54『美作の野は晴れて』第一部、村祭り2
やがて、祭りは神事の最高潮に入っていく。驚くべきは、御輿にも格の違いがあることである。山形の御輿を先頭に各の御輿は連なって、縦に連結して、今度はゆるやかな足取りで式の行われる神域へと進んでいく。そこに近くなると、周囲の見物側からのかけ声も大方消えて、御輿を中心とする各の一行はしずしずと本殿の中に進んでいったようである。
その参道は、あの鎌倉の鶴岡八幡宮の参道を進んでいくのと趣が違う。かたや向こうに内陸、かたや海を背にしている。相当に異なるが、参道わきの松林が霊験あらたかな雰囲気を作り出しているのは共通している。神社には昔から秘事もつきまとう。新野の祭りをとりしきる、何人かの神主さんたちは予め決まっていて、私の親戚のおじいさんもその一人で、神主の役割を世襲していた。その意味では、片田舎の一地方の祭りには違いないが、由緒ある祭りの体裁が整っている。
鎮守の奥まった所に社があって、その前が祭場ということになる。床几についた各の御輿は、そこで白装束の神主さんたちの神事を受ける。まずは「神迎え」といって豊穣の神の来臨を仰ぐ。神はどこからやってくるのか。既にそれぞれの御輿の中に宿っているとも考えられるが、ここの神事場にかれらを迎える神がいても、話としてはおかしくない。たぶん、その迎え役の神は、「高天原伝説」(現在の宮崎県)と同じように、天から降臨してくるのだろう。神が鎮座されると、さまざまな祝辞を奉る。つまり、神座に置かれた御輿7体の前で、総鎮守である山形八幡神社の宮司を筆頭に、神主らによる祝詞がその神々に奏上される。
この席には、供物もある。その中で異彩を放ったいたのは、御神酒(おみき)である。正式には、酒の古語である「き」に「み」がまずつき、さらに「お」がついたのであるから、「御御酒」となった。これをひょうたんの形をしたお銚子に入れてある。「かしこくも」この地上に「降臨された神々」の神前へと進み、平べったい器に注いで捧げていた。その酒を神に給仕する女性がいたかどうかは、想い出せない。
数人の神主さんたちは、白装束に身をめつつ、頭には白色の烏帽子を被っている。見物客の最前列まで進み出て、神事の有様を見ていると、体の中央に白い紙を束ねた竹など右へ左へと揺らしている。神主さんが白い飾りを右へ左へ振りつつ、口の中でなにやら呪文のような文句を唱えていたのは、たぶん、「はらいたまえ、きよえたまえ」のおはらい、つまりみそぎの行為である。風を起こして、さまざまな汚れを川から海へ、海から地の底へと追い払うことをしていたのだろう。ここで「祭る」とは、民族学者の柳田国男によると「まつらう」ことであり、その「まつらう」とは精進潔斎(しょうじんけっさい))をして、神に供物を捧げることである。さらにひもとけば、神に飲んでもらい、食べてもらう「祭る」とは、タミル語の最古の歌集サンガム(紀元前200年~紀元200年に成立した)にある「マツ」と同じ意味だといわれている。
そこには西洋のような神との契約の考えは見つけられない。といっても、正式な契約の代表格とされるのはイスラム教の方であって、キリスト教は少し違うようだ。とはいえ、キリスト教の前に成立したユダヤ教では、ヤハウエが天地創造の、唯一絶対の神となっている。時代は、ラメセス2世(エジプト第19王朝、紀元前1270年頃即位)の後を継いだメルエンプタハが王の座にある頃だろうか、旧約聖書の「出エジプト記」にはこんな下りがある。映画の「ベンハー」にもこの場面が出てくる。
