新54『美作の野は晴れて』第一部、村祭り2

2014-09-29 21:26:22 | Weblog

54『美作の野は晴れて』第一部、村祭り2

 やがて、祭りは神事の最高潮に入っていく。驚くべきは、御輿にも格の違いがあることである。山形の御輿を先頭に各の御輿は連なって、縦に連結して、今度はゆるやかな足取りで式の行われる神域へと進んでいく。そこに近くなると、周囲の見物側からのかけ声も大方消えて、御輿を中心とする各の一行はしずしずと本殿の中に進んでいったようである。
 その参道は、あの鎌倉の鶴岡八幡宮の参道を進んでいくのと趣が違う。かたや向こうに内陸、かたや海を背にしている。相当に異なるが、参道わきの松林が霊験あらたかな雰囲気を作り出しているのは共通している。神社には昔から秘事もつきまとう。新野の祭りをとりしきる、何人かの神主さんたちは予め決まっていて、私の親戚のおじいさんもその一人で、神主の役割を世襲していた。その意味では、片田舎の一地方の祭りには違いないが、由緒ある祭りの体裁が整っている。
 鎮守の奥まった所に社があって、その前が祭場ということになる。床几についた各の御輿は、そこで白装束の神主さんたちの神事を受ける。まずは「神迎え」といって豊穣の神の来臨を仰ぐ。神はどこからやってくるのか。既にそれぞれの御輿の中に宿っているとも考えられるが、ここの神事場にかれらを迎える神がいても、話としてはおかしくない。たぶん、その迎え役の神は、「高天原伝説」(現在の宮崎県)と同じように、天から降臨してくるのだろう。神が鎮座されると、さまざまな祝辞を奉る。つまり、神座に置かれた御輿7体の前で、総鎮守である山形八幡神社の宮司を筆頭に、神主らによる祝詞がその神々に奏上される。
 この席には、供物もある。その中で異彩を放ったいたのは、御神酒(おみき)である。正式には、酒の古語である「き」に「み」がまずつき、さらに「お」がついたのであるから、「御御酒」となった。これをひょうたんの形をしたお銚子に入れてある。「かしこくも」この地上に「降臨された神々」の神前へと進み、平べったい器に注いで捧げていた。その酒を神に給仕する女性がいたかどうかは、想い出せない。
 数人の神主さんたちは、白装束に身をめつつ、頭には白色の烏帽子を被っている。見物客の最前列まで進み出て、神事の有様を見ていると、体の中央に白い紙を束ねた竹など右へ左へと揺らしている。神主さんが白い飾りを右へ左へ振りつつ、口の中でなにやら呪文のような文句を唱えていたのは、たぶん、「はらいたまえ、きよえたまえ」のおはらい、つまりみそぎの行為である。風を起こして、さまざまな汚れを川から海へ、海から地の底へと追い払うことをしていたのだろう。ここで「祭る」とは、民族学者の柳田国男によると「まつらう」ことであり、その「まつらう」とは精進潔斎(しょうじんけっさい))をして、神に供物を捧げることである。さらにひもとけば、神に飲んでもらい、食べてもらう「祭る」とは、タミル語の最古の歌集サンガム(紀元前200年~紀元200年に成立した)にある「マツ」と同じ意味だといわれている。
 そこには西洋のような神との契約の考えは見つけられない。といっても、正式な契約の代表格とされるのはイスラム教の方であって、キリスト教は少し違うようだ。とはいえ、キリスト教の前に成立したユダヤ教では、ヤハウエが天地創造の、唯一絶対の神となっている。時代は、ラメセス2世(エジプト第19王朝、紀元前1270年頃即位)の後を継いだメルエンプタハが王の座にある頃だろうか、旧約聖書の「出エジプト記」にはこんな下りがある。映画の「ベンハー」にもこの場面が出てくる。
 『旧約聖書』に「あなたは他の神を拝んではならない」(第34章14節)とある。つまりは、シナイ山上でヤハウェがモーゼに迫ったのは、ユダヤの民がこの災難をくぐり抜けるためには、従来のユダヤの民が多神教であったのを改め、ヤハウェを唯一絶対とする一神教をとりなさい。これは、もはや命令である。他ならぬヤハウェ自身が、自分の他にも神がいる世界、神々の世界を認めている。いうなれば、神が人間を選んだのではなくて、人間の方が神を選んだことになっている。これがユダヤ教の成立の要諦に他ならない。
