新49『美作の野は晴れて』第一部、秋の風物詩1(鮒とり)

2014-09-27 20:38:34 | Weblog

49『美作の野は晴れて』第一部、秋の風物詩1(鮒とり)

 稲の取り入れ後の秋の行事に「鮒獲り」があった。京都嵯峨野では「おいあげ」と呼んでいるらしい。西下には、「狐尾」という名の3ヘクタールほどの溜池があって、その頃は隔年か3年に一回くらいだったろうか、そこで魚獲りの大会が挙行されるのだ。
 この美作の地には、沢山の溜池が造られている。それらの開削年代は、江戸期から大正時代にかけてが多い。香川の観音寺あたりでのような灌漑用の大きな溜池は、このあたりでは塩手池を除いてはないといっていい。それでも、とりわけ、江戸期に入ったみまさか一帯では津山藩の音頭で次から次へとため池がつくられた。私の家の近くの狐尾池は大正時代の開削であって、はっきりとは憶えていない。私が成人になる位までは、そこで西下の鮒獲りが定期的に営まれていたのではなかったか。
 その日は、秋の米の収穫の終わった秋深くにやってくる。およそ1キロメートルはあろうかと思われる池の周囲は、朝早くから大勢のにわか漁師で賑わった。100人以上の人が来ていただろう。その中には、中学の先生らしき人や、中学生や高校生の先輩も来ていた。他のの人も大勢いたようだ。「オオタケを漕ぐ」人は、入場券買わないといけない。入場券を得た大人達は、その針金の部分を麦藁帽子に結わえている。
「きょうはいい日和(ひより)ですなあ」
「おかげでなあ」
 出逢った二人は、互いに見つめ合っていた。お互いに年は60代から70代前半といったところか、日焼けした顔が麦わら帽子で西部劇風にやや斜めに表れるように脚色されているようであった。そこにあうんの呼吸があるようで、旧知の間柄なのかもしれない。お互いの白い歯がむき出しに笑っている。
「先週は『鎌ぞこ』に行きましたんじゃ」
「ほお、あんたも行きんさったか。わしゃあ、大町(広げると扇状になる竹網)をちょっとばかり漕いでから、田んぼの用事があったけん、はよう失礼して家に帰ったけん、あんたとお目にかかれんかったなあ」
 ここで「鎌ぞこ池」とは、私たちのの北隣の西中地域にある溜池である。狐尾池のほか、同じ町内にある塩手池(しおでいけ、市場)、亀座池(新野東)、大土路池(西中)などに比べると、規模がずいぶん小さい。西下(にししも)内の流尾地域でなく、その東方である畑、中野(なかの)両地域の水利を賄うために開削された溜池であって、その形は(石川)五右衛門風呂を浅くしたような丸くてずんぐりむっくりの「どんぶり型」をしている。鮒取り時には、七分方くらいは池の水が抜かれて、その「かまぞこ」型の窪みが現れるところから、その名がついたのかもしれない。
「さてさて、今年もようけい(沢山)人が集まりましたなあ。この狐尾池は仰山(ぎょうさん)人が集まるけん、まるで、わしら新野村の社交場ですケーのう」
「そうですのう」
 二人の隣には、いつのまにかさらに一人のご老人がやって来ていて、二人の会話に頷きつつ、にっこりほほえんでいる。元の二人はその人に目をやってから、右手を帽子に添えて軽く挨拶をしたかのようであった。それから、又向き直った。 
「それじゃ、それじゃ。あはははは。どれ、そろそろの理事さんの挨拶があるじゃろうけん、そろそろ向こう岸の持ち場に戻ります」
「まあ、今日は楽にやってつかあさい」
 そうして、ひとしきり白い歯をむき出しにして笑い合ってから、それぞれの持ち場に去って行った。それから、ふと気がついて、もっと後ろにいる、一緒にやってきた祖父の方を振り返ると、これまた旧知の間柄なのか、さらにもう一人のご老人と話をしているのが聞こえてきた。
「・・・・・そりゃあええ、今日は晴れとるし、ここはぎょうさん稚魚を放しとるんで、ようけい獲れるじゃろうなあ。おたくはうなぎも獲ってかえりんさるんかのう」
「そこが家ですけん、せがれが日が暮れるまでいて鰻を探しますんじゃ」
 そういう祖父も満足そうで、ニヤッと笑うと、顔に「ありがとうございます」という文字が書いてあるかのような表情を見せつつ、煙草をくゆらしながらいた。
 今日の漁の開始を前に、漁具の最終点検やら、隣に陣取っている者同士で談笑している姿がそこかしこで見られた。漁具の自慢話もあったりで、大人衆が誇らしげに見えたものである。そうした光景を観つつ、自分も大人になったら、「僕もあのようにたくましい男になりたい。格好よくなれるだろうか」と、無意識のうちに将来の自分の姿を重ねていたのかもしれない。
