新47『美作の野は晴れて』第一部、実りの秋(稲刈りと脱穀)

2014-09-26 20:49:31 | Weblog

47『美作の野は晴れて』第一部、実りの秋(稲刈りと脱穀)

 秋の収穫は10月の快晴の日から始まった。我が家の田んぼは、広いのから狭いのまで、ざっと数えて20枚以上になる。それらの田んぼの中には早稲(わせ)を植えているところもある。その場合、稲刈りはもっと早い時期から始めなければならない。特に、「西の田んぼ」が山間にあるのに比べ、「東の田んぼ」は国道53号線方面により近い、平原に出たところにあるので、見晴らしが効き、他家の作業の進み具合も視界に入ってくる。そこで、田んぼ道の往来でも大人衆は情報交換しているみたいだし、子供の「やあ、やってるね」、「うん、そっちもな」と挨拶を交わす場面も出て来る。
 我が家の田んぼに黄金色に育った稲、その稲たちの収穫の日を決めるには、その日からの天候が気になる。父は田んぼの見回りから帰ると、家族に近寄ってくる。
「天気がうっとうしいけー、刈り時は、もうちょっと後になるんじゃろうなあ。」と父。
祖母が「その話はもう聞いたっちゃ(聞いたよ)。今年はどの田んぼから始めるんじゃ。」と訊く。
「そんなら、うちはどないしなさるんか。」
と母が怪訝な表情で父に尋ねる。
「いや、それに、あそこはまだ日陰の方が熟れとらんけえなあ」と父が答える。
 やがて稲刈り日がやってくる。父は毎日のように田んぼを見て廻っていて、大体の日取りを決めている。あとは、天候次第で、一日中晴れていそうな日を選ぶ。きれいな夕焼け空が巡ってくると、明日は穏やかな晴れの日になる可能性が高い。その夜は「釜を磨いて夜が明けるのを待て」と昔から言われてきた。最終的に決めるには、天気予報も役立っていたに違いない。その日は学校があるではないか、と思われるかもしれないが、その日が「農繁休暇」の日でなくても、大抵は学校よりも家の事情を優先していた。
 その日の一連の作業は長くて、きつい。準備は夕食の後のよなべ仕事での「いいそう」作りであった。当日の朝は早かった。まず、自分の左利きの鎌を受け取って砥石を使って研いでから稲刈りに取りかかる。それと似た光景は、2014年夏に見た映画「舟を編む」にも出てくる。主人公の恋人になる人が料理人で、数ある包丁の一つを自宅の台所で砥石に乗せて研いでいるシーンがある。
 初めのうちは目の荒いもの、仕上げ用の細か目の砥石を用いる。人差指の腹で研ぎ具合を確かめてみる。これでいいとなると、安全のため刃の部分に稲藁で包み、ひと揃いを田圃に持っていく。
 一雨毎に、田んぼの周りの秋の装いが深まっていく。現場に着くと、稲の色合いは黄金色に染まっていた。まずは稲を刈り取る。刈り取るときには用心していたが、それでも体をねじり気味にしたり、疲れで頭の中がもうろうとしてくるうちに思わぬ怪我をすることがあった。このとき付いたものか、それとも薪つくりのときのものもあろうが、今でも右手の甲に2か所、左手の甲に2か所の鎌による傷跡が残っている。
 田んぼの刈り取った稲は束にする。それには、「いいそう」と呼ばれる藁製の結び紐を使う。いいそうは、夜なべ仕事で「いいそう」づくりをして、その前の日の夜までに準備を整えておく。私は、その「いいそう」をなうのが得意であった。「シュルシュルシュル」と上方向に稲藁を練り上げてから、先の部分に「キュッ」と結び目をつける。
 稲刈りになると、腰紐に吊した50本のいいそうから一本を取って地面に置く。その上に、刈り取った拳大の稲を一つかみずつ置いていく。それがある程度の太さに達すると、紐でクルクルと最後にひねって一束に結わえる。この作業では腰が痛くなるので、何度も腰のばしをしながら作業を続けたものだった。小学校の作文にこう書いている。
「ザザ、ザザッ
つぎつぎにかっていく
ようし
腕に浮かび出た力強い骨
ザザザッ ズシッ
とくいの二重切り
手に乗った重い稲の顔
それから数十秒
稲は いつのまにか ばかでかい束に化ける
加工工場そっくりだ
首をほどろどろ流れる
油のようなあせ
「泰司、どれだけかった?」
耳に伝わる大きな声
「50(束)刈ったでえー」」(当時の作文より)
 汗とごみが手にじっとりと塗りつぶされている。
 一枚の田圃の稲を刈り取ると、次は、これを乾燥させるために、日干しにする。「稲こぎ」(稲こき)の前にこれを行う。そのやり方は、日本全国、その土地によって、稲塚に積んだり、稲架(はさ)にかけたり、いろいろとあるみたい。県南では、それらと段取りが少し違っていて、刈った稲をその場にいったん置いて半乾きにしてから、「稲ぐろ」をつくるらしい。
 「一株を普通に握って、ざくっと刈るでしょう。それを穂を拡げるようにして株の方を重ねて置いていきます。稲の穂を乾燥さすように置くんですね。稲刈りが全部すんだら二、三日干して、ひっくり返しながら全体をよく乾かします。そして束にしてゆきます。古い藁を腰へ結んでその中から四、五本ずっと取ってはそれで結んでゆくんです。束を積み上げて、稲ぐろをつくります。穂が乾燥しやすいように穂が出るような形で積んでゆきます
」(関口麗子「親も子も働き通しー一灯の下で夜なべ、読書」:岡山市文化的都市づくり研究チーム企画編集「さるすべりり花にー聞き書き、岡山女性の百年」岡山市、1990)とある。
 我が家では、今住んでいる比企地方とほぼ同じで、その中間のようなやり方で稲を干していた。父が作った「はでやし」を藁で結んで三角柱の櫓を組んだところへ「なる」と呼ばれる長い孟宗竹を架けて作ったつるし台に持っていき、稲束の2つの足になるように広げて架ける。自分なりにこれを「股掛け」と呼んでいたものだ。「なる」に掛けられた稲が十分に乾いた頃、脱穀、その当時の村の言葉では「稲こぎ」の日がやってくる。それは学校が休みの日を見計らって行っていたようである。これと農作業の姿は諸外国ではどんな具合だろうか。近いところでは、ベトナムの農村の風景であり、ブリューゲルの絵に描き出された貧しくも勤勉な農民たちであり、さらに相当異なるが、スタインベックの「怒りの葡萄」の中に出てくる一家あげての棉花畑での労働などだ。
「明日は稲こぎをするけんなあ、泰司、手伝ってくれえなあ。」
「うん。わかった。」
 そうこうするうちに、一回目の脱穀の日がやってくる。稲刈りした田圃という田圃にしつらえている「おだ」には稲藁(いねわら)が掛けられて、天日干しにされている。それを外して脱穀機に運んで、脱穀して、「もみ」にするのだ。
 4反(40アール)分くらいの田圃の乾燥稲を脱穀して籾にする。このときは「なる」から稲の束を降ろして2つの束を作る。それらを前後に「さす」と呼ばれる丈夫な棒で引っ掛けて「おいしょ」と背負う。「もっこを担ぐ」要領でやる。一旦担いだら、稲の切り株に足とられないようにしながら、発動機の動力をベルトで繋いで伝えている脱穀機のある場所まで運ばないといけない。
 田んぼの中央で脱穀機が発動機と厚く大きな皮のベルトとつながれている。父が止めておいた発動機の車輪についたレバーを握って、太い右腕で時計回りに回し始める。
「スーッチョンスーッチョン。」
重油のにおいが辺りに充満する。ディーゼルエンジン(まず空気のみを暖め、そこに燃料を吹き付けて着火する爆発方式)であったのではないか。その光景を見ているだけで、緊張し、心の中はびっちりした、すし詰めの状態だった。
「ドムドムドムドム。」
 何度目かの手動の回転で発動機がうなり声を挙げて始める。頃合いを見計らって、父が脱穀機の回転軸にベルトを噛ませると、「ゴゴーッ」という音を立てて脱穀機が動き出す。さあ、仕事の始まりだ。父が、両脇をぎゅっと縮めるようにして、やや後ろ側にのけぞるようにして、まるで船を櫓でこぐような姿勢で、両の脚をしっかり踏ん張って、稲藁を脱穀機の口に噛ませていく。機械のベルトががうなりを上げて回っているので、漕ぎ手は、万が一にも回転するチェーンの中に手と腕を持っていかれては大怪我をする。それに、噛ませた稲藁とともに強く引っ張られるので、手や腕を機械のチェーンに巻き込まれないように、絶えず注意を祓わなければならないのだ。
 稲こぎの際には、母と祖母と兄、それに私の4人は、脱穀機まで稲藁を運ぶのが一番の役目となっている。稲藁のかけてある「なる」に行って、稲藁を束にし、それを方に担いで脱穀機に持って行く。これを、機械が止まるまでの間、何度でも繰り返す。父が脱穀機の口に稲藁を差し込む作業に支障があってはならない時間のロスを避ける為には、絶えず脱穀機のそばに積んだ稲藁の量を確保しておく必要がある。田んぼによっては、地面が十分に乾いておらず、ずっしり重い稲等を背負ったり、「さす」で二つ担いで歩くと、足をとられたりして辛い仕事である。子供にとってはかなりの重みが私の柳のような細身の肩に食い込んで、随分と骨の折れる。きつかったのはそればかりではない。脱穀はかゆいのが嫌だった。毛穴に細かい塵が突き刺さるような感覚に包まれる。
 もう一つの仕事は、その向こう側にの7、8メートルばかり離れたところに祖父がいて、こぎ終わって軽くなった稲藁を集めて、「積み藁」をこしらえていた。私は、頃合いを見て、祖父を手伝って稲藁(いねわら)の野積み(千葉ではポッチ)作業にも働いていた。私は、稲藁(いねわら)を3束か4束ずつ掴んでは祖父に手渡す。祖父はそれを編んで、藁積みを仕上げていく。積み上げの最後になると、天辺には筵(むしろ)や稲藁で通気性のいい帽子をかぶせた。雨がしみ通って稲藁が腐るのを避けるためである。段々と高さを増し、でき上がっていく藁積みの姿は、丸い家、たとえていえば蒙古族のパオのようなものである。後年気がついたのだが、印象派の画家モネの『積みわら』の絵(倉敷の大原美術館蔵)にも、たぶん麦わらだろうが、似たようなものが描かれている。祖父は一山仕上げると、ニッと歯をむき出しにして笑うのが常であった。祖父の表情は何を語りかけていたのだろう。
 そのうちに、上村の酒屋の方から「ウァーーン」と響いてくる。昼のサイレンだ。余韻も入れると10秒も続いただろうか。それが鳴り終わると、祖母が「昼になったけん、わしらももうひとがんばりして帰ろう」と言う。
 祖母とみよはまた、「定子ははよう帰れえ、飯の支度があるけんな」と母を促す。
 父が帰るように母に言わないときは、祖母が母をかばって言う。
「登。定子をかえらしちゃらにゃあいけんがな。はよう言うてやれえ」
 祖母は気を利かしているのだ。その後で母が遠慮がちにその場所を離れる。母が坂を上って家に帰っていく姿を見送りながら、残りの者は昼飯までにもうひと仕事するのであった。それから、祖父、祖母、そして子供の順で家に帰っていく。
 午後の労働は、昼飯から1時間後には始めていた。父は飯を掻き込むようにして食べるのも早かったが、休憩もそこそこに田圃に戻っていく。まるで、「はよう食べにゃあいけんがなあ」と言われているように感じる。もちろん、子供心に、父の人並みはずれた働きのおかげで家族が生きていけることは承知していて、だから、いささかも不平不満を口にしたことはなかった、と言っていい。
 父が止めておいた発動機の車輪(燃料コックディーゼルエンジンのクランク)を太い右腕で回し始める。「スーッチョン、スーッチョン・・・・・」。エンジンがかかりにくいときは、直るまでの間、畦に座って休憩したり、近くの場所にアキグミ(ぐいび)を取りにいったりして、時間を潰していた。そのうち「スタターン」と弾みが付いて、その後「トントントン」と機械全体がリズミカルな機械音をたてて動き出したら、さあ、作業再開だ。発動機の燃料は、重油ないし軽油を使っていたようだが、その油のにおいが辺りに充満してくる。その光景を見ているだけで、心の中は緊張ですし詰めの状態だった。その音は、やがて「ドムドムドムドム」と、発動機(ディーゼルエンジン)が軽やかで、規則的な音に変わっていく。「やあ、今度はうまくいったぞ、さあ、やろう」という具合である。
 その頃の発動機は、なにしろ年季が入ったものであったので、性能はさほどに高くない。調子は「千変万化」といってよい。このエンジンは、空気をぎゅっと圧縮して熱せられたところに、霧状にした燃料を吹きつけことで自然発火させる。強制的に点火する装置である点火プラグを必要としないので、その系統の故障である筈はない。実際の運転では、急に「プスプススコン」という拍子抜けの音がして、機械が止まることがよくあった。今振り返ると、よく故障していたのは燃料系統に空気が入っていたのではなかったか。こうなると、エンジンが止まるたびに、燃料コックのレバーを空気抜けの方向に合わせて空気を抜くことにより、シリンダーに燃料が送れるようにしないといけない。
 午後は、太陽がさらに照りつけるか、もしくは風が出てくる時もあった。始めのうちは、さあ、「これから夕方までの方が長いんだ。しっかりやらねば」という緊張感の方が勝っていて、自分をはげましつつ作業をしていたものである。子供にとってはやや過酷な労働であったのかもしれない。昼からは、途中で3回くらいは休むものの、あたりがほの暗くなる頃、午後の6時くらいまでは脱穀機が動いていたのではないか。
 長い午後の作業も、やがて大詰めを迎える。ようやく、その日の脱穀があらかた済む頃には、私らは、後片づけにとりかかる。筵(むしろ)を畳んでは、母か祖母が「とおみ」のなかに流し込む。中には籾(もみ)が含まれているので、それを上下に揺らして籾をより分けていた。落ち穂拾の仕事もあって、主に私と兄の役割だった。一粒たりとも粗末に扱ってはならない。一粒でも多くの収穫を得たいという気迫が伝わってくる。画集に、ミレーの「おち穂ひろい」があるが、あの絵を画集をじっとと見つめていると、それは我が家の田圃の中での私の姿なのである。その頃には、陽は西に傾いていた。やがてその太陽が一回り大きくなって西の森を茜色ににじませて沈むとき、「疲れたんでそろそろ帰りたい、とんびも家にかえりようるで」。そんなことを考えながら、父の顔を窺っていた。それでも、近くの山に陽がおちて、空が茜色に染まる頃まで、何枚かの田圃の中を歩き回って、落ち穂を拾って歩いた。祖母や母や兄と一緒にかなりの量がどれたので、この作業もしてみるもんだ、効果があるんだなと実感した。家族みんなで拾って集めた落ち穂を、最後に父が脱穀機にかけてから、その日の脱穀の作業は終わる。あのミレーの絵に描かれた農夫たちの気持ちにも、洋の東西、時代は違っても、同じ農民の気概が宿っていたのではなかったのか。
 落ち穂拾いが一通り済むと、それらを「とうみ」に入れて仕上げの脱穀に取りかかる。後片づけにも取りかかり、脱穀機の周りの「むしろ」を全て裏返しにして、こぼれ散った籾殻を脱穀機にかける。それらすべての作業が済む頃には、月が静かに輝き始める。晩秋の秋の日没は早い。籾の状態に脱穀した米は、家に持ち帰らないと行けない。最後にかますを家に運ぶ。母は一足先に、晩ご飯の仕度をしに、家に帰っていったのだろう。小学校2、3年生までは耕耘機は入ってなかったので、一輪車とか一俵ずつ背負って家まで帰っていた。祖父と祖母と母は取り立ての籾を入れた「かます」を一袋、「輿」に背負って、坂道を昇って、家路についていた、私たち子供も、一輪車で続いていた。ほとんどの「かます」は後で、全部を片付けてから、もう一度みんなで田圃に出かけて、荷車に乗せて、牛に引っ張ってもらって家まで運んでいた。そのときは、荷車のあと押しをしていた。
 このときばかりは、家族から子供も一人前の働きを求められた。労働が幾らきつくとも、他人の労働の成果を横取りするという意味での搾取は見あたらなかったのだから、家族の一員としてがんばるしかない。子供ながらに、懸命に働かないと生きていけない仕組みを学んだ。しかし、心のどこかにみんなどうしてこんなに働くのだろう、どうしてこんなにしんどい目をするんだろうか。どうして休むことをしないんじゃろうか。別に人生哲学という程のものではないが、子ども心に大人社会のあり方に疑問が沸々と浮かんできて、周りが全部囲まれてくるような気がしてきて、これでは逃げ場がない、となんだか空恐ろしくなることもあった。
 一反(10アール)につき「かます」に7、8俵もとれれば大変な収穫である。6俵が普通であった。陽光に満ちた沃えんの土地ではない。羨望の目で見られることもなかっただろう。しかし、かけがえのない大地からの恵みには違いなかった。当時は、田圃から採れるあの米のおかげで、私もまた家族に守られて生きていけたのである。家に持ち帰った籾は、それから何日も何日も、そのまた何日もかけて天日干しにする。乾燥機が導入されるのは、やっと中学の頃になってからのことである。それまでは、むしろを家のかどに何十枚をならべ、そこに薄く満弁に行き渡るように、「こもざら」のような道具で平たくのばしていく。
 筵(むしろ)の片面が乾燥したら、陽の高い内に裏返しにする必要がある。そこでいったん筵の中心部に丸く籾を集めてから、再び「コモザラ」という平たい道で平たくなめらかにしていく。作業に慣れてこないと、なかなかまんべんに広がって、いい形になってくれない。これなども、つづめて言えば当時の農作業の技術の一つに数えてよいのではないか。そうして乾燥させている間に曇り空になったら大変である。空模様がおかしいなあというときは大変だ。早めに片づけを準備しなくてはならないからだ。そのうちに、真っ昼間だというのに、あたりがだんだん暗くなってくる。うちにだんだんと曇り空が広がっていき、温度が下がり、雲の底から地上に達する黒い筋が何本も見えるようになる。それからほどなくして雨がポタポタ落ち始めるからだ。降り始めるまでの間に、まずむしろを畳み込み、ついでその両側をもって持ち上げ、家の中に急いで運びこまなければならない。そのときはまるで戦場のような忙しさであった。