 これに比べて、日本の「八百万の神」(やおよろずのかみ)は西洋や中東のような絶対神ではない。太陽神が空腹になると凶作になることから生け贄を捧げる風習のあったインカ文明(こちらもモンゴロイド)とは、少し似ている。日本列島の自然とその移り変わりは、そこに住む人間に対して概して優しい存在であった。だから、この国には唯一の絶対者としての神が育たなかった。自然と調和する神と一心同体になることによって清らかな心と体を手に入れ、そのことによって幸せになれるという考えに基づく。
 一通りの神事が済んだあたりから、祭りは余興というか、その場に集う大衆に主役が移り、食べ物や玩具などの屋台がひときわ賑わいを見せる。私たちもまた遊んだ。午後の2時頃には早々、帰りの準備にとりかかる。御輿とともに、元来た道を帰るのである。西下の神社についたら、幟をはずして元の場所に戻し、帰途についた。
 家に帰ると、親戚のおじさんやおばさん、祖父安吉の妹である佐桑(勝田郡勝央町豊久田に嫁いだ)のおばあさんらが集まっていて、遅まきながら、客のみなさんに挨拶して回らないといけない。それが済んだら、子供はお客さんに給仕をしてまわる。ビールや酒を熱燗にしたものを持って行き、いちいち正座をして「泰司です」と挨拶してまわる。話がはずんでいるようだと、お銚子やビール瓶を捧げ持って、目が合ったりして、アルコールを差し上げる時を待たないといけない。
「どうぞ、おひとつ」
といって、酒徳利とビールを取り替え取り替えしながらアルコールを注いでいくうちに、「おう、泰ちゃんか。幟を担いで、御輿と一緒に神事場にいっとったんか」と言ってくれる人があれば、「泰司か、手が震えとるぞ。おまえ、「金玉」はちゃんとついとるんか。ちょっとみん間に、大きゅうなったなあ。お父ちゃんやお母ちゃんのいうことをちゃんときいとるか。いい子をしとるか。酒はそこへおいとけ」などと、赤くなった顔でいう人がいた。
 それでも「はい」とか「そうします」 とか、おべんちゃら(お世辞)を言って応対しないといけない。他にも、「勉強はちゃんとやっとるか」、「なんで顔が赤うなっとるんか」などと、なかなか、疲れる話があったりした。あるいは、「おばちゃんたちに言うてなあ。もっと酒を持ってこい」としかめ面で言う人もいた。こんなときは「すみません。直ぐに持ってきます」と言って、お辞儀を繰り返しつつ引き下がるしかない。
 概して、おじさん連中は威張っているので嫌だった。そこで出来るだけ早く挨拶を切り上げて、台所の近くの、普段はちゃぶ台の置いてある部屋へと移動する。祭り時、そこは膳を整える間になっていた。そこでは、おばさん達と話すと、「たいちゃん、久しぶりじゃなあ」などとあれこれと近況を聞かれたりして、かまってもらえる。これでやれやれ一息つける訳である。そうこうする間にも奥座敷では祖父を中心に酒盛りの最中であった。
 祖父は息子達や親戚縁者に囲まれて、ご機嫌で楽しそうだった。当時の普通の農家にとって、酒はまだ庶民にとっては高嶺の花で、どこかよそで「ふるまわれる」とき以外は口に入らなかったといってもいい。親戚やその知人でみえているみなさんも、話の合間には自慢話も出ているのであろうか、何となく、さわやかに活気付いているようであった。
 あれは、いつの祭りの時であったろうか。家での宴たけなわの頃、父の兄弟たちは互いに肩を組んでなにやら歌を歌っていた。それを見て、子供ながらに「いろいろあっても、おじいさんは幸せだな」と感じた。それからおよそ30数年、晩年の父も「父さんの今の望みは何かな」という僕の質問に対し、「そうじゃなあ」としばらく考えながら、やがて「毎日ビールを一本飲めるようになりたいなあ」と言っていた。
「なるほど....、そうかもしれないなあ。」
