新59『美作の野は晴れて』第一部、冬の暮らし1

2014-09-30 13:52:46 | Weblog

59『美作の野は晴れて』第一部、冬の暮らし1

 当時の田舎での冬の暮らしは、全体としては淡々と過ぎていく。そこには都会のような光のショウもなければ、喧噪もモータリゼーションやファッションなどのにぎやかさもない。しかし、そこには、そこで住む人々の信仰にも似たひたむきな生き方があった。
 冬の小学校には、ビニール製の黒い長靴を履いて通っていた。その中には稲藁を入れて暖かくしていた。外は冷え冷えとし、霜や雪や氷やぬかるみを踏みしめての登校であったので、気疲れや体疲れのすることが多かった。
学校へは、ちょっとした山道を下ったり、田んぼの間の細い道を縫いながら行く。地面も寒い日には凍てついていて、危険であった。地面に水気が多く含まれる辺りでは、毛細管現象により大地の裂け目から水分が吸い上げられ、霜柱が成長していく。土を頭に被っていて、あたかも帽子をかぶっている訳だ。足で踏むと、ミシッミシッと歯ごたえ感のある鈍い音がする。それがなにやら面白い。
 登校の途中、一番危険な所は西下の「畑」(はた)地域を過ぎた辺り、約4メートル幅の田柄川の川越えをしないといけない。この川は川幅こそ狭いが、川底が深くえぐれていて、深く切り立っていた。そこには欄干のない木製の低い橋が架かっていた。その橋の付け根のあたりは積雪で盛り上がっており、その下には氷がつららとなってぶら下がっている。道を踏み外すと橋から転げ落ちることもありうる。落ちたらそこは濁流で、ひとたまりもない。だから、橋の上を歩いて通る時にはふざけたりしてはならない。落ち着いて、心を注意の意識で満たしてから、慎重に「石橋をたたく」ようにして真ん中を歩くようにしたものだ。
 小学校や農協に続く西中の大通りに出ると、そこからは車の轍や人々の足跡で雪が踏み固められていて、所々はアイスバーン(氷が張った舗装道路)のように凍っていた。牛や馬とおぼしき蹄の跡も残っているような時代であった。牛などはもともと暑いところに産した動物だそうだから、冬の寒さはからだに応えたに違いあるまい。
 「ハアフウ、ハアフウ」と白い鼻息を寒気になびかせながら人間に追われて歩いていったのであろう。 その往来であるが、低学年の頃には、車がとおっていないと見ると大胆不敵な心持ちとなって、氷が表面を覆っているところを選び、助走で勢いを付けて滑りながら歩いていた。今から思うと、ずいぶんと危険なことをしていたようである。
冬の学校では、石炭ストーブで暖を取って、勉強していた。その当番の日には学校にやや早く行く。教室に着くと、用務員さんがストーブを立ち上げてくれていた。石炭ストーブはキューポラ(小さな溶鉱炉)のような縦に長い形をしていた。前の日に用務員さんが掃除石炭の準備をしてくれている。当番に与えられた役目は、ストーブがあぶない方向に行かないかを見ることであった。
 火をつけるときには、丈夫にある鉄製の丈夫の蓋を開けてまきをくべ、下の灰の掛け出し口から新聞紙をくるめてその間に挟み入れる。それからマッチ棒を擦して火を付ける。まきは細いほど、皮が付いているほど小さな火種と絡んでうまく燃えつく。まきが燃えだしたらしめたもので、掛け出し口を閉めて、側面の空気の取り入れ口のみ開けておく。
 そこから火の勢いを見る。小窓から覗くと、あの黒々とした石炭が赤い炎を揺らめかせて燃えている。ストーブは教室の中央やや前にしつらえてあり、その丈夫側面から立ち上がった煙突はグンと窓側に伸び、ブリキでくりぬいた穴から外に通じていたようである。
 朝の授業の始まる頃には、じんじん冷えていた五体がじわじわぬくもってくる。やがて、その熱による暖かみ体に十分に沁み込む。誠にありがたい。それでも、席の位置によってはしばらくは寒いこともあるので、両手を腰掛けの上に敷いている座布団とおしりの間にすり込ませたり、こすり合わせたりしたものだ。