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新46『美作の野は晴れて』第一部、運動会と学芸会

2014-09-26 20:46:33 | Weblog

46『美作の野は晴れて』第一部、運動会と学芸会

秋分の日を迎える頃には、台風の襲来や秋雨前線の停滞などがないかぎり、晴れる日が多い。空は碧く、風は涼しく、陽は明るくなって、いよいよ秋らしくなっていく。「秋、清爽」の頃合いだといえる。日の出の太陽は東から出てきて、西に沈む。これ以降の太陽は南半球に下がるため、日を経るにつれ昼間の明るい時間が短くなっていく。この時期には、「秋期大運動会」が開催される。その準備は1ヶ月位前、夏休みが明けたら直ぐに取りかかる。なぜなら、この運動会は自分たちだけではない、父兄やの皆さんに見てもらうことを念頭に置いているからにほかならない。
 朝早くの運動場には、もう柔らかな陽の光が差し込んでいる。運動場の片隅、日当たりのよい南側にある1年生の教室前の花壇には、コスモスの花が咲いている。長い茎の至るところに内輪が濃い黄色、外輪には白、ピンク、紅色などの花びらが光に照らし出されて、爽やかに輝いて見える。コスモスを際立たせているのは、花壇の枠からはみ出したり、何かの弾みか風のせいで横倒しになっている茎の先を改めてもたげ、そこでまた花を咲かせている。それを全体として観るからに、まさにひとむらを形成する雄々しさを持っている。地面近くでも、春に植えたマツバボタンが白に始まって赤、赤褐色やピンクといった色とりどりの花が、陽差しに向けて可愛げな花を向けている。運動場の観客席となる処では、早めに登校したクラスの仲間によってムシロやござが敷き詰められ、朝礼台の右手には本部、左手には来賓席のテントが既に張られている。入場門と退場門の紅白のリボンによる飾付けも済んで、準備万端整っているようである。
 全員が整列しての校長先生の訓辞が終わる頃には、各々の名の書かれたプラカードの前に、観客の皆さんがもうかなり座っている。最初の競技演目には、幾つもリレーが含まれていた。4年生までは紅白対抗リレーに出ていたようで、その後はクラスのトップの人の応援に廻った。応援団の旗振りにも加わったことがある。埃を巻き上げながら、目の前を疾走していく仲間に声をからしてエールを送のも一興である。学年別リレーでは頑張った。もっとリラックスすればよいのに、本番では体が固くなって動きもぎこちなくなる。小さい頃は無心で走り廻って遊んでいたのに、いざレースになると、体が縮こまってしまう。それも実力の内なのだろう。
 リレーには、部落対抗リレーもある。新野西、新野東、新野山形からそれぞれAチーム(児童]、Bチーム(父兄)が出て合計6チーム、それに先生方が加わって都合7チームであったように思われるが、自信はない。これは、走り競争というよりは交流試合のようなもので、走っている人の表情も破顔大笑といったところである。
 3年生くらいまでは、玉入れがあった。紅白に分かれて、高いところのかごに、それぞれ紅い玉、白い玉を投げ入れる。これがなかなか難しい。弾みをつけて、勢いよく投げ上げると、大抵は玉はかごの上を通りすぎてしまう。入れるためには、楕円を描くようにゆったり投げるのがよいのかもしれない。バレーボールのレシーブのような格好で投げ上げていた人もいて、この方が成功率が高いのかもしれない。
 印象深いものに、やぐらを仕立ての騎馬戦があった。駆け足入場で、消石灰(水酸化カルシウム)の白い粉でラインが引いてある手前に、双方が整列する。
「みんなが見ている」
「ここは格好いいとこ、みせにゃあいけん(見せなければならない)」
 先生の「用意」の合図で、その手前に立って3人で櫓を組む。クラス対抗なので、5、6騎ずつくらいが7、8メートルを隔て、向かい合う。騎馬の土台ができると、4人目がその上に乗っかる。上が乗っかると、下の騎馬が立ち上がる。
 上の乗る者は、鉢巻きをキリリと締めている。私は、下にいて馭者(ぎょしゃ)を支える立場だったので、なかば馬になった気分でいたのかもしれない。
 「始めえー!」の合図があると、味方の騎馬は片方に集合して、陣立てを行う。それから、そろそろと前進を始める。ばらばらで敵陣に向かうと、車掛かりで来られたり、囲まれたりするからだ。
 なにしろ、上に人を乗せているので、体力の消耗が激しい。それでも、だんだんスピードを上げて、全部で敵陣に突っ込んでいく。そのときは、騎馬を組んでいる3人のうち、先頭にいる一人が一番やばい。一回目の衝突では失敗。相手ともみ合う間にバランスを崩して、騎手が落馬した騎馬もある。地面に足や手が着いたり、上の者が鉢巻を奪われたら失格だ。失格になったら、その4人が白線の前まで戻って、しゃがんで試合の終わるのを待つ。
 そうこうするうちに、騎馬の数が少なくなっていく。上の者が「あっちをねらえ!」と指示を出す。下の者はその声に従い、相手方めがけてカーブを切ったり、突進したりを繰り返す。そのうち、今度は 「向こうをやっちゃれえ」と指示が変わる。供回りはその度に方向を変えつつ、上の者を支え続けなければならない。ゲームだとわかっているつもりでも、頭の中は、あの中世の騎士道に生きた『ドンキホーテ』のように空っぽな状態にな
っていた。下ではふんどしがほどけるように、やぐらが崩れそうになったりもした。人間、はじめに張り切りすぎると、あとで「ガタガタ」の体たらくになることを学んだ。
 2分くらいの試合時間が終わる頃には、日頃疲れを知らない筈の少年たちも体力を消耗して、足はよれよれ、息使いは「はあはあ、ぜえぜえ」の状態になっている。それにしても、先生はいいところで試合終了の笛を吹いてくれた。勝負の判定は、どちらの陣営が多く鉢巻を残しているかで決まる。
 小学校6年の時は、男子で組体操を父兄に披露した。裸足で、上半身裸であった。初めのうちは三人が扇形になったり、倒立して支えるようなことをやる。最後に、いよいよ下にマットを敷いての演目に膝立で行う「人間ピラミッド」があって、これがなかなかに難しい。一番下に3人が並んで四つん這いになる。私はその一人だった。その上に、2人が登って同じ姿勢を取る。最後の一人が3段目に乗って出来上がりとなる。難しい方の、しゃがんで3段組で態勢をつくり、最後に下から順に立ち上がるやり方は試みていなかったように思う。こちらの方は3段組どころかもっと段数を増やす誘惑が増して、そうなると大怪我をする心配も出てくる。
 この姿勢を取るこつは、膝は心持ち内側に力を入れてロックする感じにすると、地面をしっかり捕まえられてよい。上の方は、肩の関節を少しせばめて四角い枠をつくるようにすると、安定が増す。完成後、笛が鳴って櫓を解くときには、一番下の身としては、最後まで気を抜かず、細心の注意でいないと危ない。せっかく下からくみ上げても、重心のかかり具合とか、何か一つ狂うと「どうにかせにゃあいけん」と全員が焦っても崩れ落ちてしまい、もう一度やり直しとなってしまう。全部がうまくいって、観客の皆さんからは拍手がもらえたときは、自分たちのことが何やら誇らしく、うれしかった。
 女子も組体操のプログラムがある。みんなが裸足のブルーマ姿で、新体操で使うようなリボンと玉を携えていたのではないか。男子には力強さを、女子には優美さをといったところか。たおやかに舞う姿は、日頃の級友とは異なる優美さを感じた。
 フォーク・ダンスのときは女子と手を繋ぐのでなにやら照れくさかった。女の子の方がませていて、男子の動きの方がぎこちなかった。手を繋ぐとなにやらふんにゃりして柔らかいし、途中で右手を除しの背中に回して二人が回転するシーンでは、彼女の髪が頬に触れて、アーモンドのような甘い、清純な香りがしたものだ。
 いまでもテレビでダンスを男女で踊るシーンがあると、つい見とれてしまう。沖縄の人々のように直ぐに踊りを始める習慣が身近にあればいいと思う。あのときばかりはみんなが幸せで、かつまたその場に参加しているすべての人がさいわいな気分に浸れる。
 フォークダンスは、高学年になると、もっと複雑になっていったようだ。西洋のダンス曲があって、それに合わせて踊るのだ。曲目では、『オクラホマ・ミキサー』と『マントマイム』を踊った。「オクラホマ・ミキサー」の原曲は「藁の中の七面鳥」である。この曲が佳境に入ると、「藁の中の七面鳥 干草の中の七面鳥、転げてよじれて」となっていて、これがどうしてロマンチックなのかと驚く。よく覚えているのは、曲の後半部分の「タタンタタンタ、タタンタタ」というリズムに合わせて、踊るところだった。
 そのおりには、男女が交差して結んだ両手を前へ後ろへ大きく振りつつ進んでいく。それが終わると、やがて「タンタラターラ、ンタタ」で終わる。そのままの位置で、次の曲が始まるまで、暫し待つ。二つの曲を踊ったら、おしまいになった。そのときの気分は、「やれやれ」と「まだ踊れるのに」とが相半ばしていた。掌には、緊張のためか、女子と踊れたうれしさのためかわからないが、うっすら汗をかいていた。
 ほかにも、ムカデ競争や、男女が足をつないでのアベック競争、綱引き、借りてくる競争、・・・・・と、いろいろな競技がつぎから次へと、繰り広げられていく。その度に、天高き秋の空に喊声と拍手と喧噪が鳴り響く。借りてくる競争では、「よーい、どん」でスタートし、いざ札を取って開けると、人の名前が書かれているときもある。その人の処に行って「お願いします」と頭を下げ、二人で手をつないでを連れてコースを一周する。他のチームに遅れをとっても、ノートと鉛筆がもらえたのだと思う。
 運動会には、母が一年生の頃から六年生の最後の学年まで、たぶん観戦に来てくれたのだと思う。その日ばかりは父に頼んで、忙しいところを、時間を都合して来てくれたのだろう。母は兄の分と掛け持ちで見てくれた。母の姿を見つけると、なにやら観察されているということでシャキッとしたものである。そのうちどころか、曲が始まる前から手のひらには汗が出ていた。顔は少し引きつり加減であり、日本の足は震えてこそいないものの、ぎこちない、という体たらくであった。女の子の手を握ってスキップしたりする部分があるが、温かかったり、柔らかかったり、不思議な感覚にとらわれたものだ。
 あのときは、一種形容しがたい気分であった。はずかしいやら、照れくさいやら、それらの混合であったような気がする。内の女の子とゆるゆる、やあやあして遊んでいたこともあるので、手をつないだこともある。恥ずかしがり屋ではあるが、人一倍の好奇心もあった。自分のことを、奇妙な組み合わせの性格であるな、と思っていた。 フォークダンスのときに、モジモジ、テレテレして、仕方なさそうにしていたので、家に帰ってから母に注意されたこともある。このほかには母に叱られた経験は残っていない。元来不器用なので、そんな弱点が露呈したのである。
 運動会とは別に、勝田郡内の体育大会に選抜で行ったことがある。そのときは6年生のときだったろうか。会場は、勝央町の植月の小学校か中学校であった。校庭に集まってから先生に引率されてバスか何かを利用して行ったのではないか。勝加茂から工門を経て、下野田まで行くと、林野方面に行く大きな旧道に出る。それから北東に向かう。会場の勝田郡植月町の植月小学校の校舎と校庭はいまでも覚えている。「ここは新野より、平坦だなあ」というのが第一の印象だった。
 何に出るかは予め決まっていて、私は走り幅跳びに参加した。三崎君(仮の名)と二人で参加して、その彼が四メートル二〇センチくらいを跳んで優勝した。後日、彼の作文を読んで、あれが渾身の一跳びだったようだ。私の方は、三メートル八〇センチくらいではなかったか。がんばったのだが、距離は伸びずに、肩を落として帰ったような気がする。勝田郡内とはいえ、初めての土地であった。
 学芸会の方は、学年が上がる毎に、教科書か何かに題材を求めたものになっていったような気がする。一年生のときは、森の何とかさんの演題であったのだろうか。写真を見ると、みんな動物たちの仮面というか、手作りしていた。たぶん、画用紙に絵を描いてから頃合いの大きさに切り取り、「わっか」の部分にゴム輪を取り付けたものだろう。学芸会の跡でみんなで移してもらった写真らしく、私は額に付けたウサギさんの仮面の下から、満面の笑顔がこぼれていた。
 二年生、三年の演題はどうしても思い出せない。「花さかじいさん」だったかもしれないし、何かの創作劇だったのかもしれない。いずれにしても、台本があって、何度も何度も練習したり、小道具、大道具を作ったり、振り付けの歌を歌ったりで、先生の指導の下、
まるで現代のミュージカル劇のような感じで、楽しく取り組んでいたのではないか。
 あれは四年生か五年生の時であったか、『竹取物語』をクラスでやった。私の役柄は、おじいさんであった。その中のかぐや姫の『姫の告白』では、「おのが身はこの国の人にあらず。月の都の人なり。月に帰らねばならぬのに」と言って姫が悲しむので、どうしようもない。最後は、姫が月に昇って帰っていくのだった。
 六年生のときだったか、『ペルシァの市場にて』を学芸会で上演した。この『ペルシャの市場にて』は、イギリスの作曲家アルバート・ケテルビーが1920年に作曲したそうな。クラシックのその曲は、音楽への入門にはもってこいの名曲なのだそうである。
 私が受け持っていたのは、楽器と合唱のうち、アコーデオンを弾くことであった。これが大変だった。何しろ、この楽器はいすに座って、丸抱えしてからね左の手であのぶ厚いびらびらしたのをおもむろに広げたり、閉じたり、その右手では鍵盤を弾かないといけない。
 鍵盤を弾くのは、私のように楽譜が余り読めない者でも、何十回と練習しているうちに、課題曲を一通り、なんとか弾けるようになっていた。曲のテンポがゆるやかなことも幸いした。ところが、左手の方はこれが慣れるには大変だ。広げるのはじわじわと行い、一杯広げたときはもて余す位になってしまう。それでいて、今度は圧縮して中の空気を押し出す段になると、それはそれはもう重くて重くて・・・・・。何回も何回もくりかえしているうちに、腰は重いし、腕はだるいし、ただ鍵盤を弾く右手の指だけが曲の動きを追いかけているようであった。
 それでも、小太鼓のリズムに乗せて、ピッコロのメロディがひょっこりひょっこりと、だんだ近づいてくる。砂漠から近づいて来るかのようなキャラバン(隊商)が街の市場(スーク)に徐々に近づいてくるのは、なんだか愛嬌がある。
 その当時は知らなかったが、歌の内容も「アラーの名においてお恵みを」という「物乞いの歌」なのだそうで、ケテルビーはペルシャを訪れたことがなかったそうな。いわば想像の世界ということになる。イスラムの人は、施しを求める者には何かしらを与えるものらしい。ここでいうところの「アラー」は神の名前ではなく、神そのものであるといわれる。
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新41『美作の野は晴れて』第一部、初秋の風1  

