新52『美作の野は晴れて』第一部、晩秋の輝き    

2014-09-27 21:06:21 | Weblog

52『美作の野は晴れて』第一部、晩秋の輝き  
 
 晩秋の11月にもなると、美作の野はすっかり紅葉に包まれる。とりわけ、「里古りて柿の木持たぬ家もなし」(芭蕉)とあるように、人家に近い処に「禅師丸」などの柿の赤い実が陽の光にまぶしく映えているさまは、深まる秋の風情を感じさせてくれる。そんな、みまさかの山野に吹く風、秋から冬にかけて降る村雨(むらさめ、にわか雨)にも、それまでにない冷たさが混じり合う。
「村雨の 露もまだひぬ まきの葉に 霧立ちのぼる 秋の夕暮れ」(寂蓮法師作の歌、『百人一首』、「まき」とは、ひのきや杉のような常緑樹の葉をいう)。
 その頃、この地においても様々な楓類が、樹幹から射し込むキラキラした木漏れ陽を受けて輝きを増す。楓は新芽のときは萌えような赤で、夏の梅雨どきに緑となり、最後に秋の深まりとともに赤黄色や焦げ茶色に変わる。この頃の森は実に色彩が豊かだ。朝夕の冷込みとともに、色づいた木々が山や野を綾取っていく。木々の葉は黄色く赤く、または淡い橙黄色に色づく。葉の形も春の頃の無垢な姿から厚ぼったく衣替えした夏を経て、晩秋の頃には丸形やぎざぎざ形の葉の裏には無数のしわが刻まれている。そんな紅葉が見頃の日であったか、社会科見学かで、旭川ダム(御津郡加茂川町、現在の岡山市)と勝山の「神場の滝」を見に行った。先生方の引率で、観光バスの運転手さんに運転してもらって、学年の2クラスで行ったのではないか。
 その辺りでは、旭川がおおむね北から南へと流れている。川の東側が久世(現在の真庭郡久世町)、西側が勝山(現在の真庭郡勝山町)となっている。「昭和の初期」までは、この川を筏(いかだ)や高瀬舟が下っていた。ここみまさかを通っていた、明治期の高瀬舟の在りし日の姿はこう伝えられている。
「明治になると、運送業も商売も自由になりました。それで高瀬舟の数もふえ十二年の吉井川だけででも作州の舟数は二百隻をこえていますが、ますます繁盛しました。しかし、川底をさらえ舟が安全に通行できるようにする補修工事の予算がほとんどないため、舟路が荒れました。そのため岩や石にぶつかり破船する事故が多発するようになったと記されているほどです。」(「美作の歴史を知る会編「みまさかの歴史絵物語(9)おかいこさまと自由民権」」)
 神庭の滝(かんばのたき)は、姫新線の中国勝山(ちゅうごくかつやま)の駅から5キロメートルほど北の方に行ったところにある。深い森に囲まれるこの辺りは、夏の盛りでも随分と涼しい。滝の入口には、「神庭瀑布」と書いた立て札がある。滝は豪壮、岩がごつごつしたところを、幾筋もの複雑な水の筋となって落ちている。滝の高さは110メートル、幅が20メートルあって、西日本で最大規模のものだといわれている。神がかりの名前は、この辺りの自然には冷厳な趣に由来があるのだろう。滝のあるところ周辺には、野生の猿の姿が棲息している。日本は「八百万の神」の国で、キリスト教やイスラム教のような絶対神、唯一神への信仰は重きをなしていない。この島国の伝統的な風土では、自然は人間にとって厳しく、険しいばかりではない、その懐には優しさがある。これに従えば、動物はおろか、木や滝なども神が宿るものとなる。