 寒さでつらいのは、凍てつく外界に、体育の時間か何かで、運動場に出たてのときである。はじめはブルブル体を震わせていた。足の先も寒いので、時々こすり併せるようにしていた。しかし、運動していて少したつと、そこは腕白盛りの子供のこと、凍てつく寒さもどこへやらとまではいかないが、そんな事にはお構いなく、風のように飛び回っている感があった。
 冬の間は寒く、「しばれる」という言葉がふさわしい。身が縮んでいるような気分がしていた。そんな日には暖をとればいい、熱いものを食べることで元気になろう。ということで、元気を出すには大地の栄養をいっぱい取り込んださつま芋を食べるのが手っ取り早い。蒸芋(ふかしいも)は母がよく作ってくれた。まずは、家からほぼ30メートルの坂の上、墓の北の畑の後ろに建てられている「きびや」と呼ばれる、主にまきやたきぎを蓄えている茅葺きの建物に向かう。それは、我が家が本家から離れて「分かれ家」となってからの、代々の墓所の裏手に位置している。
 その「きびや」の土台の下の地面には穴が掘ってあった。屋根の銭よりも内側に穴が掘られていて、そこには雨露が入らないように出来ている。その穴には乾いた籾殻が一杯入っていて、乾燥している。その中に手を入れて少し籾殻を掻き出すと、中から穴毎にさつま芋やじゃがいも(「きんかいも」と呼んでいた。)などが蓄えられていた。穴の中は冬場でも相当に暖かい、実にうまい具合にできている。私は、母の言いつけでそこに行き、その穴に入り込んで、バケツとか袋にさつまいもを詰め込んで家に帰ってくる。
 母は私からそれを受け取ると、かまどで飯炊き鍋に湯を沸かし、餅つきの時餅米を蒸すのと同様の仕掛けで芋を蒸(ふ)かしてくれた。本当は高温の鉄の窯(かま)でゆっくり、時間をかけて焼成するのが最上らしいが、家庭ではそういう訳にもいかない。
 私の役割は、かまどの火を燃やすことと、時折釜の蓋を開けて、蒸し具合を調べることだった。釜の中の水が少なくなって来る頃では、火を弱めて、余熱で蒸す。蓋を開けて、箸を芋に差し込んで、出来具合を確かめる。少し固さが残っている位の方が、余熱でもっとおいしくできあがる。火を止めて、蓋を過ごしずらし加減にすると、湯気とともに、いい臭いがしてくる。蒸芋ができあがったのだ。さっそく、あつあつの一本を母からもらって、おいしく食べていた。
 焼芋をつくるのは、落ち葉でたき火でするのと、籾殻を焼いてその中にくべるのと二つのやり方でしていた。たき火は、大人がいないとやってはならない。おじいさんにやってもらって、私はその手伝いをした。家の庭や畑の真ん中を使って柴や松ぼっくりを燃料に火を付け、火勢が盛りを過ぎた頃に芋をくべる。またあるときは、風呂焚きをしていて熱くなった灰の中に芋を埋めたりした。
「かきねの かきねの まがりかど
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
北風 ピープー 吹いている」(作詞・作曲は巽聖)
 焼いたさつま芋の美味しさは、ほっかほか、あつあつのびっくり感、それでいてしっとり感、それにふんわり感もそこそこある。自然の風味と香りを引き出す魔法がそこにあるようで、その頃はそうして食べるのが最高だと思っていた。
