55『美作の野は晴れて』第一部、母の青春
勝田郡奈義町の関本(せきもと)は、母の実家のあるところである。小学校を卒業するまでは、年に一度か二度くらいは行っていた。母と子供二人の旅となる。母にとってはご機嫌伺いを兼ねた里帰りなので、その日はこの関本地区の三穂神社の祭日か縁日に重なったのかもしれない。今も記憶にはっきり残っているのは、母方の祖母の勢喜(せき)がまだ元気でいて、実家に帰る母も、実母との久しぶりの語らいができるという張り合いがあったのではないだろうか。
出発したのは、その日の前日の午後のこと。国道53号線まで歩いて出て、そこから午後に津山駅発の行方(ぎょうほう)行きの中国鉄道バスに乗る。それより奥の馬桑(まぐわ)行きのバスは、便数が少ない。そして、その日が来た。日頃の行いがよいのだろうか、その朝の日の出からよく晴れていた。遮る雲一つないほどの秋の日差しが地上に降り注いでいた。旅の用意をしてから家の庭に出ると、それは、狐尾池の水に弾け、その水面を眩しいほどに光らせているようだ。
上村まで、足早に30分ばかり歩いて、行方(ぎょうほう)行きのバスに乗った。日本バラを通り、さらに滝本(たきもと)を過ぎると、北側が豊沢(とよさわ)、南側が広岡(ひろおか)が視界に入ってくる。車窓から見る景色に見入っていると、ここはもう奈義町で、母の故郷なのだ。広岡から南に向けては、現在立派な道(県道51号、美作奈義線)ができており、これに乗って南に下ると、勝田郡勝田町の役場、さらに英田郡美作町の役場のある(JR西日本の姫新線林野駅)辺りにつながっている。
母の「定子」(さだこ)は、1928年(昭和3年)3月に、当時の勝田郡豊並村関本(かつたぐんとよなみむらせきもと)に在住の為季文蔵(ぶんぞう)、勢喜(せき)夫婦の四女として生まれた。一番の姉、二女、姉、それから兄、二男、弟の6人の兄弟姉妹がいた。だが、二女と二男が子供のときに亡くなり、大人に育ったのは5人だと聞いている。
後年の、わたしへの母の手紙に履歴が載っている。
「為季文蔵・勢喜 四女
定子(さだこ)
昭和三年(一九二八年)三月十五日出生
勝田郡豊並村関本八七三番地
豊並尋常高等小学校高等二年卒業
勝田郡奈義町青年学校三年卒業(今の日本原高等学校)
青年学校教師の推薦に依り豊並村行方郵便局勤務
昭和二十年八月十五日終戦詔勅豊並村役場で聞く。
当時は戦争の最中で食糧不足物資不足でサマータイムで一時間早くから働く時代でした。学徒動員で女子も挺身隊に動員され、工場に働きに行った時代です。
(豊並村)は、今の奈義町は豊田村、豊並村、北吉野村の三か村が戦後合併され出来た町です。勝北町も同時い新野、広戸、勝加茂の三か村が合併した町です。私たちの村では、当時は津山の美作女学校に行った人は小学六年卒業で四〇人程の生徒の内、村の富裕の家庭二人だけでした。
戦争中でしたので尋常小学校卒業八年間勉強した後、看護婦さんに大勢出勤されました。軍需工場に行った人も有りました。残った私達が豊田村に有りました奈義青年学校に進学しました。男子生徒とは別々の勉強(男子は主として教練でした。)
教室で裁縫生花のお茶普通の学科等習いましたが、軍人勅諭等も当時覚え竹槍訓練なぎなた等も訓練しました。日本原演習場で宿泊して兵隊さんに訓練を指導して貰ったこともあります。消火訓練もしました。軍人の留守家庭農家の農作業に勤労奉仕にも行きました。余り勉強は出来ませんでした。英語は絶対禁止の時代でABCだけ先生が内緒で教えてくださったのを覚えております。
青年学校は毎日往復二里(8k)約三年余り通いました。バスが時々通るだけで交通は静かでしたので、帰りには学校の教科書または○雑誌等歩いて読み乍ら友達と横になって歩く事も度々でした。タクシーはお医者さんだけでした。帰った時休みの時は家で農作業をみんな手伝っておりました」(2000年5月5日の手紙より抜粋)。
その頃の母の写真が2枚残っている。1枚は、田舎歌舞伎か何かの紅白粉姿で写したものである。いま1枚は、青年学校に通っていたときのものである。
17歳になった母は、青年学校(現在の日本原高校の前身)教師の推薦があって豊並村行方(ぎょうほう)郵便局に勤めた。
「郵便局では局長さんとは時々出勤され、私を含めて事務員さん8人と郵便さん4人居りました。終戦の日郵便さん一人と女の友達二人で泊まりをしに家から夜の御飯をたべて帰って居りました時、8月15日午後6時頃、B29の飛行機が低く飛んでいたのを覚えております。(夜はよく電報が入っておりましたので)それを受けて郵便さんに渡し夜配達しておりました」(同)。
この辺りになぜB29が来ていたのかは、この地は1908年(明治41年)から陸軍演習地となっていて、当時陸軍の部隊が駐屯していたことがあるのではないか。