そのとき、滝を見に行ったのはおまけのようなもので、主題な目的地は旭川ダム(御津郡加茂川町、現在の岡山市)であったと考えれば、辻褄があう。ダムの事務所の人に、ダム全体が見渡せる堰堤の中央辺りに連れて行ってもらい、先生以下全員でこのダムの由来とかの説明を受けた。このこんくりーとの壁でもって大量の水がせき止められている。その向こうには、なんと、「これは湖なのでは」と見紛うほど大きな、大きな貯水池が広がっている。旭川ダムの下流に住む、とりわけ岡山市の人々にとっては、大いなる「水瓶」となってくれている。その後の1964年(昭和39年)9月26日、伊勢湾台風が潮岬(しおのみさき)に上陸し、紀伊半島にさしかかるときの大雨で旭川ダムが満タンになったことがある。その時は、「川下へ放水するのにね、「ボー、ボー」とサイレンを鳴らされるんだけど、それがストップされたら岡山市が大水になる」(小橋八重子「電話交換手から局長にー頭の打ちどうし」:岡山市文化的都市づくり編集チーム企画編集「さるすべりの花にー聞き書き岡山女性の百年」1990、岡山市発行に所収)くらいのすごい水かさであったらしい。
 貯水池の向こう岸、そして周りの山を見ると、陽に面した山肌は黄色く、紅く染まって、ところどころ焔が渦を巻いている。真紅に萌えて見えるところもある。それらの葉はやがて枯れたり、雨風(吹き降りが多かった)に晒されるうちに地面に落ちるのだ。その山の上には、高く澄み切った碧い空がある。そこには白い雲が幾筋もなびいて通り、その狭間から秋の陽が、さんさんとみまさかの野や山に注ぐ。その奥の谷が狭まったところには、湯原湖と、1955年(昭和30年)に完成の湯原ダムがあって、そこにも旭川の水が堰き止められている。その旭川下流に沿って、「砂湯」で有名な湯原温泉郷がひっそりとしたたたずまいにして、訪れる人々の心を魅せている。「名物砂場」と石柱が建てられているダム下の河床は、2005年に湯原町を含む9町村が合併してできた真庭市の人気スポットの一つとなっており、川の底から毎分60リットルの湯の湧き出ているところに露天風呂が造られており、旅人でも24時間無料で入れるとのことである(12月6日放送のテレビ「人生の楽園」)。その由来は古く、1438年(永享10年)、美作国塩湯郷の国人領主後藤豊前入道沙弥貞(ごとうぶぜんしゃみりょてい)が記した「掟書」(いわゆる「在地領主の置文」)には、「湯屋造営事」及び「湯旅人役銭事」と書いて、温泉支配に係る2箇条が盛り込まれている。
 この湯原からは、そこから西北へ「伯耆街道」、次いで「大山道」を辿って大山へと通じていた。こうした地理関係から、江戸期の湯原温泉郷は、旅の疲れを癒すかっこうの宿場町として静かな人気を博していたようである。さらにこの街道から北に向かって3キロメートルほどいくと、そこには大山火山系に連なる、西から東へ上蒜山、中蒜山、下蒜山の千メートル旧の山々が並んでおり、湯原湖から流れ出る旭川の源流もこの辺りにあるのではないか。この「蒜山三座」の麓には牛の放牧、それに敗戦後に盛んになった糖度の高い「蒜山大根」の栽培で知られる蒜山高原が広がっている。加えて、真庭市全体(上房郡北房町に、真庭郡の勝山町、落合町、湯原町、久世町、美甘村、川上村、八束村、中和村の5町4村が2005年に合併)としての中心は木材産業であり、古くからの「おひつ」や、「ワッパ」と呼ばれる弁当箱の製造のほか、様々な工夫を織り込んだ机や椅子、箪笥などの木製製品の一大産地となっている。
 美作の秋で圧巻となるのは、私の知る限りでは、やはり奥津渓谷の景観ではないか。その奥津に至るには、津山駅から中国鉄道バスが出ており、国道179号線をひたすら北へとたどる。大まかには吉井川に沿う道となっている。奥津町(英田郡)の役場を過ぎたあたりから、道の両側の視界が狭まってくる。両側の山の稜線が紅く色づいている。乗り合いのバスは、さらに北上して、「奥津渓」に分け入る。この間、一時間に少し足りないくらいか。この景勝地は3キロメートルくらいの長さがある。その途中では、花崗岩を主にして、奇岩や巨岩が渓谷を彩どっている。「岡山県指定文化財(天然記念物)」の石柱が建立されている側らには、幾千年以上の長きにわたる水の流れが固い岩を穿ってできた「甌穴群」を幾つか観ることができる。そこから、なおもしばらく北上して、奥津温泉街に至る。ここは「美作三湯」の一つで、吉井川伝いの奥津、川西、大釣の温泉群を総称している。この温泉を健康的な眺めとしているものに、女性たちが吉井川の河原から湧いているお湯で、ご婦人方がピチャピチャと足踏み洗濯する習慣がある。
