新52『美作の野は晴れて』第一部、晩秋の輝き    

2014-09-27 21:06:21 | Weblog

52『美作の野は晴れて』第一部、晩秋の輝き  
 
 晩秋の11月にもなると、美作の野はすっかり紅葉に包まれる。とりわけ、「里古りて柿の木持たぬ家もなし」(芭蕉)とあるように、人家に近い処に「禅師丸」などの柿の赤い実が陽の光にまぶしく映えているさまは、深まる秋の風情を感じさせてくれる。そんな、みまさかの山野に吹く風、秋から冬にかけて降る村雨(むらさめ、にわか雨)にも、それまでにない冷たさが混じり合う。
「村雨の 露もまだひぬ まきの葉に 霧立ちのぼる 秋の夕暮れ」(寂蓮法師作の歌、『百人一首』、「まき」とは、ひのきや杉のような常緑樹の葉をいう)。
 その頃、この地においても様々な楓類が、樹幹から射し込むキラキラした木漏れ陽を受けて輝きを増す。楓は新芽のときは萌えような赤で、夏の梅雨どきに緑となり、最後に秋の深まりとともに赤黄色や焦げ茶色に変わる。この頃の森は実に色彩が豊かだ。朝夕の冷込みとともに、色づいた木々が山や野を綾取っていく。木々の葉は黄色く赤く、または淡い橙黄色に色づく。葉の形も春の頃の無垢な姿から厚ぼったく衣替えした夏を経て、晩秋の頃には丸形やぎざぎざ形の葉の裏には無数のしわが刻まれている。そんな紅葉が見頃の日であったか、社会科見学かで、旭川ダム(御津郡加茂川町、現在の岡山市)と勝山の「神場の滝」を見に行った。先生方の引率で、観光バスの運転手さんに運転してもらって、学年の2クラスで行ったのではないか。
 その辺りでは、旭川がおおむね北から南へと流れている。川の東側が久世(現在の真庭郡久世町)、西側が勝山(現在の真庭郡勝山町)となっている。「昭和の初期」までは、この川を筏(いかだ)や高瀬舟が下っていた。ここみまさかを通っていた、明治期の高瀬舟の在りし日の姿はこう伝えられている。
「明治になると、運送業も商売も自由になりました。それで高瀬舟の数もふえ十二年の吉井川だけででも作州の舟数は二百隻をこえていますが、ますます繁盛しました。しかし、川底をさらえ舟が安全に通行できるようにする補修工事の予算がほとんどないため、舟路が荒れました。そのため岩や石にぶつかり破船する事故が多発するようになったと記されているほどです。」(「美作の歴史を知る会編「みまさかの歴史絵物語(9)おかいこさまと自由民権」」)
 神庭の滝(かんばのたき)は、姫新線の中国勝山(ちゅうごくかつやま)の駅から5キロメートルほど北の方に行ったところにある。深い森に囲まれるこの辺りは、夏の盛りでも随分と涼しい。滝の入口には、「神庭瀑布」と書いた立て札がある。滝は豪壮、岩がごつごつしたところを、幾筋もの複雑な水の筋となって落ちている。滝の高さは110メートル、幅が20メートルあって、西日本で最大規模のものだといわれている。神がかりの名前は、この辺りの自然には冷厳な趣に由来があるのだろう。滝のあるところ周辺には、野生の猿の姿が棲息している。日本は「八百万の神」の国で、キリスト教やイスラム教のような絶対神、唯一神への信仰は重きをなしていない。この島国の伝統的な風土では、自然は人間にとって厳しく、険しいばかりではない、その懐には優しさがある。これに従えば、動物はおろか、木や滝なども神が宿るものとなる。
そのとき、滝を見に行ったのはおまけのようなもので、主題な目的地は旭川ダム(御津郡加茂川町、現在の岡山市)であったと考えれば、辻褄があう。ダムの事務所の人に、ダム全体が見渡せる堰堤の中央辺りに連れて行ってもらい、先生以下全員でこのダムの由来とかの説明を受けた。このこんくりーとの壁でもって大量の水がせき止められている。その向こうには、なんと、「これは湖なのでは」と見紛うほど大きな、大きな貯水池が広がっている。旭川ダムの下流に住む、とりわけ岡山市の人々にとっては、大いなる「水瓶」となってくれている。その後の1964年(昭和39年)9月26日、伊勢湾台風が潮岬(しおのみさき)に上陸し、紀伊半島にさしかかるときの大雨で旭川ダムが満タンになったことがある。その時は、「川下へ放水するのにね、「ボー、ボー」とサイレンを鳴らされるんだけど、それがストップされたら岡山市が大水になる」(小橋八重子「電話交換手から局長にー頭の打ちどうし」:岡山市文化的都市づくり編集チーム企画編集「さるすべりの花にー聞き書き岡山女性の百年」1990、岡山市発行に所収)くらいのすごい水かさであったらしい。
 貯水池の向こう岸、そして周りの山を見ると、陽に面した山肌は黄色く、紅く染まって、ところどころ焔が渦を巻いている。真紅に萌えて見えるところもある。それらの葉はやがて枯れたり、雨風(吹き降りが多かった)に晒されるうちに地面に落ちるのだ。その山の上には、高く澄み切った碧い空がある。そこには白い雲が幾筋もなびいて通り、その狭間から秋の陽が、さんさんとみまさかの野や山に注ぐ。その奥の谷が狭まったところには、湯原湖と、1955年(昭和30年)に完成の湯原ダムがあって、そこにも旭川の水が堰き止められている。その旭川下流に沿って、「砂湯」で有名な湯原温泉郷がひっそりとしたたたずまいにして、訪れる人々の心を魅せている。「名物砂場」と石柱が建てられているダム下の河床は、2005年に湯原町を含む9町村が合併してできた真庭市の人気スポットの一つとなっており、川の底から毎分60リットルの湯の湧き出ているところに露天風呂が造られており、旅人でも24時間無料で入れるとのことである(12月6日放送のテレビ「人生の楽園」)。その由来は古く、1438年(永享10年)、美作国塩湯郷の国人領主後藤豊前入道沙弥貞(ごとうぶぜんしゃみりょてい)が記した「掟書」(いわゆる「在地領主の置文」)には、「湯屋造営事」及び「湯旅人役銭事」と書いて、温泉支配に係る2箇条が盛り込まれている。
