新41『美作の野は晴れて』第一部、初秋の風1  

2014-09-26 20:41:05 | Weblog

41『美作の野は晴れて』第一部、初秋の風1

 夏も8月の盆くらいになると、暑さがこころなしか和らいでくる。加茂川は吉井川の支流の一つ、我が家から歩いて40分くらいのところにある。概ね南北の方向に流れていて、この時期の堀坂(津山市)付近では川幅は数十メートルにもなることがある。
 その加茂川に、掘坂内外の子供達が楽しみにしているものがある。それは、8月の「井出落とし」(いでおとし)と呼んでいた。「井出」とは堰(せき)のことで、これで加茂川の支流の水を堰き止めて、周囲や下流にある田んぼに水を廻していた。その水が要らなくなると、それまで溜めていた堰の水を開放してその支流の自然な流れに任せてやる。これによって堰に至るまでの水路の水が減ってくるので、その長い水筋のあちこちに棲息するようになっている沢山の魚たちにとっては進退窮まるというか、おそらく驚天動地のことになるのだろう。西下の子供にとって夏の最大の楽しみであったのかもしれない。
 小学校の低学年までは、先輩達に連れられて6、7人で連れだって、小網と「びく」を持って出かけた。川の本流での釣りは許可証を持っていないと許されない。その辺りで魚がいるたまり場を狙って釣糸を放り込めば、「入れ食い」状態でいくらでも魚がくいついてくるのではないか。因美線の美作滝尾駅に続く道の川沿いに、暫くひとむらの木立が茂っている処がある。あの『寅さん』の映画でもこの山間の駅が出ていた。それを横切って降りていくと川岸の中州に出る。そこには川岸から水路を掘って、用水を引いてある。私たち、漁業組合の着行軒その土地の外の者でも、そこでなら魚取りをしてよい。
 用水に足を踏み込んで、手探りしていく。どうやら、岩穴の奥に魚が潜んでいるらしい。そこで、粘って葦なんかの棒を使って住み家をかき回してみる。魚がいたたまれなくなって川の中流に踊り出してくる筈だ。チョロチョロッと足早に逃げようとするので、そこを素手か小網で捕まえる。頭のでっかい魚とか、八つ目鰻、鯰、モツゴ、ネコギギ(「チョッカン」と名付けていた。)とかいろいろ獲れていた。
 ある年のこと、上流で鯰(なまず)を先輩の武(仮の名)ちゃんが取り逃がし、ちょろちょろと逃げだして、たまたまその支流で構えている私の網に取り込まれた。武ちゃんは大層悔しがった。私は「独りでに自分の網に入ってきたのじゃから」と心の中で呟いたけれども、喜ぶどころか、嫌な気分だった。なぜあのとき、快く彼に「僕のものじゃないから」といって譲ってあげなかったのかが悔やまれる。
 帰りは疲れと坂のため、自転車を押して帰った。びくの中は一杯で楽しかった。佐藤のうどん屋の近くに大イチョウの木があって、ぎんなんの実を小枝を使ってたたき落として集めていた。かなり集めたところで、持ち主のおじさんに見つかった。
「おまえらどこの者か、何をしているんじゃ」
 私たちは、「やられた」 とみんなで観念した。 こちらが無断で他人の家のものを取っていたのだから、どうしようもない。
「すみません。僕らは西下のもんじゃけえ。人の家のものとはしらんかったんじゃ。許してつかあさい。」
「なんじゃあ、西下のもんかあ。こらえちゃるけん、もうこれからはするなよ」と許してもらった。
「すみません、もうこれからはしません」とみんなで言ったのかどうなのか・・・・・。
 半刻ばかりの我々の「悪ガキ」の成果は巻き上げられたのだが、現場を押さえられたのだから、どうにもならなかった。私たちは、しょんぼりして魚だけで我慢した。
