新37『美作の野は晴れて』第一部、夏の子供たち3(勉強など)

2014-09-26 20:37:07 | Weblog

37『美作の野は晴れて』第一部、夏の子供たち3(勉強など)

 夏のある日、西下のFOS(フォス)少年団と子供会で合同のキャンプに出かけたことがある。今の子供たちのようなキャンプ場がまずあって、そこに出かけるというのではなく、急ごしらえの場所を作って行った。
 FOS(フォス)少年団は、「友情、秩序、奉仕」の精神の下、1962年(昭和37年)に日本体育協会が設立した日本スポーツ少年団とは別のもので、1964年(昭和39年)、当時の岡山県の三木県知事が音頭をとって結成された。勝北町からは、日本原、大吉、西中、西下の4つの少年団が勝北支部を作って参加した。この少年団には小学校を卒業するまで入っていた。子供塊の方は、お兄さんたちのお誘いがあれば、その都度、中学生であっても行事に参加していたのではなかったか。
 キャンプの場所は、北端の我が家から300メートルばかり離れた町道沿いの松林の中だった。青年団のお兄さんたちが木々を刈り取って場所を造る。青年の人はてきぱきと仕事をこなしていく。まるで荒野を開墾しているみたいだ。
 およその縄張りが決まると、その周囲に溝を掘っていく。こうしておかないと、雨が降ると敷地内に水が入り込んで、冠水してしまう。一応の敷地が出来ると、そこにテントが張られた。これは大作業であって、子供も手伝って、どうにかこうにか立ち上がった。テントの4つの端は杭で地面としっかりつながれているので、安心してよい。
 キャンプでは、一日目の午後に土砂降りの雨に見舞われたことがある。その時の私は6年生であったようで、そのときのことを日記に次のように書いている。
「8月1日(土)、晴れ後ゆうだち
午前8時半、きょうは、子どもクラブのキャンプだ。ぼくはわり木を持って家を出た。まだ一人しか来ていない。だいぶんそろってから仕事にかかった。テントをはる仕事、木を切ったり、ほりおこしたりする仕事、それをとり除く仕事、青年の人の時計を見ると10時45分だ。しかけてから1時間30分ばかりたっている。額からあせが出る。太陽がいやと言うほど、ジリ、ジリ、ジリと照りつける。ぬぐってもとどめなくあせがふき出る。
 12時近くになって用意ができた。昼食に家に帰った。2時からキャンプ地に行った。3時間ぐらい遊んで5時頃夕飯の仕たくにかかった。中学生がライスカレーをする。ぼくらは、はんごうでコメをたく。たきつけて1分ほどたったころ、黒味がかった灰色の空が東から西へとみるみるうちに広がって行く。
 「ゴロ、ゴロゴロ」。かみなりがなったとたん「ジジャー」と雨がふり出した。ごはんをたきつけたままみんなテントに飛び込んだ。「ガャ、ガャ、ガャ」と、テントの中はやかましい。小さい子は、かみなりがなると、へんな声をあげる。青年の人は大そうどうである。テントの北の柱が、ぐらぐらゆれる。40分ほどでやっとやんだ。外へ出ていそいでごはんをたいた。6時半ごろ、ライスカレーを食べた。なかなかおいしかった」(美作教祖勝田郡協議会教文部編「勝田の子・下」1964年刊)
 夏の天気は変わりやすい。また、たたきつけるように降る大粒の雨になるかもしれないと考えると、テントの中にいても気持ちは落ち着かない。水は近くの家のおばあさんに頼んで使わせてもらった。そこの水は、山の地価から来る伏流水であった。その水は清いばかりでなく、実においしかった。いつもの水のおいしさよりも、何かが違う、名水とはそのようなものなのだろう。この地にどれだけの伏流水が脇出ところ、名水の源があるのだろうか。いつか時間をみつけて、それを探ってみたいと思う。
 家でご飯の炊き方は心得ていたが、飯ごうでの炊き方は教わっていない。飯ごうをつるすところは長めに穴が掘ってあって、両側に木で支えをしてから竿で飯ごうをつるす。そこへ、下からたき火をして飯盒ご飯を炊くことになっている。