 この湯原からは、そこから西北へ「伯耆街道」、次いで「大山道」を辿って大山へと通じていた。こうした地理関係から、江戸期の湯原温泉郷は、旅の疲れを癒すかっこうの宿場町として静かな人気を博していたようである。さらにこの街道から北に向かって3キロメートルほどいくと、そこには大山火山系に連なる、西から東へ上蒜山、中蒜山、下蒜山の千メートル旧の山々が並んでおり、湯原湖から流れ出る旭川の源流もこの辺りにあるのではないか。この「蒜山三座」の麓には牛の放牧、それに敗戦後に盛んになった糖度の高い「蒜山大根」の栽培で知られる蒜山高原が広がっている。加えて、真庭市全体(上房郡北房町に、真庭郡の勝山町、落合町、湯原町、久世町、美甘村、川上村、八束村、中和村の5町4村が2005年に合併)としての中心は木材産業であり、古くからの「おひつ」や、「ワッパ」と呼ばれる弁当箱の製造のほか、様々な工夫を織り込んだ机や椅子、箪笥などの木製製品の一大産地となっている。
 美作の秋で圧巻となるのは、私の知る限りでは、やはり奥津渓谷の景観ではないか。その奥津に至るには、津山駅から中国鉄道バスが出ており、国道179号線をひたすら北へとたどる。大まかには吉井川に沿う道となっている。奥津町(英田郡)の役場を過ぎたあたりから、道の両側の視界が狭まってくる。両側の山の稜線が紅く色づいている。乗り合いのバスは、さらに北上して、「奥津渓」に分け入る。この間、一時間に少し足りないくらいか。この景勝地は3キロメートルくらいの長さがある。その途中では、花崗岩を主にして、奇岩や巨岩が渓谷を彩どっている。「岡山県指定文化財(天然記念物)」の石柱が建立されている側らには、幾千年以上の長きにわたる水の流れが固い岩を穿ってできた「甌穴群」を幾つか観ることができる。そこから、なおもしばらく北上して、奥津温泉街に至る。ここは「美作三湯」の一つで、吉井川伝いの奥津、川西、大釣の温泉群を総称している。この温泉を健康的な眺めとしているものに、女性たちが吉井川の河原から湧いているお湯で、ご婦人方がピチャピチャと足踏み洗濯する習慣がある。
 ここは、藤原審爾の小説 『秋津温泉』の書き出し部分に「「秋津温泉は単純泉だから、とりたてた薬効もなく、土地も辺鄙な山奥にあるので、あまり人に知られていない。湯宿も山峡のせまい土地へわずか一町たらずあるきりで、別府や伊東のように、温泉客めあての遊び場やバーなどもない。温泉町というはなやいだところが少なく、---山峡の谷間を拓いた町にしては広過ぎる表通り、その表通りの両側へ軒々を並べた宿という宿が、いちように広い格のある古びた庭と、厚みのある白壁の多い、棟の頑丈な家なので、---むかし城下町であったような、ものさびた落着きをもっている」とある。
 加うるに、この奥津温泉からさらに北へ7キロばかり山あいの道をたどったところに上斎原村がある。津山駅から奥津を通り過ぎて、都合1時間20分のバス旅とのことである。この村は、冬場はスキーで知られる。その隣はもう県境の人形峠にて、鳥取県の三朝町に近づいている。この辺りは、三国ヶ仙、人形仙、霧ヶ峰、三カ上山と千メートル級の山々に四方からすっぽり包まれている感がある。
「朝顔は 朝露負ひて 咲くといへど 夕影にこそ 咲きまさりけり (『万葉集』巻10ー2104)」
 桔梗(ききょう)は、昔は「朝顔」とも称されていた。野に咲く花では珍しい、ききょうがやさしい紫の花をほころばせる。こちらを見てくれているようで、それはそれは心を和ませてくれる。
 秋が深まるほどに、雨がだんだんに肌寒く感じられる。その頃、紅葉の美しさを作りだしている主役が登場してくる。
「秋の夕日に 照る山紅葉(もみじ)
濃いも薄いも 数ある中に
松をいろどる 楓(かえで)や蔦は(つたわ)
山のふもとの 裾模様(すそもよう)」(『紅葉』、高野辰之作詞・岡野禎一作曲、中野義見編曲)
 「秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびをり)かき数ふれば 七種(ななくさ)の花 萩の花 尾花葛花 撫子の花 女郎花 また藤袴 朝貌(あさがお)の花」(『万葉集』、山上憶良(やまのうえのおくら)、元は漢文であるので、訳を掲載。)
 空には青みがかった薄い雲が浮かんでいたり、鰯雲が連なっているとき、みまさかの野にそれらの草花が、風にゆっくりそよいでいる。みまさか一円の、その山々の紅葉が進むにつれ、葉っぱの色は、いろいろである。同じく楓といっている中にも、黄色いものがあれば、朱色から茶色、焦げ茶色までさまざまだ。中には微妙に色が混じり合っていて、まるで絵画のように美しいものもみかける。
 そこには、かびやきのこ、苔の類も色々と生えている。土の中にはミミズやあの手を触れると丸くなる「だんご虫」もいる。それらの小動物の仲間がそれらを食べて、分解して、排泄を繰り返すことで土を柔らかくする。そのことは、回り回ってこの森に棲む小動物たちの命の養分となっている。
 森や林の落ち葉の下には、昆虫の幼虫も棲んでいる。蝶の幼虫は秋に卵からかえり、木の上で生活していたものが初冬を迎えて木を降りてきて、落葉の間に潜り込んで暖かい住処とし、成虫となるまでを過ごす。
 晩秋、こうして大地に落ちた落ち葉は自然の懐に抱かれ、千変万化を遂げてしだいに土になっていくのではないか。葉にもまた限られた一生があるのだ。

 

(続く)