2014-09-26 20:41:05 | Weblog

41『美作の野は晴れて』第一部、初秋の風1

 夏も8月の盆くらいになると、暑さがこころなしか和らいでくる。加茂川は吉井川の支流の一つ、我が家から歩いて40分くらいのところにある。概ね南北の方向に流れていて、この時期の堀坂(津山市)付近では川幅は数十メートルにもなることがある。
 その加茂川に、掘坂内外の子供達が楽しみにしているものがある。それは、8月の「井出落とし」(いでおとし)と呼んでいた。「井出」とは堰(せき)のことで、これで加茂川の支流の水を堰き止めて、周囲や下流にある田んぼに水を廻していた。その水が要らなくなると、それまで溜めていた堰の水を開放してその支流の自然な流れに任せてやる。これによって堰に至るまでの水路の水が減ってくるので、その長い水筋のあちこちに棲息するようになっている沢山の魚たちにとっては進退窮まるというか、おそらく驚天動地のことになるのだろう。西下の子供にとって夏の最大の楽しみであったのかもしれない。
 小学校の低学年までは、先輩達に連れられて6、7人で連れだって、小網と「びく」を持って出かけた。川の本流での釣りは許可証を持っていないと許されない。その辺りで魚がいるたまり場を狙って釣糸を放り込めば、「入れ食い」状態でいくらでも魚がくいついてくるのではないか。因美線の美作滝尾駅に続く道の川沿いに、暫くひとむらの木立が茂っている処がある。あの『寅さん』の映画でもこの山間の駅が出ていた。それを横切って降りていくと川岸の中州に出る。そこには川岸から水路を掘って、用水を引いてある。私たち、漁業組合の着行軒その土地の外の者でも、そこでなら魚取りをしてよい。
 用水に足を踏み込んで、手探りしていく。どうやら、岩穴の奥に魚が潜んでいるらしい。そこで、粘って葦なんかの棒を使って住み家をかき回してみる。魚がいたたまれなくなって川の中流に踊り出してくる筈だ。チョロチョロッと足早に逃げようとするので、そこを素手か小網で捕まえる。頭のでっかい魚とか、八つ目鰻、鯰、モツゴ、ネコギギ(「チョッカン」と名付けていた。)とかいろいろ獲れていた。
 ある年のこと、上流で鯰(なまず)を先輩の武(仮の名)ちゃんが取り逃がし、ちょろちょろと逃げだして、たまたまその支流で構えている私の網に取り込まれた。武ちゃんは大層悔しがった。私は「独りでに自分の網に入ってきたのじゃから」と心の中で呟いたけれども、喜ぶどころか、嫌な気分だった。なぜあのとき、快く彼に「僕のものじゃないから」といって譲ってあげなかったのかが悔やまれる。
 帰りは疲れと坂のため、自転車を押して帰った。びくの中は一杯で楽しかった。佐藤のうどん屋の近くに大イチョウの木があって、ぎんなんの実を小枝を使ってたたき落として集めていた。かなり集めたところで、持ち主のおじさんに見つかった。
「おまえらどこの者か、何をしているんじゃ」
 私たちは、「やられた」 とみんなで観念した。 こちらが無断で他人の家のものを取っていたのだから、どうしようもない。
「すみません。僕らは西下のもんじゃけえ。人の家のものとはしらんかったんじゃ。許してつかあさい。」
「なんじゃあ、西下のもんかあ。こらえちゃるけん、もうこれからはするなよ」と許してもらった。
「すみません、もうこれからはしません」とみんなで言ったのかどうなのか・・・・・。
 半刻ばかりの我々の「悪ガキ」の成果は巻き上げられたのだが、現場を押さえられたのだから、どうにもならなかった。私たちは、しょんぼりして魚だけで我慢した。
「井出落とし」でたくさんの魚を持ち帰ったときには、母や祖母がしょうやくを手伝ってくれた。後に知ったことだが、滋賀県の田舎では今でも「ふな(鮒)寿司」といって、1年間くらいその魚をぬか漬けにしておいて、おかずが少なくなる冬場などによく食べる週間があるそうだ。これは、発酵食品であり、乳酸菌が多量に含まれている。我が家では、焼いた上で干し魚としておいたり、酢醤油につけておいて食べていた。ともかく、貴重なタンパク源であった。
 普段の魚取りは、村のなかでも、小川が流れており、なかでも東の田圃で行った。釣りについては、渓流釣りとかはしたことはない。もっぱら、小川で釣りをした。田圃に撒く肥、つまり牛の糞と藁の混ざったものの山がある。帽子をめくって少し剥がすと、太さが2、3ミリメートルほどのシマミミズがたくさん生息している。それを缶詰の缶に詰める。
 こうして準備を整えてからいそいそと出かけていく。年齢の近い3人から4人で行くことが多かった。目的の川に着くと、荷物を置いて川釣りの場所を物色する。水がよどんでいてから底の見えない、しかも草が生い茂っている辺りがポイントに適している。
「いるか」
「ちょっと待って、まだよう見えん。」
そう言ってさらにかがみ込んで水中を観察する。じっと眼を凝らしているとメダカだけではなく、まだ小魚のモツゴや鮒の泳いでいる姿が見えてくる。
「おるおる。おるでーっ。いま、あそこの水溜まりの中へ入って行ったところじゃ」
「そろそろさおをたらそうか、泰ちゃん」
 勇介(仮の名)君が聞いている間に、気のはやい浩一(仮の名)君はもうその作業を始めている。
「うん、やろう」
と僕が気取られないように静かに答える。
「僕もやる」
 誠(仮の名)君もやる気満々のようだ。
 みんなで川の岸に並んで腰掛けた。手製の竹竿に釣り糸が固定されているのを確かめる。釣り針を釣り具セットの中からとりだしてその釣り糸に結わえ付ける。魚針にミミズを突き通して、それから川面に投げる。
 あとは時間の経過の中で辛抱強く待つだけだ。仕事にならないうちはひなたぼっこの錯覚すら覚える。ウキにいろがついていて、それが浮きつ沈むと鳴り出すと、魚がかかっている証拠だ。おもむろに引き上げると、鮒やクチボソ(モツゴ)がかかっていた。クチボソ(モツゴ)が肝臓ジストマの中間宿主とは知る由もなかった。イシドジョウや鯰も清流のよどんでいる所にいた。イシドジョウとは、関東ではみかけたことがない。縞模様のような筋が入ったドジョウのことである。
 狐尾池では、早朝に縁を歩き、土泥に残されている足跡をたどってカワヒガイ(カラスガイと呼んでいた。)を採った。泥に筋がついているので直ぐ居所がわかる。たまにじゅんさい採りもした。睡蓮の一種で池の浅瀬の湖面に薄緑色の葉が浮き出ている。そこから茎が紐のように下に長く伸びており、その紐状の茎をたぐり寄せ新芽の部分をつかみ取る。池で水泳したおりにはよく食べていた。
 池の上(かみ)や下(しも)の小川でシジミやゴカイを採った。しじみは清流の砂泥でないと棲まない。卵を生む種類としてはヤマトシジミだったのかもしれない。僕たち子供が採っていたシジミの親は自分と同じ形の子供を産むのだろうか。信じられないほど小さいシジミの子供でも殻を背負っていた。マシジミという種類の貝なのだろう。
 土をゴマフルイにかけると生まれたばかりのちっちゃいしじみも網にかかる。その子供は大きく育ってもらわないと困るので、また小川に帰した。誰におそわったということではないが、その頃はまだ自然の恵みを大事に扱うことを忘れなかった。
 魚の取り方にはいろんなものがある。せき止めたり分流を施すなりして、川の流れを制御できるところでは、バケツで水を汲み出した。魚も必死だったのか、この方法では漁は少なかった。いまから省みると、あそこまでやることはなかった。あのような自然体験を子供に伝承すべきではない。根こそぎ魚を捕獲するような真似をした自分があのとき正気であったとは思いたくない。ここ比企丘陵の武藏嵐山町の広報(2000年5月1日付け)を見ていると、こんな記事が見える。
「幼少のころの夏の思いでの一つに川遊びがある。近所の友達と一緒に手ぬぐいとバケツを持って川へ行き、足首ほどの浅瀬に入る。2人で手拭いの両端を持って広げ、川原に目を凝らし岸側に向かって、一気にすくい揚げる。すると、その水の引けた手拭いの中にはぴちぴちとした小魚が沢山とれる」と。
 魚の他にも、小川や溝にはさまざまな虫がいた。生物図鑑で見ると、渕と呼ばれる水がよどんで深みのあるところにはヤマサナエ、ヒメサナエ、流れの速い早瀬にはヘビトンボやチラカゲロウ、波静かな平瀬のあたりにはオナシカワゲラというようになっているが、どれとは言えないまでもかなりの種類を見たように思う。これが加茂川になると、ますます珍しい生き物たちを発見した。
 浅瀬に入って石ころをひっくり返すと、そこに小さな水溜まりが出現する。そこには、水生昆虫から川蟹、トンボの幼虫から巻き貝のような生き物までいた。川蝦の中には透き通るようなものもいた。これらの生き物がいるということはその河なり池が清流であることを意味していたのではないか。そういえば亀もいた。
 その川では遊びもした。どこからか笹の葉を取ってきて、それで「笹舟」を作っては上流から流した。その笹舟は、速い流れに乗って遠ざかっていった。流れがよどんでいるところで立ち止まったりするものの、棒か竿の先を使って流れている方へと出してやると、その流れに乗って、また勢いよく流れていく。さすがに加茂川の流れだと思った。
 川の魚を持って自転車の荷台に載せて帰ると、家族に誉めてもらえた。それがまた励みになった。台所の手伝いをして、魚が鍋の中でぐつぐつと香ばしい香りとともに煮立っていく様を見ていた。
 珍しいところでは、イナゴ(稲子)取りがあった。イナゴは夏の終わりには成虫となる。イナゴはイネの葉っぱを食いちぎるばかりではなく、青く膨らんだ米粒も食べる。カマキリとかの天敵はいるものの、なにぶん数が多い。たぶん、1反の田圃ともなれば、それこそ数千単位はいたのではないかと思われる。稲の穂がふくらみ始めた田圃に分け入ってみると、一つの稲穂に複数のイナゴがまとわりついて、あごをさかに動かし、かじりついていることもめずらしくない。
 晴れた秋の日には、我が村々の子供達は遊びがてらにイナゴとりにいそしむ。イネの茎を下から上へ指を立てに筒状にして引き上げるとイナゴが捕まる。バッタや「スイッョウン」(そう泣くから名付けていた。)のような俊敏さはないので、捕まえるのはさほどに手間はかからない。
 袋に入れて、採ってきたイナゴは、すかさず竹串に刺していく。家の庭に七輪を出して、炭に火を点け、その上に鉄の焼き用のあみを載せて、その上に串刺しにしたイナゴを焼いていく。「ジュウジュウ」と油が出てきて、辺りは香ばしい煙に包まれる。こんがりと焼き上げたところで、新しいものと交代させて、たくさん焼く。
 祖父の指導で薪割りをする。割木の割れ口がちょうど穴にさしかかっているときなど、蓑虫(みのむし)を発見することがある。そんな時は、その穴に手を突っ込んでつまみ出してから、軽く焼いて食べる。我が家だけではなく、西下の他の家でも食べていた。そのようにしたのは、本能からであったのかもしれない。
 食べられる昆虫をせっせと取ってくる。それを家族や友人が寄り集まって、せっせと食べていた訳だが、これがまたおいしい。当時はまだ食べ物が豊かではなく、こういうもので不足しがちな動物性タンパク源を補っていた。平たくいうと、その季節になると子供が本能的が行う狩りのようなものだったといえる。

