新38『美作の野は晴れて』第一部、津山へ鳥取へ奈義へ1

2014-09-26 20:39:10 | Weblog
38『美作の野は晴れて』第一部、津山へ鳥取へ奈義へ1

 津山の花火大会は、小学校時代に2、3回位は観に行ったことがある。津山市上之町でセロファン加工業を営んでいた叔父さんのところに、日帰りで行かせてもらったのではないか。当時の津山は、私にとってきらびやかな世界であった。家並みがすごく密集している。人がすごい大勢いる。そんな津山の中心部から少し離れたところ、市内川崎の地におじさんの家があった。前は工場で、その奥の方が住居であった。、
 母から「おばちゃんが、来てええよ、というてくれんちゃるから、泰司いってきたらええ」といわれ、はるばる上村まで歩き、そこから中鉄バスに乗った。
「8月18日(日)晴れ
午前10時半、兄と二人で、津山の親せきに行った。玉林でバスをおりた。行く手には、大きなセロァン工場と家がある。そこが、おじさんとこで、吉井川の北の田んぼの中にある。工場では、多くの人が働いている。家に入ろうとすると、二階からおばさんが、「ようきんちゃったなあ。早くあがりなさい」と、言われた。くつをぬいであがると、ホテルのように、へやがひとつずつにくぎられていて、とてもきれいだった。」(美作教祖勝田郡協議会教文部編「勝田の子・下」1964年刊より)
 そこでは、たいそうなごちそうがあった。刺身もそうだが、イワナや鮎や、それに海のえびの天麩羅(てんぷら)があったような気がする。それらの並べ方は洋風で、なんだかエキゾチックな気分に浸された。始めのうちは、緊張して、体も気分も縮こまっていたものである。
「泰ちゃん、ぎょうさんたべんちゃいよ(食べなさいよ)」
おばさんは遠慮しないようにと気を使ってくれた。
 一応「うん」と頷いておいて、それでも、 「こげなごちそうを食べていいんじゃろうんか」という思いから一呼吸の間を置く。箸を付けるときにはちらっと上目使いでおばさん達の様子を見たことを覚えている。
 夜になると花火が始まる。「スルスルスルスルー」 と漆黒の夜空に火の玉が昇ってゆく。上りきったところで、火の玉は一端消える。今津屋橋のその一つ北にある今井橋のあたりだ。それから数秒の間を置いて「ドーン」 という音がこだましてくる。打ち上げ場の吉井川河畔からやや距離があるので、程よく聞こえる。
 漆黒の夜空に花火の大輪が咲く。家が建て込んでいるためにそのままでは見物ができない。だから叔父さんの家の屋根に上がって見物した。一変に視界がひらけ、そこから観賞する花火は格別だった。今津屋橋の方まで、連れられていったこともあった。
 花火のフィナーレは、大がかりな仕掛け花火であった。下流の向かいの今井橋のところに「ナイアガラの滝」のような形をした花火がかかった。今から考えると、きっとあれは「水中花火」で水面ぎりぎりのところに仕掛けてあって、その場で咲いた花火が水面に映し出される効果を狙ったのではないか、まるで万華鏡のような鮮やかさと光の綱渡りの様が今でもまぶたに焼き付いて離れない。子供心にも、すごい人の波と、盛大な花火に、こんな美しい光景があるんだという思いであった。小さい胸が抱いた感激は、その色あざやかな光景とともに僕の身体にしまい込まれた。
 津山市内には2大社の祭りがある。徳守神社(津山市宮脇町)の祭りと大隅神社(津山市上之町)の祭礼がそれである。徳守神社は1603年(慶長8年)、津山城下の総鎮守として現在地に移設された。大隅神社は1620年(元和6年)3月、津山城の城門守護として現在地に移設された。開催日は両神社とも秋たけなわの10月となっている。徳守神社の御輿は勇壮華麗だと聞いていた。上之町の大隅神社の祭りの山車は、いつの日か何かの用事で中鉄バスに乗っていて、津山大橋にさしかかったところで山車が練り歩いているのに出くわしたことがある。
 5学年の夏、授業の一環で海水浴に連れて行ってもらった。小学校からバスに乗って鳥取へ向かう。その日は海水浴をして、鳥取砂丘を見て、東浜海岸の宿に泊まる。翌日は美しどころを案内してもらってから、二十世紀梨の梨園を訪れ、昼食を済ませてからバスで帰る。なかなかに盛り沢山の旅で、中でも日本海(韓国の人は「東海」と書いて、「トンヘ」と呼ぶ)を初めて眺めるうち、ここが「因幡の国の白うさぎ」の神話につながる舞台か、という古(いにしえ)の日本への思いも脳裏に浮んでいた。
 準備では、日程のしおりをつくったりした。その旅行の出発の日から数日前のことであったろうか、宿に持って行くお米を学校に持っていった。大きな袋が用意されていて、私たちは家から2合くらい入った巾着なりをその場で開けて、その袋の中に順番に注いでいった。このことは、なんのことはないように思われるかもしれない。
私も、自分の巾着のひもを緩め広げて、袋の中に米を投じた。その瞬間、私は目を見張った。私の前まで、袋には白いコメ(精白米)が投じられてきた。そこへ、私の持って行ったコメは玄米の色をしていたからである。投じたあとも、別の人が次から次へと持ってきたコメを投じていく。私は恥ずかしさに覚えながら、後退した。その場から早く立ち去りたかった。