 「鮒獲り」は、西下では、の寄り合いと代表の理事によって仕切られていた。部落代表の挨拶が土手から拡声器で響いてくる。
「みなさーん、遠路はるばるの人もふくめて、今日はありがとうございます。おかげでいい日和りとなりました。さあて、みなさん、この池には鯉を○○匹はなっとりますう。1年以上経っとりますから、そこそこ大きゅうなっとる筈です。・・・・・そういうことですけん、今日はおおいに精出してつかあさい。」
 こんなとき、長い挨拶は歓迎されない。主催者にはそのことがわかっているので、声がうわずっている。それが済んで始めの合図が下るや、「ヨッシャーアッ」とか「オーーッ」という声がまず上がる。大人達が声を掛け合いながら、池の四方八方から中央へと進み出てくる。人々はおのおの、入場証のついた極細の針金を麦わら帽子など目立つところににセットしている。今日の入場料を支払い済みであることを示している。大人たちは、四方八方から「オオタケ」と呼ばれる扇状に広がった網を構えて池の中央部へと向かっていく。それがかち合う寸前のところで、そこかしこで、男達の太い腕によって引き揚げられる、私などは、その光景を、それはそれは息を呑むようにして見守っていたものだ。
 網の中に、鯉が躍り上がる。中には、網に二匹の鯉が一遍に入っていることも目にしたことがある。それはこの新野の村の男達の晴れ舞台、といっていい。壮観な眺めである。鯉たちはピチピチはねているが、巧みに腰に付けた駕籠の中に入れられていく。もしくは、編みを引き上げて、そのひとは岸へ上がり、岸に備え付けの「生け簀」に鯉をおろす、そしてまた、池へと入っていくのをみていた。
 女衆や子供は、始めの合図があって1時間くらいしてから、入っていいことになっていた。子供のなかにはいち早く池に入って、大人に叱られる者もいた。大抵の子供はそれを心得ていて、痛いくらいにそのルールを守っていたのだと思っている。
 2時間くらい経つと、おおかたの鯉は獲り尽くされ、あとは大きめの鮒や鰻や鯰をねらうこととなる。父の網に大きなうなぎが一匹、逆立ちというか、はすがいの形でかかっていた。うなぎといえば、いつでも食べられるわけではない、貴重であった。小学校に上がってからも、いつか病弱なときがあって、どこかに父に連れられて、国道を越えて勝加茂村に入った道筋をしばらく南にたどったところであっただろうか、うなぎの養殖場にうなぎを買いにいったことがあった。その頃の山間の村人にとっては、貴重なタンパク源であったのだ。
 大人たちの動きや喊声が一段落する頃、私のような子供と女衆の出番となる。鮒には、エラブナ、キンブナ、ギンブナ、ゲンゴロウブナ、ニゴロブナなどの種類があるそうだが、自分ではどれだか区別はついていなかった。大抵の子供は小さな網を持っていて、それを使って鮒の仲間や、どほうずや子蝦、タカハヤやメダカの類いを捜した。といっても、大人衆の邪魔になってはどやされるから、ひたすら浅瀬を中心に行ったり来たりで、辛抱強く漁を続けなければならない。
 総勢で百人はいるのでは、かと思うくらいの人間があくせく動き回るせいで、漁の開始から1時間もすれば池の中はどろどろの泥水になってしまう。水に溶けている酸素の欠乏で魚たちは呼吸が苦しくなり、あぷあぷ溺れて、湖面に口を出してくる。水面には魚の口が品評会みたいに沢山浮かんでいる。みんな、息が苦しいに違いない。池の水際の狭いところに、沢山の口が押し寄せる光景は、見方によると、異様でもある。女の人や私のような子供は、手網や米をとぐときの「そうき」や「手網」でそんな状態の魚をすばやくすくい獲るのだ。
 獲った鮒たちは、腰にぶら下げている「魚籠」の中に入れていく。釣りでも、大物釣りを狙うものだが、それは当たっている。その中には、7、8センチメートルから10センチメートルを超えるものもいた。こちらは元気がよくて、最後の力を振り絞るのか、両手で掴まないと、また水の中にこぼれ落ちてしまう。なんとか掴んで魚籠の中に入れ終えた時には、思わず「やった」と心の中で快哉(かいや)を叫んだものだ。