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新38『美作の野は晴れて』第一部、津山へ鳥取へ奈義へ1

2014-09-26 20:39:10 | Weblog
38『美作の野は晴れて』第一部、津山へ鳥取へ奈義へ1

 津山の花火大会は、小学校時代に2、3回位は観に行ったことがある。津山市上之町でセロファン加工業を営んでいた叔父さんのところに、日帰りで行かせてもらったのではないか。当時の津山は、私にとってきらびやかな世界であった。家並みがすごく密集している。人がすごい大勢いる。そんな津山の中心部から少し離れたところ、市内川崎の地におじさんの家があった。前は工場で、その奥の方が住居であった。、
 母から「おばちゃんが、来てええよ、というてくれんちゃるから、泰司いってきたらええ」といわれ、はるばる上村まで歩き、そこから中鉄バスに乗った。
「8月18日(日)晴れ
午前10時半、兄と二人で、津山の親せきに行った。玉林でバスをおりた。行く手には、大きなセロァン工場と家がある。そこが、おじさんとこで、吉井川の北の田んぼの中にある。工場では、多くの人が働いている。家に入ろうとすると、二階からおばさんが、「ようきんちゃったなあ。早くあがりなさい」と、言われた。くつをぬいであがると、ホテルのように、へやがひとつずつにくぎられていて、とてもきれいだった。」(美作教祖勝田郡協議会教文部編「勝田の子・下」1964年刊より)
 そこでは、たいそうなごちそうがあった。刺身もそうだが、イワナや鮎や、それに海のえびの天麩羅(てんぷら)があったような気がする。それらの並べ方は洋風で、なんだかエキゾチックな気分に浸された。始めのうちは、緊張して、体も気分も縮こまっていたものである。
「泰ちゃん、ぎょうさんたべんちゃいよ(食べなさいよ)」
おばさんは遠慮しないようにと気を使ってくれた。
 一応「うん」と頷いておいて、それでも、 「こげなごちそうを食べていいんじゃろうんか」という思いから一呼吸の間を置く。箸を付けるときにはちらっと上目使いでおばさん達の様子を見たことを覚えている。
 夜になると花火が始まる。「スルスルスルスルー」 と漆黒の夜空に火の玉が昇ってゆく。上りきったところで、火の玉は一端消える。今津屋橋のその一つ北にある今井橋のあたりだ。それから数秒の間を置いて「ドーン」 という音がこだましてくる。打ち上げ場の吉井川河畔からやや距離があるので、程よく聞こえる。
 漆黒の夜空に花火の大輪が咲く。家が建て込んでいるためにそのままでは見物ができない。だから叔父さんの家の屋根に上がって見物した。一変に視界がひらけ、そこから観賞する花火は格別だった。今津屋橋の方まで、連れられていったこともあった。
 花火のフィナーレは、大がかりな仕掛け花火であった。下流の向かいの今井橋のところに「ナイアガラの滝」のような形をした花火がかかった。今から考えると、きっとあれは「水中花火」で水面ぎりぎりのところに仕掛けてあって、その場で咲いた花火が水面に映し出される効果を狙ったのではないか、まるで万華鏡のような鮮やかさと光の綱渡りの様が今でもまぶたに焼き付いて離れない。子供心にも、すごい人の波と、盛大な花火に、こんな美しい光景があるんだという思いであった。小さい胸が抱いた感激は、その色あざやかな光景とともに僕の身体にしまい込まれた。
 津山市内には2大社の祭りがある。徳守神社(津山市宮脇町)の祭りと大隅神社(津山市上之町)の祭礼がそれである。徳守神社は1603年(慶長8年)、津山城下の総鎮守として現在地に移設された。大隅神社は1620年(元和6年)3月、津山城の城門守護として現在地に移設された。開催日は両神社とも秋たけなわの10月となっている。徳守神社の御輿は勇壮華麗だと聞いていた。上之町の大隅神社の祭りの山車は、いつの日か何かの用事で中鉄バスに乗っていて、津山大橋にさしかかったところで山車が練り歩いているのに出くわしたことがある。
 5学年の夏、授業の一環で海水浴に連れて行ってもらった。小学校からバスに乗って鳥取へ向かう。その日は海水浴をして、鳥取砂丘を見て、東浜海岸の宿に泊まる。翌日は美しどころを案内してもらってから、二十世紀梨の梨園を訪れ、昼食を済ませてからバスで帰る。なかなかに盛り沢山の旅で、中でも日本海(韓国の人は「東海」と書いて、「トンヘ」と呼ぶ)を初めて眺めるうち、ここが「因幡の国の白うさぎ」の神話につながる舞台か、という古(いにしえ)の日本への思いも脳裏に浮んでいた。
 準備では、日程のしおりをつくったりした。その旅行の出発の日から数日前のことであったろうか、宿に持って行くお米を学校に持っていった。大きな袋が用意されていて、私たちは家から2合くらい入った巾着なりをその場で開けて、その袋の中に順番に注いでいった。このことは、なんのことはないように思われるかもしれない。
私も、自分の巾着のひもを緩め広げて、袋の中に米を投じた。その瞬間、私は目を見張った。私の前まで、袋には白いコメ(精白米)が投じられてきた。そこへ、私の持って行ったコメは玄米の色をしていたからである。投じたあとも、別の人が次から次へと持ってきたコメを投じていく。私は恥ずかしさに覚えながら、後退した。その場から早く立ち去りたかった。
 当時の私には、「百姓の子」でありながら、なんの知識もなかった。いわずもがな、私の持って行ったコメは水車でついた(「精米した」)コメであった。荒糠(あらぬか)を入れるので、水車の臼と杵でついたコメは胚芽がついている。そのため、色は白くなく、麻色をしている。なんら引け目を感じることではなかったのだ。
 バスは、学校から工門(くもん、当時の町役場のあるところ)に出て国道53号線を鳥取へ向かったのだろう。生まれて始めて見る鳥取の浜はだだ白く広かった。海に足を踏み入れたのか覚えがない。浜に流れ着いている生のワカメが茶色であることも、そのとき知った。
「われは海の子 しらなみの
さわぐいそべの まつばらに
けむりたなびく とまやこそ
わがなつかしき すみかなれ」(文部省唱歌「われは海の子」)
 東浜海水浴場は広い。池とかは比べものにならない。何しろ、向こうの彼方は日本海の水平線が見える。その向こうには何も見えない。だだ驚いた。浜辺に近いところで、隣合わせの仲間を確認しながら泳いだ。それでも、いつもとは違う環境なので、向こうから波がさあっと近づいてくる。すると、なにやらのみ込まれてしまうような気がして、その度に自分がいまいる深さを確かめた。泳ぎの達者な人にとっては、海の広さを満喫できる機会になったことだろう。
 鳥取砂丘にも連れて行ってもらった。砂漠学校の音楽の時間に習った月の砂漠はこんなところかと思った。らくだにも出会った。乗せてもらった人もいたようである。  
「月の砂漠を はるばると
旅の駱駝がゆきました
金と銀との鞍置いて
二つならんでゆきました」(作詞は加藤まさを、作曲は佐々木すぐる)
 この歌を口ずさんだり、聞いたりしていると、なにやら自分が姫を連れて、遠い異国の、しかも砂漠を旅しているような錯覚を覚えた。砂漠など見たことも通ったことがない。ところが、はるか向こうに蜃気楼が揺れ動いて見える。この砂漠を俯瞰してみることができれば、オアシスもあって、そこには傘の格好をしたナツメヤシかバナナのような木が伸びている。古の砂漠の隊商たちも、道を迷った時など、そんな幻想を見ていたのかもしれない。足の裏では、「キュッキュッ」という砂の感触がある。風は少ししか吹いていない。向こうには、快晴の空と砂の交わるところに海が見える。その海はギリシァ物語に出てくるエーゲ海のように紺碧に青い。目の前には途方もない視野の広がりがある。なんとなく、心が拡がっていくようだ。
 夕方には、東浜の近くの宿に着いた。どんな旅館であったか、その外観は想い出せない。私たちの部屋は2階にあって、男子は隣あわせの部屋に、10人ずつくらいのすし詰め状態だったが、先生たちが決めたことなので不満はない。私も何かの担当を仰せつかっていて、1階の広間に行って明日の海水浴などの予定を聞いていただろう。
 夕食の前に風呂にグループごとに代わる代わるで入った。なかには大人びた体になっている学友もいて、洗い場で前を洗うときは隠すように石けんの泡のついた手ぬぐいでごしごしやっていた。大広間で行儀よくして箱膳に向かった。海の近くのことだから、多分ごちそうもあったのではないか。育ち盛りなのだから、ご飯のお代わりだけはお願いした筈だ。
 夕食が終わると、それぞれの部屋で話をしたり、とにかくのんびりして時を過ごした。女子の部屋では、先生に叱られない程度にあやとりとか、折り紙とかして、仲良く時を過ごしているだろうに、男子は足の動きを止められると、陸に上がった魚のようになってしまい、どうにもすることが余りない。部屋の片隅に行って、追って提出の沙汰となる今日一日の反省をノートに記したり、先生の呼びかけで班長や副班長になっている人が明日の予定の打合わせをしに、別の部屋に行くこともあっただろう。明日は、二十世紀梨の農園に立ち寄ってから、帰路に就く予定になっている。就寝時間は早く決められていて、まだ話足りないのに、消灯となる。それでも部屋の中では、ぎゅうぎゅう詰めで寝ているので、なかなか収まらない。そのうち、枕を投げての「合戦」が始まってしまった。そのうちに先生が駆けつけ、
「おまえら、何をしとるんじゃあー、はよう寝なさい」
とこっぴどく叱られた後、先生が大部屋を出ていくと、さすがにまた騒ぐわけにはいかないので、その夜は互い違いに入り乱れて眠た。
 翌日、旅館の朝は早い。食事を済ませ、旅館の人に見送られてバスは出発した。途中で景色のいいところに立ち寄ったようであるが、もう少しのところで記憶をたぐり寄せることができない。梨園に着いたときは、10時くらいではなかったか。「20世紀」と呼ばれる品種が実っていた。秋ではないのに、取ってよかったのか、詳しい事情はしらない。梨園の中は土が軟らかく、踏みしめたときの感触をいまでも憶えている。梨はその場で農家の人にとってもらって4個くらいいただいた。瑞々しくて、流れるような甘さが口の中に広がった。

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新37『美作の野は晴れて』第一部、夏の子供たち3(勉強など)

2014-09-26 20:37:07 | Weblog

37『美作の野は晴れて』第一部、夏の子供たち3(勉強など)

 夏のある日、西下のFOS(フォス)少年団と子供会で合同のキャンプに出かけたことがある。今の子供たちのようなキャンプ場がまずあって、そこに出かけるというのではなく、急ごしらえの場所を作って行った。
 FOS(フォス)少年団は、「友情、秩序、奉仕」の精神の下、1962年(昭和37年)に日本体育協会が設立した日本スポーツ少年団とは別のもので、1964年(昭和39年)、当時の岡山県の三木県知事が音頭をとって結成された。勝北町からは、日本原、大吉、西中、西下の4つの少年団が勝北支部を作って参加した。この少年団には小学校を卒業するまで入っていた。子供塊の方は、お兄さんたちのお誘いがあれば、その都度、中学生であっても行事に参加していたのではなかったか。
 キャンプの場所は、北端の我が家から300メートルばかり離れた町道沿いの松林の中だった。青年団のお兄さんたちが木々を刈り取って場所を造る。青年の人はてきぱきと仕事をこなしていく。まるで荒野を開墾しているみたいだ。
 およその縄張りが決まると、その周囲に溝を掘っていく。こうしておかないと、雨が降ると敷地内に水が入り込んで、冠水してしまう。一応の敷地が出来ると、そこにテントが張られた。これは大作業であって、子供も手伝って、どうにかこうにか立ち上がった。テントの4つの端は杭で地面としっかりつながれているので、安心してよい。
 キャンプでは、一日目の午後に土砂降りの雨に見舞われたことがある。その時の私は6年生であったようで、そのときのことを日記に次のように書いている。
「8月1日(土)、晴れ後ゆうだち
午前8時半、きょうは、子どもクラブのキャンプだ。ぼくはわり木を持って家を出た。まだ一人しか来ていない。だいぶんそろってから仕事にかかった。テントをはる仕事、木を切ったり、ほりおこしたりする仕事、それをとり除く仕事、青年の人の時計を見ると10時45分だ。しかけてから1時間30分ばかりたっている。額からあせが出る。太陽がいやと言うほど、ジリ、ジリ、ジリと照りつける。ぬぐってもとどめなくあせがふき出る。
 12時近くになって用意ができた。昼食に家に帰った。2時からキャンプ地に行った。3時間ぐらい遊んで5時頃夕飯の仕たくにかかった。中学生がライスカレーをする。ぼくらは、はんごうでコメをたく。たきつけて1分ほどたったころ、黒味がかった灰色の空が東から西へとみるみるうちに広がって行く。
 「ゴロ、ゴロゴロ」。かみなりがなったとたん「ジジャー」と雨がふり出した。ごはんをたきつけたままみんなテントに飛び込んだ。「ガャ、ガャ、ガャ」と、テントの中はやかましい。小さい子は、かみなりがなると、へんな声をあげる。青年の人は大そうどうである。テントの北の柱が、ぐらぐらゆれる。40分ほどでやっとやんだ。外へ出ていそいでごはんをたいた。6時半ごろ、ライスカレーを食べた。なかなかおいしかった」(美作教祖勝田郡協議会教文部編「勝田の子・下」1964年刊)
 夏の天気は変わりやすい。また、たたきつけるように降る大粒の雨になるかもしれないと考えると、テントの中にいても気持ちは落ち着かない。水は近くの家のおばあさんに頼んで使わせてもらった。そこの水は、山の地価から来る伏流水であった。その水は清いばかりでなく、実においしかった。いつもの水のおいしさよりも、何かが違う、名水とはそのようなものなのだろう。この地にどれだけの伏流水が脇出ところ、名水の源があるのだろうか。いつか時間をみつけて、それを探ってみたいと思う。
 家でご飯の炊き方は心得ていたが、飯ごうでの炊き方は教わっていない。飯ごうをつるすところは長めに穴が掘ってあって、両側に木で支えをしてから竿で飯ごうをつるす。そこへ、下からたき火をして飯盒ご飯を炊くことになっている。
 とはいうものの、飯盒炊きの大体のことはそれと似ているところもあって、どうにもならないほど迷うことはなかったといっていい。飯ごうの蓋から水がこぼれ落ちなくなったら、火を引いて余熱で仕上げる。その理屈はわかっていても、4つぐらいぶら下げている飯ごうに火がまんべんにゆき渡るように、途中で、竿を外して飯ごうの位置を入れ替えてやらねばならない。炊け方がまだなのを真ん中にして、できあがりつつあるのを端にもっていく。火の勢いも調整してやらねばならない。カレーと味噌汁の方は、別の竈で除しが賑やかに作っていた。楽しそうに井戸端会議をやっているので、そちらの方が余裕があるようだった。
 出来上がった飯ごう飯を逆さにして底を棒で何回もたたくのは、底付きを鍋底からはがすためと初めて教わった。こうすると、ご飯が底に付いて離れなくなるのを防ぐことができる。飯ごうのご飯を「へら」ですくい取り、食べたいとはやる心を抑えつつ、「フウフウ」と息を吹き付けてから食べたカレーライスのおいしかったこと、その時の珍しい経験をしたことの記憶は今も脈々と残っている。
 ご飯を食べ終わると、もとの水源に行って食器を洗った。たべつくしているので、残飯整理はほとんどなく、水場を汚すことはなかったようだ。水場を提供してくれたおばさんが出て来て、にっこり笑って、また家の中に入っていったようだ。10分も経つと、飯ごうも汁椀も、カレーを盛りつけていた大皿もみんなで洗い終わることができた。
 あたりは、蒸し暑い夏に戻っている。自由時間は、近くに探検に出ていく人達、テントの中でトランプなどで遊んだり、寝転んでマンガを読んだり、車座になって井戸端会議をしたりで、めいめいの時間を過ごしていた。青年の皆さんの話の輪に入っていると、何のことだったのか、夢を語っていた。当時の私に夢といっても、地に足のついたものは何もなかったので、みんなの話を聞いているばかりだった。
 夜は、道の半分が随分広くなったところがあって、そこは弧を描いたように丸く切り立っている。こちとらは、車が通っても大丈夫である。青年の皆さんによって、中心部に木が積まれてる。松の木の株なんかには油がついた、燃えやすい木もあっただろうし、沢山の燃えるもので小山が出来上がっている。やがて、とばりが降りる頃、たいまつに火が付けられ、「キャンプフアイヤー」が始まった。
 私たち子供は、その火をグルグル巻きして、手をつないだり、離したり。なにやらのすてきな歌に合わせてダンスをするなど、お兄さんたちの音頭とりでいろいろと遊んだ。公会堂の中の板間で遊んでいるときに比べて、仲間や青年の皆さんの顔が赤く照らし出されて、なにやら幻想的な感じがする。自分はいまどんなどころにいるんだろうと、普段とは違う周りの雰囲気に浸ってしまいかねない。
 その場にふさわしい歌があったのかどうか。というか、今はあらかた忘れてしまっているが、あれこれの歌の中から、のどかな鳴き声で人を和ませてくれそうな、カッコウの歌んなかを歌って、みんなで楽しい時を過ごしたのではないか。
 「静かな湖畔の森の影から、もうおきちゃいかがとカッコウが鳴く、カッコウ、カッコウ(4回の繰り返し)」(作詞者不明、外国曲)
 その日の宵(よい)、南に延びている道の右上方に、南の空がやや開けているところには、夏の星座が見えた。上からたて座、いて座、さそり座がうっすらとかかっていた。いて座には、「南斗六星」がうっすらと輝きを見せる。たて座からいて座にかけては銀河系の中心部らしく、天気がもう一つだったにもかかわらず、天の川の帯がやや太く、まだでこぼこや濃い陰影があるようで、あのあたりが銀河系の中心であるらしかった。その下のさそり座は、夏ならではの星座であるが、こちらは南の視界が低空まで開けた場所でないと見ることはできなかったろう。
 夜も9時くらいになると、早々テントに寝転がって寝ることになった。みんな普段より疲れているので、早く寝ることに依存はない。明日は早起きでラジオ体操、食事、後片付け、解散と忙しい。それなのに、蚊に悩まされた。蚊帳(かや)はなかった。香取線香の煙が立ち昇っていくのだが、なにしろテントは屋根だけのものなので、空間は広い。「こいつ」、「パシッ」とおっぱらったつもりでも、蚊はすぐに戻ってくる。しかし、なんとかそれにも慣れてきて、疲れが出て寝ることができた。
 それぞれの思いを刻んでの一日目が終わり、あっさらな二日目の朝が来る。6時よりずっと早起きしたから、水源に行って歯を磨き、ついでに水を仕入れてきて、さっそく朝ご飯仕度にとりかかる。手のあいている人は、キャンプファイヤ-のあったところでラジオ体操を行う。朝食は、ご飯にふりかけや梅干しをつけて、前の日の茄子の味噌汁の残りといった簡単なものではなかったか。追い立てられるようにご飯を済ませてから、後片付けにかかった。食器を洗ったり、テントを畳むのを手伝ったり、炊事場を埋め戻したり、ゴミを一つも残さないように拾って回ったりした。荷物を運んできた車に荷物を運ぶ。何から何まで後片付けをして、現場を現状復帰することで、仕事を最後までやり遂げることを学んだような気がしている。
 私が小さい頃には、での救助訓練はまだなかったのではないか。生活水準が変わると、人々の暮らし向きは徐々に変わっていくものだ。それに応じて人の心や考えも変わっていくのが常だと、今では考えている。そんな中、子供会活動で救助活動のことも習った。その中には、縄の結び形や手旗もあった。結び方は、なかなかのものであった。例えば、大きな木に対して、自分の体を固定して登るとき役立つ結び方とか、荷台に積んだ荷物を固定するときの結び方とか、いろんな種類があった。何度も真似しているうちに、あるときできるようになった。手旗はもともと海洋とか、見晴らしのよい遠隔地で行うのだと思っていた。だから、それを練習するときは、「一体、なんのために陸に住む僕らがせにゃあいけんのか」と思うことしばしばであった。「の」とか「フ」は簡単であるが、2つの動作を合成して初めて一字と成る場合が多く、とても難しい。手旗は教える者は教えられる者が逆の向きなので、頭の中が整理できずよくわからなかった。縄の結び方はいろいろあった。こちらはぐんとおもしろかった。家の仕事で役立った結び目もある。先輩たちが覚えているものを後輩たちに教える。後輩たちは、それを自分のものとして、生きていくために必要な技を、伝統を引き継いでいく。
 FOS少年団の活動も、西下の子供会の活動も、「平井」地域にある西下の公会堂で夕方から行われていたので、終わってあるいて帰るときは大変だった。直ぐ家がとなりの章子(仮の名)ちゃんを連れていたので、家まで大事に送り届ける責任がある。特に、大きな墓が帰り道の途中にあるので、その近くにさしかかると、男だからしっかりしないといけないという気負いと、それでも足ががたつくこともあり、その辺りは、早足で2人で通り過ぎたものである。
 大きな楽しみの二つ目は、夏祭りであった。上村にある真言宗の神前光寺の境内で一度だけ夏祭りに行ったことがある。そのときは何かの大祭であったのかもしれない。赤いアイスキャンデーを口一杯に頬張った想い出があるものの、その1回きりの経験しかない。
その参道には、アイス売りもあれば、饅頭やさんもあった。金魚すくいもあったような気がす。というのは、記憶によると、初めて金魚を見たのは、どうやら学校ではないし、遠くに出かけた時でもないからだ。今から振り返ると、プルンプルンして愛らしい「出目金」には目を見張った。その一方で、流線型でフナの体型に似た「和金型」や動態が丸く膨らんでいる「琉金型(りゅうきんがた)」、背びれがなく、胴体が筒型の「蘭鋳型」も見たのかもしれないが、記憶には残っていないので、断定はできない。