「井出落とし」でたくさんの魚を持ち帰ったときには、母や祖母がしょうやくを手伝ってくれた。後に知ったことだが、滋賀県の田舎では今でも「ふな(鮒)寿司」といって、1年間くらいその魚をぬか漬けにしておいて、おかずが少なくなる冬場などによく食べる週間があるそうだ。これは、発酵食品であり、乳酸菌が多量に含まれている。我が家では、焼いた上で干し魚としておいたり、酢醤油につけておいて食べていた。ともかく、貴重なタンパク源であった。
 普段の魚取りは、村のなかでも、小川が流れており、なかでも東の田圃で行った。釣りについては、渓流釣りとかはしたことはない。もっぱら、小川で釣りをした。田圃に撒く肥、つまり牛の糞と藁の混ざったものの山がある。帽子をめくって少し剥がすと、太さが2、3ミリメートルほどのシマミミズがたくさん生息している。それを缶詰の缶に詰める。
 こうして準備を整えてからいそいそと出かけていく。年齢の近い3人から4人で行くことが多かった。目的の川に着くと、荷物を置いて川釣りの場所を物色する。水がよどんでいてから底の見えない、しかも草が生い茂っている辺りがポイントに適している。
「いるか」
「ちょっと待って、まだよう見えん。」
そう言ってさらにかがみ込んで水中を観察する。じっと眼を凝らしているとメダカだけではなく、まだ小魚のモツゴや鮒の泳いでいる姿が見えてくる。
「おるおる。おるでーっ。いま、あそこの水溜まりの中へ入って行ったところじゃ」
「そろそろさおをたらそうか、泰ちゃん」
 勇介(仮の名)君が聞いている間に、気のはやい浩一(仮の名)君はもうその作業を始めている。
「うん、やろう」
と僕が気取られないように静かに答える。
「僕もやる」
 誠(仮の名)君もやる気満々のようだ。
 みんなで川の岸に並んで腰掛けた。手製の竹竿に釣り糸が固定されているのを確かめる。釣り針を釣り具セットの中からとりだしてその釣り糸に結わえ付ける。魚針にミミズを突き通して、それから川面に投げる。
 あとは時間の経過の中で辛抱強く待つだけだ。仕事にならないうちはひなたぼっこの錯覚すら覚える。ウキにいろがついていて、それが浮きつ沈むと鳴り出すと、魚がかかっている証拠だ。おもむろに引き上げると、鮒やクチボソ(モツゴ)がかかっていた。クチボソ(モツゴ)が肝臓ジストマの中間宿主とは知る由もなかった。イシドジョウや鯰も清流のよどんでいる所にいた。イシドジョウとは、関東ではみかけたことがない。縞模様のような筋が入ったドジョウのことである。
 狐尾池では、早朝に縁を歩き、土泥に残されている足跡をたどってカワヒガイ(カラスガイと呼んでいた。)を採った。泥に筋がついているので直ぐ居所がわかる。たまにじゅんさい採りもした。睡蓮の一種で池の浅瀬の湖面に薄緑色の葉が浮き出ている。そこから茎が紐のように下に長く伸びており、その紐状の茎をたぐり寄せ新芽の部分をつかみ取る。池で水泳したおりにはよく食べていた。
 池の上(かみ)や下(しも)の小川でシジミやゴカイを採った。しじみは清流の砂泥でないと棲まない。卵を生む種類としてはヤマトシジミだったのかもしれない。僕たち子供が採っていたシジミの親は自分と同じ形の子供を産むのだろうか。信じられないほど小さいシジミの子供でも殻を背負っていた。マシジミという種類の貝なのだろう。
 土をゴマフルイにかけると生まれたばかりのちっちゃいしじみも網にかかる。その子供は大きく育ってもらわないと困るので、また小川に帰した。誰におそわったということではないが、その頃はまだ自然の恵みを大事に扱うことを忘れなかった。
 魚の取り方にはいろんなものがある。せき止めたり分流を施すなりして、川の流れを制御できるところでは、バケツで水を汲み出した。魚も必死だったのか、この方法では漁は少なかった。いまから省みると、あそこまでやることはなかった。あのような自然体験を子供に伝承すべきではない。根こそぎ魚を捕獲するような真似をした自分があのとき正気であったとは思いたくない。ここ比企丘陵の武藏嵐山町の広報(2000年5月1日付け)を見ていると、こんな記事が見える。
