新48『美作の野は晴れて』第一部、実りの秋2(籾すりと麦植え)

2014-09-27 18:48:50 | Weblog

48『美作の野は晴れて』第一部、実りの秋2(籾すりと麦植え)

 籾として収穫したものは、家に持ち帰って天日干しを繰り返した後、十分に乾燥したところで、好日を選んで、我が家の庭で籾すりの機械に掛ける。それは2日か3日にも渡る日作業を2度くらい繰り返すことによって、行われる。重要な農作業の工程である。現在は、多くの農家が農協の「ライスセンタ」なりにまるごと依頼して行ってもらっているようだ。当時は各農家で作業を行うのが主流であって、それが無理なときだけ、地域によってはの共同でしたり、農協に持ち込んでお金を出して依頼していた。
 その頃の我が家では、家族で籾すりを行っていた。家(うち)の精米は、おそらくはで共同所有している籾すり機械(精米機)が順番で回して使っていた。小学校の3、4年生くらいまでは、その機械は、長くて大きな荷車に載せ、南の笹尾地域の方角から大勢で引いて来てくれていた。おそらく、運搬を手伝ってくれたのは、前の順番の人の手助けであったのだろう。4年生頃からは、籾すり機もぐんとコンパクトなものに変わって、の大人衆が1トン積みのオート三輪で運んできてくれた。まことに有難い。
 私の家の前に急勾配の坂がある。そこを荷車で引き上げるときは子供も手伝った。何しろ、その機械は長さ2メートル、高さも人の身長くらいは優にありそうな代物であるから、長い長い荷車に一杯に乗っかっている。それを笹尾(ささお)とか、西下の別の地域から運んでくるのだから、何人もの人手が必要である。人力でみんなで前から引いたり、後ろから押したりして、ようやくにして、家の広い庭に着くと、それをむしろをしいた上に総掛かりで引っ張り降ろした。これで、設置が完了した。
 父が、さっそくベルトを介して、籾すり機械の動力を導入するローターに届く距離に発動機をセットする。発動機に燃料が充填されていて、籾すり機側にベルトを噛ませたら、いよいよ始動にとりかかる。父が発動機のハンドルを回してエンジンに助走を付ける。
「プスプスプス」と気のないような音で、なかなか自動回転につながらない。そのうちに、油のにおいが漂ってくる。やがて、脱穀の時と同じように、何回かクランクにつながるハンドルを回しているうちに、発動機が「ドムドムドム」と動きだす。父は、出力の具合を調整して、それが規則正しい動きを見せるまであれこれと発動機をいじって、調整する。動いているベルトにグリスをすりつけて滑りをよくすることもしていた。これだけの準備ができたら、「よっしゃあ」ということで、籾すり機の駆動部分にひっかけているベルトを引っ張ってきて、それを発動機にも噛ませる。すると、二つの機械が連結されて、籾すり機が「ゴオッ」という音をたてて、動きだす仕掛けになっている。
「さあ、今日の仕事の場の始まりだ」ということで、籾すり機が動き出すと、しばらくは負荷をかけないで、「空運転」を行う。機械の調子がよいのを見計らってから、運転レバーを開ける。機械に負荷がかかり出すと、籾溜まりから籾を掬ってきて、ホッパーから投じていく。この籾すり機というのは、籾をゴム・ロールを摺って、玄米と籾殻に分けて輩出させる機械である。実際の作業では、「シイナ」といって、籾すりされなかったもみや、実の入っていない殻だけの籾も、籾殻とは別の排出口から出てくる。そいつは、もう一度ホッパーに戻す作業してやらなればならない。
 籾すりの機械はなかなか複雑な構造になっていた。連日の日干しでその籾は適当な湿度(適正な水分値)に調整されていることが必要である。その乾燥された籾が機械の中を循環していくうちに、籾殻が剥がされることになる。中心部は見えないものの、どうやら二つのゴム・ロールの間をすり抜けるとき、籾殻が摺られる(つまり外面を覆っている殻が剥がされる)。玄米は、機械のき吐き出し口から放出される仕組みとなっている。