 やがて夜のとばりが落ち始める頃には、ほとんどの人は一日の漁を終えて家路につく。さすがに疲れる。しかし、ガス燈や懐中電灯をぶら下げて岸を歩く人もあった。それが、池を見渡せる我が家の庭から見て取れる。我が家のこの一日の収穫は、多い年は、鯉が3尾も底の深いバケツの中に収まっていることもあった。家に帰るや、いよいよ調理を開始。祖母と母は、鮒や川蝦などはそれらを水洗いし、大きさによって振り分けた。それからきれいな水を入れてあるバケツにかれらを移して、もう一度泥を吐かす。その上で、今度は家の中に持ち入って、鍋に入れ、調味料や薬味の山椒などを入れ、小さいものは煮込んでいく。白い川蝦は煮込むと、焚き具合が気になって鍋蓋を開き、中身が紅く色付いていくのを確認するのが常であった。これが、一度食べたらやみつきとなる位に、誠においしい味がすることを知っていることから、時には途中で2つ3つつまんでは味見していたに違いない。
 持ち帰った鮒や小魚は、母と祖母、兄と私の四人がかりで獲ったものだから、かなりの分量となっている。ちなみに、祖父は、魚を獲るのを観たことがない、静かに池の淵からやや離れた処に経って、人と話したり、時には「しんせい」と呼ばれる安価なたばこをくゆらしつつも、全体として涼しげに前に広がる風景を観察しているようなのであった。
 さて、家での作業に戻ると、まず大きなバケツに入れて泥を吐かせておく。しばらくすると、かれらを「そうき」に次から次へと採り上げて、はらわたや浮袋などの臓物をとって「しょうやく」しなければならない。「かど」に水の入った小さなバケツを置いて、とってきた魚を出刃包丁でさばいて、臓物をとり、水で濯いでおく。大漁だと、なかなか手間がかかる。それに、鮒でも大きいのが穫れていることがあって、其の時は念入りに包丁を入れていた。それが済むと、小刀で竹を削って作っておいた串に刺していくと、これが焼き鳥屋の仕掛けのような案配となる。
 こうした前処理が終わると、ようやく「あぶり」にとりかかれる。大量の魚の「しょうやく」をこなすために、我が家の2つの七輪だけでは足らない。その他に、傍らでは、庭に煉瓦を「コ」の字型に囲って、大きめの区画を作る。その中に、沢山の消炭を座敷のような案配になるよう入れている。そこにまずは炭に火を付ける。火の付け方は、「こより」状に丸めた新聞紙でこちらの方でも火を付ける。七輪は仕上用に使うことにしていた。大きめの区画に炭が焼けると、その「コ」の字に沿って魚の串を橋渡していく。団扇で風を送りながら頃合いをみてひっくりかえすというか、くるくると串を回してというか、炭の上で櫛に刺した魚を焼いていく。魚たちは、掌(てのひら)でくるくると裏返しにしながら焼くと、焦げにくいのだ。
 火の管理は、日頃の竈の管理や風呂焚きで手慣れていた。火勢が強くなるとそれにあおられてか、あれよあれよという間に魚が黒こげになっていくので、火箸で火を少し「コ」の字の開いた方へ掻き出してやらねばならない。それとは逆に、火の様子を見つめていると、弱くなる時がある。その時は、まんべんに焼けなくなってしまうから、新しい炭を火箸で掴んで火勢の衰えた処へくべたり、側面の口から団扇で風を送ってやる。新しくくべた炭が熾(おこ)ってきている時には、時折、「シューッ」と小さな火柱が上がる。チリッチリチリと鳴り出したら七輪の上に金網をしき、次から次へと焼いていく。火の勢いが強くなっているときには、こちらの額も熱々で、魚の脂の入り混じった煙がもくもくとあがってくるので、目の方も沁みて痛くなっている。あれやこれやで忙しい上に、作業中は片時も持ち場を離れる訳にはいかないのだから、楽な仕事ではなかった。
 どうやらこうやらで、七輪での焼きの仕上げを含めて、夜の8時くらいまでには一応全部を焼き上げたようだ。串焼きの鮒については、この夜の作業の後も、又日を改めて、もう一度七輪にかけて焼くことになっていた。途中で天井から吊して天日で乾燥させ、それからまた焼くことで臭みがだんだんに抜けてゆくのであった。都合2回の焼きが済むと、やや大きめの亀(陶器)に酢入りの醤油に付けて入れ、保存食にしていた。これと似たような話が、私とほぼ同世代の中原丈雄さんの随想「やっぱり塩鯖」のさわりの部分に記されていて、そこには「・・・しかも僕の出身は熊本の人吉という、鹿児島と宮崎の県境ぐらいのちょうど山の中で、名かなというとずっと川魚だったんです、親父が釣り好きで川に釣りに行っちゃあ、釣ってきたものを串にさして火鉢で乾燥させて、家の中に吊していました。非常食にね。食べるときは番茶で煮て、お茶で煮ると川魚の臭みがなくなって骨まで柔らかくなるんですよ」(東洋水産さんのパンフレット「おさかなぶっく」2015春号に所収)と、先人の知恵を紹介しておられる。これをいま読ませてもらって、私の故郷でも栽培していた「番茶」で煮ると、臭みが抜けるだけでなく、骨まで食べられるようになるとは、一度も聞いたことがなく、今更ながらよいことを学んだ気がしている。