1942年(昭和17年)8月、ソロモン島での二度の海戦(特にガダルカナル島の争奪戦)で日本海軍がアメリカ軍に敗退し、日本側は多くの船舶と兵員を失った。1942年(昭和17年)4月には、東京に初めての空襲があった。太平洋上の米空母ホーネットから飛び立ったB25双発爆撃機の16機が飛来して、爆弾を落としていったのである。
1943年(昭和18年)2月には最南方のガダルカナルから日本軍が撤退を余儀なくされる。同年、ソロモン群島とニューギニアを中心に両軍の攻防が起こり、アメリカの空母が展開するに至る。1944年(昭和19年)にはマリアナ群島のサイパン島(7月、これより前の6月にアメリカ軍が上陸していた)、フィリピンのレイテ島の日本軍が陥落し、それからは米軍機の日本本土へのB29戦略爆撃機による空襲が頻繁になる。
明くる1945年(昭和20年)の1月から2月にかけては、フィリピンのルソン島、硫黄島など日米の激戦が繰り広げられる。特に、2月19日~3月26にまでの硫黄島の戦いでは、日本の守備兵2万933名のうち2万129名までが戦死した。日本軍が玉砕した後は、アメリカ軍はこの島からB451戦闘機の護衛をつけてB29戦略爆撃機を昼間の本土爆撃に出撃できるようになったことがある。
母の故郷へのB29戦略爆撃機の飛来のおよそ2箇月前、1945年(昭和20年)6月22日、海軍の「1式特攻」などの生産を行っている三菱重工水島航空機製作所が空襲されたのが、岡山県下への本格攻撃の最初とされる。続く28日から29日にかけての夜、B29編隊約143機による、朝まで正味およそ4時間にわたり岡山市への空襲があった。その時は、岡山の警報が遅れた。この時の攻撃目標は多方面に渡っていたようである。アメリカ空軍の当夜最大の攻撃目標は、三菱重工水島航空機製作所を壊滅させることであった。空襲前に撮影された米軍の写真には、「岡山工場から4マイル、高さ400フィートの山の南東の側に幅約30フィートの誘導路が通じ、そこから飛行場へいたる。トンネルの中には飛行機か、あるいは重要な施設が隠され、航空機製作工場の生産に連携していると思われる」(1マイルは約1609メートル、1フィートは約0.3メートル)との説明書きが加えられている。この偵察に基づき、この日8時半頃から堂製作所へのB29による1トン級爆弾の絨毯爆撃が3時間余も続き、完成前の飛行機数十機を含め、同製作所の格納庫及び工場はほぼ完全に破壊された。そのほか、岡山城に兵団が集結していて、そのことで爆撃があったのかどうかはわかっていない。さらに、攻撃目標は軍事施設以外にも向けられた。市内を焼き尽くすための焼夷弾が雨のように落ちてきて、夜が明けた時は市内はもう火の海だった。空襲警報が発令された時には市内はもう火の海であり、城の方からなお燃え盛るのを見ながら、市民は逃げ惑い、天満屋の地下ではガス中毒と火傷で180人もの人が命を失ったという。
「田舎は、田植えに忙しい最中で、身の細る思いの二日目、六月二十九日午前二時過ぎ、岡山から四十キロ離れた弓削町なのに、ズドン、ズドンとにぶい腹に染みわたるような響が伝わってきました。小学四年の長女と、一歳半の長男を連れて、外に出て見ると、山あいの南はるかに、白いむくむくとした煙と、真っ赤な炎の上がるのを見て、ついにきた、主人や母はうまく逃げられたかしら、どうぞ、ご無事でいて下さい、と見守ったことです。B29四十二機が焼夷弾約六万個を投下したと、終戦後聞きました。」(渡邊千代子「食糧難から飽食の時代にー激動の昭和に生きて」:岡山市文化的都市づくり研究チーム企画編集『さるすべりの花にー聞き書き、岡山女性の百人』岡山市、1990より引用)
「その時分、西口に鉄道の労組の本部があったんですが、その建物に傷ついた人が次から次へと運ばれてくるんです。私も何かお手伝いができればと行きましたら、もう見るに見かねるようなお姿の人ばかり、三、四十人もおられたでしょうか。苦しそうにうめいて「水を、水を」というておられる人もありました。
あんまり最後になった時に水をあげたら早くいけなくなるという事を小さい頃から聞いとりましたが、もう助からんという事がわかっておりますのにほっとくわけにはいきません。それで、そういう方にせめて末期のお水をと思い、口に入れてあげしました。そしたら、まあ、どうでしょう。物もいわれないようなのに目と心でお礼をいわれるお方、かすかな声で「ありがとう」といわれるお方、また、動きかねる手をやっと合わせられるお方など・・・・・。それを思うちゃ、今でも涙が出るんです。」(徳田裕子「戦争のみじめさ、平和のありがたさをーいつも奉仕の心を」:岡山市文化的都市づくり研究チーム企画編集『さるすべりの花にー聞き書き、岡山女性の百人』岡山市、1990より引用)
この日の空襲により、死者が1737名、罹災家屋約2万5千戸、罹災市民の数は約12万名を数えた(「岡山市史」)。
(続く)
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