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新49『美作の野は晴れて』第一部、秋の風物詩1(鮒とり)

2014-09-27 20:38:34 | Weblog

49『美作の野は晴れて』第一部、秋の風物詩1(鮒とり)

 稲の取り入れ後の秋の行事に「鮒獲り」があった。京都嵯峨野では「おいあげ」と呼んでいるらしい。西下には、「狐尾」という名の3ヘクタールほどの溜池があって、その頃は隔年か3年に一回くらいだったろうか、そこで魚獲りの大会が挙行されるのだ。
 この美作の地には、沢山の溜池が造られている。それらの開削年代は、江戸期から大正時代にかけてが多い。香川の観音寺あたりでのような灌漑用の大きな溜池は、このあたりでは塩手池を除いてはないといっていい。それでも、とりわけ、江戸期に入ったみまさか一帯では津山藩の音頭で次から次へとため池がつくられた。私の家の近くの狐尾池は大正時代の開削であって、はっきりとは憶えていない。私が成人になる位までは、そこで西下の鮒獲りが定期的に営まれていたのではなかったか。
 その日は、秋の米の収穫の終わった秋深くにやってくる。およそ1キロメートルはあろうかと思われる池の周囲は、朝早くから大勢のにわか漁師で賑わった。100人以上の人が来ていただろう。その中には、中学の先生らしき人や、中学生や高校生の先輩も来ていた。他のの人も大勢いたようだ。「オオタケを漕ぐ」人は、入場券買わないといけない。入場券を得た大人達は、その針金の部分を麦藁帽子に結わえている。
「きょうはいい日和(ひより)ですなあ」
「おかげでなあ」
 出逢った二人は、互いに見つめ合っていた。お互いに年は60代から70代前半といったところか、日焼けした顔が麦わら帽子で西部劇風にやや斜めに表れるように脚色されているようであった。そこにあうんの呼吸があるようで、旧知の間柄なのかもしれない。お互いの白い歯がむき出しに笑っている。
「先週は『鎌ぞこ』に行きましたんじゃ」
「ほお、あんたも行きんさったか。わしゃあ、大町(広げると扇状になる竹網)をちょっとばかり漕いでから、田んぼの用事があったけん、はよう失礼して家に帰ったけん、あんたとお目にかかれんかったなあ」
 ここで「鎌ぞこ池」とは、私たちのの北隣の西中地域にある溜池である。狐尾池のほか、同じ町内にある塩手池(しおでいけ、市場)、亀座池(新野東)、大土路池(西中)などに比べると、規模がずいぶん小さい。西下(にししも)内の流尾地域でなく、その東方である畑、中野(なかの)両地域の水利を賄うために開削された溜池であって、その形は(石川)五右衛門風呂を浅くしたような丸くてずんぐりむっくりの「どんぶり型」をしている。鮒取り時には、七分方くらいは池の水が抜かれて、その「かまぞこ」型の窪みが現れるところから、その名がついたのかもしれない。
「さてさて、今年もようけい(沢山)人が集まりましたなあ。この狐尾池は仰山(ぎょうさん)人が集まるけん、まるで、わしら新野村の社交場ですケーのう」
「そうですのう」
 二人の隣には、いつのまにかさらに一人のご老人がやって来ていて、二人の会話に頷きつつ、にっこりほほえんでいる。元の二人はその人に目をやってから、右手を帽子に添えて軽く挨拶をしたかのようであった。それから、又向き直った。 
「それじゃ、それじゃ。あはははは。どれ、そろそろの理事さんの挨拶があるじゃろうけん、そろそろ向こう岸の持ち場に戻ります」
「まあ、今日は楽にやってつかあさい」
 そうして、ひとしきり白い歯をむき出しにして笑い合ってから、それぞれの持ち場に去って行った。それから、ふと気がついて、もっと後ろにいる、一緒にやってきた祖父の方を振り返ると、これまた旧知の間柄なのか、さらにもう一人のご老人と話をしているのが聞こえてきた。
「・・・・・そりゃあええ、今日は晴れとるし、ここはぎょうさん稚魚を放しとるんで、ようけい獲れるじゃろうなあ。おたくはうなぎも獲ってかえりんさるんかのう」
「そこが家ですけん、せがれが日が暮れるまでいて鰻を探しますんじゃ」
 そういう祖父も満足そうで、ニヤッと笑うと、顔に「ありがとうございます」という文字が書いてあるかのような表情を見せつつ、煙草をくゆらしながらいた。
 今日の漁の開始を前に、漁具の最終点検やら、隣に陣取っている者同士で談笑している姿がそこかしこで見られた。漁具の自慢話もあったりで、大人衆が誇らしげに見えたものである。そうした光景を観つつ、自分も大人になったら、「僕もあのようにたくましい男になりたい。格好よくなれるだろうか」と、無意識のうちに将来の自分の姿を重ねていたのかもしれない。
 「鮒獲り」は、西下では、の寄り合いと代表の理事によって仕切られていた。部落代表の挨拶が土手から拡声器で響いてくる。
「みなさーん、遠路はるばるの人もふくめて、今日はありがとうございます。おかげでいい日和りとなりました。さあて、みなさん、この池には鯉を○○匹はなっとりますう。1年以上経っとりますから、そこそこ大きゅうなっとる筈です。・・・・・そういうことですけん、今日はおおいに精出してつかあさい。」
 こんなとき、長い挨拶は歓迎されない。主催者にはそのことがわかっているので、声がうわずっている。それが済んで始めの合図が下るや、「ヨッシャーアッ」とか「オーーッ」という声がまず上がる。大人達が声を掛け合いながら、池の四方八方から中央へと進み出てくる。人々はおのおの、入場証のついた極細の針金を麦わら帽子など目立つところににセットしている。今日の入場料を支払い済みであることを示している。大人たちは、四方八方から「オオタケ」と呼ばれる扇状に広がった網を構えて池の中央部へと向かっていく。それがかち合う寸前のところで、そこかしこで、男達の太い腕によって引き揚げられる、私などは、その光景を、それはそれは息を呑むようにして見守っていたものだ。