 保存食の中では、やっぱり餅だろう。正月前に作った餅は種類も量も沢山あって、作りたてのうちに白粉(しろこ)をまぶしてから、風当たりのよい部屋に運んで乾燥させたものである。一番おいしく食べられるのは「あんころ餅」(中にあんこを詰めた餅)だが、餅つきのときのみで保存食としては作られなかった。残る一つは、まず白い普通の餅。二つ目はよもぎ入りの餅、そして三つ目は大豆や黒豆入りの餅だ。ほかに、食したことのない餅もある。因美線の県境から線路づたいに行くと、鳥取県智頭(ちず)にさしかかる。この辺りでは、今もトチの実を混ぜて餅にするらしい。その実は秋に熟し、3裂して赤褐色でつやのある種子を覗かせる。トチの木はかじると苦く、「さらして食べる」とある。私たちの地域では、水にさらして食べる習慣はなかった。智頭地方みたいに、いろりの前で「トチの実入りの餅」を食しているのは、こちらには伝わってこなかったのかもしれない。
 保存食としての餅の食べ方は、正月以外は、やはり焼いて食べるのが一番だろう。家の土間に七輪を置き、それに餅を載せて炭で焼いていく。片面が柔らかくなったら、裏返してもう片面を焼いていく。一遍に4、5個を載せて焼け具合を注意深く観察することを怠らないのが大切だ。と、ある時点で餅のてっぺんが持ち上がって裂け始める。さらに、もう少し時間が経つと、「プウッ、プウッ」と2段階くらいでふくれ始める。そうなってはいけないので、七輪の火の勢いを早めに弱めるのがよい。
 そのままふくれすぎると、中が空洞となっておいしさが損なわれるので、ふくらみ始めたら素早く七輪の周辺部へと箸を使うか、手づかみで移動させる。
 出来上がった餅は、さとう醤油に付けて食べると最高だ。あつあつの餅の一端を手で横に引っ張ってちぎり、「フウッ、フウッ」と息を吹きかけて冷ましながら、次から次へと口に運んで、2、3個ぐらいは平らげたものだ。
 冬場にとれる野菜は限られる。ネギや大根のように、秋の畑で大きくなったものをそのままにしておいて、早めに食べていくこともしていた。しかし、野ざらしにしておくと、どうしてもひからびたり、変色したりして、足が落ちてしまう。そこで、大方の大根は「きびや」や鶏小屋の軒先に架けて、そのまま「天日干し」にしていた。
 天日干しにしたものは漬け物にしたり、さらに細かく刻んで「干し大根」にすると、保存食となってよい。料理では、さっと湯がして切干し大根や酢の物にしたり、混ぜご飯の具にしてもよい。生で残った大根は、少しずつ畑に行って引き抜き、その時々の料理に使っていた。生でおろしてよし、そのまま包丁を入れて煮てよし、糸のようにスライスして甘酢漬けにしてもよい。もちろん、漬け物にするとこりっとした歯ごたえのよさと甘ずっぱさが口全体に広がる。夏場にとれた南瓜は、私にとって冬になっても幸せを運ぶ野菜だ。母はそれをてんぷらにしたり、ほかほかの煮物にしてくれた。
 南瓜は余り大きくないこぶりのものがいい。どっしりした臼型より太っただんご型のものがあれば、太った茄子のようにやや長いものもある。どちらかというと、丸く小さなものの方が身が引き締まっていて、甘さも格別だった。南瓜の煮物ができあがると、ほっくほっくした様になっている。南瓜の食べ方は、当時も今でも一般とは少し変わっていて、あつあつに煮えた南瓜を熱いご飯の上で押しつぶし、少しずつご飯と混ぜ合わせて食べていた。私にとっては、こうして食べるのがたまらない程おいしい。
 玉葱は、鶏小屋や「きびや」の軒先にたすき掛けにして吊してあり、カレーライスや煮物を作るときに使われていた。玉葱は、たまにお客さんが来て鶏肉を煮るときには不可欠の野菜で、とろけるような甘さを引き出していた。保存食の野菜ということでは、夏場に収穫して天日干しして作ったかんぴょうは、なんとなく気品の漂う食べ物である。なんとなく縁結びの紐みたいで、食べると縁起がいいというのも頷ける。ということで、おめでたいことが目当ての正月料理には、特に具材に重宝して使っていたようだ。