 私の溜息の中には、父の本音を引き出した喜びと、これまで何もしてあげられない自分のもどかしさが交錯していた。戦争から帰った父は自分の身に覚えのない借金を背負わされて、私が中学の頃までは返済のために働かねばならぬ立場にあった。あれは小学校の4、5年生のときだったろうか。じりじりとむし暑い日であったか、白昼に庭にいると、父がどこからか急ぎ足でやってきて、庭の端に置いてある、農薬の入った樽から、中のものを飲もうとしかけた、私の目にはそう見えた。瞬間、私の意識は氷ついた。最初の緊張が解けると、今度息が苦しくなった。瞬間的なことで、目をそらしていたなら、その一瞬の光景を見ることはなかったに違いない。父はなんとか思い留まったようだったが、私の頭の中は凍り付いて、働くのをやめた。その時の赤鬼のような形相は、いまでも私の瞼の裏に焼き付いて離れていない。
 今思うと、当時の大人は、ああいう楽しみがあったからこそ、人々は、日頃の苦しい労働に耐えることができていた。祭りは、年に一度の新野村全体の神事であるとともに、新野村民にとっては、お互いが共通の神の加護をうけていることを確認し、ともに収穫を喜び合うための社交の場であったのではないか。
 一応の挨拶や用事が済むと、女の人たちも私のような子供も食事をとってよろしいことになっていた。台所のそばの祖父母の部屋か、納戸部屋の端で、裏方のみなさんに混じって、私にも膳を一つ用意してもらっていた。子供でも、一人前に扱ってくれたのがうれしかった。
「そろそろ、おまえもたべたらいい」
とどのおじさんかから言われたら、しずしずと奥の間と表の間を出ていく。
 台所のそばの部屋に行くと、
「もう、泰ちゃんの分まで用意ができとるで」
「そのお膳の前にすわりんちゃい」
と親戚のおばさんの声がかかった。
 遠慮がちにお膳の前に正座すると、さしみも一人前に盛りつけられていた。内陸部ではさしみを食べられるのは年に3回くらいだったので、それだけでかしこまってしまう。
「さあ、ごちそうじゃろう。泰ちゃん、ぎょうさん(たくさん)たべんちゃい」
「さあ、はものお吸い物もあるで」
といって、別のおばさんが向こうから差し出してくれる。
「ありがとう」
と言って座蒲団に座って、
「それじゃあ、いただきまーす」
と言って、箸を取っておもむろに食べ始める。
 料理に口をつけてしばらくしてから、働いているおばさんに向かって、気になっていたことを聞いてみた。
「あのう、おばちゃん、この刺身たべさせてもろうてもええんかなあ」
「ええんよ。全部たべたらええんよ」
「そうそう、遠慮したらいけんで、泰ちゃん」
 これはうれしい、沢山あるなあ。おばさんたちの笑顔が心地よかった。
 鯖寿司も2切れくらいあった。そのほか普段の日では食べられない、お祭りのときだけのごちそうがふんだんにお膳に盛りつけてあった。なかでも、私はハモの汁物が好きで、せりを入れた醤油汁を飲み終えた後、骨切りの包丁を入れたハモの肉をたっぷり時間をかけて食べた。    
勝田郡(かつたぐん)内の勝加茂(しょうかも)郷や広戸(ひろど)郷においても、そうした起源を持つ祭りが勃興していたのかもしれない。それらは、このみまさかのあたりでは、「君が代」にある「さざれ石」を置いてある今の津山市西北にある総鎮守の中山神社(なかやまじんじゃ)を共通の氏親(うじおや)として仰ぎ見ていたのだと伝承されている。

(続く)
☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★


新53『美作の野は晴れて』第一部、村祭り1

2014-09-29 09:55:00 | Weblog

53『美作の野は晴れて』第一部、村祭り1

 秋祭りは、日本全国に知られている大嘗祭(おおなめのまつり、後の新嘗祭(にいなめさい)の類とされている。この行事は、農耕民族としての日本人が行う行事であり、「神事」としての格式が備わったものとしては、早くは大和朝廷の支配の頃から始まったのだともされているが、朝廷の専売特許ということではなく、民衆による、古き時代からの営々と積み上げられてきた社会慣習なのだといえよう。