 網の中に、鯉が躍り上がる。中には、網に二匹の鯉が一遍に入っていることも目にしたことがある。それはこの新野の村の男達の晴れ舞台、といっていい。壮観な眺めである。鯉たちはピチピチはねているが、巧みに腰に付けた駕籠の中に入れられていく。もしくは、編みを引き上げて、そのひとは岸へ上がり、岸に備え付けの「生け簀」に鯉をおろす、そしてまた、池へと入っていくのをみていた。
 女衆や子供は、始めの合図があって1時間くらいしてから、入っていいことになっていた。子供のなかにはいち早く池に入って、大人に叱られる者もいた。大抵の子供はそれを心得ていて、痛いくらいにそのルールを守っていたのだと思っている。
 2時間くらい経つと、おおかたの鯉は獲り尽くされ、あとは大きめの鮒や鰻や鯰をねらうこととなる。父の網に大きなうなぎが一匹、逆立ちというか、はすがいの形でかかっていた。うなぎといえば、いつでも食べられるわけではない、貴重であった。小学校に上がってからも、いつか病弱なときがあって、どこかに父に連れられて、国道を越えて勝加茂村に入った道筋をしばらく南にたどったところであっただろうか、うなぎの養殖場にうなぎを買いにいったことがあった。その頃の山間の村人にとっては、貴重なタンパク源であったのだ。
 大人たちの動きや喊声が一段落する頃、私のような子供と女衆の出番となる。鮒には、エラブナ、キンブナ、ギンブナ、ゲンゴロウブナ、ニゴロブナなどの種類があるそうだが、自分ではどれだか区別はついていなかった。大抵の子供は小さな網を持っていて、それを使って鮒の仲間や、どほうずや子蝦、タカハヤやメダカの類いを捜した。といっても、大人衆の邪魔になってはどやされるから、ひたすら浅瀬を中心に行ったり来たりで、辛抱強く漁を続けなければならない。
 総勢で百人はいるのでは、かと思うくらいの人間があくせく動き回るせいで、漁の開始から1時間もすれば池の中はどろどろの泥水になってしまう。水に溶けている酸素の欠乏で魚たちは呼吸が苦しくなり、あぷあぷ溺れて、湖面に口を出してくる。水面には魚の口が品評会みたいに沢山浮かんでいる。みんな、息が苦しいに違いない。池の水際の狭いところに、沢山の口が押し寄せる光景は、見方によると、異様でもある。女の人や私のような子供は、手網や米をとぐときの「そうき」や「手網」でそんな状態の魚をすばやくすくい獲るのだ。
 獲った鮒たちは、腰にぶら下げている「魚籠」の中に入れていく。釣りでも、大物釣りを狙うものだが、それは当たっている。その中には、7、8センチメートルから10センチメートルを超えるものもいた。こちらは元気がよくて、最後の力を振り絞るのか、両手で掴まないと、また水の中にこぼれ落ちてしまう。なんとか掴んで魚籠の中に入れ終えた時には、思わず「やった」と心の中で快哉(かいや)を叫んだものだ。
 やがて夜のとばりが落ち始める頃には、ほとんどの人は一日の漁を終えて家路につく。さすがに疲れる。しかし、ガス燈や懐中電灯をぶら下げて岸を歩く人もあった。それが、池を見渡せる我が家の庭から見て取れる。我が家のこの一日の収穫は、多い年は、鯉が3尾も底の深いバケツの中に収まっていることもあった。家に帰るや、いよいよ調理を開始。祖母と母は、鮒や川蝦などはそれらを水洗いし、大きさによって振り分けた。それからきれいな水を入れてあるバケツにかれらを移して、もう一度泥を吐かす。その上で、今度は家の中に持ち入って、鍋に入れ、調味料や薬味の山椒などを入れ、小さいものは煮込んでいく。白い川蝦は煮込むと、焚き具合が気になって鍋蓋を開き、中身が紅く色付いていくのを確認するのが常であった。これが、一度食べたらやみつきとなる位に、誠においしい味がすることを知っていることから、時には途中で2つ3つつまんでは味見していたに違いない。
 持ち帰った鮒や小魚は、母と祖母、兄と私の四人がかりで獲ったものだから、かなりの分量となっている。ちなみに、祖父は、魚を獲るのを観たことがない、静かに池の淵からやや離れた処に経って、人と話したり、時には「しんせい」と呼ばれる安価なたばこをくゆらしつつも、全体として涼しげに前に広がる風景を観察しているようなのであった。
 さて、家での作業に戻ると、まず大きなバケツに入れて泥を吐かせておく。しばらくすると、かれらを「そうき」に次から次へと採り上げて、はらわたや浮袋などの臓物をとって「しょうやく」しなければならない。「かど」に水の入った小さなバケツを置いて、とってきた魚を出刃包丁でさばいて、臓物をとり、水で濯いでおく。大漁だと、なかなか手間がかかる。それに、鮒でも大きいのが穫れていることがあって、其の時は念入りに包丁を入れていた。それが済むと、小刀で竹を削って作っておいた串に刺していくと、これが焼き鳥屋の仕掛けのような案配となる。
 こうした前処理が終わると、ようやく「あぶり」にとりかかれる。大量の魚の「しょうやく」をこなすために、我が家の2つの七輪だけでは足らない。その他に、傍らでは、庭に煉瓦を「コ」の字型に囲って、大きめの区画を作る。その中に、沢山の消炭を座敷のような案配になるよう入れている。そこにまずは炭に火を付ける。火の付け方は、「こより」状に丸めた新聞紙でこちらの方でも火を付ける。七輪は仕上用に使うことにしていた。大きめの区画に炭が焼けると、その「コ」の字に沿って魚の串を橋渡していく。団扇で風を送りながら頃合いをみてひっくりかえすというか、くるくると串を回してというか、炭の上で櫛に刺した魚を焼いていく。魚たちは、掌(てのひら)でくるくると裏返しにしながら焼くと、焦げにくいのだ。
