新57『美作の野は晴れて』第一部、冬への備え1

2014-09-30 12:09:29 | Weblog

57『美作の野は晴れて』第一部、冬への備え1

 我が西下内には、川と呼べるほどのものは二つほどしかない。湧き水は内に幾つも見られるし、我が家を含め、3軒で共同の泉を井戸にしていた。東の田んぼに行くと、山や丘陵や谷や田んぼ、そして小川の川岸には、ガマとか、アシ、それにカヤなどが繁茂している。その中を、山形、西中の方から田柄川が流れている。川は大地に水を運んできて、生き物たちを育んでくれる。それでも、雨が多く降ったときには見掛けで、5、6メートルの濁流となって流れる。そこに落ちれば、子供だけでなく、大人だって命を落としかねない、危険な川に変貌する。
 美作の地に早々と季節は巡っていく。年によっては、稲の収穫の少ないときもあった。一番はいもち病で、夏の日照時間が少ないときが危ない。稲がこの病気にかかると、さやに米粒が入らない。日照りの夏が続くときは、稲は枯れてしまう。台風で稲がなぎ倒されたりして、水に浸かってもその後の稲の生育に影響を与える。いずれにしても、昔から農業というものは自然が相手、天候に大きく左右される。これを生業にするには、浮き沈みを覚悟してかかるしかない。その当時は、一反当たり籾袋が七俵を超えると豊作といってよく、これが五俵を下回ると不作の年といわれる。
 稲のできの善し悪しは、これに生計を頼っている多くの農家の屋台骨を脅かす。農家の家計は農協に丸抱えの状況であった。その口座には掛買いが貯まっていって、その借りを秋の米の収穫による入金で返すシステムとなっていた。なんのことはない、農協による農家経済の丸抱えである。これが年の暮れに赤字のようだと、新たな借金や融資で当面を凌ぐことにもなってしまう。
 このあたりで麦の栽培についても触れておこう。麦の藩種期は前年に稲作が終わって直ぐ、冬の到来の前に始まる。麦の種類には、大麦と小麦、裸麦にライ麦といろいろなものがある。我が家のは自家用で、おおかた大麦と裸麦である。ほかに小麦粉を取るために小麦を少々植えていた。大麦の場合でいうと、これから種を撒こうとする田んぼや畑には、予め苦土石灰を撒いておく。化学肥料も惜しみなく用いる。しかし、大地に与える肥料の基本となるのは有機肥料であった。当時の我が家では、麦は自家用で食べるだけであったから、コメの裏作ではなくて、大部分は畑で大麦などを栽培していた。
 種蒔きの時期の狙い目は、11月の中旬くらい。天候のよい日を見計らって麦の種を撒いていたように想い出される。畑に麦の種を植える場合には、前もって鍬を使って畝と谷をつくっておく。その上で、西の空が朱色に染まる夕暮れ時まで、日がな一日、みんなで谷の部分に麦の種を撒いては、その上を畝からの盛り土で埋めていく。
 一方、コメの収穫の終わった田んぼには、来年のための堆肥を撒いておいて、地力を回復させておく必要がある。それが、この辺りの農家が長年の間に培ってきた技術である。予め、父が耕耘機のトレーラー(荷台)で載せて田圃のそこかしこに運び、ところどころ山積みに卸されている。私たちは、その小さき山に「フォーク」と呼ばれる鉄製の鋭い何本ものくしの付いた農具を刺し込んですくい取る。手提げのまま、まだ堆肥を撒いていない場所まで運ぶ。それから、頃合いを見計らって左から右へ、または右から左へ大きく振って堆肥をばらまく。堆肥は熱を持っている。堆肥を田んぼにばらまくと、冷気に当たって湯気が立ち上る。そうするうちにも、陽はさらに西へと傾く。
「日がもう暮れるけん、はようやらんといけん」
とプレッシャーを受けながらの作業になることが多かった。
 堆肥は、軽いものばかりではない。稲藁(いなわら)にボテボテの牛の糞がくっついているものを持ち上げると、腕と腰にズシンと来る。その上、下は稲を刈り取った後なので、その切り株に足をとられないようにしなければならない。
