新59『美作の野は晴れて』第一部、冬の暮らし1

2014-09-30 13:52:46 | Weblog

59『美作の野は晴れて』第一部、冬の暮らし1

 当時の田舎での冬の暮らしは、全体としては淡々と過ぎていく。そこには都会のような光のショウもなければ、喧噪もモータリゼーションやファッションなどのにぎやかさもない。しかし、そこには、そこで住む人々の信仰にも似たひたむきな生き方があった。
 冬の小学校には、ビニール製の黒い長靴を履いて通っていた。その中には稲藁を入れて暖かくしていた。外は冷え冷えとし、霜や雪や氷やぬかるみを踏みしめての登校であったので、気疲れや体疲れのすることが多かった。
学校へは、ちょっとした山道を下ったり、田んぼの間の細い道を縫いながら行く。地面も寒い日には凍てついていて、危険であった。地面に水気が多く含まれる辺りでは、毛細管現象により大地の裂け目から水分が吸い上げられ、霜柱が成長していく。土を頭に被っていて、あたかも帽子をかぶっている訳だ。足で踏むと、ミシッミシッと歯ごたえ感のある鈍い音がする。それがなにやら面白い。
 登校の途中、一番危険な所は西下の「畑」(はた)地域を過ぎた辺り、約4メートル幅の田柄川の川越えをしないといけない。この川は川幅こそ狭いが、川底が深くえぐれていて、深く切り立っていた。そこには欄干のない木製の低い橋が架かっていた。その橋の付け根のあたりは積雪で盛り上がっており、その下には氷がつららとなってぶら下がっている。道を踏み外すと橋から転げ落ちることもありうる。落ちたらそこは濁流で、ひとたまりもない。だから、橋の上を歩いて通る時にはふざけたりしてはならない。落ち着いて、心を注意の意識で満たしてから、慎重に「石橋をたたく」ようにして真ん中を歩くようにしたものだ。
 小学校や農協に続く西中の大通りに出ると、そこからは車の轍や人々の足跡で雪が踏み固められていて、所々はアイスバーン(氷が張った舗装道路)のように凍っていた。牛や馬とおぼしき蹄の跡も残っているような時代であった。牛などはもともと暑いところに産した動物だそうだから、冬の寒さはからだに応えたに違いあるまい。
 「ハアフウ、ハアフウ」と白い鼻息を寒気になびかせながら人間に追われて歩いていったのであろう。 その往来であるが、低学年の頃には、車がとおっていないと見ると大胆不敵な心持ちとなって、氷が表面を覆っているところを選び、助走で勢いを付けて滑りながら歩いていた。今から思うと、ずいぶんと危険なことをしていたようである。
冬の学校では、石炭ストーブで暖を取って、勉強していた。その当番の日には学校にやや早く行く。教室に着くと、用務員さんがストーブを立ち上げてくれていた。石炭ストーブはキューポラ(小さな溶鉱炉)のような縦に長い形をしていた。前の日に用務員さんが掃除石炭の準備をしてくれている。当番に与えられた役目は、ストーブがあぶない方向に行かないかを見ることであった。
 火をつけるときには、丈夫にある鉄製の丈夫の蓋を開けてまきをくべ、下の灰の掛け出し口から新聞紙をくるめてその間に挟み入れる。それからマッチ棒を擦して火を付ける。まきは細いほど、皮が付いているほど小さな火種と絡んでうまく燃えつく。まきが燃えだしたらしめたもので、掛け出し口を閉めて、側面の空気の取り入れ口のみ開けておく。
 そこから火の勢いを見る。小窓から覗くと、あの黒々とした石炭が赤い炎を揺らめかせて燃えている。ストーブは教室の中央やや前にしつらえてあり、その丈夫側面から立ち上がった煙突はグンと窓側に伸び、ブリキでくりぬいた穴から外に通じていたようである。
 朝の授業の始まる頃には、じんじん冷えていた五体がじわじわぬくもってくる。やがて、その熱による暖かみ体に十分に沁み込む。誠にありがたい。それでも、席の位置によってはしばらくは寒いこともあるので、両手を腰掛けの上に敷いている座布団とおしりの間にすり込ませたり、こすり合わせたりしたものだ。
 寒さでつらいのは、凍てつく外界に、体育の時間か何かで、運動場に出たてのときである。はじめはブルブル体を震わせていた。足の先も寒いので、時々こすり併せるようにしていた。しかし、運動していて少したつと、そこは腕白盛りの子供のこと、凍てつく寒さもどこへやらとまではいかないが、そんな事にはお構いなく、風のように飛び回っている感があった。
 冬の間は寒く、「しばれる」という言葉がふさわしい。身が縮んでいるような気分がしていた。そんな日には暖をとればいい、熱いものを食べることで元気になろう。ということで、元気を出すには大地の栄養をいっぱい取り込んださつま芋を食べるのが手っ取り早い。蒸芋(ふかしいも)は母がよく作ってくれた。まずは、家からほぼ30メートルの坂の上、墓の北の畑の後ろに建てられている「きびや」と呼ばれる、主にまきやたきぎを蓄えている茅葺きの建物に向かう。それは、我が家が本家から離れて「分かれ家」となってからの、代々の墓所の裏手に位置している。