 ここは、藤原審爾の小説 『秋津温泉』の書き出し部分に「「秋津温泉は単純泉だから、とりたてた薬効もなく、土地も辺鄙な山奥にあるので、あまり人に知られていない。湯宿も山峡のせまい土地へわずか一町たらずあるきりで、別府や伊東のように、温泉客めあての遊び場やバーなどもない。温泉町というはなやいだところが少なく、---山峡の谷間を拓いた町にしては広過ぎる表通り、その表通りの両側へ軒々を並べた宿という宿が、いちように広い格のある古びた庭と、厚みのある白壁の多い、棟の頑丈な家なので、---むかし城下町であったような、ものさびた落着きをもっている」とある。
 加うるに、この奥津温泉からさらに北へ7キロばかり山あいの道をたどったところに上斎原村がある。津山駅から奥津を通り過ぎて、都合1時間20分のバス旅とのことである。この村は、冬場はスキーで知られる。その隣はもう県境の人形峠にて、鳥取県の三朝町に近づいている。この辺りは、三国ヶ仙、人形仙、霧ヶ峰、三カ上山と千メートル級の山々に四方からすっぽり包まれている感がある。
「朝顔は 朝露負ひて 咲くといへど 夕影にこそ 咲きまさりけり (『万葉集』巻10ー2104)」
 桔梗(ききょう)は、昔は「朝顔」とも称されていた。野に咲く花では珍しい、ききょうがやさしい紫の花をほころばせる。こちらを見てくれているようで、それはそれは心を和ませてくれる。
 秋が深まるほどに、雨がだんだんに肌寒く感じられる。その頃、紅葉の美しさを作りだしている主役が登場してくる。
「秋の夕日に 照る山紅葉(もみじ)
濃いも薄いも 数ある中に
松をいろどる 楓(かえで)や蔦は(つたわ)
山のふもとの 裾模様(すそもよう)」(『紅葉』、高野辰之作詞・岡野禎一作曲、中野義見編曲)
 「秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびをり)かき数ふれば 七種(ななくさ)の花 萩の花 尾花葛花 撫子の花 女郎花 また藤袴 朝貌(あさがお)の花」(『万葉集』、山上憶良(やまのうえのおくら)、元は漢文であるので、訳を掲載。)
 空には青みがかった薄い雲が浮かんでいたり、鰯雲が連なっているとき、みまさかの野にそれらの草花が、風にゆっくりそよいでいる。みまさか一円の、その山々の紅葉が進むにつれ、葉っぱの色は、いろいろである。同じく楓といっている中にも、黄色いものがあれば、朱色から茶色、焦げ茶色までさまざまだ。中には微妙に色が混じり合っていて、まるで絵画のように美しいものもみかける。
 そこには、かびやきのこ、苔の類も色々と生えている。土の中にはミミズやあの手を触れると丸くなる「だんご虫」もいる。それらの小動物の仲間がそれらを食べて、分解して、排泄を繰り返すことで土を柔らかくする。そのことは、回り回ってこの森に棲む小動物たちの命の養分となっている。
 森や林の落ち葉の下には、昆虫の幼虫も棲んでいる。蝶の幼虫は秋に卵からかえり、木の上で生活していたものが初冬を迎えて木を降りてきて、落葉の間に潜り込んで暖かい住処とし、成虫となるまでを過ごす。
 晩秋、こうして大地に落ちた落ち葉は自然の懐に抱かれ、千変万化を遂げてしだいに土になっていくのではないか。葉にもまた限られた一生があるのだ。

 

(続く)

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