 ここで日本の歴史を少し遡ってみよう。大化の改新(645年)で、当時最有力の豪族であった蘇我氏に無実の罪を着せて権力を握った中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、後に代代わりで即位して「王」となった。日本史の出来事の年代を覚えるのは、みんな「蒸し米で祝う大化の改新」などと肯定的な理解であったが、最近の発掘でそれがくつがえって、「蘇我氏に朝廷権力を握ろうとする準備はなかった」のだという説が有力になっているといわれるが、それならば当時の教科書のその部分の記述は誤りだったとして訂正されているだろうか。
 しかし、彼の死後の熾烈な権力闘争(壬申の乱(じんしんのらん))を勝ち抜いた大海人皇子(おおままのおうじ)は、「王」位では満足しなかった。それまでの「王」の呼称で呼ばれるのをやめ、臣下に自分を「天皇」と呼ばせることに変更した。
 新たな象徴化がなされてからは、神と天皇に繋がる者とが毎秋収穫出来た新米を一緒に食べるのが習わしとなった。その風習そのものは、もちろん日本の発案ではない。古くは前漢(中国では「西漢」(シーハン)の司馬遷の『史記』に、歴代の皇帝が泰山(たいざん)で「封禅の五穀豊穣の儀式」を行ったことが記されている。このような風習は、その後朝鮮半島の国々を経て、七世紀中葉以後の日本に伝承された。大和朝廷でその形式と内容が取り入れられ、天皇の権威化に使われたのだろう。
 ついでながら、天皇の「皇」とは、「「最初の王」を意味するために自印(ハナの象形文字)を添えただけで、言葉としては王-皇は同系」(藤堂明保「言葉の系譜」新潮ポケットライブラリ)とされる。この点、宇宙全体を支配する唯一神に被せた名前である「帝」の字とは異なり、始めから人間に被せられる称号であった。いうなれば、「古代人は人間世界の偉大なる英雄をたたえて、それを王と名づけ、民族もしくは王朝の開祖である偉大な英雄をとくに皇と呼んだ」(同)のだとされる。ここには、天皇と中国道教の流れを汲む神道思想とが結びついて、祭事を司ろうとの考えがすでに用意されている。
 興味深いのは、この祭りが、みまさかの北東部、勝田郡新野郷の山形地域(現在の津山市新野山形)の「八幡神社」の神事として行われていることだ。この神社の主祭神とされているのは、応神天皇など三神と伝えられている。同時にそれは、いつの日か、外国から渡ってきた収穫祭が日本の大分県にある宇佐神宮(うさじんぐう)を宗旨とする土着の「八幡信仰」と結びついて、今日の日本各地の祭りの原型となって広まっていったことを窺わせる。ここに宇佐神宮とは、全国の八幡信仰を宗旨とする全国の八幡と名の付く神社の頂点に君臨する神社である。その主祭神は、両脇に応神天皇と神宮皇后(この両人については、実在の人物でないかもしれない)、その中央には比売大神(ひのおおかみ)であり、これらをまとめて「三神」という。その祭壇の中央の人物は、一説に邪馬台国の「卑弥呼」とも言われているが、いまだに定説はないようである。
 この神社の由来はまだ十分には明らかではない。「八幡」(はちまん)というのは、八方向に八つの色の旗を立てることから来ている。飛鳥時代の日本史を語る上では、「宇佐八幡宮神託」にまつわる事件がある。これは、宇佐神宮の神託が大和朝廷と深い関係にあることで知られる。その神託にかかわる事件とは、769年(天平神護5年)、僧の道鏡を次の天皇位に就かせようとした称天皇(孝謙天皇、女帝)が、同神宮に天皇の臣の和気清麻呂を遣わせて神意を確かめたところ、「王位継承は古来より定まっており、臣を君にすることはできない」との神託が下り、道教の天皇位継承ががならなかった事件を指す。