(続く)

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新35『美作の野は晴れて』第一部、夏の子供たち(手伝い)

2014-09-26 20:34:51 | Weblog

35『美作の野は晴れて』第一部、夏の子供たち(手伝い)

 農繁期の農家の就寝は早い。今日の労働の疲れと明日の労働に備えるためだ。特に父は、「朝飯前」に田んぼに出かけて、田んぼの水を見たり、牛の餌用に草刈りをしたりで一仕事をして来る。それだから、10時が来る前に奥の間の寝床に就く。いち早く寝るときは蚊帳(かや)を張って、その中に潜り込むようにして寝ていた。我が家も近所の家も、当時の家周りの衛生状態はかんばしいものではなく、蚊や蠅(はえ)の棲息域は広くて、昼間は茂みとか深い所に潜んでいるらしい。夜ともなると、むし暑いので戸や窓を開け放しておく。すると、家の裏の茂みのあたりからなのか、家の囲いをくぐり抜けて、蚊が「雲霞の如く」集まってくるのである。もっとも、かもいをきちんとしめていても、農家のことだから、隙間は至るところにあって、そこから彼らが侵入してくるのはたやすい。
 夏の暑さは、まだ梅雨の時期にもう始まっている。暦では、6月21日頃の夏至からはもう「夏は来ぬ」と言われる。この時、北半球では日照時間が一年中で最も長くなる。日本のみまさかの辺りは、梅雨の時期と重なるので、その時間はさほどに長くは感じられない。
 この時期には、田の草取りがある。当時は、「虫を殺す」ことよりも、「虫を寄せ付けない」ことを大事にしていた。田植えの1ヶ月位前から田んぼの畦や田んぼ道の草刈りを徹底する。それで刈られた草は牛の餌となる。田植えを済ませてからは、田んぼの中の草取りをこまめにやる。放っておくとカメムシなど害虫のねぐらとなり、稲の若芽を食い散らかすからだ。
 夏休みには、子供も日がな一日、手や草取機で草を取るのを手伝う。この器械は、前に進める車の下に、鉄の切り歯が備えられていて、それを稲の列をままたぐようにして前に進めると、それが回って、ついでに草も取れるという訳だ。歯に草がまとわりつくので、たまってくると、取って地中に足で追い込む。これを稲と稲の間に置いて押すと、機械の二列の駒歯がグルッ、グルッと地面を噛むようにして廻る。数呼吸進んでは一、二呼吸の休みを入れる。駒歯に絡まる草がある程度になると、手で取り除いてから、足で地中に踏み込む。これで地中には空気が入る。
 7、8月になると、春先の3月に植えたじゃがいもが収穫のときを迎える。畑で「みつご」(3本の刃があることからそう呼んでいた)をうち下ろしてジャガイモを掘り起こすには技術が要った、蔓を刈り取った後に、芋の畝(うね)に横から掘っていくと、傷がつきにくい。「あがいそ」と呼ばれる場所にジャガイモ畑があった。そこは池のそばの擂り鉢状に傾斜した畑で、水はけがよく、栽培にて記していた。ほかにも、胡麻や蕎麦を栽培していた。収穫された蕎麦を食べた記憶はない。胡麻は自家栽培のものを食べていた。当時のまわりの農家では、家で栽培できるものはできるだけつくって、その分食費を節約していたのだと思う。
 夏の農作業は灼熱の太陽を浴びることが多々ある。そんな時には、休憩を取りながらやらないといけない。水分補給も忘れてはならない。お茶をやかんにもっていってあり、それを呑んでのどを潤していた。そのお茶は「番茶」といって、家の畑でその茶葉を栽培していた。発酵茶ではなく、それでいて緑茶のように茶葉を蒸したり、釜炒りにしたりはしていなかった。若い茶葉を優先してとってきては、直接頑丈な茶釜に湯をわかし、その中に入れて炊いたものを、自然に冷えるのを待って呑んでいた。小学校の3、4年生の頃までは、我が家に冷蔵庫はなかったように思っている。
 ついでながら、5、6年生の時であったか、「太陽を直接目で見てはいかんぞ、失明するから」と先生から教えられていた。そのときの理科の授業であったのを、ある日、家で実験してみた。じりじりと太陽の光が照りつけるとき、我が家の東側の「かど」(前庭)の日当たりがよいところに行って、虫眼鏡の小さいのがあったので、上の真ん中に黒い丸を描き何十秒か見守っていると、最初煙が出て来て、次にはじりじり黒くした部分にい穴が空くようにして焼けていった。その頃は、他の色に比べて、黒は光りを一番多く吸収するから、虫眼鏡で光りを集めてやれば、吸収する量も多くなって燃えやすくなることの理解とか、「黒」という言葉の成り立ちでは「黒とは光りを吸収するのではなく、光りを吸収してしまう色のことを「黒」というんだという道理までは、ちゃんとわかっていたのかどうかはあやしい。
 ともあれ、そういう大まかな理解は授けて貰っていたので、夏の本場の農作業の合間に、たまに深く被った帽子のひさし越しに垣間見ることはあったにしても、じっと眺めるのは遠慮しておいた。なにしろ、中心部の「核」の部分の温度は、摂氏で約1500万度もあるというのだから、まったくもって驚きだ。加うるに、農作業の途中には、雷が鳴ることもある。雷雲は急にやってくる。始めは空が部分的にくもり、いままで生暖かいかぜというか無風であったのいが、冷気がやってくる。そのうたに、全体として曇り出す。そうしたら、大変だ。蓑を着て作業することもあったが、雨足が強いと目にも雨が入ってきて作業にならない。雷鳴がとどろくようになると、輪くらいもおそれることになる。そんなときは、家族ですたこらさっさと家にたち帰るしかない。ほとんどは、換えるまでに、びしょ濡れになってしまう。
 家の軒先にいて、辺りの暗さの中に、狐尾池の上の森の辺りは黒く煙っている。
「ビカー」
 空を縦に切り裂いて稲光が走り、空の一部がが黄色くなって、大きな雷鳴が聞こえる。
少しおいて、「バリバリバーリバリ」と、爆弾が落ちたときのような音がする。
 「これは近いな」と固唾を呑んで見守っていると、雷は次から次へと繰り返し大音響をとどろかす。
 ここで「雷」というのは元々「かみなり(神なり)」、なすなわち「電」(いなずま)であって、「想像を絶した天地の陰陽の神秘なる交合」(藤堂保『言葉の系譜』新潮ポケットライブラリ)というのが、中国から伝わった本来の意味なのだとされる。
 その雷も30分くらいで、空を切り裂く稲光と派手な雷鳴は遠のいてゆく。それからも、家から見た南の空は時折赤く染まったりする。雨足はやがてゆるやかになり、墨を流したように黒かった空が徐々にあかるんでくる。
 そうするうちに、辺りがさらに明るくなる。家の前の空に、ちょうど虹がかかることがある。空の色はまだ真っ青にはならなくて、「雨過てんせい」の青磁のよな淡い青色をしていた。そこに色鮮やかな虹が橋をかけているのだが、それはそれは美しかった。なぜ、それにいろんな色があるのかは大人にも、学校でも教わらなかった。7色のスペクトルのうち、下から青色、その上に黄色くらいしか識別できなかったものの、全体としてアーチがかかっていて美しい形と色をしていた。
 深刻な水害があったときには、決まって日照時間が短くなっていた。その時間が短くなると、道ばかりでなく、田圃の中もぬかるんできて、カビの一種である「いもち病」が発生する。これにやられると、稲の穂先の部分は黄色になってきて、これを放置すると中に実が入らない。これは大変な収穫減少につながるため、これによる被害が我が家の田圃に広がるといけないので、父と母が連れだって農薬を散布するなど、騒ぎが収まるまでの間は、子供なりに心配でならなかったものである。夏が全体として寒くて、イネの生育の悪い年も何回かあったろう。ただ東北のように極端に日照が少なかったことはなかったのではないか。
 「7月28日(火)晴れ
 午前9時半、祖母と兄と僕は大小ちがったみつご(備中鍬)をかついで、池のそばの畑に行った。ぼくの三つごは小さくて軽い。頭の上から、はんどうをつけるように力いっぱいふりおろす。土がかたく少ししか掘れない。掘っているかいがないように思える。ひと畑終わって次にかかる時あまり暑いので、シャツに手をかけた。始めは軽くぬごうとしたが、ズッとつまってぬけない。やっとの思いで取ると、その勢いでよろめいた。すずしい風が、ぼくの体にあたった。何とも言えないいい気持ちだ。また元気を出して、兄と競争するようにしだした。二通り、四通り、みるみるうちにあとひと通りになった。今まで白味がかっていた土が、がらっと茶色になる。まるで製品を加工しているようだ。対語の追いこみだ。やっと終わったので、三人そろって家へ帰った。」(美作教祖勝田郡協議会教文部編「勝田の子・下」1964年刊)

(続く)

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新34『美作の野は晴れて』第一部、夏の野菜、果物と子供たち