 それでも、日が暮れる頃には、田んぼに植える部分にはどうにか稲藁堆肥を巻き終えたようだ。父はといえば、もう一枚の田んぼの端の方から耕耘機を入れて、耕し始めている。耕耘機の後ろで鋭い刃がきらめきながら回転し、耕耘機の動いた後には掘り返された土
と稲の切り株が続いていく。なるほど、機械技術はすばらしい。
 たかが、一日仕事というなかれ。日が暮れても仕事を続ける父を尻目に、母や祖父母と一緒に家路につく私は、全身全霊をつぎ込んだ後の脱力感で、足がふらついていた。当時の農家の子供達の大半は、休みの日はそうした労働に従事していたのだろう。しかし、今になって顧みると、骨格と筋肉の発達の度合いからみて、あの頃の労働は少し過酷であったのではないか、と考えられる。
「遠きやまに 日は落ちて
星は空を ちりばめぬ
きょうのわざを なしおえて
心軽く 安らえば
風は涼し このゆうべ
いざや楽しき まどいせん まどいせん」(ドボルザーク作曲、堀内敬三訳詞)
 薬草のことは、農事の合間にさまざまに教えられた。祖父や祖母から手ほどきを受けたものだ。薬草の種類はいろいろある。げんのしょうこ、せんぶり、どくだみ、おおばなどをめざして、田んぼの付近の野原の淵辺りに探しに行った。数ある薬草の中でも、どくだみは、やたらと腫れ物が出ていた私には有り難い。手みしたどくだみの葉を少し焼いたあと、患部に貼ってその上をテープで固定しておく。一日おいたら、母に頼んでガーゼを次のに取り替えてもらう。粘り強くそれを繰り返すうちに、腫れが熟して口が開き、周りから押すと、患部からたくさんの膿が出てきて、何とも不思議だ。
 せんぶりは小さい薬草で、西の田んぼに接する山際に生えて。葉は線形で対称をなしている。筋の入った白い花を目当てにして探すとよい。生でかじるとひどく苦い。こちらは煎じて薬とする。整腸剤であったのかどうかは知らない。何かの時にということではなく、日常普段に飲む番茶(ばんちゃ)に他の薬草と一緒に入れて湯立てる。煮汁は大変苦いので、母から勧められて腹痛のときだったか、何回かは呑んだが、最後まであまりに苦いので飲み干すことはしなかった。
 じねんじょ(山の芋)掘りのことも懐かしく思い出される。山芋のなかには空中の蔓に付けるものもあった。それを「かずら梨」と呼んでいたのかは知らない。やはり大きいのは土中にあるものである。
 備中鍬(みつご)では深く掘れないので、「ま鍬」と呼ばれる厚手の鍬を担いで出かける。その父が、たまに「おい、おとうちゃんはこれから山芋を堀りに行くけん、おまえも行くか」と誘ってくれるときがある。
「うん、行く」
 父の誘いに後に喜び勇んで、手には袋、ま鍬を肩に背負って、父の後に従う。
 父と一緒のときは、山道を歩いていくのに何か安心感があった。父の背中を意識しながらも、話しかけるのはよしておいた。その頃は、いつも寡黙な父であった。山は紅葉の盛り。葉が垂れ下がっている処もあって、刻々と煌めく木漏れ陽に照らされて美しい。手に取ってみると、葉にはたくさんの皺が刻まれている。きんもくせいが橙黄色の花を咲かせていて、蜜のような香りが漂う所を過ぎていく。
 山里の晩秋から冬にかけての自然の彩りに誘われて、いつしか山に分け入っていた。「ケーン、ケーン、クウクウクウッ」と、おそらくは雉(きじ)が鳴いていた時もあった。
 顔を回して耳と眼を総動員しているうちにふと父が立ち止まる。「むかご」(山芋の肉芽)を見つけたのだ。それは地面にもパラリと落ちている。これがあるということは、じねんじょがある。あたりの雑草や古木をかき分けるようにしているうちに、くさの蔓に行き当たる。父が、太い指で蔓をたぐるようにして根のありかを突き止める。
「ここに蔓があるじゃろう。ここに山芋があるけんな。ええか、狭うて危ないけんなあ。お父ちゃんが先に掘るからおまえは後にどいとけよ」
