だが、北欧の国のはずのスエーデンに何故か「~ヴィッチ」という語尾になる東欧系の名字の者が多いのが不思議だった。確かにスエーデン人の世界的な名手に「イブラヒモヴィッチ」(”Ibrahimovic”で、ボスニア人であり、スエーデン人ではないとWikipediaにある)がいるが、それにしても「何とかヴィッチ」さんが数多くいたのは不思議だった。黒人までいたのは、恰もクラブテイームの如きだった。

結局は後半に1点だけ取って勝つには勝ったのは結構だったが、コロンビアがナイジェリアに勝ってしまったので予選落ちになってしまったのは余りにも無残だった。遺憾千万である。兎に角FWであろうと何処だろうと「俺が一点取って見せよう」という類いの野望を見せた者が不在で、何時まで経っても責任逃れと私が酷評する、解説者までが「あそこで打っても良かったのに」と遠慮がちに批判する責任逃れの、アナウンサー語の「ラストパス」の連発だった。

この消極性が手倉森監督の指導方針なのか、彼らを育てか下部組織のコーチたちの間抜けさなのかは知る由もないが、ウンザリだった。それかあらぬか、OA枠で呼ばれた彼らに範を示すべき興梠などは途中で引っ込められた始末。あれじゃ、予選リーグ勝ち抜きなんて高望み過ぎた。私には、既に指摘したが、サッカーには(野球かラグビー並みの?)良い素材が来ていないと痛感させてくれる個性に乏しい中途半端な選手ばかりだった。あれでは、今後とも益々人材は他に流れると懸念するものだ。

ところで、「一方のラグビーを見よ」と声が裏返るほど大きな声で言いたいラグビーの健闘振りである。ニュージーランドに勝って予選リーグを突破して見せただけに飽き足らず、今度はトーナメントに入ってもフランスに勝って見せてくれた。立派なものだ。あの精神力と体力とは一体どうやって鍛え上げたのかを、サッカーの指導者連中はラグビー協会に行って教えを請うたら如何かと言ってやりたい。しかも、あの顔ぶれには何故か私も評価する山田章仁がいなくても勝っているではないか。

と、ここまでラグビーを褒めてきたが、矢張り留保条項がある。それは純粋の日本人ではないものが何名か混ざっていることだ。それが国際的に認められていることは百も承知で言っている。言いたいことは「純粋に日本人だけで代表テイームを、15人制でも、一度くらいは結成して世界的な大会に出せば何処まで行けるのが是非とも知りたいから言うのだ。

法改正が必要だというのだったならば、その昔(もう、こんなことを記憶している人がどれほど生き残っているか)選抜で優勝した早実の王貞治投手が国体には台湾国籍では出場不可と聞いてグラブを叩き付けたという話があった。それと同様に、世界的な大会のどれかを純粋にその国生まれというか、長年滞在したか乃至は帰化人を除くテイーム編成に限定するという制度を導入してくれると良いなということ。7人制では身体能力頼みのが黒人たちの力は大きいが、我らには我が同胞のような敏捷性もなければ「俺が、俺が」とでも形容したい精神構造がやや変わっている点が、私には好ましくないのである。

それはそれとして、ラグビーの健闘振りは絶賛したいし、見事だと思っ見ている。また、スイスのテイームに選手派遣を断られてしまった不手際というか、交渉力の至らなさというか、準備不足は協会の首脳部が責任を負うべきことではないのか。外国人との交渉術により長けていなければならないのが、グローバル化だか国際化か知らないが時代の要求であると、マスコミが何かと言えば喚いているではないか。サッカー協会よ、奮起せよ。

オリンピックに思う

2016-08-11 10:26:43 | コラム
オリンピックとマスコミの姿勢:

オリンピックの顔:
たった今福原愛が3位決定戦で北朝鮮のKIMにゲームカウント(というのかな?)3対1で負けてしまったところだ。その福原愛が予選リーグでは1ゲームも落とさずに勝ち上がっていった時の顔を見ていると、その厳しさと言うべきか緊張感に溢れたか真剣さの表れとするか、試合に勝ってやろうという表情には「これが福原愛の顔だったか」と思わせるような凄みがあった。言うなれば「勝負する者」の顔だった。私には「なるほど彼女は石川佳純が敗退した後ではこれほどまでに主将としての責任感を覚えていたのか」と思わせてくれた。