2014-09-26 20:32:02 | Weblog

34『美作の野は晴れて』第一部、夏の野菜、果物と子供たち

 立夏は5月6日頃、この日から立秋の8月7日、8日頃までを暦上の「夏」と呼んでいる。5月の風は全体として薫るが、やがて南のほうから雨期が近づいてくる。ときには、その風が雨を運んでくる。湿気が多いところから、その中にもだんだんにむし暑くなってくる。気温が上がり、夏の気配が感じられるうち、やがて5月が来るや、昼の時間が一年中で最も長く感じられる夏至を迎える。このとき、日の出の太陽は一年中で一番北寄りの山野から昇って来る。早いときには午前4時くらいには、早、曙(あけぼの)の空にもなっている。
 夏の野に自生する果肉といえば、スモモくらいしか思い出せない。夏には、春に撒いた野菜が収穫のときを迎える。家を入った直ぐのところの土間の壁には、農協から配布された野菜の歳時記・カレンダーがかかっている。それを目をやると、種付けから肥料のまき時、収穫の時期なんなが図入りで、懇切丁寧に書いてある。野菜では胡瓜(きゅうり)、トマト、さつま芋、玉葱(たまねぎ)、南瓜(かぼちゃ)、大きなうり、へちま、とうがらし、ピーマン、茄子(なす)、大根(だいこん)、人参(にんじん)、ネギ、チシャ、菠薐草(ほうれん草)、かぶら、スイカ、マクワウリ等々、数え上げたらきりがない。
 圧巻なのは、茄子栽培のための堆肥づくりである。まず、2メートル四方位の苗床の外枠を父が作る。そのそばには、冬の間に、牛の納屋から下肥を運び出して、それを稲藁と段々重ねにして、祖父が東の庭に積み肥にしておいてくれている。それを少し崩してきて、丸フルイをかけると、牛糞と稲藁や籾殻の細かくちぎれたのが合わさって、柔らかな黒土ができる。こうして、土の厚い層で出来上がると、茄子の苗床が完成となる。それからは苗植えにとりかかる。水を漏斗を使って丁寧に撒く。その上に、農協の売店で買ってきた茄子苗を10センチ間隔位に、一本、また一本と直列に植えていく。
 碁盤の目のように植え終わると、直射日光を避けるためにビニールで覆っておく。ある程度の大きさに育つと、畑に持って行って植える。それから1か月くらい経つと、夏の盛りとなる。なすの木一本からは、繰り返し沢山のなすがとれる。全農(全国農業共同組合連合会)の現在のチラシによると、栃木県の壬生(みぶ)の農家の話では140~160個もとれるのだそうだ。生長も早い。紫の花が咲く。
 野菜栽培には、追い肥もしたようだ。トマトや唐辛子、茄子やジャガイモのように追肥をしてやらないとなかなか実がなってくれないものと、さつま芋や南瓜(かぼちゃ)や胡瓜のように旺盛な育ちをするものとがある。肥料にも、コメを精米した後の荒糠(あらぬか)から化学肥料までの比較的上等なものから、動物が排泄したもの、植物を積んで発酵させたものまで、いろいろある。野菜造りで主に使ったのは下肥という人間の糞尿で、夏の日差しの下では臭いことこの上ない程だった。水がないとボケなすになってしまうので、日照りの続くときは、バケツを天秤棒で担いで畑に行き、水を柄杓で振りかけたものだ。どうやら、田んぼの肥えは牛糞で、畑の肥は人間の糞尿でという区分けができていたのかもしれない。
 食べ方は、いろいろとあった。例えば、茄子の食べ方は千差万別にある。焼いたり蒸したりして皮を剥いでから醤油をたらして食べる。それには生姜を加えるともっと美味しくなる。ミョウガとかも加え、浅漬けのようにして食べると便利だし、みそ汁に入れても美味しい。油で揚げるのもよし。夏には簡単に調理できる、いわばうってつけの野菜として我が家の食卓を飾っていた。唐辛子は1542年(天文11年)頃、ポルトガルから伝わったとされる。我が家では、油を敷いて炒めて更に載せ、上から醤油をかけて、御飯のおかずにしていた。それに、普段はわさびがなかったので、唐辛子の辛いのと山椒、それに柚なんかを香辛料に使っていた。これだと、夏の食欲が細い時も、御飯がすすむ。
 これらに対して、ミズナ、キャベツ、ネギ、生姜、サヤエンドウなども育ってくる。これらのうち、ネギと生姜は油で炒めたものを味噌に練り込んでおくと、一週間位は長持ちして、胡瓜なんかの生野菜に添えて食べると、美味しくいただける。サヤエンドウは11月に種を撒いて翌年の初夏から梅雨にかけて収穫する。まだ柔らか、ふっくらしてきたものをもいで、軽く湯がして食べると美味しい。珍しいところでは、こんにゃく、そば、胡麻やらっきょうも家で少量ではあるが栽培していた。さつまいもとのつき合いはよく覚えている。収穫の畑ではまず芋の蔓を鎌で切って取り除いた。それから、「みつご」と呼ばれる鍬を使って掘り起こしていった。掘り起こしには見当を付けて用心深くしないと、根菜を傷つけてしまう。掘り出したさつまいもはかますに入れて余り間を置かずに人間や家畜の食用になるものと、種芋を含めて貯蔵するものとに分けられる。長期保存が必要なものは、「きびや」の庇の下に1.5メートル四方くらいの穴が掘られていて、その中におがくずにまぶして埋めておいた。
 さつまいもは焼き芋ばかりではなく、蒸して食べた。蒸した上に輪切りにして、日乾しにして食べたりした。ついでにいえば、生前の祖母が戦時中にどぶろくを作ってここに隠していたらしい。食糧の徴発にやって来た憲兵隊にそれを見つかってしまい、祖母の話では泣いて「つい、出来こごろで作りました。許してつかあさいなあ(許してください)」と懇願したものの、全部持ち帰られた話しを聞いたことがある。
 それから、きゅうりといえば緑の細いものばかりが市場に出回っているが、当時は「加賀太」という品種であったと思うが、もっと薄い緑色で太く長かった。きゅうりを薄切りにして塩もみしておくと、果肉が大変柔らかくなる。これに酢、煎り胡麻とサンショウの葉をすり込んで、最後に砂糖を少々いれてかき混ぜると酢の物の出来上がる。これをおかずにすると、食欲が進む。それだけをぶっかけて御飯を3杯くらいは掻き込めるようなおいしさだった。
 かんぴょうの元は、巻くわ瓜である。正式にはユウガオと日本では呼び習わしている。ひょうたんで知られるユウガオのような胴にくびれはない。中国の破蜜瓜(ハーミークァ)と違うのかはわからない。これを収穫して、家の土間にあぐらをかいてグルリグルリ廻しながら皮を剥いていく。出来上がると、竿タケに吊して天日干しにする。
 こんにち、有機農法が人気を博しているが、当時はすでに化学肥料が幾分か入っていた。窒素、リン酸、カリウムのなかでは直径2~3ミリメートルの粒状の窒素肥料が主体であったように覚えている。農薬の方は茄の苗やトマトなんかには使っていたものの、他の野菜についてはあまり記憶に残っていない。
 特別にうまいと思ったのは、まだ青々とした茎を付けている玉葱を煮たものである。これがたいそううまかった。かんぴょうは収穫の後、家の中庭で小刀の刃を二重にしたような皮むき器で長い帯状に剥いていった。似たようなものに、冬瓜(とうがん)がある。冬になっても水分が失われないことから、この名前がついたらしい。こちらは、我が家で栽培していたかどうかの記憶がない。
 この種の労働は大した力はかからず、また刃物扱いもゆっくりで危険も少なくてすみ、比較的楽しかった。漬け物つくりは冬場だったと思うが、例外は、白菜、それかららっきょうと梅干しなどであった。1年越しで畑で育っていたらっきょうを収穫するのは5月下旬から6月にかけてで、「みつご」を地面にうち下ろすと簡単に掘り起こせる。一つひとつ丁寧に皮を剥いていく。玉葱の皮を剥くときのように眼にしみることはないものの、細かい指先の作業のために数が多くなると結構根気がいる。きれいにすると水洗いをして乾かしておき、とうがらしと一緒に漬けていく。千葉の農家のようなサッカリンを入れたかどうかはしらない。
「おばあちゃん、らっきょうはもうたべれるじゃろうか。」
「まだじやなあ、この前漬けたばかりじゃけんなあ。あと2か月もすると、やや黄色いものになるけん、そしたら、たべられるようになるで。」
「泰司、もう食べてもええで。うまいで」
と味見しながら「うまい。でももうちょっとかなあ」と首を傾げる。
「まだ食べれんで。らっきょうは精がつくけんなあ。ぎょうさん食べると血が騒いでのぼせるでえ。漬かって食べれるようになっても、ほどほどにしとけや。」
 梅干しを漬けるときは大して手伝ったことはなく、祖母が作業を行うときにそばで見物していた。2年か3年に1回漬けたようだ。梅をいれる。その後に生姜を入れ、しその葉を揉んで入れる。最後に塩を手掴みでいれる。
 茄は、よく洗ってぬか漬けにした。米を精米するときには「荒突き」といって、胚芽の部分を残すぐらいのつき加減にしていた。米糠は農家にとってはただなので経済的な漬け方である。それでいて奥行きのある味がする。ぬか漬けの容器は小さな亀とか琺瑯製の蓋付きのものだった。亀のものでは食べるまでに何度も手を入れて、味が馴染むようにする。これをしないと、表面が白くなってしまう。「いい加減」につけ込んだものを食べると、えもいわれぬ香りがあって、味もほのかに甘くておいしい。
 簡易的に茄を切りにして塩揉みして密閉容器に入れておく方法もある。1日もして水分を絞り採ると、醤油をかけて食事のつまとする。夏場の野良仕事を手伝って家に帰ると、喉はカラカラに乾いていたから、ひんやりとしたこれで随分と食欲が高進した。
 白瓜は二つに開いて種を取る。酒粕のその名のとおり清酒の搾り粕なので、ビタミンなどを含んでおり栄養価が高い。上村から、国道の53号線を津山方面へと2キロメートルばかりすすんだところ、津山市奈良(なら)に地元の作り酒屋の藏元、加茂五葉がある。家からは、やや遠いので直接買いには行くことはなかったようである。新野東の店で買ってきて、白瓜のへこんだところに詰めてつけ込む。当時から奈良漬けと呼ばれていた。こちらはつけあがるまでにかなりの時間を要したようだ。甘い上にアルコールの匂いがぷーんとくる漬け物である。
 いずれの漬け物でもたくさん入れて辛くなりすぎたようだ。当時は塩分を控えめにしないといけないとは聞いたことがなかった。中でも白菜には付けてからまだ日の浅い、薄味のものがあって、それが唐辛子の辛さに引き立てられてしゃきっとした味になっているのを、好んで食べた。らっきょうと違って、こちらは早くたべたいと催促することはなかったといっていい。

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新33『美作の野は晴れて』第一部、共働社会としての村落

2014-09-26 20:24:17 | Weblog

33『美作の野は晴れて』第一部、共働社会としての村落

 私が住んでいた当時のでは、日常のさまざまな掟や習慣などが協働社会に根付いていた。その証拠となるのが、おそらくは所有林となっている入会地での「下刈作業」であった。植えている木の間伐や枝落とし、雑木の伐採などで地面まで日光が届くようにするのと、刈り取った雑木や薪の束を燃料としてそれぞれの家に持ち帰るのだ。
 雑木の類いや下草の存在は、森の健康のバロメーターとなっている。ほとんどが笹では植生が単純過ぎる。下草として、色々な植物があってこそ土地が肥沃となる。とはいっても、雑木林の茂みのかさが増してくると、中にはますます太陽光がさし込まなくなっていく。木は、自分の高さの2割の間隔を欲している。木は元々適当な間隔で植えられている。ところが、大きく育つにつれ、互いに競い合って枝を四方に伸ばしていくので、あちこちで日の光が差し込まなくなってしまう。山は管理しないと、荒れ放題となる。中には有用な木材もあって、これを間伐は、枝振りを均等な案配にしてやることで木に再び命を吹き込んでやらないといけない。
 これらの作業は、人を動員して定期的に繰り返し行うとよい。初夏の頃、晴れの日をねらって西下の人の総出で下草狩りと間伐が行われる。間伐は、広い意味での「結い」の制度のようなもので、当時の日本列島で、地方によっては田植えや稲の刈入れ、脱穀に至るまで、忙しいときにみんなで助け合う。大水が出ればみんなで堤防の工事をし、火事になれば共同で消火に当たったり、家の雨漏りがあればみんなで新しい屋根を葺くなど、や村全体で面倒を見る習慣、風土が広く根付いていた。
 いよいよその日が到来し、村人たちは、鎌の長いのや短いのやのこぎりなど、さまざまな道具を持っての北端の天王山に集まってくる。各々が携えている鎌の中には、なたのような分厚い刃を施したものもある。めいめいが勝手に動くのではなく、事前に仕事内容が決まっていた。間伐では、2、3時間の作業の後には、数え切れないほどの薪や小枝の束が山道、林道の道ばたに並べられた。自宅で燃料となる薪や小枝の束をたくさんつくっておいて、それをいっぺんには自分の家へと持ち帰るには荷が重すぎる。そこで、道端に積み上げておくのだ。
 これについて、どうして薪や小枝がそんなに要るのか、至る所に転がっているだろうに、という意見もあるかもしれない。しかし、また、各々が勝手に林に入って家庭用の燃料を採取するのでは、資源は枯渇してしまいかねない。何よりも、夏ならともかく、冬場を乗り切るには、当時、燃料元の主力はガスではなく、竈にくべる薪であり、風呂焚きにも薪が必要であった。暖をとるのに、高価な石炭を使うということもなかった。この田舎にプロパンガスが供給されだしたのは、私が中学校に入って以後のことではなかったろうか。
 ともかくも、小学校のときは、食事の支度も含めて薪を必要としていた。当時は、今日のようなプロパンガスではなく、薪が燃料の主体であった。だから、農家にとっては協働での作業はどうでもいいようなものではなかったといえるだろう。むしろ、いや断然、林の伐採・掃除は願ってもない共同の作業でもあったのではないか。
 協働の作業以外にも、村人が一つところに集まることがいろいろあった。例えば、、家を新築したり、増改築した時は、屋根葺き前のところまで建築がすすんだところで、「棟上げ」式を行っていた。私もその噂をかぎつけ、遊び仲間と見物に行った。作業の現場に着くともう人だかり。新しい屋根の構造が出来上がっていて、その板張りの上に大工職の兄さんやおじさんが3、4人、それに家の人が上っている。我が家の親戚の神主さんの顔も見える。人々が下で興味津津の面持ちで待っていると、やがて「さあ、いくでえ」の合図が下り、上の方から小さい紅白の餅がばらまかれ始める。我も我もと、その餅の落ちる場所へとみんなが手をのばす。手に余って地面に落ちた餅は、踏まれないうちに急いでしゃがんで拾い、持参の大きめの袋に入れる。中には袋の口を開けている人もいる。一通りの式が終わると、また何かのおまけが配られ、また歓声が上がっていた。
 当時の村に、このような協働で作業を行ったり、手伝い合う仕組みがあったのは、水路や道路、民の共有地(入会地)の管理を共同で助け合って行う必要があったからである。それらも、米にプラスして牛や野菜、葉たばこなどによる複合経営が一般化するようになると、しだいに姿を消していく。各戸とも農繁期が長期化し、牧野の共同作業に出役するのが難しくなっていったことも背景にあるだろう。
 また、水田においてもコメの単独栽培からの裏作、転作が普及していくにつれ、トウモロコシなどの飼料作物が増え、少頭数飼養の農家にあっては、放牧する必要が減っていったのであった。
 今頃になって、故郷の歴史の一齣が知りたくなる。高度成長期という言葉は知らなかったものの、世の中の変化はひたひたと押し寄せてきていた。1960年代からは、過疎化がはじまっていたというのは想像に難くない。
 間や内での水利権の調整については、その後もの大きな仕事となっている。今でもその頃のことをふと顧みるときがある。日照りの夏もあった。宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』に、「日照りの夏はおろおろあるき」とある。みまさかの夏も、日照りが続いて、田圃に張った水がなくなって、地面が乾いて「地割れ」することがあった。
 そんなときには、決まって、西下の中で水を巡る争いが一つや二つは持ち上がっていたようだ。特に、我が家に取っては、東の田圃には、水路が錯綜している。の中で約束がなされていて、いつからいつまでは板で水路をせき止めて、自分の田圃に上流からの池や川から流れてくる水を取り組んでよろしいというお触れが出る。その間は水を「我田引水」ができる訳だ。
 同じ日でも、刻限によっては次の順番の人にその用水を引き渡すことがある。特に日照りの時のほかは、んなとかやりくりして仲良く使っていた用水であるが、渇水が長びくとなると、そのやりくりが難しくなっていく。すると、少ない水をみんなで分かちあわないといけないから、喧々がくがく、しまいにはまっひる間から田圃でどなり合いのけんかともなるのだ。
 西の田圃では、私の家の田圃は池の上流にあるので、ひでりが続いたとき微妙な立場であった。放水が始まると、下流の田圃に水が引かれていく。上流側は、汲み上げポンプを発動機で回して池から取水させてもらうしかない。そのときは、村の評議会の許可が要ったようである。
 あるとき、父が狐尾池の間近にある田圃に水を引くのを手伝ったことがある。いくら水を引きたくても、村の許可が出ないと、一滴なりとも自分の田圃に水を引くことはできない「掟」になっていて、それが解かれるまでは我慢しないといけない。それでも、やっと願いが叶うと、刻限を限ってのことであろうから、作業を急ぐ必要があった。
 田圃のそばの一角に発動機を設置して、ポンプにホースをつなげて西下から狐尾池から取水できるよう認めてらったこともあった。父の手によって、ひび割れた田んぼに水が供給されていくのを見て、「ご先祖様」と共通の心を持てたような気がしたものだ。
 池尻にある田んぼに池の水を供給する「いで落とし」の日は、村の寄合で決まる。その日、男衆が潜って、素手で池の詰めをはずす。すると、水が勢いよく下流の方へと流れていく。池尻にある田圃は、これで次から次へと自分の田圃に水を引くことができる。
 私たちの先祖がひらいてくれた、この溜池があってこそのことであった。その竣工の記録をいつか母が書き写してくれている。
「大正十一年(年)竣工
狐尾池は大正十一年(年)に構築され
其の後数次に亘り増改築が行われ
租田を養いたるも
老朽甚だしき為
災害対策事業として全面改築工事が竣工し
ここに待望の池となれり
起工 昭和五十六年三月
竣工 昭和五十九年四月
三町六反四畝
貯水量 六万屯
堤延長 130米
総麹費 三八八九万六千円」とある。