 天然の鰻(うなぎ)や鯰(なまず)は特別扱いで珍重した。父が40センチメートルを超えるような鰻を捕って帰ったこともあった。其の時は、父の赤銅色の顔が夕焼けに照らされていたように見えたものだ。その心は、西部劇で父親が漁に出て、その還りを留守を守る家族が待っていて、何十日か経った後、ついに獲物を馬の背にぶら下げた父親が我が家にしとめた獲物を持ち帰ってきたとき、母や祖父母、そして兄弟などと一緒にその父を迎えるのにどこか似ていたのではないか。
 池や沼に棲む鯰は「泥臭い」といわれていたが、我慢できないほどのことはない。うなぎよりさっぱりした味がして、これもおいしかった。これらの鰻や鯰の場合も同じように調理するのだが、こちらはいやが上にも力が入る。両方とも、父が2枚にしてから七輪(しちりん)にかけてあぶった。まずは炭に火を付ける。そして、「しょうやく」が済んだ鰻と鯰を金網に載せ、七輪の火を調節しながら、その金網の上に鰻や鯰をのせる。団扇で景気良くあおいで火力を増してやると、やがてじゅうじゅうと脂が出てくる。その脂がポタポタと炭の中に落ち始めるともう仕上げだ。焦げ付くと風味も落ちてしまうから、早めに器に移したものだ。
 鰻や鯰の食べ方は、名古屋辺りの三様の食べ方ほど凝ってはいないが、その中の「ひつまぶし」による食べ方とやや似ているようだ。どんぶりにまずご飯を中ほどまで入れてもらう。その上にぶつ切りの鰻なり鯰を入れる。さらにその上にほかほかのご飯を入れ、醤油を少々注ぎ、さらに自家製の番茶をたっぷりとかける。醤油がご飯になじむ頃、鰻の脂が小さな泡となって茶の湯の表面に浮かんでくる。それまで待つことが大事だった。一椀のご飯を食べる間だに具を少しだけ食べる。そして次のご飯を足してもう一度脂の汁に浸して食べる。こうすると3回くらいはおかわりが出来た。
「お母ちゃん、おかわり(ちょうだい)。」
「よしよし、いま注いでやるけんなあ(あげるからね)。ちょっとまっとれよ。」
 母が、ご飯の入った「おひつ」をたぐり寄せるようにして、お代わりの茶碗に盛りつけをしてくれる。
「泰司はよう(よく)食べるなあ、よっぽど鰻がすきなんじゃな。そうじゃ、わしのもたべてみい」
祖母が笑って、ちょうど余っていた鰻の一切れを私のどんぶりに入れてくれた。
「ありがとう、おばあちゃん。これでまた何杯もご飯が食べれるけん」と、自分の顔がうれしさと期待感で紅潮しているのを自然に意識しながら、腹一杯たべさせてもらえる幸せ感にも酔っていたのではなかったか。
 さっそく、それをどんぶりに入れて、ご飯に少し醤油をつぎ足してもらい、熱い自家栽培の番茶を注いでから、しばらく待つ。脂分が油の表面に浮かんできたら、できあがりとなる。それから、またご飯を汁ごと口にかき込んだものだ。ご飯をたくさんおかわりすることで叱られたり、たしなめられたりすることはなかった。感謝すべきは一度も欠かすことなく一日に3度のご飯が腹一杯に食べられることだった。いま想い出すと、そのときのありがたさが今更ながらこみ上げてくる。
 今ひとつの鮒取りで獲り上げた魚の食べ方として紹介したいのは、その日の晩ご飯のおかずとして、鮒とかの小魚を母が甘辛く煮てくれていた。山椒の葉や丸い小さな実も薬味で入れてあって、その分、こうばく香ばしくなっていたのかもしれない。これをあったかなご飯の上にかけて食べると、とてもおいしかった。人は、「今が旬」のおいしいものを食べると、えもいわれぬ幸福感に浸れるというが、私たちの山間の地でも、海の魚を食べるのは常でなかったものの、河や池、沼の魚たちは、おいしくいただいてきたのではないだろうか。熱々の煮物をいただくのも結構だが、魚の煮物は冷所で一晩寝かしておくと、煮こごりの状態になり、これをまた炊き立てのご飯にかけて食べるのも美味しかった。コラーゲンのようなつるつるのゼリーのようになった魚の油が、ご飯の上に載せるとご飯に沁みて、あたかも「たまごかけご飯」のようなあんばいになってくれる。

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