 当時の私には、「百姓の子」でありながら、なんの知識もなかった。いわずもがな、私の持って行ったコメは水車でついた(「精米した」)コメであった。荒糠(あらぬか)を入れるので、水車の臼と杵でついたコメは胚芽がついている。そのため、色は白くなく、麻色をしている。なんら引け目を感じることではなかったのだ。
 バスは、学校から工門(くもん、当時の町役場のあるところ)に出て国道53号線を鳥取へ向かったのだろう。生まれて始めて見る鳥取の浜はだだ白く広かった。海に足を踏み入れたのか覚えがない。浜に流れ着いている生のワカメが茶色であることも、そのとき知った。
「われは海の子 しらなみの
さわぐいそべの まつばらに
けむりたなびく とまやこそ
わがなつかしき すみかなれ」(文部省唱歌「われは海の子」)
 東浜海水浴場は広い。池とかは比べものにならない。何しろ、向こうの彼方は日本海の水平線が見える。その向こうには何も見えない。だだ驚いた。浜辺に近いところで、隣合わせの仲間を確認しながら泳いだ。それでも、いつもとは違う環境なので、向こうから波がさあっと近づいてくる。すると、なにやらのみ込まれてしまうような気がして、その度に自分がいまいる深さを確かめた。泳ぎの達者な人にとっては、海の広さを満喫できる機会になったことだろう。
 鳥取砂丘にも連れて行ってもらった。砂漠学校の音楽の時間に習った月の砂漠はこんなところかと思った。らくだにも出会った。乗せてもらった人もいたようである。  
「月の砂漠を はるばると
旅の駱駝がゆきました
金と銀との鞍置いて
二つならんでゆきました」(作詞は加藤まさを、作曲は佐々木すぐる)
 この歌を口ずさんだり、聞いたりしていると、なにやら自分が姫を連れて、遠い異国の、しかも砂漠を旅しているような錯覚を覚えた。砂漠など見たことも通ったことがない。ところが、はるか向こうに蜃気楼が揺れ動いて見える。この砂漠を俯瞰してみることができれば、オアシスもあって、そこには傘の格好をしたナツメヤシかバナナのような木が伸びている。古の砂漠の隊商たちも、道を迷った時など、そんな幻想を見ていたのかもしれない。足の裏では、「キュッキュッ」という砂の感触がある。風は少ししか吹いていない。向こうには、快晴の空と砂の交わるところに海が見える。その海はギリシァ物語に出てくるエーゲ海のように紺碧に青い。目の前には途方もない視野の広がりがある。なんとなく、心が拡がっていくようだ。
 夕方には、東浜の近くの宿に着いた。どんな旅館であったか、その外観は想い出せない。私たちの部屋は2階にあって、男子は隣あわせの部屋に、10人ずつくらいのすし詰め状態だったが、先生たちが決めたことなので不満はない。私も何かの担当を仰せつかっていて、1階の広間に行って明日の海水浴などの予定を聞いていただろう。
 夕食の前に風呂にグループごとに代わる代わるで入った。なかには大人びた体になっている学友もいて、洗い場で前を洗うときは隠すように石けんの泡のついた手ぬぐいでごしごしやっていた。大広間で行儀よくして箱膳に向かった。海の近くのことだから、多分ごちそうもあったのではないか。育ち盛りなのだから、ご飯のお代わりだけはお願いした筈だ。
 夕食が終わると、それぞれの部屋で話をしたり、とにかくのんびりして時を過ごした。女子の部屋では、先生に叱られない程度にあやとりとか、折り紙とかして、仲良く時を過ごしているだろうに、男子は足の動きを止められると、陸に上がった魚のようになってしまい、どうにもすることが余りない。部屋の片隅に行って、追って提出の沙汰となる今日一日の反省をノートに記したり、先生の呼びかけで班長や副班長になっている人が明日の予定の打合わせをしに、別の部屋に行くこともあっただろう。明日は、二十世紀梨の農園に立ち寄ってから、帰路に就く予定になっている。就寝時間は早く決められていて、まだ話足りないのに、消灯となる。それでも部屋の中では、ぎゅうぎゅう詰めで寝ているので、なかなか収まらない。そのうち、枕を投げての「合戦」が始まってしまった。そのうちに先生が駆けつけ、
「おまえら、何をしとるんじゃあー、はよう寝なさい」
とこっぴどく叱られた後、先生が大部屋を出ていくと、さすがにまた騒ぐわけにはいかないので、その夜は互い違いに入り乱れて眠た。
 翌日、旅館の朝は早い。食事を済ませ、旅館の人に見送られてバスは出発した。途中で景色のいいところに立ち寄ったようであるが、もう少しのところで記憶をたぐり寄せることができない。梨園に着いたときは、10時くらいではなかったか。「20世紀」と呼ばれる品種が実っていた。秋ではないのに、取ってよかったのか、詳しい事情はしらない。梨園の中は土が軟らかく、踏みしめたときの感触をいまでも憶えている。梨はその場で農家の人にとってもらって4個くらいいただいた。瑞々しくて、流れるような甘さが口の中に広がった。

☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★

コメントを投稿