 この場合、同天皇が通常一番のより所とするはずの伊勢神宮を差し置いて、なぜ宇佐神宮の神託を求めたのか。その理由はまだ十分には明らかになっていない。少なくとも、そのような問題への決着を付けるために、宇佐神宮の神託を得ることが必須の条件であったことは想像に難くない。
 このような日本古来の伝統を引き継いでいる新野の秋祭りであるが、その始まりは「少なくとも室町の頃から」の行事だとされる。祭りの開催日は11月3日の勤労感謝の日(もとは旧暦9月29日)である。これは、神々に豊穣を感謝するものとして、日本中の類似の祭りにほぼ共通している。その日、新野の中、山形の地に鎮座する八幡(はちまん)神社を親神としてい新野村内の7つの町内から御輿を連ねてやってくる。
 祭りの目的は、つづめていうと豊穣の秋を祝うことにある。万一、その年の収穫がかんばしくなかった場合は、その次の年の豊穣を祈願する気持ちが尚更高まった筈だ。この日は、朝から俗に「神事場」(じんじば)と呼ばれていた「霊験あらたか」な方角から太鼓の音が聞こえてくる。それは、いつの頃からか、この土地の晩秋の風物詩となって受け継がれてきたものである。
「山形八幡神社の境内で きょうはお祭りがあります。皆さん、連れだって参加しましょう。青年団のみなさんと婦人会の皆さんにはよろしくお願いします。」
 その日は朝から晩まで祭り一色となる。我が家から15分ばかりその道を歩いて、鎮守が遠くに見える所に達する。そこかせは、太鼓の音とかが聞こえて来る。この「作北」(みまさか北部)の地で、一年を通して貧しさのため苦労ばかりが多くて、喜びが少なかった頃から祭りはあったのだろう。人々は、ひたすら働くことが常であった。それが義務であり、責任であり、美徳ともされていた。そんな遠い祖先の頃から、稲の取入れ後の秋祭りは代々のご先祖様、村人の大きな楽しみであったことだろう。
 その日は、新野村全体の神社の御輿が、新野山形の字稲塚野(それは、新嘗の祭場あるいは古代の地方官にちなんだ地名であると伝えられる。)八幡神社の鎮守の森に集まった。普段は、人々の往来が少ない、何の催し事もないようなところである。
 そこには、親神としての八幡神社(旧山形で現在の津山市新野山形)のほか、1186年(文治2年)に美作守護の梶原景影が駿河の国浅間神社から勧請したと伝えられる二松神社(旧久本、工門で現在の津山市新野東)をはじめ、天穂日神社(旧西中で現在の津山市西中)、天津神社(旧西上で現在の津山市西上)、天満神社(旧西下で現在の津山市西下)などの5つの神社、新野郷の旧6・村から沢山の御輿と氏子(うじこ)が集った。各々の御輿には、出立のとき「お霊移しの礼」により神霊が宿っていて、正午頃には稲塚野に神行してくることになっている。
 それらが集まる場所については、その周囲は松とかの林に囲まれ、中央に百メートル以上はあるような長く真っ直ぐな参道が続いていた。ここの標高は海抜355メートルとされる。ここは、たしかにそこは天声降臨にふさわしい場所として作られ、自然の雰囲気で演出された場所だといえるだろう。
 この村祭りはおそらく、江戸の中期までは遡ることのできる、由緒のある祭りなのではないか。それは正月と並ぶ僕の村の、そして新野の村の最大の行事の一つであった筈だ。それは、一年の実りを神様に感謝する催しである、といってよい。
 祭りの前日か、その前には、上村の魚屋さん夫婦が、生の魚を売りにきた。私たち子供は、魚屋さんを流尾で迎える日の朝は、何がなんだか分からないほどうれしくて、はしゃいでいた。タコもハモも、それからさしみとなる筈のまぐろやいかもあった。それはそれはすごいごちそうであった。
 普段、海の魚といえば「こうなごの煮干し」とか「塩さば」とかがほとんどすべてだった。私は、魚屋のおじさんが取り自動車の荷台をしつらえた調理台を仕切り、おばさんが手際よく調理していくのをじっと見ていた。常日頃から家の手伝いをして、ご褒美が秋祭りのごちそうでもあったろう。さしみといえば、その頃の50軒くらいの西下(にししも)内の普通の農家では、法事(法要)とか結婚式とかの慶弔事がないかぎり、それゆえ年に1~2度しかさしみを食べる機会はなかったのではないか。