 その「きびや」の土台の下の地面には穴が掘ってあった。屋根の銭よりも内側に穴が掘られていて、そこには雨露が入らないように出来ている。その穴には乾いた籾殻が一杯入っていて、乾燥している。その中に手を入れて少し籾殻を掻き出すと、中から穴毎にさつま芋やじゃがいも(「きんかいも」と呼んでいた。)などが蓄えられていた。穴の中は冬場でも相当に暖かい、実にうまい具合にできている。私は、母の言いつけでそこに行き、その穴に入り込んで、バケツとか袋にさつまいもを詰め込んで家に帰ってくる。
 母は私からそれを受け取ると、かまどで飯炊き鍋に湯を沸かし、餅つきの時餅米を蒸すのと同様の仕掛けで芋を蒸(ふ)かしてくれた。本当は高温の鉄の窯(かま)でゆっくり、時間をかけて焼成するのが最上らしいが、家庭ではそういう訳にもいかない。
 私の役割は、かまどの火を燃やすことと、時折釜の蓋を開けて、蒸し具合を調べることだった。釜の中の水が少なくなって来る頃では、火を弱めて、余熱で蒸す。蓋を開けて、箸を芋に差し込んで、出来具合を確かめる。少し固さが残っている位の方が、余熱でもっとおいしくできあがる。火を止めて、蓋を過ごしずらし加減にすると、湯気とともに、いい臭いがしてくる。蒸芋ができあがったのだ。さっそく、あつあつの一本を母からもらって、おいしく食べていた。
 焼芋をつくるのは、落ち葉でたき火でするのと、籾殻を焼いてその中にくべるのと二つのやり方でしていた。たき火は、大人がいないとやってはならない。おじいさんにやってもらって、私はその手伝いをした。家の庭や畑の真ん中を使って柴や松ぼっくりを燃料に火を付け、火勢が盛りを過ぎた頃に芋をくべる。またあるときは、風呂焚きをしていて熱くなった灰の中に芋を埋めたりした。
「かきねの かきねの まがりかど
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
北風 ピープー 吹いている」(作詞・作曲は巽聖)
 焼いたさつま芋の美味しさは、ほっかほか、あつあつのびっくり感、それでいてしっとり感、それにふんわり感もそこそこある。自然の風味と香りを引き出す魔法がそこにあるようで、その頃はそうして食べるのが最高だと思っていた。
 保存食の中では、やっぱり餅だろう。正月前に作った餅は種類も量も沢山あって、作りたてのうちに白粉(しろこ)をまぶしてから、風当たりのよい部屋に運んで乾燥させたものである。一番おいしく食べられるのは「あんころ餅」(中にあんこを詰めた餅)だが、餅つきのときのみで保存食としては作られなかった。残る一つは、まず白い普通の餅。二つ目はよもぎ入りの餅、そして三つ目は大豆や黒豆入りの餅だ。ほかに、食したことのない餅もある。因美線の県境から線路づたいに行くと、鳥取県智頭(ちず)にさしかかる。この辺りでは、今もトチの実を混ぜて餅にするらしい。その実は秋に熟し、3裂して赤褐色でつやのある種子を覗かせる。トチの木はかじると苦く、「さらして食べる」とある。私たちの地域では、水にさらして食べる習慣はなかった。智頭地方みたいに、いろりの前で「トチの実入りの餅」を食しているのは、こちらには伝わってこなかったのかもしれない。
 保存食としての餅の食べ方は、正月以外は、やはり焼いて食べるのが一番だろう。家の土間に七輪を置き、それに餅を載せて炭で焼いていく。片面が柔らかくなったら、裏返してもう片面を焼いていく。一遍に4、5個を載せて焼け具合を注意深く観察することを怠らないのが大切だ。と、ある時点で餅のてっぺんが持ち上がって裂け始める。さらに、もう少し時間が経つと、「プウッ、プウッ」と2段階くらいでふくれ始める。そうなってはいけないので、七輪の火の勢いを早めに弱めるのがよい。
 そのままふくれすぎると、中が空洞となっておいしさが損なわれるので、ふくらみ始めたら素早く七輪の周辺部へと箸を使うか、手づかみで移動させる。
 出来上がった餅は、さとう醤油に付けて食べると最高だ。あつあつの餅の一端を手で横に引っ張ってちぎり、「フウッ、フウッ」と息を吹きかけて冷ましながら、次から次へと口に運んで、2、3個ぐらいは平らげたものだ。
 冬場にとれる野菜は限られる。ネギや大根のように、秋の畑で大きくなったものをそのままにしておいて、早めに食べていくこともしていた。しかし、野ざらしにしておくと、どうしてもひからびたり、変色したりして、足が落ちてしまう。そこで、大方の大根は「きびや」や鶏小屋の軒先に架けて、そのまま「天日干し」にしていた。
 天日干しにしたものは漬け物にしたり、さらに細かく刻んで「干し大根」にすると、保存食となってよい。料理では、さっと湯がして切干し大根や酢の物にしたり、混ぜご飯の具にしてもよい。生で残った大根は、少しずつ畑に行って引き抜き、その時々の料理に使っていた。生でおろしてよし、そのまま包丁を入れて煮てよし、糸のようにスライスして甘酢漬けにしてもよい。もちろん、漬け物にするとこりっとした歯ごたえのよさと甘ずっぱさが口全体に広がる。夏場にとれた南瓜は、私にとって冬になっても幸せを運ぶ野菜だ。母はそれをてんぷらにしたり、ほかほかの煮物にしてくれた。