 火の管理は、日頃の竈の管理や風呂焚きで手慣れていた。火勢が強くなるとそれにあおられてか、あれよあれよという間に魚が黒こげになっていくので、火箸で火を少し「コ」の字の開いた方へ掻き出してやらねばならない。それとは逆に、火の様子を見つめていると、弱くなる時がある。その時は、まんべんに焼けなくなってしまうから、新しい炭を火箸で掴んで火勢の衰えた処へくべたり、側面の口から団扇で風を送ってやる。新しくくべた炭が熾(おこ)ってきている時には、時折、「シューッ」と小さな火柱が上がる。チリッチリチリと鳴り出したら七輪の上に金網をしき、次から次へと焼いていく。火の勢いが強くなっているときには、こちらの額も熱々で、魚の脂の入り混じった煙がもくもくとあがってくるので、目の方も沁みて痛くなっている。あれやこれやで忙しい上に、作業中は片時も持ち場を離れる訳にはいかないのだから、楽な仕事ではなかった。
 どうやらこうやらで、七輪での焼きの仕上げを含めて、夜の8時くらいまでには一応全部を焼き上げたようだ。串焼きの鮒については、この夜の作業の後も、又日を改めて、もう一度七輪にかけて焼くことになっていた。途中で天井から吊して天日で乾燥させ、それからまた焼くことで臭みがだんだんに抜けてゆくのであった。都合2回の焼きが済むと、やや大きめの亀(陶器)に酢入りの醤油に付けて入れ、保存食にしていた。これと似たような話が、私とほぼ同世代の中原丈雄さんの随想「やっぱり塩鯖」のさわりの部分に記されていて、そこには「・・・しかも僕の出身は熊本の人吉という、鹿児島と宮崎の県境ぐらいのちょうど山の中で、名かなというとずっと川魚だったんです、親父が釣り好きで川に釣りに行っちゃあ、釣ってきたものを串にさして火鉢で乾燥させて、家の中に吊していました。非常食にね。食べるときは番茶で煮て、お茶で煮ると川魚の臭みがなくなって骨まで柔らかくなるんですよ」(東洋水産さんのパンフレット「おさかなぶっく」2015春号に所収)と、先人の知恵を紹介しておられる。これをいま読ませてもらって、私の故郷でも栽培していた「番茶」で煮ると、臭みが抜けるだけでなく、骨まで食べられるようになるとは、一度も聞いたことがなく、今更ながらよいことを学んだ気がしている。
 天然の鰻(うなぎ)や鯰(なまず)は特別扱いで珍重した。父が40センチメートルを超えるような鰻を捕って帰ったこともあった。其の時は、父の赤銅色の顔が夕焼けに照らされていたように見えたものだ。その心は、西部劇で父親が漁に出て、その還りを留守を守る家族が待っていて、何十日か経った後、ついに獲物を馬の背にぶら下げた父親が我が家にしとめた獲物を持ち帰ってきたとき、母や祖父母、そして兄弟などと一緒にその父を迎えるのにどこか似ていたのではないか。
 池や沼に棲む鯰は「泥臭い」といわれていたが、我慢できないほどのことはない。うなぎよりさっぱりした味がして、これもおいしかった。これらの鰻や鯰の場合も同じように調理するのだが、こちらはいやが上にも力が入る。両方とも、父が2枚にしてから七輪(しちりん)にかけてあぶった。まずは炭に火を付ける。そして、「しょうやく」が済んだ鰻と鯰を金網に載せ、七輪の火を調節しながら、その金網の上に鰻や鯰をのせる。団扇で景気良くあおいで火力を増してやると、やがてじゅうじゅうと脂が出てくる。その脂がポタポタと炭の中に落ち始めるともう仕上げだ。焦げ付くと風味も落ちてしまうから、早めに器に移したものだ。
 鰻や鯰の食べ方は、名古屋辺りの三様の食べ方ほど凝ってはいないが、その中の「ひつまぶし」による食べ方とやや似ているようだ。どんぶりにまずご飯を中ほどまで入れてもらう。その上にぶつ切りの鰻なり鯰を入れる。さらにその上にほかほかのご飯を入れ、醤油を少々注ぎ、さらに自家製の番茶をたっぷりとかける。醤油がご飯になじむ頃、鰻の脂が小さな泡となって茶の湯の表面に浮かんでくる。それまで待つことが大事だった。一椀のご飯を食べる間だに具を少しだけ食べる。そして次のご飯を足してもう一度脂の汁に浸して食べる。こうすると3回くらいはおかわりが出来た。
「お母ちゃん、おかわり(ちょうだい)。」
「よしよし、いま注いでやるけんなあ(あげるからね)。ちょっとまっとれよ。」
 母が、ご飯の入った「おひつ」をたぐり寄せるようにして、お代わりの茶碗に盛りつけをしてくれる。
「泰司はよう(よく)食べるなあ、よっぽど鰻がすきなんじゃな。そうじゃ、わしのもたべてみい」
祖母が笑って、ちょうど余っていた鰻の一切れを私のどんぶりに入れてくれた。
「ありがとう、おばあちゃん。これでまた何杯もご飯が食べれるけん」と、自分の顔がうれしさと期待感で紅潮しているのを自然に意識しながら、腹一杯たべさせてもらえる幸せ感にも酔っていたのではなかったか。
 さっそく、それをどんぶりに入れて、ご飯に少し醤油をつぎ足してもらい、熱い自家栽培の番茶を注いでから、しばらく待つ。脂分が油の表面に浮かんできたら、できあがりとなる。それから、またご飯を汁ごと口にかき込んだものだ。ご飯をたくさんおかわりすることで叱られたり、たしなめられたりすることはなかった。感謝すべきは一度も欠かすことなく一日に3度のご飯が腹一杯に食べられることだった。いま想い出すと、そのときのありがたさが今更ながらこみ上げてくる。