『旧約聖書』に「あなたは他の神を拝んではならない」(第34章14節)とある。つまりは、シナイ山上でヤハウェがモーゼに迫ったのは、ユダヤの民がこの災難をくぐり抜けるためには、従来のユダヤの民が多神教であったのを改め、ヤハウェを唯一絶対とする一神教をとりなさい。これは、もはや命令である。他ならぬヤハウェ自身が、自分の他にも神がいる世界、神々の世界を認めている。いうなれば、神が人間を選んだのではなくて、人間の方が神を選んだことになっている。これがユダヤ教の成立の要諦に他ならない。
これに比べて、日本の「八百万の神」(やおよろずのかみ)は西洋や中東のような絶対神ではない。太陽神が空腹になると凶作になることから生け贄を捧げる風習のあったインカ文明(こちらもモンゴロイド)とは、少し似ている。日本列島の自然とその移り変わりは、そこに住む人間に対して概して優しい存在であった。だから、この国には唯一の絶対者としての神が育たなかった。自然と調和する神と一心同体になることによって清らかな心と体を手に入れ、そのことによって幸せになれるという考えに基づく。
一通りの神事が済んだあたりから、祭りは余興というか、その場に集う大衆に主役が移り、食べ物や玩具などの屋台がひときわ賑わいを見せる。私たちもまた遊んだ。午後の2時頃には早々、帰りの準備にとりかかる。御輿とともに、元来た道を帰るのである。西下の神社についたら、幟をはずして元の場所に戻し、帰途についた。
家に帰ると、親戚のおじさんやおばさん、祖父安吉の妹である佐桑(勝田郡勝央町豊久田に嫁いだ)のおばあさんらが集まっていて、遅まきながら、客のみなさんに挨拶して回らないといけない。それが済んだら、子供はお客さんに給仕をしてまわる。ビールや酒を熱燗にしたものを持って行き、いちいち正座をして「泰司です」と挨拶してまわる。話がはずんでいるようだと、お銚子やビール瓶を捧げ持って、目が合ったりして、アルコールを差し上げる時を待たないといけない。
「どうぞ、おひとつ」
といって、酒徳利とビールを取り替え取り替えしながらアルコールを注いでいくうちに、「おう、泰ちゃんか。幟を担いで、御輿と一緒に神事場にいっとったんか」と言ってくれる人があれば、「泰司か、手が震えとるぞ。おまえ、「金玉」はちゃんとついとるんか。ちょっとみん間に、大きゅうなったなあ。お父ちゃんやお母ちゃんのいうことをちゃんときいとるか。いい子をしとるか。酒はそこへおいとけ」などと、赤くなった顔でいう人がいた。
それでも「はい」とか「そうします」 とか、おべんちゃら(お世辞)を言って応対しないといけない。他にも、「勉強はちゃんとやっとるか」、「なんで顔が赤うなっとるんか」などと、なかなか、疲れる話があったりした。あるいは、「おばちゃんたちに言うてなあ。もっと酒を持ってこい」としかめ面で言う人もいた。こんなときは「すみません。直ぐに持ってきます」と言って、お辞儀を繰り返しつつ引き下がるしかない。
概して、おじさん連中は威張っているので嫌だった。そこで出来るだけ早く挨拶を切り上げて、台所の近くの、普段はちゃぶ台の置いてある部屋へと移動する。祭り時、そこは膳を整える間になっていた。そこでは、おばさん達と話すと、「たいちゃん、久しぶりじゃなあ」などとあれこれと近況を聞かれたりして、かまってもらえる。これでやれやれ一息つける訳である。そうこうする間にも奥座敷では祖父を中心に酒盛りの最中であった。
祖父は息子達や親戚縁者に囲まれて、ご機嫌で楽しそうだった。当時の普通の農家にとって、酒はまだ庶民にとっては高嶺の花で、どこかよそで「ふるまわれる」とき以外は口に入らなかったといってもいい。親戚やその知人でみえているみなさんも、話の合間には自慢話も出ているのであろうか、何となく、さわやかに活気付いているようであった。
あれは、いつの祭りの時であったろうか。家での宴たけなわの頃、父の兄弟たちは互いに肩を組んでなにやら歌を歌っていた。それを見て、子供ながらに「いろいろあっても、おじいさんは幸せだな」と感じた。それからおよそ30数年、晩年の父も「父さんの今の望みは何かな」という僕の質問に対し、「そうじゃなあ」としばらく考えながら、やがて「毎日ビールを一本飲めるようになりたいなあ」と言っていた。