 南瓜は余り大きくないこぶりのものがいい。どっしりした臼型より太っただんご型のものがあれば、太った茄子のようにやや長いものもある。どちらかというと、丸く小さなものの方が身が引き締まっていて、甘さも格別だった。南瓜の煮物ができあがると、ほっくほっくした様になっている。南瓜の食べ方は、当時も今でも一般とは少し変わっていて、あつあつに煮えた南瓜を熱いご飯の上で押しつぶし、少しずつご飯と混ぜ合わせて食べていた。私にとっては、こうして食べるのがたまらない程おいしい。
 玉葱は、鶏小屋や「きびや」の軒先にたすき掛けにして吊してあり、カレーライスや煮物を作るときに使われていた。玉葱は、たまにお客さんが来て鶏肉を煮るときには不可欠の野菜で、とろけるような甘さを引き出していた。保存食の野菜ということでは、夏場に収穫して天日干しして作ったかんぴょうは、なんとなく気品の漂う食べ物である。なんとなく縁結びの紐みたいで、食べると縁起がいいというのも頷ける。ということで、おめでたいことが目当ての正月料理には、特に具材に重宝して使っていたようだ。
 おせち料理として他の具とともに重箱の片隅に添えられたりしていた。かんぴょうは薄味で甘く煮てもらう。こうすると、かんぴょう本来の上品な甘みがして、ときには「かんぴょう巻き」や「まきずし」にしてもらい、おいしく食べさせてもらっていた。冬の料理に欠かすことができないのは、やはりその代表格は根菜類ではないか。お隣の韓国では、根菜類を「医食同源」の観点から冬のおすすめ料理にしているらしい。
 当時の我が家では、最も一般的なそれはじゃがいもであった。大根に劣らず冬に食べる野菜の横綱格だと思う。こちらの意外においしい食べ方は、蒸して食べる方法だ。蒸してから皮をむいて、それに塩を少しふって食べるとじつにおいしい。もう一つのおいしい食べ方は、母が作ってくれるサラダだった。人参と一緒にゆでたじゃがいもをヘラを使ってすり潰し、それに塩とかで味付けしてあった。
 冬の魚取りは、寒い中での根気のいる作業である。こんな時には、魚も水面近くになかなか浮かんでこないので難渋した。水面に氷が張っているときは尚更、捕るるのが難しい。あれから何十年もたった今、人から「釣りに夢中になっていると、いやなことが忘れられた」というのを聞くと、「なるほどそうなのか」と合点がいく。
 手っ取り早いのは、狐尾池の小蝦を丸玉と呼ばれる大網ですくって採りに行くか、水のたまった田んぼにタニシやどじょうを拾いに行ったものだ。池に蝦をとりに出かけるときは、あらかじめ蝦を集める仕掛けをしておくことが多かった。蝦の食べ方としては、やはり他の最中たちと一緒にして似ることが多かった。ただ、量が多いときは、単独の鍋で母が煮ていた。にだってくると、味見してみた。蓋を開けると、甘辛いにおいとともに、赤く色が変わった蝦が鮮やかに眼に写った。
 タニシは家で「しょうやく」をしてから佃煮のごとく水分がなくなるまで煮詰めてから食べた。田舎では、「カラスガイ」と呼んでいた二枚貝が池にいて、そいつを朝方に取りに行く。岸から池の中に筋がついている先に踏み込むと、その貝がが面白いように取れた。小さい子供は放して、大きくて膨らんでいるものだけを竹製の「びく」に入れて、意気揚々持ち帰った。
 鮒は、大きいのもあれば、小さいのもいた。小さいのは、今から思えば、池に返してやればよいようなものだが、そうしてはいなかった。小さい鮒は、家に持ち帰ってから、何度も水で洗って泥を吐き出させてから、蝦や「どほうず」などと一緒に甘辛く煮ていた。大きい鮒はといえば、こちらは内臓を取り出してから、竹の串に次から次へと刺していく。串が何十本もできるくらいの豊漁の時もあった。それを家のかどに旧ごしらえで造った天井のない竈のようなもの(煉瓦や大きな石で回りを囲ったもの)で、後家内ように注意しながら、少しずつ焼いていくのだ。この焼く作業は最初は少しでやめておき、日を置いて少しずつこんがりと焼き上げていった。
 どじょうは池から水路を上って田んぼにまで行き、そこで土中に冬ごもりをする。そうした田んぼの水たまりのところの氷を取り除き、鍬(くわ)で柔らかい表土を掘り返すと、
そこは少し暖かいようで、どじょうが潜んでいたりする。土籠もりのどじょうを捕まえて家に帰ると、きれいな水を入れたバケツの中を一日くらいは泳がして泥分をはき出させる。
 同じ日本でも、北国ではそれをどじょう汁や蒲焼きにして食べるらしいが、僕の家では母が甘辛く煮てくれた。
 珍しいところでは、用水路や清水の湧き出しているところに川蟹がいた。蟹は慌てると縦にも歩くようだが、横に歩く蟹の動きを読んで素手で捕まえ、ビニール袋か何かに入れて家に持ち帰った。こちらは、母に料理してもらうというのではなく、私たち村の子供が夏には罠を張って採取した小鳥をたき火や風呂炊きで焼いて食べていたときのように、小蟹の甲羅を焼いて丸かじりにして食べていたように記憶している。

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新57『美作の野は晴れて』第一部、冬への備え1

2014-09-30 12:09:29 | Weblog

57『美作の野は晴れて』第一部、冬への備え1