 今ひとつの鮒取りで獲り上げた魚の食べ方として紹介したいのは、その日の晩ご飯のおかずとして、鮒とかの小魚を母が甘辛く煮てくれていた。山椒の葉や丸い小さな実も薬味で入れてあって、その分、こうばく香ばしくなっていたのかもしれない。これをあったかなご飯の上にかけて食べると、とてもおいしかった。人は、「今が旬」のおいしいものを食べると、えもいわれぬ幸福感に浸れるというが、私たちの山間の地でも、海の魚を食べるのは常でなかったものの、河や池、沼の魚たちは、おいしくいただいてきたのではないだろうか。熱々の煮物をいただくのも結構だが、魚の煮物は冷所で一晩寝かしておくと、煮こごりの状態になり、これをまた炊き立てのご飯にかけて食べるのも美味しかった。コラーゲンのようなつるつるのゼリーのようになった魚の油が、ご飯の上に載せるとご飯に沁みて、あたかも「たまごかけご飯」のようなあんばいになってくれる。

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新48『美作の野は晴れて』第一部、実りの秋2(籾すりと麦植え)

2014-09-27 18:48:50 | Weblog

48『美作の野は晴れて』第一部、実りの秋2(籾すりと麦植え)

 籾として収穫したものは、家に持ち帰って天日干しを繰り返した後、十分に乾燥したところで、好日を選んで、我が家の庭で籾すりの機械に掛ける。それは2日か3日にも渡る日作業を2度くらい繰り返すことによって、行われる。重要な農作業の工程である。現在は、多くの農家が農協の「ライスセンタ」なりにまるごと依頼して行ってもらっているようだ。当時は各農家で作業を行うのが主流であって、それが無理なときだけ、地域によってはの共同でしたり、農協に持ち込んでお金を出して依頼していた。
 その頃の我が家では、家族で籾すりを行っていた。家(うち)の精米は、おそらくはで共同所有している籾すり機械(精米機)が順番で回して使っていた。小学校の3、4年生くらいまでは、その機械は、長くて大きな荷車に載せ、南の笹尾地域の方角から大勢で引いて来てくれていた。おそらく、運搬を手伝ってくれたのは、前の順番の人の手助けであったのだろう。4年生頃からは、籾すり機もぐんとコンパクトなものに変わって、の大人衆が1トン積みのオート三輪で運んできてくれた。まことに有難い。
 私の家の前に急勾配の坂がある。そこを荷車で引き上げるときは子供も手伝った。何しろ、その機械は長さ2メートル、高さも人の身長くらいは優にありそうな代物であるから、長い長い荷車に一杯に乗っかっている。それを笹尾(ささお)とか、西下の別の地域から運んでくるのだから、何人もの人手が必要である。人力でみんなで前から引いたり、後ろから押したりして、ようやくにして、家の広い庭に着くと、それをむしろをしいた上に総掛かりで引っ張り降ろした。これで、設置が完了した。
 父が、さっそくベルトを介して、籾すり機械の動力を導入するローターに届く距離に発動機をセットする。発動機に燃料が充填されていて、籾すり機側にベルトを噛ませたら、いよいよ始動にとりかかる。父が発動機のハンドルを回してエンジンに助走を付ける。
「プスプスプス」と気のないような音で、なかなか自動回転につながらない。そのうちに、油のにおいが漂ってくる。やがて、脱穀の時と同じように、何回かクランクにつながるハンドルを回しているうちに、発動機が「ドムドムドム」と動きだす。父は、出力の具合を調整して、それが規則正しい動きを見せるまであれこれと発動機をいじって、調整する。動いているベルトにグリスをすりつけて滑りをよくすることもしていた。これだけの準備ができたら、「よっしゃあ」ということで、籾すり機の駆動部分にひっかけているベルトを引っ張ってきて、それを発動機にも噛ませる。すると、二つの機械が連結されて、籾すり機が「ゴオッ」という音をたてて、動きだす仕掛けになっている。
「さあ、今日の仕事の場の始まりだ」ということで、籾すり機が動き出すと、しばらくは負荷をかけないで、「空運転」を行う。機械の調子がよいのを見計らってから、運転レバーを開ける。機械に負荷がかかり出すと、籾溜まりから籾を掬ってきて、ホッパーから投じていく。この籾すり機というのは、籾をゴム・ロールを摺って、玄米と籾殻に分けて輩出させる機械である。実際の作業では、「シイナ」といって、籾すりされなかったもみや、実の入っていない殻だけの籾も、籾殻とは別の排出口から出てくる。そいつは、もう一度ホッパーに戻す作業してやらなればならない。
 籾すりの機械はなかなか複雑な構造になっていた。連日の日干しでその籾は適当な湿度(適正な水分値)に調整されていることが必要である。その乾燥された籾が機械の中を循環していくうちに、籾殻が剥がされることになる。中心部は見えないものの、どうやら二つのゴム・ロールの間をすり抜けるとき、籾殻が摺られる(つまり外面を覆っている殻が剥がされる)。玄米は、機械のき吐き出し口から放出される仕組みとなっている。
 この機械の吐出口の下に「千通し機」ないし「万通し機」を取り付けてある。その器具は「ビン線」(ステンレスの鉄線が斜めに沢山通っている、金属を平衡に張った台)を通して、籾すり機にかけられた玄米をくず米や小さ過ぎる米粒を最終的に選り分ける。粒の小さいものは、びん線の上を走る間にその糸下に落ちていく。糸の上を滑り落ちた米粒は下敷きの「むしろ」の上にどんどん溜まる。ちなみに、自分の中心的役割の前半部分は、その溜まってくる玄米をブリキの「そうき」ですくい取って、10升(1斗)枡に測って入れることであった。