 この機械の吐出口の下に「千通し機」ないし「万通し機」を取り付けてある。その器具は「ビン線」(ステンレスの鉄線が斜めに沢山通っている、金属を平衡に張った台)を通して、籾すり機にかけられた玄米をくず米や小さ過ぎる米粒を最終的に選り分ける。粒の小さいものは、びん線の上を走る間にその糸下に落ちていく。糸の上を滑り落ちた米粒は下敷きの「むしろ」の上にどんどん溜まる。ちなみに、自分の中心的役割の前半部分は、その溜まってくる玄米をブリキの「そうき」ですくい取って、10升(1斗)枡に測って入れることであった。
 その10升(1斗)枡が一杯になると、私は仕事の後半の部分にとりかかる。それは、なかなかの力仕事だといわねばならない。その一升枡を両腕に抱えて玄米を、家の土間の奥の板間に運び込むのだ。その板間には、むしろが敷いて、戸を閉めて、端がむしろでせり出すようにしてあった。こうすると、際がせり出しているので、沢山の玄米が入れられるようにしてあった。これを運ぶには10升(1斗)ますを使った。ビンセンの前で、籾すりした玄米が流れ落ちてくるのを鉄製の「そうき」で掬っては入れ、掬っては入れて、そのますを満杯にする。ところが、玄米をすくい上げてはますに入れていくと、最後はどうしても凹凸が生じて、ますの隅々まで平等な高さにコメが行き渡らない。そこで、「ます掻き棒」を両手にとり、ますの上面に棒を渡してから、手前から向こうへとさっと移動させて、表面をならして平らにする。それだけのことをしてから、そのますを体全体で包み込むように抱き込んで立ち上がり、家の中のその置き場所へと運んだ。その1斗ます(容積は約18リットル)には15キロくらいの玄米が入っている上、「風袋」としてのますもなかなかに重い。全部で17キログラムの総量であったのではないか。
 籾すりの現場と板間との間は10メートルに満たない。その距離を移動する。途中、庭から縁を通ってその部屋に行くときには、段差というものがある。その段差には広い幅の板が渡してある。そこに「むしろ」を敷き、その上を上り下がりする。その時には、余分に負荷がかかる。その往復を機械の運転が止まるまで、延々と繰り返す。一往復するたびに「正」の字を一本ずつ描き込んで精米量を記録していく。そのときは脱穀のときほどにはかゆくない。とはいえ、だんだんに疲れて、だんだんと足取りがふらついてくる。だから、板を上るときにはことさら油断は禁物である。足腰にしっかりと力を入れておく。幸い、足は丈夫なので、助かる。
 昼の休みは僅かしかない。昼ご飯を済ませて一息入れると、早々と又田圃に出かける。午後になると、朝早くからの仕事の疲れが出て、さすがに作業のペースが幾分か落ちてしまう。それでも、機会の早さに合わせて働いていると、はや陽は傾き始めており、そろそろ今日の予定を済ませなければならない。此の分では、今日はもう当座の後片付けをして、おそらく明日も、この作業を続けることになると、父と母が話し合っていた。
「夕焼け小焼けの 赤とんぼ
追われて見たのは いつの日か
夕焼け小焼けの 赤とんぼ
とまっているよ 竿の先」(作詞は三木露風、作曲は山田こうさく)
 夕方には西の空がだんだん茜色に染まってくる。すると、カド(庭)のあたりもまた薄紅く幻想的な色に染まる。その中をトンボたちが乱舞している。シオカラトンボ、その雌のムギワラトンボたちだったと思う。北へ北へと長距離移動するウスバキトンボ(精霊トンボ、盆トンボの異名を持つ)もいたかもしれない。
 人の手が加えられている田んぼの畦には、ハッチョウトンボの雄が飛んでくる。亜大きさは2センチ足らずしかない。近くに、焦茶色とクリーム色のまだら模様の雌も見かける。
浅く掘られた水路にも、田んぼにつながる雑木林や棚池にもいて、それぞれの種類のトンボで群れを作っているようである。夕陽に染まっているので、本来持っている色ではなかったのかもしれない。時折は、水玉模様のアオモンイトトンボも飛び交っていた。