「なるほど....、そうかもしれないなあ。」
私の溜息の中には、父の本音を引き出した喜びと、これまで何もしてあげられない自分のもどかしさが交錯していた。戦争から帰った父は自分の身に覚えのない借金を背負わされて、私が中学の頃までは返済のために働かねばならぬ立場にあった。あれは小学校の4、5年生のときだったろうか。じりじりとむし暑い日であったか、白昼に庭にいると、父がどこからか急ぎ足でやってきて、庭の端に置いてある、農薬の入った樽から、中のものを飲もうとしかけた、私の目にはそう見えた。瞬間、私の意識は氷ついた。最初の緊張が解けると、今度息が苦しくなった。瞬間的なことで、目をそらしていたなら、その一瞬の光景を見ることはなかったに違いない。父はなんとか思い留まったようだったが、私の頭の中は凍り付いて、働くのをやめた。その時の赤鬼のような形相は、いまでも私の瞼の裏に焼き付いて離れていない。
今思うと、当時の大人は、ああいう楽しみがあったからこそ、人々は、日頃の苦しい労働に耐えることができていた。祭りは、年に一度の新野村全体の神事であるとともに、新野村民にとっては、お互いが共通の神の加護をうけていることを確認し、ともに収穫を喜び合うための社交の場であったのではないか。
一応の挨拶や用事が済むと、女の人たちも私のような子供も食事をとってよろしいことになっていた。台所のそばの祖父母の部屋か、納戸部屋の端で、裏方のみなさんに混じって、私にも膳を一つ用意してもらっていた。子供でも、一人前に扱ってくれたのがうれしかった。
「そろそろ、おまえもたべたらいい」
とどのおじさんかから言われたら、しずしずと奥の間と表の間を出ていく。
台所のそばの部屋に行くと、
「もう、泰ちゃんの分まで用意ができとるで」
「そのお膳の前にすわりんちゃい」
と親戚のおばさんの声がかかった。
遠慮がちにお膳の前に正座すると、さしみも一人前に盛りつけられていた。内陸部ではさしみを食べられるのは年に3回くらいだったので、それだけでかしこまってしまう。
「さあ、ごちそうじゃろう。泰ちゃん、ぎょうさん(たくさん)たべんちゃい」
「さあ、はものお吸い物もあるで」
といって、別のおばさんが向こうから差し出してくれる。
「ありがとう」
と言って座蒲団に座って、
「それじゃあ、いただきまーす」
と言って、箸を取っておもむろに食べ始める。
料理に口をつけてしばらくしてから、働いているおばさんに向かって、気になっていたことを聞いてみた。
「あのう、おばちゃん、この刺身たべさせてもろうてもええんかなあ」
「ええんよ。全部たべたらええんよ」
「そうそう、遠慮したらいけんで、泰ちゃん」
これはうれしい、沢山あるなあ。おばさんたちの笑顔が心地よかった。
鯖寿司も2切れくらいあった。そのほか普段の日では食べられない、お祭りのときだけのごちそうがふんだんにお膳に盛りつけてあった。なかでも、私はハモの汁物が好きで、せりを入れた醤油汁を飲み終えた後、骨切りの包丁を入れたハモの肉をたっぷり時間をかけて食べた。
勝田郡(かつたぐん)内の勝加茂(しょうかも)郷や広戸(ひろど)郷においても、そうした起源を持つ祭りが勃興していたのかもしれない。それらは、このみまさかのあたりでは、「君が代」にある「さざれ石」を置いてある今の津山市西北にある総鎮守の中山神社(なかやまじんじゃ)を共通の氏親(うじおや)として仰ぎ見ていたのだと伝承されている。
(続く)
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