 私たち村の子供は、午前中から西下神社に、を構成する流尾(ながれお、「ながりょお」と言っていた)、平井(ひらい)、笹尾(ささお)、そして中村(なかむら)の小から人が集まってくる。御輿(みこし)の担ぎ手たる白装束の兄さん達とともに、私の親戚である神主さん(「とみやのおっちゃん」)から「のりと」を受ける。それから、「八幡神社奉納」などと木綿布に書かれた幟(のぼり)旗を長い竹に巻いたものを背に担いで、村の若い衆八人くらいが担いだ御輿を先導していく。
 行き先の神事場は、西下神社から二キロメートルくらい北にある。幟を担ぐ子供は10人くらいだったろうか、なにしろ駄賃として150円とかの給金がもらえるので、「うぉーりゃーっ」という気分で喜んで肩越しの旗を風になびかせたものである。
「よっしゃあ、もっとやれ」
 若い人がそこかしこで騒いでいる。
「格好がいいのう。」
 お年寄りも目を細めて喝采を送ってくれる。
 少なくとも5、6本の旗が陽光にきらめきつつ、なびいている。その御輿を先導していく様はなかなかに美しい。
 御輿の造りは、それはそれはがっしりしている。重さは200キロを優にこえているような代物だ。ご神体が宿っているとされるので、大事に扱わないといけない。何かして壊れたり、それでなくとも不具合となれば、修理しないといけない。直す段になると、途方もないカネがかかるらしい。いやはや、触るのも怖いし、担ぐのは重くてもっと辛いというほかはない。こうなると、担ぐには担ぎ手が一致結束しての「正攻法」しかない。さながら、引っ越し業者が家にピアノを担いでいくようなものだ。そればかりではない。「輿」(こし)という字は、前後左右から手が差し出される構造となっている。それは、四人の手と肩で同時にその四本の柄(え)を持ち上げる必要がある。それはとても重たいものなので、万一担ぎ損ねると怪我をする危険が伴う。だから、「よっこいさーのー、せい」とかの気合いもろとも、四方から一遍に担ぎ上げるのである。
 の青年団の人たちが、白い祭りばんてん姿で御輿を担ぐ。山形の祭りの会場に行くのだ。道を1キロ半くらい北上するのであるが、8人掛かりで担いでも相当重いらしく、何度も途中で立ち止まり、大きくて頑丈にしつらえてある床几をたてて休んでいた。私たち幟持ちは、途中で何度も振り返り、後から来る輿を待つ。近づいてくるとまた歩き出すという具合で、でこぼこ道を進んでいった。
「村の鎮守の神さまの
今日はめでたいお祭り日
どんどんひゃららどんひゃらら
ぴーぴーひゃららぴーひゃらら
朝から聞こえる笛太鼓」(作詞と作曲不詳、編曲は源田俊一郎、なお、一部の歌詞に天皇崇拝の文句があったので、敗戦後は読み替えがなされた)
 この歌のように笛は聞こえてこなかったのが惜しい。境内に続く長い参道の中腹にある大鳥居の入り口に到着すると、どのかによって輿の鎮座する場所なり、順序が定められているようで、その順番まで待ってから、その場所へ移動した。神社の方角には白い幟(のぼり)がはためいて見えていた。
 私たちが担いできた幟(のぼり)は、神事場の鳥居をくぐって神事の行われる奥の院までの、屋台で人がごった返しているところの途中、大きな松の木が何本のあるところを定位置にしていた。旗を丸めるようにして、その木々の枝に持たせ架けた。それから、一段下の屋台の店が一杯並んでいるところに入っていった。人混みの中で、店のおじさんやおばさんたちの商いのやり合いの声が快く響く。
「今日は無礼講か」
 道の端の小高い丘に登ると、御輿が東の方からも山形の総鎮守に集まってくる様が見えた。
「ああ、あれは新野東の御輿じゃなあ」
 友達が言うので、私も相づちを打った。
「たしかに、うちらの(私たちの)御輿により新しいようじゃな」