 その10升(1斗)枡が一杯になると、私は仕事の後半の部分にとりかかる。それは、なかなかの力仕事だといわねばならない。その一升枡を両腕に抱えて玄米を、家の土間の奥の板間に運び込むのだ。その板間には、むしろが敷いて、戸を閉めて、端がむしろでせり出すようにしてあった。こうすると、際がせり出しているので、沢山の玄米が入れられるようにしてあった。これを運ぶには10升(1斗)ますを使った。ビンセンの前で、籾すりした玄米が流れ落ちてくるのを鉄製の「そうき」で掬っては入れ、掬っては入れて、そのますを満杯にする。ところが、玄米をすくい上げてはますに入れていくと、最後はどうしても凹凸が生じて、ますの隅々まで平等な高さにコメが行き渡らない。そこで、「ます掻き棒」を両手にとり、ますの上面に棒を渡してから、手前から向こうへとさっと移動させて、表面をならして平らにする。それだけのことをしてから、そのますを体全体で包み込むように抱き込んで立ち上がり、家の中のその置き場所へと運んだ。その1斗ます(容積は約18リットル)には15キロくらいの玄米が入っている上、「風袋」としてのますもなかなかに重い。全部で17キログラムの総量であったのではないか。
 籾すりの現場と板間との間は10メートルに満たない。その距離を移動する。途中、庭から縁を通ってその部屋に行くときには、段差というものがある。その段差には広い幅の板が渡してある。そこに「むしろ」を敷き、その上を上り下がりする。その時には、余分に負荷がかかる。その往復を機械の運転が止まるまで、延々と繰り返す。一往復するたびに「正」の字を一本ずつ描き込んで精米量を記録していく。そのときは脱穀のときほどにはかゆくない。とはいえ、だんだんに疲れて、だんだんと足取りがふらついてくる。だから、板を上るときにはことさら油断は禁物である。足腰にしっかりと力を入れておく。幸い、足は丈夫なので、助かる。
 昼の休みは僅かしかない。昼ご飯を済ませて一息入れると、早々と又田圃に出かける。午後になると、朝早くからの仕事の疲れが出て、さすがに作業のペースが幾分か落ちてしまう。それでも、機会の早さに合わせて働いていると、はや陽は傾き始めており、そろそろ今日の予定を済ませなければならない。此の分では、今日はもう当座の後片付けをして、おそらく明日も、この作業を続けることになると、父と母が話し合っていた。
「夕焼け小焼けの 赤とんぼ
追われて見たのは いつの日か
夕焼け小焼けの 赤とんぼ
とまっているよ 竿の先」(作詞は三木露風、作曲は山田こうさく)
 夕方には西の空がだんだん茜色に染まってくる。すると、カド(庭)のあたりもまた薄紅く幻想的な色に染まる。その中をトンボたちが乱舞している。シオカラトンボ、その雌のムギワラトンボたちだったと思う。北へ北へと長距離移動するウスバキトンボ(精霊トンボ、盆トンボの異名を持つ)もいたかもしれない。
 人の手が加えられている田んぼの畦には、ハッチョウトンボの雄が飛んでくる。亜大きさは2センチ足らずしかない。近くに、焦茶色とクリーム色のまだら模様の雌も見かける。
浅く掘られた水路にも、田んぼにつながる雑木林や棚池にもいて、それぞれの種類のトンボで群れを作っているようである。夕陽に染まっているので、本来持っている色ではなかったのかもしれない。時折は、水玉模様のアオモンイトトンボも飛び交っていた。
 人家のあるところでは、普段は狸や狐、いたち、うさぎといった中くらいの大きさの動物たちは見られない。それでも、狸が一度だけ我が家の庭に現れたことがある。
「しょう しょう しょうじょうじ
しょうじょうじの庭は
つつ月夜の みんなでてこいこいこい
おいらのともだちゃ ぽんぽこぽんのぽん」(野口雨情作詞、中山普平作曲。なお、証証時寺は千葉県木更津市内にある寺)
 秋は、自然の実りが隔年で変わっていく。その年の山の実りは、ことのほか多かった。きのこ取りはその最たるものであった。マツタケ、ヒラタケ、マイタケ、ホンシメジ、サクラシメジ、アミタケ(ズイタケ)、ハツタケ(アイタケ)、ヒラタケ、クロタケといろいろあった。キノコたちは松の柴の間から沢山帽子を出していた。きんもくせいが橙色の花弁を地面一杯に落としている沢の辺りにも行った。ツキヨタケやテングタケとぃった毒キノコは森の奥の涼しい所で光っていた。雑木林のなかをかき分けかき分け、右へ左へ縫うように歩きながら、それを夢中でびくに入れたものだ。
「泰司、どこまでいっとんたんじゃ、ようけいとれたか。」
「うん、裏の方から天王山(てんおうさん)の近くまでのぼってなあ、そこから西ん谷(西の田圃の奥にあった。)に降りて戻ってきたんじゃあ。」
もっと近づいてから、
「ほうれ、ようけいとれたで」
「どれどれ....。おうおう、ようけいとってきたなあ。えらい、えらい」
そして、祖母と母に披露してもらった。
「おじいさん、見てやりんさい。泰司がズイタケ(アミタケのこと)やら仰山採ってきたで。」
「どれ、見せてみい」
祖父がおもむろに近づいてくる。
かごの中を見せると、
「ほう、ようけい採ってきたのう・・・・いろいろあるがな」 
と祖父がほめてくれた。
 山の中に分け入ると、バリッ、バリッと足元ではぜる音がしている。あちこちにシイやコナラやクヌギといった木々から落ちたどんぐりが、豊作の年にはじつに多く地面に転がっている。我が家の後ろの山から分け入っていく。その雑木林で一番収穫の多いのはアミタケである。それは、松柴や落葉の間に沢山生えていた。傘の部分にぬめりがある。傘の裏側は漁師の網のように細かい穴が開いている。