 とはいうものの、飯盒炊きの大体のことはそれと似ているところもあって、どうにもならないほど迷うことはなかったといっていい。飯ごうの蓋から水がこぼれ落ちなくなったら、火を引いて余熱で仕上げる。その理屈はわかっていても、4つぐらいぶら下げている飯ごうに火がまんべんにゆき渡るように、途中で、竿を外して飯ごうの位置を入れ替えてやらねばならない。炊け方がまだなのを真ん中にして、できあがりつつあるのを端にもっていく。火の勢いも調整してやらねばならない。カレーと味噌汁の方は、別の竈で除しが賑やかに作っていた。楽しそうに井戸端会議をやっているので、そちらの方が余裕があるようだった。
 出来上がった飯ごう飯を逆さにして底を棒で何回もたたくのは、底付きを鍋底からはがすためと初めて教わった。こうすると、ご飯が底に付いて離れなくなるのを防ぐことができる。飯ごうのご飯を「へら」ですくい取り、食べたいとはやる心を抑えつつ、「フウフウ」と息を吹き付けてから食べたカレーライスのおいしかったこと、その時の珍しい経験をしたことの記憶は今も脈々と残っている。
 ご飯を食べ終わると、もとの水源に行って食器を洗った。たべつくしているので、残飯整理はほとんどなく、水場を汚すことはなかったようだ。水場を提供してくれたおばさんが出て来て、にっこり笑って、また家の中に入っていったようだ。10分も経つと、飯ごうも汁椀も、カレーを盛りつけていた大皿もみんなで洗い終わることができた。
 あたりは、蒸し暑い夏に戻っている。自由時間は、近くに探検に出ていく人達、テントの中でトランプなどで遊んだり、寝転んでマンガを読んだり、車座になって井戸端会議をしたりで、めいめいの時間を過ごしていた。青年の皆さんの話の輪に入っていると、何のことだったのか、夢を語っていた。当時の私に夢といっても、地に足のついたものは何もなかったので、みんなの話を聞いているばかりだった。
 夜は、道の半分が随分広くなったところがあって、そこは弧を描いたように丸く切り立っている。こちとらは、車が通っても大丈夫である。青年の皆さんによって、中心部に木が積まれてる。松の木の株なんかには油がついた、燃えやすい木もあっただろうし、沢山の燃えるもので小山が出来上がっている。やがて、とばりが降りる頃、たいまつに火が付けられ、「キャンプフアイヤー」が始まった。
 私たち子供は、その火をグルグル巻きして、手をつないだり、離したり。なにやらのすてきな歌に合わせてダンスをするなど、お兄さんたちの音頭とりでいろいろと遊んだ。公会堂の中の板間で遊んでいるときに比べて、仲間や青年の皆さんの顔が赤く照らし出されて、なにやら幻想的な感じがする。自分はいまどんなどころにいるんだろうと、普段とは違う周りの雰囲気に浸ってしまいかねない。
 その場にふさわしい歌があったのかどうか。というか、今はあらかた忘れてしまっているが、あれこれの歌の中から、のどかな鳴き声で人を和ませてくれそうな、カッコウの歌んなかを歌って、みんなで楽しい時を過ごしたのではないか。
 「静かな湖畔の森の影から、もうおきちゃいかがとカッコウが鳴く、カッコウ、カッコウ(4回の繰り返し)」(作詞者不明、外国曲)
 その日の宵(よい)、南に延びている道の右上方に、南の空がやや開けているところには、夏の星座が見えた。上からたて座、いて座、さそり座がうっすらとかかっていた。いて座には、「南斗六星」がうっすらと輝きを見せる。たて座からいて座にかけては銀河系の中心部らしく、天気がもう一つだったにもかかわらず、天の川の帯がやや太く、まだでこぼこや濃い陰影があるようで、あのあたりが銀河系の中心であるらしかった。その下のさそり座は、夏ならではの星座であるが、こちらは南の視界が低空まで開けた場所でないと見ることはできなかったろう。