 こうして各の御輿が集まってきても、親神である山形の八幡神社の御輿をやってこないうちは、祭場の中は「神域」となっていて、神の許しがないと入れない。そこで、早く着いたの御輿は、それぞれのやり方で時間を過ごしつつ、その許しが出されるのを待つしかない。そこで上を下にと体を揺すりながらも、練りを続ける。そのたびに、きらきらとした金色などの飾りが陽の光を受けてはためき、輝いて見える。これを幾つもの御輿が境内で集うのであるから、勇壮この上ない。一同に会した御輿の乱舞が始まる刻限になると、何が起こるかわからない。ややもすると興奮が昂じて、姫路の「喧嘩御輿」のような動きをすることにもなっている。
 一度なんかは、御輿の一つが相当に練り込まれ、あわや転倒かと危ぶむ位に傾いた。会場がどよめいたものの、なんとか体勢を持ち直して事なきを得た。なにしろ御輿は思いので、担いでいる人はへたをすると大怪我をしてしまいかねない。その御輿の勇壮華麗な練り合いがしばらく続いた後、疲れてくると、それぞれに専用の腰掛けに架けられ、一休みとなる。適当なところで休まないと体が持たないだろうし、暴れ過ぎて御輿をこわしてしまっては元も子もないからである。そうして、一休みした頃には、親神を体した八幡神社の御輿が稲塚野の前方にある鳥居前に到着したようであった。そして、頃合いを見計らってといおうか、八幡の御輿を先頭にして、全部落の御輿が南の鳥居の方からご神体の鎮座する境内の中心へと進へと進んでいくことになっていたようだ。八幡の親御輿の前に、そのまた先導役の2頭の獅子がいたかどうかは、私の心許ない記憶では判然としていない。
「きょうといけんなあ(危ないから)。子供は近くに寄るな」
どこからともなく複数の大人衆の罵声が何度となく飛んでいた。
「わっしょい、わっしょい」(朝鮮語の「(神様が)来られましたよ」
の意味に同じ)という叫び声が喘ぎの声に変わるまで続けるもあったようだ。
 その間に獅子舞の動きもたけなわになる。この風習は、インドから東南アジアを経て二本に伝わったとされている。いまでも、インドネシアのバリ島なんかでは、きらびやかな衣装を施した獅子舞が演ぜられる。日本列島の北陸より西では、獅子の衣は、それより東のように一人が被るのではなく、2人で被るものとされる。頭の被り物から尻尾に到るまで、すっぽり被っている衣には、なにやら卍(まんじ)形のような文様がついていた。
 獅子舞は、二人一組でやる。いったん前側にいる人が頭上に高く振りかぶってから、「スッテンテコテコテンテコテン」の太鼓の音とともに腹のあたりまで下ろす。足の運びは、ここまでが前進となる。その位置から「テンテコテンテンテンテコテン」の音ともに後ずさりする。何とも巧みな前進と後退との組み合わせというほかはない。あとはその繰り返しで延々と続く。今思い出しても、玄人はだしの手さばき、足さばきであったと、いっていい。
 そのおじさんが扮する「ライオン」に頭をさしのべて噛んでもらうと、1年間は無病息災とか。たまに父親が泣く小さい子供の頭を無理矢理に噛んでもらっていた。なにしろ、無料でしてもらって無病息災や厄除けから雨乞いに到るまで、幅広く御利益があるというのであるから、それではお願いということになるのだろう。
 年寄りの一人が巧みにばちで太鼓を打っている。「迎鼓」の朝鮮語による訓は「マツツリ」で、その「ツ」を一つ縮めると、「まつり」となる。したがって、太鼓をたたくことは取りも直さず神を迎える儀式ということになる。そんな獅子舞を大勢の老弱男女が二重、三重に囲で、見物は最高潮に達した。「いやあ、すごい人出じゃなあ。ぎょうさん(沢山)の店が出とるなあ。綿菓子も食いたいし、スルメの炙ったのも食いたいし。水鞠のきれいなのもあるじゃろうか。」そんなたあいもないことを考えながら、西下の輿に境内に進んでよろしいと総鎮守から許しが出るのを待っていた。

☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★

☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★