 父がま鍬を握って前へ出て、そのま鍬を頭上に振りかぶる。根は相当に深いので、太い幹が出てくるまで掘り進むしかない。掘るのは、傾斜の急なところで半身になりながら、ま鍬を使う。初めはかなり離れたところから掘り進んでいく。そうでないと、穴はV字状になるので、縦深く成長した芋を痛めてしまうことになる。
 しばらく経って、幹が太くなってくる。
「大けな山芋じゃなあ」
「ほう、こいつは深いところにあったなあ」
 一呼吸置いてから、私が差し出した袋の中に入れてから、
「泰司、今晩は、おかあちゃんにいうて芋汁にしてもらおうな」
 父がそう言いながら、嬉しそうに後ろに控えている私に目配せした。黒い顔に黄色い歯がむき出しになって、何やら凄(すご)みがあった。
「おとうちゃんは、顔が赤うなっとるな・・・・・。いつもとはちがうな。きょうのおとうちゃんはなんとのう、うれしいそうじゃなあ」
 穴の脇に陣取って、そんなことを考えていると、
「よし、今度はおまえが少しやってみい。ええか、よう足を踏ん張ってからやらんといけんぞお」
父に促されて、私がかわって鍬を振るう。
「ようーし、ぼくがやっちゃるけん」
 足場が決まると、狭いところなので用心深く鍬を振り上げ、それから全力で振りおろす。狭いところをめがけて鍬を正確に振り下ろさないといけないので、芋蔓を痛めないように神経をやたら使う。直ぐに汗だくになる。何度も鍬をうち下ろしていると、顔も首も腕も飛び散った泥にまみれる。
「よし、もうちょっとじゃ」
というところで、父と交代してもらう。
 じねんじよ掘りからの帰り路、太陽はもう西の山際に傾いていて、西の空が茜色に染まりつつあった。
「ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む
ぎんぎんぎらぎら日が沈む
まっかっかっか 空の雲
みんなのお顔も まっかっか
ぎんぎんぎらぎら日が沈む」(作詞は葛原しげる、作曲は室崎琴月、編曲はおおたかしずる)
 その日は、父と一緒に働くことができた。働きぶりを、なんかこう父に認めてもらった気がした。そのむき出しの歯につられて嬉しくなって私も笑顔で答えたものだ。
 山芋を掘った穴は、きちんと土を埋めておく。あとで事故や山崩れの原因となるからだ。山芋の茎の付け根に付いていた球根状のムカゴは採取してポケットに入れておく。
 持って帰ると、さっそく祖父と祖母、それに母に見てもらった。収穫した芋は、バケツの中でよく水洗いしてから、今度はタワシを使って窪んだところに付いた泥を丁寧に取り除く。それでもとれないときは、冷水に浸して数時間そのままにしておく。それでもとれない泥やひげ根は鎌や包丁の先で少しだけえぐり取っていく。髭根は指でつまんでできるだけ引き抜いておく。皮を剥かない限り、全部の髭根を引き抜くのは無理だ。
 母の指示で、それから大鉢のすり鉢(スリコギ)に入れ、すりこぎ棒を「グルーリグルーリ」回して、その間にじねんじよは粘りを増していく。
 因みに、スリコギはメソポタミアのウル遺跡からも発掘されているのだそうだ。後は、私がその作業を繰り返しながら、兄か母がすり鉢が一杯になるまでお玉杓子で野菜の具の一杯入った味噌汁を注ぎ込んでいく。味噌汁が全体として赤身を帯びてくるのは、どういう訳かは知らない。全体として泡立っていて、いかにも山の幸がふんだんに入った山芋汁
の感があった。
「てきたでえ」
私が大きな声を張り上げると、
「どうれ、見せてみい。・・・・・おお、ごちそうじゃのう」
と言って、祖父が近寄ってきてすり鉢の中を覗き込む。
 この手伝いをしている傍らでは、竈に架けられた羽釜(はがま、つばがついている飯炊き用の釜)が泡を吐き出して煮立ってくる。「はじめチョロチョロ、中パッパ、赤子泣くとも蓋とるな」といわれるが、泡がひととおり吹き出した後は、燃焼中の薪を竈の奥から入り口付近へと引き出さないといけない。最後は火を完全に引いて15分ばかり蒸らすと、おいしいご飯(ママ)の出来上がりだ。