「幼少のころの夏の思いでの一つに川遊びがある。近所の友達と一緒に手ぬぐいとバケツを持って川へ行き、足首ほどの浅瀬に入る。2人で手拭いの両端を持って広げ、川原に目を凝らし岸側に向かって、一気にすくい揚げる。すると、その水の引けた手拭いの中にはぴちぴちとした小魚が沢山とれる」と。
 魚の他にも、小川や溝にはさまざまな虫がいた。生物図鑑で見ると、渕と呼ばれる水がよどんで深みのあるところにはヤマサナエ、ヒメサナエ、流れの速い早瀬にはヘビトンボやチラカゲロウ、波静かな平瀬のあたりにはオナシカワゲラというようになっているが、どれとは言えないまでもかなりの種類を見たように思う。これが加茂川になると、ますます珍しい生き物たちを発見した。
 浅瀬に入って石ころをひっくり返すと、そこに小さな水溜まりが出現する。そこには、水生昆虫から川蟹、トンボの幼虫から巻き貝のような生き物までいた。川蝦の中には透き通るようなものもいた。これらの生き物がいるということはその河なり池が清流であることを意味していたのではないか。そういえば亀もいた。
 その川では遊びもした。どこからか笹の葉を取ってきて、それで「笹舟」を作っては上流から流した。その笹舟は、速い流れに乗って遠ざかっていった。流れがよどんでいるところで立ち止まったりするものの、棒か竿の先を使って流れている方へと出してやると、その流れに乗って、また勢いよく流れていく。さすがに加茂川の流れだと思った。
 川の魚を持って自転車の荷台に載せて帰ると、家族に誉めてもらえた。それがまた励みになった。台所の手伝いをして、魚が鍋の中でぐつぐつと香ばしい香りとともに煮立っていく様を見ていた。
 珍しいところでは、イナゴ(稲子)取りがあった。イナゴは夏の終わりには成虫となる。イナゴはイネの葉っぱを食いちぎるばかりではなく、青く膨らんだ米粒も食べる。カマキリとかの天敵はいるものの、なにぶん数が多い。たぶん、1反の田圃ともなれば、それこそ数千単位はいたのではないかと思われる。稲の穂がふくらみ始めた田圃に分け入ってみると、一つの稲穂に複数のイナゴがまとわりついて、あごをさかに動かし、かじりついていることもめずらしくない。
 晴れた秋の日には、我が村々の子供達は遊びがてらにイナゴとりにいそしむ。イネの茎を下から上へ指を立てに筒状にして引き上げるとイナゴが捕まる。バッタや「スイッョウン」(そう泣くから名付けていた。)のような俊敏さはないので、捕まえるのはさほどに手間はかからない。
 袋に入れて、採ってきたイナゴは、すかさず竹串に刺していく。家の庭に七輪を出して、炭に火を点け、その上に鉄の焼き用のあみを載せて、その上に串刺しにしたイナゴを焼いていく。「ジュウジュウ」と油が出てきて、辺りは香ばしい煙に包まれる。こんがりと焼き上げたところで、新しいものと交代させて、たくさん焼く。
 祖父の指導で薪割りをする。割木の割れ口がちょうど穴にさしかかっているときなど、蓑虫(みのむし)を発見することがある。そんな時は、その穴に手を突っ込んでつまみ出してから、軽く焼いて食べる。我が家だけではなく、西下の他の家でも食べていた。そのようにしたのは、本能からであったのかもしれない。
 食べられる昆虫をせっせと取ってくる。それを家族や友人が寄り集まって、せっせと食べていた訳だが、これがまたおいしい。当時はまだ食べ物が豊かではなく、こういうもので不足しがちな動物性タンパク源を補っていた。平たくいうと、その季節になると子供が本能的が行う狩りのようなものだったといえる。

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