 我が西下内には、川と呼べるほどのものは二つほどしかない。湧き水は内に幾つも見られるし、我が家を含め、3軒で共同の泉を井戸にしていた。東の田んぼに行くと、山や丘陵や谷や田んぼ、そして小川の川岸には、ガマとか、アシ、それにカヤなどが繁茂している。その中を、山形、西中の方から田柄川が流れている。川は大地に水を運んできて、生き物たちを育んでくれる。それでも、雨が多く降ったときには見掛けで、5、6メートルの濁流となって流れる。そこに落ちれば、子供だけでなく、大人だって命を落としかねない、危険な川に変貌する。
 美作の地に早々と季節は巡っていく。年によっては、稲の収穫の少ないときもあった。一番はいもち病で、夏の日照時間が少ないときが危ない。稲がこの病気にかかると、さやに米粒が入らない。日照りの夏が続くときは、稲は枯れてしまう。台風で稲がなぎ倒されたりして、水に浸かってもその後の稲の生育に影響を与える。いずれにしても、昔から農業というものは自然が相手、天候に大きく左右される。これを生業にするには、浮き沈みを覚悟してかかるしかない。その当時は、一反当たり籾袋が七俵を超えると豊作といってよく、これが五俵を下回ると不作の年といわれる。
 稲のできの善し悪しは、これに生計を頼っている多くの農家の屋台骨を脅かす。農家の家計は農協に丸抱えの状況であった。その口座には掛買いが貯まっていって、その借りを秋の米の収穫による入金で返すシステムとなっていた。なんのことはない、農協による農家経済の丸抱えである。これが年の暮れに赤字のようだと、新たな借金や融資で当面を凌ぐことにもなってしまう。
 このあたりで麦の栽培についても触れておこう。麦の藩種期は前年に稲作が終わって直ぐ、冬の到来の前に始まる。麦の種類には、大麦と小麦、裸麦にライ麦といろいろなものがある。我が家のは自家用で、おおかた大麦と裸麦である。ほかに小麦粉を取るために小麦を少々植えていた。大麦の場合でいうと、これから種を撒こうとする田んぼや畑には、予め苦土石灰を撒いておく。化学肥料も惜しみなく用いる。しかし、大地に与える肥料の基本となるのは有機肥料であった。当時の我が家では、麦は自家用で食べるだけであったから、コメの裏作ではなくて、大部分は畑で大麦などを栽培していた。
 種蒔きの時期の狙い目は、11月の中旬くらい。天候のよい日を見計らって麦の種を撒いていたように想い出される。畑に麦の種を植える場合には、前もって鍬を使って畝と谷をつくっておく。その上で、西の空が朱色に染まる夕暮れ時まで、日がな一日、みんなで谷の部分に麦の種を撒いては、その上を畝からの盛り土で埋めていく。
 一方、コメの収穫の終わった田んぼには、来年のための堆肥を撒いておいて、地力を回復させておく必要がある。それが、この辺りの農家が長年の間に培ってきた技術である。予め、父が耕耘機のトレーラー(荷台)で載せて田圃のそこかしこに運び、ところどころ山積みに卸されている。私たちは、その小さき山に「フォーク」と呼ばれる鉄製の鋭い何本ものくしの付いた農具を刺し込んですくい取る。手提げのまま、まだ堆肥を撒いていない場所まで運ぶ。それから、頃合いを見計らって左から右へ、または右から左へ大きく振って堆肥をばらまく。堆肥は熱を持っている。堆肥を田んぼにばらまくと、冷気に当たって湯気が立ち上る。そうするうちにも、陽はさらに西へと傾く。
「日がもう暮れるけん、はようやらんといけん」
とプレッシャーを受けながらの作業になることが多かった。
 堆肥は、軽いものばかりではない。稲藁(いなわら)にボテボテの牛の糞がくっついているものを持ち上げると、腕と腰にズシンと来る。その上、下は稲を刈り取った後なので、その切り株に足をとられないようにしなければならない。
 それでも、日が暮れる頃には、田んぼに植える部分にはどうにか稲藁堆肥を巻き終えたようだ。父はといえば、もう一枚の田んぼの端の方から耕耘機を入れて、耕し始めている。耕耘機の後ろで鋭い刃がきらめきながら回転し、耕耘機の動いた後には掘り返された土
と稲の切り株が続いていく。なるほど、機械技術はすばらしい。
 たかが、一日仕事というなかれ。日が暮れても仕事を続ける父を尻目に、母や祖父母と一緒に家路につく私は、全身全霊をつぎ込んだ後の脱力感で、足がふらついていた。当時の農家の子供達の大半は、休みの日はそうした労働に従事していたのだろう。しかし、今になって顧みると、骨格と筋肉の発達の度合いからみて、あの頃の労働は少し過酷であったのではないか、と考えられる。
「遠きやまに 日は落ちて
星は空を ちりばめぬ
きょうのわざを なしおえて
心軽く 安らえば
風は涼し このゆうべ
いざや楽しき まどいせん まどいせん」(ドボルザーク作曲、堀内敬三訳詞)
 薬草のことは、農事の合間にさまざまに教えられた。祖父や祖母から手ほどきを受けたものだ。薬草の種類はいろいろある。げんのしょうこ、せんぶり、どくだみ、おおばなどをめざして、田んぼの付近の野原の淵辺りに探しに行った。数ある薬草の中でも、どくだみは、やたらと腫れ物が出ていた私には有り難い。手みしたどくだみの葉を少し焼いたあと、患部に貼ってその上をテープで固定しておく。一日おいたら、母に頼んでガーゼを次のに取り替えてもらう。粘り強くそれを繰り返すうちに、腫れが熟して口が開き、周りから押すと、患部からたくさんの膿が出てきて、何とも不思議だ。