 竹籠に入れて持ち帰ったきのこは、新聞紙の上に広げ、傘の部分に付着している柴なんかを剥がしたり、根っこの石鎚をとり除く。その作業のことを「しょうやく」と呼んでいた。なかなか根気のいる作業だ。それからそうき(ステンレス製の網容器)に入れて、冷水でもみ洗いを施す。こうして料理の具材となったアミタケは、混ぜご飯の具となっても、みそ汁に入れられても、おいしくいただける。味は淡泊ながら、柔らかい舌ざわりとズルズルという喉越しの感覚が残った。
 ニオウシメジは西の田圃の奥のひんやりした林の中に生えていた。西の田圃の奥まったところにある林に群生していた。これはなかなか上品な味がした。何が毒きのこであるかを教授された覚えはない。途中ではナツハゼの黒い実やぐいびの実を採って食べたりした。親や村の兄さんたちの後をついていきながら、自然と覚えていったのだと思う。
 一番の目当ての松茸はめったに採れなかった。森には、杉(最近では、クリプトメディア・ジャポニカと呼ばれる樹齢40~50年のものが輸出もされているらしい)や檜の類を植林してあり、その辺りには松茸は生えてこない。それでも池の西側の松林で村の友達と採ったことがある。松の葉は顔に触れると痛い。顔にかかる枝をはらいはらい進んでいくと、目の前に赤松の林が現れた。マツタケのある橋よはフワフワした土壌をしていた。鎌の先で根っこの柴の盛り上がったところを探していく。白い菌糸がたくさんあるようだと、その辺にあるかもしれない。
 そのまま、あきらめずに30分も探していると、やがて親指ほどのマツタケが2本見つかった。「やったあ」 と心の中で叫んでいる。小さな体に喜びの衝撃が走ったものだ。一つあるとその周辺にいくつもある。だから、ひととおり探り終えるまでは友達に聞かれるような大きな声はたてまいとした。
 一人が採れたと知ると、友達が嗅ぎつけてやってくる。
 すると、柴や小枝が地面を覆っていて、その上を白色の菌糸がふかふかに生えている辺りに、次のが見つかる。というわけで、みんなの目は光りを帯びてくる。期待感で心が膨らみ、気が焦る。
「すごいなあ、ここに小さいのがある」
「この辺にあるで、大人の秘密にしとるとこかもしれん」
「さあ探せ!」ということで夢中で鎌の先で表土を剥いだり、手で地面を引っ掻いていったものだ。
 辛いこともあった。あれはいつのことだったか、祖父と池に出かけた。生まれて間もない、まだ目が開いていない子犬4、5匹を捨てにいった。その前は、「しろ」という名を付けた犬を飼っていた。我が家の「しろ」が死んだ後、二代目は「エス」といった。「エス」に朝と晩のご飯をやる仕事は私の担当だった。糞の世話も初めの1年位は真面目に取り組んでいた。しかし、そのうち忘れがちになってきた。散歩も時々になっていく。犬小屋の周りが糞だらけにになっているのに、片付けてやらない。母はその一部始終を見ていたらしく、「おまえはいったい何をしようるんか」と、いつになく厳しく叱られたことがある。
 大きな籠を抱えて、祖父の後ろに付いて池に着いた。手提げ籠にはエスの生んだばかりの子供達が、みんなかわいい顔をしてい。父親はどこからかやってきた野生の犬であったろう。いま省みれば、かわいそうなことをした。犬の赤ちゃんたちはしばらく浮いていたが、やがて泡とともに沈んでいき始めた。彼らの目が見えていないことが、こちらにとってはせめてもの救いとなる。それからは、眺めているのが忍びなかった。私は、早々と踵を返して元来た道を戻っていく祖父を追いかけて、後ろを振り返り、また振り返り、後ろ髪を引かれるような思いで、足早やにその場を去ったのを覚えている。
 秋の取入れが終わると、ほっとする。これでしばらくしんどい目をしなくていい。これで、今年はもう危険な目に遭わないでいい。仕事から解放された安堵感ひとしおであったことは否めない。それからは、一家総掛かりで、稲作の済んだ田圃に素手で牛藁糞を撒いた。その後に父が牛や機械を使って耕し直して、今度は麦を植えることもあった。アンドレ・ジッドの小説『一粒の麦もし死なず』のあの麦である。
 麦の種の植え方は、まず鍬を使って田圃の中に沢山の畝を作る。鍬を使うときには、脚を踏ん張らってやらないと、勢いがついているので危ない。一通り畝を作ると、その上にそこの平たい鍬で、右左と交互に土を削りながら窪みを作っていく。それが済むと、その上に種をパラパラとまいて歩く。随分と根気の必要な作業である。もっとも、我が家で麦を植えるのは数ある田圃のごく一部、1枚か2ま枚のたんぼだけであり、我が家で消費する麦の大部分は畑作で栽培していた。
 脱穀の終わったばかりで田圃に入ると、田圃には「なる」と「はでやし」が残されている。これを、私の家の西の田圃、その中に「おおまち」と呼ばれる1反4畝くらいで、我が家で一番大きい田圃があった。その側抗面にブリキの屋根を造ってあるので、その保管場所まで運ばないといけない。西の田圃のさらに奥の傾斜地にある「中ん谷」の田圃からは200メートルはある。のため、そこまでの道のりを「なる」を両肩に1本ずつ、合わせて2本担いで行き来するのが母や私たち子供の仕事となる。私の肩はおじいさん似でなで肩のため、「なる」がうまいこと肩骨に定着してくれない。ともすれば、肩からずり落ちそうになる。それを腕で引き上げながら平衡間隔を保つのがコツだった。
 「はでやし」は、父が束ねたものを肩に担いだり、一輪車に載せて運んだ。中ん谷だけで10何往復くらいの仕事量がある。しまいには、肩が痛くて手ぬぐいを荷物との間にかませ、かませやっていた。実に大変な作業だった。
 それでも空便で田圃に向かう途中では、細い道の草花を観察したり、手でふれたり、途中の小さい池に垂れ下がったくぬぎの枝先に、丸いどんぐりが実っている。

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