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新31『美作の野は晴れて』第一部、夏の子供たち(夏休みへ) 

2014-09-26 20:22:07 | Weblog
31『美作の野は晴れて』第一部、夏の子供たち(夏休みへ) 

 7月も下旬にさしかかって、梅雨明けしたら、もう夏本番だ。花たちの開花が終わりに近づく7月の20日も過ぎた頃、学校は夏休みに入っていく。その日の学校の朝は、いつもと異なる。全学年の児童みんなが講堂に集まって、いよいよ式が始まる前には、それぞれの学級の級長が前に出て、自分たちのクラスの児童に号令をかける。曰わく、「気をつけえ」、「前へならえ」、それから「直れえ」と声を張り上げる。そうやって整列が済んだら、今度は指導の先生の「休め」の号令があって、一同、左足を広げて、「ハ」の字の姿勢をとって良し、となる。もちろん、この時足のつま先もきちんと揃えてこれらを行うことことが要求される。その振り絞った強い声に、馴れているとはいえ某かの緊張感が走っていたのは、私だけであったろうか。
 式では、校長先生の柔らか「お話」の後、主に生活指導の先生からいろいろと訓辞があった。その多くは、病気や怪我に気をつけろということだったように思う。最後に「君が代」を斉唱し、「日の丸」の国旗の前で「礼」て深々と頭を下げてから、式が終わった。
 「日の丸」は、人類史上、アテン神に捧げものをする古代エジプト・アクエンアテン王のレリーフが遺されていることからも、太陽信仰と深く関わっている。これが1870年(明治3年)の明治政府の太政官布告57号(1月27日付け)及び同布告651号(10月3日付け)により、日本の国旗に制定されたのだという説が有力視されている。「君が代」の歌は雅楽風で、当時の私は歌詞の内容がよくわからないままに歌っていた。これと類似の「君が世」が歌に頻繁に詠まれるようになるのは、平安時代に入ってからである。宮廷からその臣下までの各々の階層で、40歳のときから10年毎に「算賀」(年賀)、つまり年寿を祝賀する習わしであり、そのことの常套語としての「君が世」が人々の口の端にも上っていたようである。
 「君が世に今いくたびかかくしつつうれしきことにあはむとすらむ」(『拾遺集』18、東三条四十の御賀の折の公任の歌より)
 ここにある「君が世」の「世」の意味は「よはひ」、これは転じて生涯、一生にも通じる言葉となる。明治の「王政復古」に至ると、それが「君が代」になりかわり、権威づけられたものと見える。今振り返ると、これらの一部始終は、なかば軍隊式であった気がしないでもない。そんな「君が代」が法律ができて正式な国の歌になったのは最近のことのようだが、この歌がこれからを生き延びるには、若い人にもすっと入っていけるだけの「わかり易さ」、「親しみ易さ」ではないだろうか。特に1番の歌詞を歌う場合に、あまりに神話の言葉で敷き詰められていて、その意味がわからない。
 例えば、その歌詞の中の「さざれ石」などは、どうやら国文学者や考古学者でも、諸説紛々、定説らしきものは見あたらない。ところが、私の子供時には、家の近くの天王山に発坂へ通じる比較的大きな道がさしかかるところに、その石がちゃんと鎮座していた。その大きさは、到底一人や二人の素手で運べるものではない。わざわざ中山神社などに行かなくとも、そうした大きな石を組織的に運んでその場所に置くことがやられた訳だ。私の子供時代ならいざ知らず、昨今ではそんな石を尊ぶ風潮もとうに失われてしまっているようだが、それにまつわる伝承がなお人々の心に息づいていた時代があったのではなかろうか。
 全般的に曖昧な、現代では追体験ができにくい、難解な語句がちりばめられていることから、今ではその意味を確定させるのは至難のような気がしてきてならない。そこでは、過剰な説明を廃し、まじろみもしないほどの迫力でもって人々の心に迫ってくる、あのフランスの国歌「マルセイエーズ」のようなしっかりとした史実に基づいた歌詞の方が、諸民族の融合体である日本人の「和をもって尊ぶ」文化においては、ゆくゆくよりふさわしいのかもしれない。曲調の方は、雅楽も一興で、私はこれをはじめから「この国際化時代にふさわしくない」と決めつけることはしたくないものの、歌うにつれて日本の自然が背景に彷彿としてくるものであれば、どんな調べでもよいのではないだろうか。
 「君が代」に連れられて脳裏に浮かぶのが、演壇中央の緞帳を背に張られた「日の丸」であったのだが、こちらは小学一年生の頭でもなんとなく理解することができた。一つの背景は我が家にあり、母屋の奥の間には「天照大御神」、つまり「アマテラス」の掛け軸が「スッ」と垂らされていた。そこには、神話の本や紙芝居の中のような色あでやかかな姿はなく、字のみが中央に上から下に書かれていた。たぶん、いまでも、生家の同じ場所にあって、古の雰囲気をかもし出しているだろう。そのアマテラスとは、何であるかと言われれば、私ならずとも小学生の多くが、「多分」、「おそらく」という曖昧さで心の衣を繕いながらも、「太陽の神様」と答えたのではないだろうか、その答えは当たらずとも遠からずだと信じていただろう。それほどに、私たちの子供時代、アマテラスは身近にあって、私たちの祖先が農耕民族であったことを教えてくれていた。
 そのことは、親から学んだことで無ければ、学校の授業で先生から系統立って教えられた訳でもない、いまでは失われてしまいつつあるもののも、私の子供時代を通じて、当時は農耕民族の血を受け継いだ立ち一人ひとりが、自然に体感し、「あうんの呼吸」も含めて学びとっていったものなのだと思う。それゆえ、アマテラスが『古事記』や『日本書記』に書かれていても、さして驚くに当たらない、けれども、それが真実かどうかについては、私はなんとなくだが、神話の世界のことだと考えていた。そのアマテラスの面目躍如の場面の一つが「あまのいわとのものがたり」であって、私もその題ととおぼしき紙芝居の朗読を担当していた端くれであるので、今でも、よくよく心得ている。
 なんとなれば、その話は、太陽の熱と光、太陽からの恵みを抜きにしては語れない、その大いなる太陽の下で、地球上のあらゆる生き物の命が永らえているのであることを、ちゃんと認識していた。だからこそ、この物語の全部がフィクションであることを見抜いてはいても、それをあえて「嘘」だとか、「くだらない作り話」だと考えたのではない、それはそれでほとんどわだかまりなく我が胸にしまっておいたのではなかったか。
 そういうことだから、後年、世界に色々ある太陽信仰の話を聞いたり、本で呼んだりしても 対して驚いたことはない。その中には、次に紹介されるような、アマテラスよりはるか昔の、ヒッタイト民族の「テリピヌ神話」も含まれる。
 「この神話では、農耕と植物の神であるテリピヌ神が何らかの怒りにより姿を消してしまい、地上のすべての土地が不毛になり、飢饉が訪れる。それを蜜蜂が探し出し、テリピヌは再び姿を現し地上に秩序が戻るというものだ(ここで登場する蜜蜂は、死したテリピヌの魂の隠喩である可能性も高い)。」(大城道則「古代エジプト、死者からの声ーナイルに培われた死生観」河出ブックス、2015、140ぺージより)
 念のため付け加えると、今日では日本人はさまざまな方向からやってきた多民族の集合体と考えられるが、その内の北のアイヌにも、南の沖縄にも、中央の権力とは関係のないところで太陽信仰が作られていた。それらは、アマテラスが人間の頭の中で組み立てられるはるか前から、存在し、ひとつの地域の中に生きる人々によって存在していた、と言って良いだろう。アイヌの人々にとっては、太陽は夕に西に沈むと死に、そして翌日の朝に東の方角から上って復活する、文字通り万物は流転していた。また南海に済む人々にとっては、太陽は暗い穴から出て、又夕にはその暗い穴の中に沈んで行く、これまた永遠の循環の中にいるのであった。
 さて、一学期の終業式の終わってから教室に入ると、担任の先生から「通信簿」と呼ばれる成績表をもらう。何しろ、緊張した。緊張すると、動作がぎこちなくなってしまう。あの頃は猛烈に1点を刻むようなことはなかったものの、呼ばれる順番を待つのは心地のいいものではない。自分の名前を呼ばれると、「はい」と声を張り上げて答え、椅子から「バタン」として立ち上がり、そそくさと先生の前に進み出て、うやうやしく両手を前へと差し出して自分の通知票を受け取る。
 そろそろとした手遣いで、それでいてもどかしげな気持ちで通知票を開けた。みんなが済んだ後は先生からもう一度全体に私たち全体に向けたお話があった。 いま振り返ると、成績くらいでおたおたすることはなかった。命を持って行かれるようなことはないのだから、もっとゆるゆる構えていればよかったのにな、とつくづく思う。
 「みんな仲良くしてがんばれよ。危ないことはするなよ」
「9月になったらまた元気でみんな会おうな」
「先生、当番のときは必ず来ます」
「おう頼むで、クラスの花檀と自分の菊の水やりを忘れんようにな」
「はーい」
 みんな、口々に元気に返事をしたように想う。それでも、夏休みは欧米に比べて短い。欧米では6月末から休みに入るらしい。当時は7月25日くらいから休みに入り、8月末まであったから、その間にかなりの家の手伝いができる。夏の仕事では、畑でいろいろな野菜を中心に栽培していた。その中には、らっきょうや落花生、はてはそばのような換金作物も含まれていた。畑作の中心となるのは、じゃがいも、さつまいも、そして玉葱であった。両方とも、寒くなって野菜に不自由するときになっても、保存食で食べることができて、夏に作っておくと重宝する。

(続く)