 せんぶりは小さい薬草で、西の田んぼに接する山際に生えて。葉は線形で対称をなしている。筋の入った白い花を目当てにして探すとよい。生でかじるとひどく苦い。こちらは煎じて薬とする。整腸剤であったのかどうかは知らない。何かの時にということではなく、日常普段に飲む番茶(ばんちゃ)に他の薬草と一緒に入れて湯立てる。煮汁は大変苦いので、母から勧められて腹痛のときだったか、何回かは呑んだが、最後まであまりに苦いので飲み干すことはしなかった。
 じねんじょ(山の芋)掘りのことも懐かしく思い出される。山芋のなかには空中の蔓に付けるものもあった。それを「かずら梨」と呼んでいたのかは知らない。やはり大きいのは土中にあるものである。
 備中鍬(みつご)では深く掘れないので、「ま鍬」と呼ばれる厚手の鍬を担いで出かける。その父が、たまに「おい、おとうちゃんはこれから山芋を堀りに行くけん、おまえも行くか」と誘ってくれるときがある。
「うん、行く」
 父の誘いに後に喜び勇んで、手には袋、ま鍬を肩に背負って、父の後に従う。
 父と一緒のときは、山道を歩いていくのに何か安心感があった。父の背中を意識しながらも、話しかけるのはよしておいた。その頃は、いつも寡黙な父であった。山は紅葉の盛り。葉が垂れ下がっている処もあって、刻々と煌めく木漏れ陽に照らされて美しい。手に取ってみると、葉にはたくさんの皺が刻まれている。きんもくせいが橙黄色の花を咲かせていて、蜜のような香りが漂う所を過ぎていく。
 山里の晩秋から冬にかけての自然の彩りに誘われて、いつしか山に分け入っていた。「ケーン、ケーン、クウクウクウッ」と、おそらくは雉(きじ)が鳴いていた時もあった。
 顔を回して耳と眼を総動員しているうちにふと父が立ち止まる。「むかご」(山芋の肉芽)を見つけたのだ。それは地面にもパラリと落ちている。これがあるということは、じねんじょがある。あたりの雑草や古木をかき分けるようにしているうちに、くさの蔓に行き当たる。父が、太い指で蔓をたぐるようにして根のありかを突き止める。
「ここに蔓があるじゃろう。ここに山芋があるけんな。ええか、狭うて危ないけんなあ。お父ちゃんが先に掘るからおまえは後にどいとけよ」
 父がま鍬を握って前へ出て、そのま鍬を頭上に振りかぶる。根は相当に深いので、太い幹が出てくるまで掘り進むしかない。掘るのは、傾斜の急なところで半身になりながら、ま鍬を使う。初めはかなり離れたところから掘り進んでいく。そうでないと、穴はV字状になるので、縦深く成長した芋を痛めてしまうことになる。
 しばらく経って、幹が太くなってくる。
「大けな山芋じゃなあ」
「ほう、こいつは深いところにあったなあ」
 一呼吸置いてから、私が差し出した袋の中に入れてから、
「泰司、今晩は、おかあちゃんにいうて芋汁にしてもらおうな」
 父がそう言いながら、嬉しそうに後ろに控えている私に目配せした。黒い顔に黄色い歯がむき出しになって、何やら凄(すご)みがあった。
「おとうちゃんは、顔が赤うなっとるな・・・・・。いつもとはちがうな。きょうのおとうちゃんはなんとのう、うれしいそうじゃなあ」
 穴の脇に陣取って、そんなことを考えていると、
「よし、今度はおまえが少しやってみい。ええか、よう足を踏ん張ってからやらんといけんぞお」
父に促されて、私がかわって鍬を振るう。
「ようーし、ぼくがやっちゃるけん」
 足場が決まると、狭いところなので用心深く鍬を振り上げ、それから全力で振りおろす。狭いところをめがけて鍬を正確に振り下ろさないといけないので、芋蔓を痛めないように神経をやたら使う。直ぐに汗だくになる。何度も鍬をうち下ろしていると、顔も首も腕も飛び散った泥にまみれる。
「よし、もうちょっとじゃ」
というところで、父と交代してもらう。
 じねんじよ掘りからの帰り路、太陽はもう西の山際に傾いていて、西の空が茜色に染まりつつあった。
「ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む
ぎんぎんぎらぎら日が沈む
まっかっかっか 空の雲
みんなのお顔も まっかっか
ぎんぎんぎらぎら日が沈む」(作詞は葛原しげる、作曲は室崎琴月、編曲はおおたかしずる)
 その日は、父と一緒に働くことができた。働きぶりを、なんかこう父に認めてもらった気がした。そのむき出しの歯につられて嬉しくなって私も笑顔で答えたものだ。
 山芋を掘った穴は、きちんと土を埋めておく。あとで事故や山崩れの原因となるからだ。山芋の茎の付け根に付いていた球根状のムカゴは採取してポケットに入れておく。
 持って帰ると、さっそく祖父と祖母、それに母に見てもらった。収穫した芋は、バケツの中でよく水洗いしてから、今度はタワシを使って窪んだところに付いた泥を丁寧に取り除く。それでもとれないときは、冷水に浸して数時間そのままにしておく。それでもとれない泥やひげ根は鎌や包丁の先で少しだけえぐり取っていく。髭根は指でつまんでできるだけ引き抜いておく。皮を剥かない限り、全部の髭根を引き抜くのは無理だ。