 さっそく、出来た暖かいご飯に、ほっかほかの芋汁をお玉杓子を使ってかけていただく。うまいものを食べるときには、人は夢中になる。なりふりかまってはいられない。どんぶりの端に口を付けて箸でまるごとズルズルと半ば呑み込むようにして食べる。あの「じねんじょ」のねばりが舌にからみついてくる。残っている髭根を吐き出しながら食べた。いまの人が蟹を食べているときのように黙々として夢中で中身を口に運ぶ。食べているうちに口の周りがむず痒くなる。他にはおかずはもう要らないほどのおいしさであった。
 山芋を掘るついでに持ち帰った「むかご」(山芋の肉芽)も入れて食べるので、それが時々歯に当たってコリコリする。こらちも噛むと、ズルッとくる。山口県の周南市の郷土料理に「山子ご飯」と炊込みご飯があって、山芋を親、むかごを子にして、米と干し椎茸を入れてご飯を炊く。出汁は、干し椎茸の戻し汁に塩、そして梅昆布茶を加えるのだそうだが、これで炊くと究極のおいしいご飯ができあがるというから、じねんじょ料理は幅も広い。
 今でも、その時の光景を克明に覚えているのは、私の一家6人がそろって元気でいた頃の記憶だからなのだろうか。
 あれから50年余りが経ち、ここ埼玉の片田舎においても、地元の農産物販売所には「ヤマト芋」とか「じねんじょ」が売り出されるときがある。値段は1キロ当たり2千円くらいもする。天然の山芋で作った「芋汁」(こちらでは「とろろ汁」と呼んでいる)をあつあつのご飯にかけて食べる習慣は、ここでも昔から根付いて久しい。
 美味しさの源はやっぱり「粘り」だと思う。そのことは、一度でも食べたことのある人にはわかる。長芋や「いちょういも」にはない粘りがある。こってりとした舌ざわりで、味わいが濃厚というか、深いこくがある。それを「ズルズル」と音をたてながら食べていると、口の周りがかゆくなることもある。饅頭のような形状をしたやまと芋(つくね芋)は関東の地で食べられているようであるが、私の子供の頃のみまさかでは天然に自生しているもののみならず、栽培されているという話も聞かなかった。
 粘りといえば、この関東での自然薯の別名である「ヤマト芋」とともに、代表格であるのは、納豆である。その納豆と似たものに「テンペ」がある。大豆といえば、大豆の発酵食品テンペが岡山市やその西部の矢掛町などで造られ、食されるようになっている。このこのテンペは元々インドネシアの産物で、向こうでは揚げ物や炒め物などにして400年前から食べられているようだ。そのテンペを日本で製造することを岡山県工業試験場が研究して、その成果がいまや岡山の地に根付いていることを最近のNHKテレビ『小泉武夫(NPO発酵文化推進機構理事長)の発酵漫遊記、謎のお宝発酵食、岡山の発酵食テンペ』(2015年2月19日の『ゆうどき』で放映)が伝えている。その製造方法は奥が深く、「テンペの父」と呼ばれる同試験場の野崎信行氏らの研究の御陰で確立されたとのことであり、番組では岡山市の女性たちが試験場の始動の下でテンペを製造している現場が紹介されていた。詳細は企業秘密らしいが、大豆を、納豆を造る時より低い30度くらいの温度で圧力釜で炊き、テンペ菌を加える。温度が高くなるとよくないので、部屋の温度を一定の温度に保つのが難しい。したがって、これを家庭でつくるとなると設備や環境の問題があり、無理なのかもしれない。岡山で売られているのは、豆腐一丁くらいのおおきさのものが270円くらいと少し高いような気もするが、なにしろ抗酸化力のある食べものとしては代表的なものであり、肉の代わりにしても差し支えないほどのボリュームがあって、食べながら血管が強くなるというすぐれもの食品であるとのこと。食べ方も幾つかが紹介されていて、テンペとひじきの炒め物なんかは、もちもち感、粘り気がたっぷりあって、まるで栗のようなえもいわれぬ味だとか、炊き込みご飯にしてもおいしく頂けるらしい。こちら関東でも健康食品の棚にあるらしいので、一度は食べてみたい健康食に違いない。

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