 夜も9時くらいになると、早々テントに寝転がって寝ることになった。みんな普段より疲れているので、早く寝ることに依存はない。明日は早起きでラジオ体操、食事、後片付け、解散と忙しい。それなのに、蚊に悩まされた。蚊帳(かや)はなかった。香取線香の煙が立ち昇っていくのだが、なにしろテントは屋根だけのものなので、空間は広い。「こいつ」、「パシッ」とおっぱらったつもりでも、蚊はすぐに戻ってくる。しかし、なんとかそれにも慣れてきて、疲れが出て寝ることができた。
 それぞれの思いを刻んでの一日目が終わり、あっさらな二日目の朝が来る。6時よりずっと早起きしたから、水源に行って歯を磨き、ついでに水を仕入れてきて、さっそく朝ご飯仕度にとりかかる。手のあいている人は、キャンプファイヤ-のあったところでラジオ体操を行う。朝食は、ご飯にふりかけや梅干しをつけて、前の日の茄子の味噌汁の残りといった簡単なものではなかったか。追い立てられるようにご飯を済ませてから、後片付けにかかった。食器を洗ったり、テントを畳むのを手伝ったり、炊事場を埋め戻したり、ゴミを一つも残さないように拾って回ったりした。荷物を運んできた車に荷物を運ぶ。何から何まで後片付けをして、現場を現状復帰することで、仕事を最後までやり遂げることを学んだような気がしている。
 私が小さい頃には、での救助訓練はまだなかったのではないか。生活水準が変わると、人々の暮らし向きは徐々に変わっていくものだ。それに応じて人の心や考えも変わっていくのが常だと、今では考えている。そんな中、子供会活動で救助活動のことも習った。その中には、縄の結び形や手旗もあった。結び方は、なかなかのものであった。例えば、大きな木に対して、自分の体を固定して登るとき役立つ結び方とか、荷台に積んだ荷物を固定するときの結び方とか、いろんな種類があった。何度も真似しているうちに、あるときできるようになった。手旗はもともと海洋とか、見晴らしのよい遠隔地で行うのだと思っていた。だから、それを練習するときは、「一体、なんのために陸に住む僕らがせにゃあいけんのか」と思うことしばしばであった。「の」とか「フ」は簡単であるが、2つの動作を合成して初めて一字と成る場合が多く、とても難しい。手旗は教える者は教えられる者が逆の向きなので、頭の中が整理できずよくわからなかった。縄の結び方はいろいろあった。こちらはぐんとおもしろかった。家の仕事で役立った結び目もある。先輩たちが覚えているものを後輩たちに教える。後輩たちは、それを自分のものとして、生きていくために必要な技を、伝統を引き継いでいく。
 FOS少年団の活動も、西下の子供会の活動も、「平井」地域にある西下の公会堂で夕方から行われていたので、終わってあるいて帰るときは大変だった。直ぐ家がとなりの章子(仮の名)ちゃんを連れていたので、家まで大事に送り届ける責任がある。特に、大きな墓が帰り道の途中にあるので、その近くにさしかかると、男だからしっかりしないといけないという気負いと、それでも足ががたつくこともあり、その辺りは、早足で2人で通り過ぎたものである。
 大きな楽しみの二つ目は、夏祭りであった。上村にある真言宗の神前光寺の境内で一度だけ夏祭りに行ったことがある。そのときは何かの大祭であったのかもしれない。赤いアイスキャンデーを口一杯に頬張った想い出があるものの、その1回きりの経験しかない。
その参道には、アイス売りもあれば、饅頭やさんもあった。金魚すくいもあったような気がす。というのは、記憶によると、初めて金魚を見たのは、どうやら学校ではないし、遠くに出かけた時でもないからだ。今から振り返ると、プルンプルンして愛らしい「出目金」には目を見張った。その一方で、流線型でフナの体型に似た「和金型」や動態が丸く膨らんでいる「琉金型(りゅうきんがた)」、背びれがなく、胴体が筒型の「蘭鋳型」も見たのかもしれないが、記憶には残っていないので、断定はできない。

(続く)

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