 母の指示で、それから大鉢のすり鉢(スリコギ)に入れ、すりこぎ棒を「グルーリグルーリ」回して、その間にじねんじよは粘りを増していく。
 因みに、スリコギはメソポタミアのウル遺跡からも発掘されているのだそうだ。後は、私がその作業を繰り返しながら、兄か母がすり鉢が一杯になるまでお玉杓子で野菜の具の一杯入った味噌汁を注ぎ込んでいく。味噌汁が全体として赤身を帯びてくるのは、どういう訳かは知らない。全体として泡立っていて、いかにも山の幸がふんだんに入った山芋汁
の感があった。
「てきたでえ」
私が大きな声を張り上げると、
「どうれ、見せてみい。・・・・・おお、ごちそうじゃのう」
と言って、祖父が近寄ってきてすり鉢の中を覗き込む。
 この手伝いをしている傍らでは、竈に架けられた羽釜(はがま、つばがついている飯炊き用の釜)が泡を吐き出して煮立ってくる。「はじめチョロチョロ、中パッパ、赤子泣くとも蓋とるな」といわれるが、泡がひととおり吹き出した後は、燃焼中の薪を竈の奥から入り口付近へと引き出さないといけない。最後は火を完全に引いて15分ばかり蒸らすと、おいしいご飯(ママ)の出来上がりだ。
 さっそく、出来た暖かいご飯に、ほっかほかの芋汁をお玉杓子を使ってかけていただく。うまいものを食べるときには、人は夢中になる。なりふりかまってはいられない。どんぶりの端に口を付けて箸でまるごとズルズルと半ば呑み込むようにして食べる。あの「じねんじょ」のねばりが舌にからみついてくる。残っている髭根を吐き出しながら食べた。いまの人が蟹を食べているときのように黙々として夢中で中身を口に運ぶ。食べているうちに口の周りがむず痒くなる。他にはおかずはもう要らないほどのおいしさであった。
 山芋を掘るついでに持ち帰った「むかご」(山芋の肉芽)も入れて食べるので、それが時々歯に当たってコリコリする。こらちも噛むと、ズルッとくる。山口県の周南市の郷土料理に「山子ご飯」と炊込みご飯があって、山芋を親、むかごを子にして、米と干し椎茸を入れてご飯を炊く。出汁は、干し椎茸の戻し汁に塩、そして梅昆布茶を加えるのだそうだが、これで炊くと究極のおいしいご飯ができあがるというから、じねんじょ料理は幅も広い。
 今でも、その時の光景を克明に覚えているのは、私の一家6人がそろって元気でいた頃の記憶だからなのだろうか。
 あれから50年余りが経ち、ここ埼玉の片田舎においても、地元の農産物販売所には「ヤマト芋」とか「じねんじょ」が売り出されるときがある。値段は1キロ当たり2千円くらいもする。天然の山芋で作った「芋汁」(こちらでは「とろろ汁」と呼んでいる)をあつあつのご飯にかけて食べる習慣は、ここでも昔から根付いて久しい。
 美味しさの源はやっぱり「粘り」だと思う。そのことは、一度でも食べたことのある人にはわかる。長芋や「いちょういも」にはない粘りがある。こってりとした舌ざわりで、味わいが濃厚というか、深いこくがある。それを「ズルズル」と音をたてながら食べていると、口の周りがかゆくなることもある。饅頭のような形状をしたやまと芋(つくね芋)は関東の地で食べられているようであるが、私の子供の頃のみまさかでは天然に自生しているもののみならず、栽培されているという話も聞かなかった。
 粘りといえば、この関東での自然薯の別名である「ヤマト芋」とともに、代表格であるのは、納豆である。その納豆と似たものに「テンペ」がある。大豆といえば、大豆の発酵食品テンペが岡山市やその西部の矢掛町などで造られ、食されるようになっている。このこのテンペは元々インドネシアの産物で、向こうでは揚げ物や炒め物などにして400年前から食べられているようだ。そのテンペを日本で製造することを岡山県工業試験場が研究して、その成果がいまや岡山の地に根付いていることを最近のNHKテレビ『小泉武夫(NPO発酵文化推進機構理事長)の発酵漫遊記、謎のお宝発酵食、岡山の発酵食テンペ』(2015年2月19日の『ゆうどき』で放映)が伝えている。その製造方法は奥が深く、「テンペの父」と呼ばれる同試験場の野崎信行氏らの研究の御陰で確立されたとのことであり、番組では岡山市の女性たちが試験場の始動の下でテンペを製造している現場が紹介されていた。詳細は企業秘密らしいが、大豆を、納豆を造る時より低い30度くらいの温度で圧力釜で炊き、テンペ菌を加える。温度が高くなるとよくないので、部屋の温度を一定の温度に保つのが難しい。したがって、これを家庭でつくるとなると設備や環境の問題があり、無理なのかもしれない。岡山で売られているのは、豆腐一丁くらいのおおきさのものが270円くらいと少し高いような気もするが、なにしろ抗酸化力のある食べものとしては代表的なものであり、肉の代わりにしても差し支えないほどのボリュームがあって、食べながら血管が強くなるというすぐれもの食品であるとのこと。食べ方も幾つかが紹介されていて、テンペとひじきの炒め物なんかは、もちもち感、粘り気がたっぷりあって、まるで栗のようなえもいわれぬ味だとか、炊き込みご飯にしてもおいしく頂けるらしい。こちら関東でも健康食品の棚にあるらしいので、一度は食べてみたい健康食に違いない。