 おせち料理として他の具とともに重箱の片隅に添えられたりしていた。かんぴょうは薄味で甘く煮てもらう。こうすると、かんぴょう本来の上品な甘みがして、ときには「かんぴょう巻き」や「まきずし」にしてもらい、おいしく食べさせてもらっていた。冬の料理に欠かすことができないのは、やはりその代表格は根菜類ではないか。お隣の韓国では、根菜類を「医食同源」の観点から冬のおすすめ料理にしているらしい。
 当時の我が家では、最も一般的なそれはじゃがいもであった。大根に劣らず冬に食べる野菜の横綱格だと思う。こちらの意外においしい食べ方は、蒸して食べる方法だ。蒸してから皮をむいて、それに塩を少しふって食べるとじつにおいしい。もう一つのおいしい食べ方は、母が作ってくれるサラダだった。人参と一緒にゆでたじゃがいもをヘラを使ってすり潰し、それに塩とかで味付けしてあった。
 冬の魚取りは、寒い中での根気のいる作業である。こんな時には、魚も水面近くになかなか浮かんでこないので難渋した。水面に氷が張っているときは尚更、捕るるのが難しい。あれから何十年もたった今、人から「釣りに夢中になっていると、いやなことが忘れられた」というのを聞くと、「なるほどそうなのか」と合点がいく。
 手っ取り早いのは、狐尾池の小蝦を丸玉と呼ばれる大網ですくって採りに行くか、水のたまった田んぼにタニシやどじょうを拾いに行ったものだ。池に蝦をとりに出かけるときは、あらかじめ蝦を集める仕掛けをしておくことが多かった。蝦の食べ方としては、やはり他の最中たちと一緒にして似ることが多かった。ただ、量が多いときは、単独の鍋で母が煮ていた。にだってくると、味見してみた。蓋を開けると、甘辛いにおいとともに、赤く色が変わった蝦が鮮やかに眼に写った。
 タニシは家で「しょうやく」をしてから佃煮のごとく水分がなくなるまで煮詰めてから食べた。田舎では、「カラスガイ」と呼んでいた二枚貝が池にいて、そいつを朝方に取りに行く。岸から池の中に筋がついている先に踏み込むと、その貝がが面白いように取れた。小さい子供は放して、大きくて膨らんでいるものだけを竹製の「びく」に入れて、意気揚々持ち帰った。
 鮒は、大きいのもあれば、小さいのもいた。小さいのは、今から思えば、池に返してやればよいようなものだが、そうしてはいなかった。小さい鮒は、家に持ち帰ってから、何度も水で洗って泥を吐き出させてから、蝦や「どほうず」などと一緒に甘辛く煮ていた。大きい鮒はといえば、こちらは内臓を取り出してから、竹の串に次から次へと刺していく。串が何十本もできるくらいの豊漁の時もあった。それを家のかどに旧ごしらえで造った天井のない竈のようなもの(煉瓦や大きな石で回りを囲ったもの)で、後家内ように注意しながら、少しずつ焼いていくのだ。この焼く作業は最初は少しでやめておき、日を置いて少しずつこんがりと焼き上げていった。
 どじょうは池から水路を上って田んぼにまで行き、そこで土中に冬ごもりをする。そうした田んぼの水たまりのところの氷を取り除き、鍬(くわ)で柔らかい表土を掘り返すと、
そこは少し暖かいようで、どじょうが潜んでいたりする。土籠もりのどじょうを捕まえて家に帰ると、きれいな水を入れたバケツの中を一日くらいは泳がして泥分をはき出させる。
 同じ日本でも、北国ではそれをどじょう汁や蒲焼きにして食べるらしいが、僕の家では母が甘辛く煮てくれた。
 珍しいところでは、用水路や清水の湧き出しているところに川蟹がいた。蟹は慌てると縦にも歩くようだが、横に歩く蟹の動きを読んで素手で捕まえ、ビニール袋か何かに入れて家に持ち帰った。こちらは、母に料理してもらうというのではなく、私たち村の子供が夏には罠を張って採取した小鳥をたき火や風呂炊きで焼いて食べていたときのように、小蟹の甲羅を焼いて丸かじりにして食べていたように記憶している。

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


コメントを投稿