残念ながらKIMには負けてしまったが、その引き締まった表情は変わっていなかった。私はピンポンについては何一つ知識もなく、やってみた経験もないのだが、あの敗戦は実力の差であるかのように見えた。準決勝戦で負けた相手は中国の代表で、何でこういう場面にはこういう国の連中しか出てこないのかと、その巡り合わせの嫌らしさを勝手に嘆いていた。

その大きな試合に臨む表情だが、先ほど体操の個人総合を二連覇した内村航平の各演技の前の表情も凄かったが、そこには福原愛には見られなかった恐ろしいまでの集中力が見えた。体操のような個人種目では集中力が如何に大切かをマザマザと見せてくれた内村の表情だった。特に2位を0.009だったかの差で追い抜いた最後の種目鉄棒ではぶら下がる前の顔つきには凄みを感じた。「強い者が勝つのだ」という勝負の大原則を彼の表情が見せてくれた。

オリンピックからは一寸離れるが、厳しい状況と環境の下にあって勝たねばならないという束縛というべきか責任を背負って長期間、練習というか訓練を続けていると、次第次第に何者をも寄せ付けないような厳しい顔つきになってくるものなのだという例を、20年以上も前に故・篠竹幹夫監督率いるフットボールの日大フェニックスの学生たちの顔つきが示していた。彼らは言うなれば皆下俯いた見方によっては暗いとも言える表情で淡々と三連覇を果たしていったものだった。だが、そこから解放されると普通の大学生の表情に戻っていったと見ていた。表現を変えれば「そこまでの緊張感を以て初めて大試合で結果を出せるものだ」ということだろう。

そういう視点から見ていると、水泳では決勝戦ともなると、一人ひとりが言わば選手登場口とでも言いたいところからにこやかに手を振ったような動作をしながら出て来る演出をしていた。あれでは一種の水泳ショーかと思って見ていたが、もしかすると選手たちを緊張感から解放しようとでも試みているのかとも思わせられた。故に、選手たちの表情には余り緊張感が見えなかった。個人的な感想を言えば「私の好みではないな」となる。

マスコミ報道の片手落ち:
昨日の午前中はジムに行っており、丁度エアロバイクに乗っている時に男子200 mバタフライの決勝が始まった。我が国からはお馴染みの瀬戸大也と坂井聖人というのが出てきた。何分にもアメリカからかのフェルプスなるものが優勝の大本命とされていたので、さしたる興味もなくペダルを漕いでいた。するとどうだろう。終わってみれば坂井君が2着と表示され、マスコミの寵児・瀬戸君は立派なというか無残というか5位に沈んでいたのだった。

マスコミに言いたいことは「何故視聴者の目くらましのように萩野浩介と瀬戸大也ばかりに脚光を浴びせ、前回に「康介さんを手ぶらで帰すな」と全員が奮起した美談をこれでもかと採り上げ、今回は松田丈志を話題にしたが、坂井聖人君がそれほど有望だったということを何故事前に教えておいてくれなかったのか」ということだ。水泳などは入賞者多発の期待種目だったにも拘わらず、この程度だったのだから、過去に北京、ロンドンと2回も出場していた羽根田卓也君のことなどは全く素通りだったようだった。その3位に入った種目が「カヌーのスラロームで、カナデイアン・シングル」だったと検索して確認した。

私はマスコミは言わば人気者だけを追って、視聴率が伸びないような種目に出る選手たちは眼中にないのだと真剣に疑っている。いや、芸能ネタにならないような種目はお呼びではなく、結果が出てからの後追いで十分だとでも思っているのだろうと考えている。現地でのインタビューでも余程の人気者でもない限り3位までに入った者だけだ。蓮舫の故知に倣えば「4位じゃダメなんですか」と尋ねたい。恐らく福原愛は呼ばれるのではないかなと思っている。