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新55『美作の野は晴れて』第一部、母の青春    

2014-09-30 10:04:59 | Weblog

55『美作の野は晴れて』第一部、母の青春  

 勝田郡奈義町の関本(せきもと)は、母の実家のあるところである。小学校を卒業するまでは、年に一度か二度くらいは行っていた。母と子供二人の旅となる。母にとってはご機嫌伺いを兼ねた里帰りなので、その日はこの関本地区の三穂神社の祭日か縁日に重なったのかもしれない。今も記憶にはっきり残っているのは、母方の祖母の勢喜(せき)がまだ元気でいて、実家に帰る母も、実母との久しぶりの語らいができるという張り合いがあったのではないだろうか。
 出発したのは、その日の前日の午後のこと。国道53号線まで歩いて出て、そこから午後に津山駅発の行方(ぎょうほう)行きの中国鉄道バスに乗る。それより奥の馬桑(まぐわ)行きのバスは、便数が少ない。そして、その日が来た。日頃の行いがよいのだろうか、その朝の日の出からよく晴れていた。遮る雲一つないほどの秋の日差しが地上に降り注いでいた。旅の用意をしてから家の庭に出ると、それは、狐尾池の水に弾け、その水面を眩しいほどに光らせているようだ。
 上村まで、足早に30分ばかり歩いて、行方(ぎょうほう)行きのバスに乗った。日本バラを通り、さらに滝本(たきもと)を過ぎると、北側が豊沢(とよさわ)、南側が広岡(ひろおか)が視界に入ってくる。車窓から見る景色に見入っていると、ここはもう奈義町で、母の故郷なのだ。広岡から南に向けては、現在立派な道(県道51号、美作奈義線)ができており、これに乗って南に下ると、勝田郡勝田町の役場、さらに英田郡美作町の役場のある(JR西日本の姫新線林野駅)辺りにつながっている。
 母の「定子」(さだこ)は、1928年(昭和3年)3月に、当時の勝田郡豊並村関本(かつたぐんとよなみむらせきもと)に在住の為季文蔵(ぶんぞう)、勢喜(せき)夫婦の四女として生まれた。一番の姉、二女、姉、それから兄、二男、弟の6人の兄弟姉妹がいた。だが、二女と二男が子供のときに亡くなり、大人に育ったのは5人だと聞いている。
 後年の、わたしへの母の手紙に履歴が載っている。
 「為季文蔵・勢喜 四女
定子(さだこ)
昭和三年(一九二八年)三月十五日出生
勝田郡豊並村関本八七三番地
豊並尋常高等小学校高等二年卒業
勝田郡奈義町青年学校三年卒業(今の日本原高等学校)
青年学校教師の推薦に依り豊並村行方郵便局勤務
昭和二十年八月十五日終戦詔勅豊並村役場で聞く。
 当時は戦争の最中で食糧不足物資不足でサマータイムで一時間早くから働く時代でした。学徒動員で女子も挺身隊に動員され、工場に働きに行った時代です。
 (豊並村)は、今の奈義町は豊田村、豊並村、北吉野村の三か村が戦後合併され出来た町です。勝北町も同時い新野、広戸、勝加茂の三か村が合併した町です。私たちの村では、当時は津山の美作女学校に行った人は小学六年卒業で四〇人程の生徒の内、村の富裕の家庭二人だけでした。
 戦争中でしたので尋常小学校卒業八年間勉強した後、看護婦さんに大勢出勤されました。軍需工場に行った人も有りました。残った私達が豊田村に有りました奈義青年学校に進学しました。男子生徒とは別々の勉強(男子は主として教練でした。)
 教室で裁縫生花のお茶普通の学科等習いましたが、軍人勅諭等も当時覚え竹槍訓練なぎなた等も訓練しました。日本原演習場で宿泊して兵隊さんに訓練を指導して貰ったこともあります。消火訓練もしました。軍人の留守家庭農家の農作業に勤労奉仕にも行きました。余り勉強は出来ませんでした。英語は絶対禁止の時代でABCだけ先生が内緒で教えてくださったのを覚えております。
 青年学校は毎日往復二里(8k)約三年余り通いました。バスが時々通るだけで交通は静かでしたので、帰りには学校の教科書または○雑誌等歩いて読み乍ら友達と横になって歩く事も度々でした。タクシーはお医者さんだけでした。帰った時休みの時は家で農作業をみんな手伝っておりました」(2000年5月5日の手紙より抜粋)。
 その頃の母の写真が2枚残っている。1枚は、田舎歌舞伎か何かの紅白粉姿で写したものである。いま1枚は、青年学校に通っていたときのものである。
 17歳になった母は、青年学校(現在の日本原高校の前身)教師の推薦があって豊並村行方(ぎょうほう)郵便局に勤めた。
「郵便局では局長さんとは時々出勤され、私を含めて事務員さん8人と郵便さん4人居りました。終戦の日郵便さん一人と女の友達二人で泊まりをしに家から夜の御飯をたべて帰って居りました時、8月15日午後6時頃、B29の飛行機が低く飛んでいたのを覚えております。(夜はよく電報が入っておりましたので)それを受けて郵便さんに渡し夜配達しておりました」(同)。
 この辺りになぜB29が来ていたのかは、この地は1908年(明治41年)から陸軍演習地となっていて、当時陸軍の部隊が駐屯していたことがあるのではないか。