 人家のあるところでは、普段は狸や狐、いたち、うさぎといった中くらいの大きさの動物たちは見られない。それでも、狸が一度だけ我が家の庭に現れたことがある。
「しょう しょう しょうじょうじ
しょうじょうじの庭は
つつ月夜の みんなでてこいこいこい
おいらのともだちゃ ぽんぽこぽんのぽん」(野口雨情作詞、中山普平作曲。なお、証証時寺は千葉県木更津市内にある寺)
 秋は、自然の実りが隔年で変わっていく。その年の山の実りは、ことのほか多かった。きのこ取りはその最たるものであった。マツタケ、ヒラタケ、マイタケ、ホンシメジ、サクラシメジ、アミタケ(ズイタケ)、ハツタケ(アイタケ)、ヒラタケ、クロタケといろいろあった。キノコたちは松の柴の間から沢山帽子を出していた。きんもくせいが橙色の花弁を地面一杯に落としている沢の辺りにも行った。ツキヨタケやテングタケとぃった毒キノコは森の奥の涼しい所で光っていた。雑木林のなかをかき分けかき分け、右へ左へ縫うように歩きながら、それを夢中でびくに入れたものだ。
「泰司、どこまでいっとんたんじゃ、ようけいとれたか。」
「うん、裏の方から天王山(てんおうさん)の近くまでのぼってなあ、そこから西ん谷(西の田圃の奥にあった。)に降りて戻ってきたんじゃあ。」
もっと近づいてから、
「ほうれ、ようけいとれたで」
「どれどれ....。おうおう、ようけいとってきたなあ。えらい、えらい」
そして、祖母と母に披露してもらった。
「おじいさん、見てやりんさい。泰司がズイタケ(アミタケのこと)やら仰山採ってきたで。」
「どれ、見せてみい」
祖父がおもむろに近づいてくる。
かごの中を見せると、
「ほう、ようけい採ってきたのう・・・・いろいろあるがな」 
と祖父がほめてくれた。
 山の中に分け入ると、バリッ、バリッと足元ではぜる音がしている。あちこちにシイやコナラやクヌギといった木々から落ちたどんぐりが、豊作の年にはじつに多く地面に転がっている。我が家の後ろの山から分け入っていく。その雑木林で一番収穫の多いのはアミタケである。それは、松柴や落葉の間に沢山生えていた。傘の部分にぬめりがある。傘の裏側は漁師の網のように細かい穴が開いている。
 竹籠に入れて持ち帰ったきのこは、新聞紙の上に広げ、傘の部分に付着している柴なんかを剥がしたり、根っこの石鎚をとり除く。その作業のことを「しょうやく」と呼んでいた。なかなか根気のいる作業だ。それからそうき(ステンレス製の網容器)に入れて、冷水でもみ洗いを施す。こうして料理の具材となったアミタケは、混ぜご飯の具となっても、みそ汁に入れられても、おいしくいただける。味は淡泊ながら、柔らかい舌ざわりとズルズルという喉越しの感覚が残った。
 ニオウシメジは西の田圃の奥のひんやりした林の中に生えていた。西の田圃の奥まったところにある林に群生していた。これはなかなか上品な味がした。何が毒きのこであるかを教授された覚えはない。途中ではナツハゼの黒い実やぐいびの実を採って食べたりした。親や村の兄さんたちの後をついていきながら、自然と覚えていったのだと思う。
 一番の目当ての松茸はめったに採れなかった。森には、杉(最近では、クリプトメディア・ジャポニカと呼ばれる樹齢40~50年のものが輸出もされているらしい)や檜の類を植林してあり、その辺りには松茸は生えてこない。それでも池の西側の松林で村の友達と採ったことがある。松の葉は顔に触れると痛い。顔にかかる枝をはらいはらい進んでいくと、目の前に赤松の林が現れた。マツタケのある橋よはフワフワした土壌をしていた。鎌の先で根っこの柴の盛り上がったところを探していく。白い菌糸がたくさんあるようだと、その辺にあるかもしれない。
 そのまま、あきらめずに30分も探していると、やがて親指ほどのマツタケが2本見つかった。「やったあ」 と心の中で叫んでいる。小さな体に喜びの衝撃が走ったものだ。一つあるとその周辺にいくつもある。だから、ひととおり探り終えるまでは友達に聞かれるような大きな声はたてまいとした。
 一人が採れたと知ると、友達が嗅ぎつけてやってくる。