 1942年(昭和17年)8月、ソロモン島での二度の海戦(特にガダルカナル島の争奪戦)で日本海軍がアメリカ軍に敗退し、日本側は多くの船舶と兵員を失った。1942年(昭和17年)4月には、東京に初めての空襲があった。太平洋上の米空母ホーネットから飛び立ったB25双発爆撃機の16機が飛来して、爆弾を落としていったのである。
1943年(昭和18年)2月には最南方のガダルカナルから日本軍が撤退を余儀なくされる。同年、ソロモン群島とニューギニアを中心に両軍の攻防が起こり、アメリカの空母が展開するに至る。1944年(昭和19年)にはマリアナ群島のサイパン島(7月、これより前の6月にアメリカ軍が上陸していた)、フィリピンのレイテ島の日本軍が陥落し、それからは米軍機の日本本土へのB29戦略爆撃機による空襲が頻繁になる。
 明くる1945年(昭和20年)の1月から2月にかけては、フィリピンのルソン島、硫黄島など日米の激戦が繰り広げられる。特に、2月19日~3月26にまでの硫黄島の戦いでは、日本の守備兵2万933名のうち2万129名までが戦死した。日本軍が玉砕した後は、アメリカ軍はこの島からB451戦闘機の護衛をつけてB29戦略爆撃機を昼間の本土爆撃に出撃できるようになったことがある。
 母の故郷へのB29戦略爆撃機の飛来のおよそ2箇月前、1945年(昭和20年)6月22日、海軍の「1式特攻」などの生産を行っている三菱重工水島航空機製作所が空襲されたのが、岡山県下への本格攻撃の最初とされる。続く28日から29日にかけての夜、B29編隊約143機による、朝まで正味およそ4時間にわたり岡山市への空襲があった。その時は、岡山の警報が遅れた。この時の攻撃目標は多方面に渡っていたようである。アメリカ空軍の当夜最大の攻撃目標は、三菱重工水島航空機製作所を壊滅させることであった。空襲前に撮影された米軍の写真には、「岡山工場から4マイル、高さ400フィートの山の南東の側に幅約30フィートの誘導路が通じ、そこから飛行場へいたる。トンネルの中には飛行機か、あるいは重要な施設が隠され、航空機製作工場の生産に連携していると思われる」(1マイルは約1609メートル、1フィートは約0.3メートル)との説明書きが加えられている。この偵察に基づき、この日8時半頃から堂製作所へのB29による1トン級爆弾の絨毯爆撃が3時間余も続き、完成前の飛行機数十機を含め、同製作所の格納庫及び工場はほぼ完全に破壊された。そのほか、岡山城に兵団が集結していて、そのことで爆撃があったのかどうかはわかっていない。さらに、攻撃目標は軍事施設以外にも向けられた。市内を焼き尽くすための焼夷弾が雨のように落ちてきて、夜が明けた時は市内はもう火の海だった。空襲警報が発令された時には市内はもう火の海であり、城の方からなお燃え盛るのを見ながら、市民は逃げ惑い、天満屋の地下ではガス中毒と火傷で180人もの人が命を失ったという。
 「田舎は、田植えに忙しい最中で、身の細る思いの二日目、六月二十九日午前二時過ぎ、岡山から四十キロ離れた弓削町なのに、ズドン、ズドンとにぶい腹に染みわたるような響が伝わってきました。小学四年の長女と、一歳半の長男を連れて、外に出て見ると、山あいの南はるかに、白いむくむくとした煙と、真っ赤な炎の上がるのを見て、ついにきた、主人や母はうまく逃げられたかしら、どうぞ、ご無事でいて下さい、と見守ったことです。B29四十二機が焼夷弾約六万個を投下したと、終戦後聞きました。」(渡邊千代子「食糧難から飽食の時代にー激動の昭和に生きて」:岡山市文化的都市づくり研究チーム企画編集『さるすべりの花にー聞き書き、岡山女性の百人』岡山市、1990より引用)
 「その時分、西口に鉄道の労組の本部があったんですが、その建物に傷ついた人が次から次へと運ばれてくるんです。私も何かお手伝いができればと行きましたら、もう見るに見かねるようなお姿の人ばかり、三、四十人もおられたでしょうか。苦しそうにうめいて「水を、水を」というておられる人もありました。
 あんまり最後になった時に水をあげたら早くいけなくなるという事を小さい頃から聞いとりましたが、もう助からんという事がわかっておりますのにほっとくわけにはいきません。それで、そういう方にせめて末期のお水をと思い、口に入れてあげしました。そしたら、まあ、どうでしょう。物もいわれないようなのに目と心でお礼をいわれるお方、かすかな声で「ありがとう」といわれるお方、また、動きかねる手をやっと合わせられるお方など・・・・・。それを思うちゃ、今でも涙が出るんです。」(徳田裕子「戦争のみじめさ、平和のありがたさをーいつも奉仕の心を」:岡山市文化的都市づくり研究チーム企画編集『さるすべりの花にー聞き書き、岡山女性の百人』岡山市、1990より引用)
 この日の空襲により、死者が1737名、罹災家屋約2万5千戸、罹災市民の数は約12万名を数えた(「岡山市史」)。

(続く)

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