 すると、柴や小枝が地面を覆っていて、その上を白色の菌糸がふかふかに生えている辺りに、次のが見つかる。というわけで、みんなの目は光りを帯びてくる。期待感で心が膨らみ、気が焦る。
「すごいなあ、ここに小さいのがある」
「この辺にあるで、大人の秘密にしとるとこかもしれん」
「さあ探せ!」ということで夢中で鎌の先で表土を剥いだり、手で地面を引っ掻いていったものだ。
 辛いこともあった。あれはいつのことだったか、祖父と池に出かけた。生まれて間もない、まだ目が開いていない子犬4、5匹を捨てにいった。その前は、「しろ」という名を付けた犬を飼っていた。我が家の「しろ」が死んだ後、二代目は「エス」といった。「エス」に朝と晩のご飯をやる仕事は私の担当だった。糞の世話も初めの1年位は真面目に取り組んでいた。しかし、そのうち忘れがちになってきた。散歩も時々になっていく。犬小屋の周りが糞だらけにになっているのに、片付けてやらない。母はその一部始終を見ていたらしく、「おまえはいったい何をしようるんか」と、いつになく厳しく叱られたことがある。
 大きな籠を抱えて、祖父の後ろに付いて池に着いた。手提げ籠にはエスの生んだばかりの子供達が、みんなかわいい顔をしてい。父親はどこからかやってきた野生の犬であったろう。いま省みれば、かわいそうなことをした。犬の赤ちゃんたちはしばらく浮いていたが、やがて泡とともに沈んでいき始めた。彼らの目が見えていないことが、こちらにとってはせめてもの救いとなる。それからは、眺めているのが忍びなかった。私は、早々と踵を返して元来た道を戻っていく祖父を追いかけて、後ろを振り返り、また振り返り、後ろ髪を引かれるような思いで、足早やにその場を去ったのを覚えている。
 秋の取入れが終わると、ほっとする。これでしばらくしんどい目をしなくていい。これで、今年はもう危険な目に遭わないでいい。仕事から解放された安堵感ひとしおであったことは否めない。それからは、一家総掛かりで、稲作の済んだ田圃に素手で牛藁糞を撒いた。その後に父が牛や機械を使って耕し直して、今度は麦を植えることもあった。アンドレ・ジッドの小説『一粒の麦もし死なず』のあの麦である。
 麦の種の植え方は、まず鍬を使って田圃の中に沢山の畝を作る。鍬を使うときには、脚を踏ん張らってやらないと、勢いがついているので危ない。一通り畝を作ると、その上にそこの平たい鍬で、右左と交互に土を削りながら窪みを作っていく。それが済むと、その上に種をパラパラとまいて歩く。随分と根気の必要な作業である。もっとも、我が家で麦を植えるのは数ある田圃のごく一部、1枚か2ま枚のたんぼだけであり、我が家で消費する麦の大部分は畑作で栽培していた。
 脱穀の終わったばかりで田圃に入ると、田圃には「なる」と「はでやし」が残されている。これを、私の家の西の田圃、その中に「おおまち」と呼ばれる1反4畝くらいで、我が家で一番大きい田圃があった。その側抗面にブリキの屋根を造ってあるので、その保管場所まで運ばないといけない。西の田圃のさらに奥の傾斜地にある「中ん谷」の田圃からは200メートルはある。のため、そこまでの道のりを「なる」を両肩に1本ずつ、合わせて2本担いで行き来するのが母や私たち子供の仕事となる。私の肩はおじいさん似でなで肩のため、「なる」がうまいこと肩骨に定着してくれない。ともすれば、肩からずり落ちそうになる。それを腕で引き上げながら平衡間隔を保つのがコツだった。
 「はでやし」は、父が束ねたものを肩に担いだり、一輪車に載せて運んだ。中ん谷だけで10何往復くらいの仕事量がある。しまいには、肩が痛くて手ぬぐいを荷物との間にかませ、かませやっていた。実に大変な作業だった。
 それでも空便で田圃に向かう途中では、細い道の草花を観察したり、手でふれたり、途中の小さい池に垂れ下がったくぬぎの枝先に、丸いどんぐりが実っている。

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