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新29の1『美作の野は晴れて』第一部、七夕の空1

2014-09-26 08:22:32 | Weblog

新29の1『美作の野は晴れて』第一部、七夕の空1

 七夕を祝うのは、半分くらいはお伽噺の夢を追っているようで、実に楽しかった。一日前の6日、鉈(なた)を持って、祖父に連れられて自宅から歩いて10分ばかりのところにある、池のそばの小さな竹林に出掛けた。その中から小さな真竹の枝振りのよいものを2本選んで切り落とした。持ち帰った竹の枝元を縁側の土中の二つの杭に、1メートルくらいの間隔を置いて、それぞれ縄で結わえて、しっかりと支える。すると、両側から交差するように2メートルばかりの枝振りのよいのが垂れかかって来て、なんとなく七夕の物語のにわか舞台が出来上がるのであった。
 この竹が低いながらも天空に川の如く架かったなら、次は飾りつけを行う。いろんな色の短冊に願い事を書き入れ、それらをこよりで結びつける。短冊はどこの店で買ってきたのだろうか。封筒のような入れ物に入っている短冊の包装を解いてゆく。封筒から色の同じのを我が家の縁側に並べてみた時の、あのえもいわれぬわくわく感である。短冊は都合2セット買い求めていて、その1セットの中には金色と銀色のは1枚ずつしか入っていなかった。あとは黄色から橙、青と水色といった、いろいろな色の組み合わせによる短冊が2枚ずつ入っていたのだと思う。
 それらに、硯に墨をこしらえて、小さな筆で丁寧に気持ちを込めて、自分なりの願い事を書いていく。それには、たぶん「家族みんな元気でありますように」とか「今年豊作になりますように」から、「勉強ができますように」といった自分の夢を経て、さらには「世界が平和になりますように」のような視野の広いものまで、さまざまな願い事を書き入れる。なにしろ短冊が小さいので、習字の練習をしている時のような具合に伸び伸びとはゆかない。それでも心を込めて書こうとして、字の方も初めは丁寧に仕上げていくのだが、10枚ほども書くと疲れてきて、筆の運びもたどたどしくなってしまう。字体もあっちへ傾き、こっちによりかかり、よれよれのものになっていくので、これではいかんと又気合いを入れ直して書き入れていったように憶えている。
 たぶん兄弟で2セット分、都合40枚くらいの短冊に願い事を書き入れたら、付属のこよりを短冊の真ん中上の穴に通してから、立てかけた竹の小枝に色も含めて均等になるように一枚一枚を結びつけていく。21世紀を迎えた現代に、この風習はまた蘇りつつあるような気がする。図書館やスーパーなどでは、子供連れの客寄せの一環として七夕飾りに取り組むようになっているのかもしれない。中国から日本に伝わって久しいこの風習はいまやすっかり本家本元に劣らない程、庶民の生活に馴染んでいるのかもしれない。全国津々浦々の七夕祭りの中には、短冊の結わえ方も、2本の竹をつなぐのに留まらず、その間に紐を渡して、これにも短冊を結わえることもあるらしい。
 「ささの葉さらさら、軒端(のきば)にゆれる、お星さまきらきら、金銀砂子(すなご)」(『たなばたさま』、作詞は権藤はなよ、作曲は下総かんいち)
 人によってその曲を聴いた時の、意識の方向や感受性の発揮のレベルは違うものの、このメロディーは、脳の一部にちゃんとしまわれていて、それが色あでやかな七夕飾りを見たりすると、独りでに口から歌詞に乗せられて流れ出てくる。
 『源氏物語』の幻の巻には、こうある。
 「七月七日も例にかはりたること多く、御あそびもし給はで、つれづれにながめ暮らし給ひて、星合給見る人もなし。まだ夜深う一所におきい給ひて・・・・・」
 人には、それぞれ今でも忘れられない思い出がある。岡山県の御津郡(現在は岡山市)では、次のような情緒豊かな七夕祭りが伝わっている。
「七夕さんには男の子、女の子なしで、近所みんなで「露取り行こう」いうと誘い合ってな、楽しみでな、朝早う起きるの。お盆なんかで、芋の葉や蓮の葉、稲からも露をさあっとすくうの。ごみが入ったらいけないから、露は布でこして硯へいれる。こよりはおじいさんが手伝うてくれて「ほんこより」作って。短冊は売っとった。富士山の絵を切ったのや、いろいろの。別にごちそういうてはないけど、おばあさんがメリケン粉の溶いたのをほうろくで焼いてくりょうてじゃったわな。五センチぐらいで中へあんを入れてな、焼餅いようた。それを笹の一番下の二本の枝につけて七夕さんへあげますん。それに瓜とかお茄子なんかに足をつけたり、こうりゃんの毛をしっぽにしたりして馬こしらえて、上げましたりな。かざりをつけた笹は軒に出してな、あくる日の晩に河へ流してな。」(岡本彌壽惠「三木行治さん(元県知事)と同郷ー素朴な遊び、行事」:岡山市文化的都市づくり研究チーム企画編集「さるすべりの花にー聞き書き、岡山女性の百年」岡山市)。
 人々が七夕を飾る頃は、まだ梅雨も残っていて、曇り空の時が多い。残念ながら、あの美しい天の川銀河は見ることができない。8月上旬になって夜空が晴れて、天体観測に適した季節となる。中国から伝わったものに、日本古来の「けがれ」を祓う信仰と結び付いて、日本独特の体裁になったものらしい。この物語の舞台となっているのは、夏の夜空の光の光芒である。周りは暗闇に包まれる。そんな夜空からの光は、太古の人々の頭上にも燦々と降り注いでいたことだろう。それに身体を丸ごと打たれるようにして、しばし自らの心の底に潜んでいる神秘の扉を開きつつ、何らかの安らぎを得ていたのだろうか、それともこの美しく瞬く星々に誘われ、自分の存在の小ささ、そのはかなさに怯えていたのかもしれない。そうする間にも、地平線からカシオペア座に、さらに北斗七星へと線を延ばしていくと、やがて現在の北極星とされる小熊座の一等星に行き着く。
 ことのほか美しい場所は、「夏の大三角」の辺りだ。この形を構成しているのは、南側から眺めてはくちょう座のデネブを北の頂点とし、右回りの東の空にベガ(織姫星)があって、その西南の方角にアルタイル(牽牛星)が見える。私たちは、七色の光を見ることができて、「スペクトル」と呼んでいる。アイザック・ニュートンが発見した。その色は、波長の長い方から、俗に赤、橙、黄色、緑、青、藍色、青紫の順序ともされている。とはいえ、地球上のどこにいるかで、人々の目に幾つの色に見えるかは定まっていない。私たちの目に映る彦星の方は、白っぽくて、わし座に含まれる、1等星という。こと座のベガは大層明るいゼロ等星で、青白い光を放っている。実際には、ギリシア神話に出てくるベガ(織姫星)と、わし座のアルタイル(牽牛星)とは14.8光年も離れている。ここに1光年とは、1キロメートルが10の5乗センチメートルであるのに対し、1光年は10の18乗センチメートルである。真空中を光が1年間に進む距離とされ、約9兆4605億キロメートルに相当する。それなので、七夕の夜だからといって、この二つの星が私たちの眼に仲良さそうに、ほのぼのと並んで見えることは望めない。
 古代中国の物語の彦星と織姫はごく普通の夫婦であり、地上で仲むつまじく暮らしていた。ところが、そんなある日、織姫はどのような理由によるものかわからないが、天帝によって天に上げられてしまう。彼女を追って、2人の子供とともに天に上げてもらった夫は、天の川に阻まれ、妻のいるところに行き着くことができない。ただ年に一度だけ、鷺(さぎ)に頼んで橋をかけてもらい、織姫との再会を果たすことができる。何とも哀れさの漂う、古代中国の物語のあらましである。短冊には、もともと裁縫がうまくなりますようにと、女の子が願って短冊に記していた。それがこの国に伝わり、だんだんと男の子もあれこれの願い事を記す行事に変っていったことになっている。
 地域によっては、この行事に用いられる竹は色々、本数も二本ではなく、一本だけのもあるらしい。こちらの独立行政法人国立女性会館の1階の広いロビーには、5、6メートルはありそうな立派な竹が設けてある。どっしりした感じでしなだれかけてあるのは、天の川をイメージしているのだと一目でわかる。何とも大胆だ。しかも、短冊に混じって、くす玉、輪つなぎ、何やら提灯(ちょうちん)らしきもの、四角つなぎ、紙すだれといった振り付けもされていて、全体的に豪華な七夕飾りとなっていた。惜しむらくは、玄関を入った先のホールに立てられているので、風の気配が感じられない。もしこれが窓際に置かれてあれば、窓を開けると一陣の風が舞い込んでくる。すると、笹竹の先々にまたの短冊たちがその風になびいて、ゆらゆら揺れる姿が見られるのにと、贅沢な空想にとりつかれるのだった。
 その頃、我が家の庭から見上げた時の、夜空に広がる星の世界の美しさは、今でも忘れていない。夏の夜空はことのほか美しく、そして神秘的であった。その頃は、夜になると、家路を急ぐ雀やトンビ、それにカラスなどの群れがいなくなったころ、森の木々が仄かな風にそよぎ始める。それとともに、周囲の森のざわめきが増してくるような感じられた。それは、昼の間はいっさい聞こえなかった、生きとし生ける者たちの時々刻々の息使いであったのかもしれない。空の色合いも、だんだんに漆黒になっていき、ついに闇夜が空全体を覆うのだ。気づくと、天空に無数の星が瞬いている。その世界を、いつの間にか、周りの闇が幻想的に囲んでいる。
 はじめ北に向かって立ち、首をしだいに後ろに縮めるようにして天頂の方へと見ていく。
すると、漆黒の森が被さった北東の方から、とかげ座、はくちょう座とある。はくちょう座には、デネブという明るい星が瞬く。天空高いところまで行くと、無数の星を二つに分けている光の帯のようなものが見える。その姿は、ぼんやりしているようでもあり、白いミルクを垂らしたようでもある。西洋ではこれを「ミルキーウエイ」と呼んでいる。かの『ギリシャ神話』の、赤ん坊のヘラクレスが母親であるヘラの乳房を思い切り吸ったとき、勢い余った乳がほとばしって天まで届いた名残だとされる。
 天の川に連なる星たちは、ここから二手に分かれて、こぎつね座、や座、わし座、たて座、いて座と続く。その二股の帯がひときわ明るく輝いている周りが、わし座からたて座、そしていて座にかけてのところであり、その中の「南斗六星」は、いて座の頭から胸にかけての、真南の明るい天の川の中でに見ることができる。その形が赤ちゃんにミルクを飲ませるためのスプーンに似ているところから、「ミルキー・ディッパー」(乳の匙)と呼ばれる。北西の空へ大きく傾いている北斗七星に比べややこぶりながら、星の並びはよく似ている。古代中国の寓話によると、こちらにいる仙人が生きることを司っている。そして人が生まれると、死を司る北の仙人と相談して寿命を決めるのだという。そのさそり座からいて座にかけての付近、つまり地球から見たその方向に、私たちの銀河系の中心があるのだと言われる。ここには、私たちの銀河系の物質が高密度で集まっている。そこに暗い隙間のようなものが見えるのは、実際には、そこに光を出さない暗黒の質量としてのダークマター(暗黒物質)があるからだ。いて座を過ぎてからは、夏によく見えるさそり座などを経て、この満天にかかる光の架け橋は向こうの南の地平線へと吸い込まれていく。
 宇宙におけるフィールドとは、空間、時間、そして物質のことである。その出発点を地球とすると、地球から10億キロ、つまり10の12乗キロメートル離れると、木星の軌道が視界に現れてくる。木星は、私たちの地球のおよそ1000倍の質量がある。さらに100億キロメートルになると、太陽系の全体がすっぽりと入ってくる。太陽は、銀河系と呼ばれる小宇宙に属する一つの恒星にして、地球から1億5000万キロメートル、光の速さでいうと10光分のところにある。地球は、一日に1回自転しながら、この太陽の周りを平均で秒速約30キロメートルで公転している。それは、円軌道ではなく楕円軌道に乗っかっている。17世紀のヨハネス・ケプラーにより発見された。なおここに「平均で」というのは、地球と太陽の間の距離が一番近づくのを近日点といい、ほぼ1億4700万キロメートル、そこでの公転速度は秒速約30.3キロメートルであるのに対し、反対側の一番遠くなるところを遠日点といい、そこでの公転の速さは毎秒29.3キロメートルとやや遅くなっている。
 さて、1000億キロ、つまり10の14乗キロメートルになると、ここでもまだ太陽が見える。太陽は、恒星だから自分で燃えて光って見える。そして10の21乗キロメートル。つまり約10万光年で美しい渦巻き銀河の構造が見えてくる。これが私たちの住む銀河系なのだとされている。一般に、この渦巻きをした銀河(galaxy:ギャラクシー)は1億から1兆個もの星から成り立っており、その銀河が多数集まって銀河群・銀河団となり、それがまた多く集まって超銀河団になるというように階層構造が広がっている。その全体が宇宙だと言える。そこで、この渦巻き銀河を上から見ると、アンドロメダ座の近くに肉眼で見える、「M31」と呼ばれるアンドロメダ銀河のような、渦巻き形を形成している星の大集団を横から見ると凸レンズ状に見える。1924年、アメリカの天文学者エドウィン・ハッブルによって、それまでは私たちの銀河系の一部だと考えられていたのが実は別の銀河であり、それは天の川銀河と隣合わせであることが発見された。ちなみに、M31銀河は、私たちの銀河系から約250万光年の彼方にある。それは、銀河系の約2倍の大きさで、秒速300キロメートルの速さで銀河系に近づいているのだという。
 このままいくと、およそ50億年後には銀河系の方がアンドロメダ星雲の中に吸収され、両者は合併するのではないか。ところが、物理学者が予言する「そのとき」はかなり違っうのだと教わった。講義では、「でも、もし君たちが生きていたとしても、その衝突には気づかないだろう。銀河はほとんど空っぽの空間だから、ぶつかっても星々はお互いの間をすり抜ける。ほとんどの星はぶつかることのないまま二つの銀河は合体して、渦巻き銀河ではなくなり、倍の規模の楕円形の銀河を形成する。でも、もしきみがその中の星の一つにいたとしても、数十億年もかかる合体のプロセスに気づくことはないだろう」(クラウス教授の講義・宇宙白熱教室第一回「現代宇宙論」二〇一四年六月二〇日NHK放送より)ということなので、驚きだ。
 地球と太陽の距離は、およそ1億5千万キロメートルある。太陽からの光は、およそ500秒をかけて地球にやってくる。光は一秒の間に真空中を約30万キロメートルだけ進む。つまり、私たちが見ている太陽は、その都度500秒の前の姿なのである。私たちの太陽系は、銀河の中心から約2万7~8千光年、およそ2京7~8千兆キロメートルの「オリオンの腕」と呼ばれるところにある。
 私たちの銀河系に含まれる星の数は、およそ1000億個と見積もられる。それらの集合は、ディスク(円盤)に見立てることができるだろう。その直径は、約10万光年だと言われる。ここに1光年は1年の間に光が進む距離で、約10兆キロメートルを表す。およそ10京キロメートルある訳だ。ディスクの厚さは約1000光年ある。バルジとは、膨らみや樽の胴部分のことで、銀河系中心の盛り上がりをいう。このバルジを入れたディスクの厚さは1500光年位ある。いずれにしても、大変平べったい形をしている訳だ。その真ん中は実に沢山の星が密集していることから、まるで目玉焼きの黄身のように盛り上がっている。
 その銀河の渦巻きの外延部に近い部分、そこを川底に見立てて、我が身を置いたとしよう。そこから「天の川銀河」(銀河系の別名)を見上げてみる。すると、天の川は夜空をぐるりと一周するようにして繋がっている。が星が集結している部分と、星がまばらになって見える部分とが分かれている。渦巻き銀河の中で星が一番集結しているバルジには、恒星集団が密集していると考えられている。外側まで広がっている円盤構造の部分に対し、こちらは厚さ方向に丸いというよりは、楕円体のような広がりをしている。
 このバルジは、「巨大なブラックホール」で満たされていると考えられる。それは、例えば物理学者の高梨直紘(たかなしなおひろ)氏によって、比較的私のような者にもわかりやすく説明されている。少し長くなるが、引用させていただきたい。
 「赤色巨星になった後の星の運命は、星の重さによって2つに分かれます。太陽の重さの8倍よりも軽い星は、星をつくっていたガスが宇宙空間に放出されていき、惑星状星雲と呼ばれる段階を経て、最終的には星の芯の部分だけが残ります。これが白色矮星(はくしょくわいせい)と呼ばれるものです。白色矮星では新しく核融合反応は起こらないため、基本的にはそのまま少しずつ冷えていき、最終的にはまったく光らない星となると考えられています。
 太陽の8倍を超える重い星の中心部はさらに縮まっていき、星全体はさらに大きく膨らみます。そして、最終的には星の中心核が融けて圧力を失い、星全体が中心に向かって崩れ落ちる重力崩壊と呼ばれる現象を起こします。これが重力崩壊型の超新星爆発です。星をつくっていたガスの多くは宇宙空間に吹き飛ばされ、超新星残骸となります。一方、星の中心部には中性子星あるいはブラックホールが形成されます。中性子星も白色矮星と同じく、時間の経過とともにエネルギーを失っていき、最終的には光を放たない天体になると考えられています。ブラックホールも、特に外部からの刺激がない限りは、そのまま大きな変化は起きません。」(高梨直紘「これだけ!宇宙論」、秀和システム、2015)
 なぜそこにブラックホールがあるのかという問いかけに、クラウス教授は次のように言われる。
 「とても忍耐強い天文学者がこの星々のちょうど真ん中あたりをみつけ続け、星々の軌道を観測した。すると、星がある暗い物体のまわりを回っていることがわかったんだ。この物体の質量をきめるのには、きみたちもこれから直ぐ好きになるニュートンの万有引力の法則を用いた。こうしてその物体がまわりに星を引き寄せていて、太陽の百万倍の質量があることがわかったんだ。とても小さく、光を放つこともなく、太陽の百万倍の質量を持つという事実から、われわれはブラックホールだと考えている。・・・・・もちろん、それが見えないことは残念なことだ。もっとさまざまな観測を重ねて、それが本当にブラックホールかだといえるのかを見極めたいと思っている。ブラックホールは密度が高すぎて、光さえ逃れることができない。脱出するには光より早い速度が必要なんだ。」(クラウス教授のアリゾナ大学での、社会人らを相手にした講義・宇宙白熱教室第一回「現代宇宙論」二〇一四年六月二〇日NHK放送)
 そのブラックホールのあるところでは、「中心部を取り囲むように、「事象の地平線」と呼ばれる半径がある。事象の地平線の内側では、ブラックホールから脱出するために必要な速度が光の速度よりも大きくなるため、古典物理学によれば、なにものもそこから逃げ出すことはできない。したがって、事象の地平線よりも内側で放出されれば、光でさえも、ブラックホールの外に出てくることはない」(ローレンス・クラウス著・青木薫訳「宇宙が始まる前には何があったのか」文藝春秋刊)と考えられている。
 それから、天の川となってみえるのは、銀河系の薄い円盤を横方向から眺めている。それとは逆に、星がまばらなところは、それらの星が密集している銀河の円盤からはずれたところ、つまり円盤の上と下にある星をみているからにほかならない。肉眼で見えないものも含め、この広い銀河に宿る、およそ1000億の星々の中で、地球を含め幾つの星やその惑星に命が宿っているのだろうか。今でも、田舎に夏帰った時の晴れた夜は、雄大な宇宙にしばし浸れる。残念ながら、昔日のあのダイヤモンドをちりばめたような明るさをもつ宇宙パノラマではない。そうなったのは、周りがすっかり明るくなったためなのか、それとも空気がよどんで向こうが見透せなくなってきたからなのか、その辺りのことはまるで知らない。ただ、朝方、夜明け前には地平線の上方を人口衛星がゆるゆると西方に移動していく姿が見えていることもある。
 七夕の締めは、「七夕送り」をしなければならない。飾りつけを川に流せばよいようなものだが、あいにく家の裏手筋を加茂川まで持って行くのは厄介だ。そこで我が家の近くにあるのは狐尾池であった。それなので、竹から飾りつけを外して、竹は家において処分することとし、飾りのみまとめて持って池に流しにいったのではなかったのか。短冊は燃やすのではなく、流れに任すのが筋というものであると考えていた。それに、この池に沈めても人を害したり環境を汚染することはないからと、近所のおじさんやおばさんから苦情は聞いたことはなかった。何事も楽しむまでは勢いがあってよいのだが、その後の片付けにはいろいろと面倒な事がある。残った竹は、鉈(なた)で細かく切って、風呂炊の材料し、火の中にくべていたのではないか。

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新28『美作の野は晴れて』第一部、夏の自然の中で2

2014-09-26 08:19:22 | Weblog

28『美作の野は晴れて』第一部、夏の自然の中で2

 初夏が過ぎ、梅雨ともなると、川や池の生きものたちの動きが活発になってくる。かれらは、その生活を自分の周りの環境に依存している。その逆に生物はかれらを取り巻く環境の産物であるともいえる。1950年代(昭和25年~34年)までは農薬も家庭排水のうち危険な物質はほとんど使っていなかった。そこかしこでは、牛糞を主体とした有機の堆肥や、除草のための労を惜しまなかった。労働集約的な農業が行われていた。だから農薬の散布もかぎられていたようだ。
 その頃の池や、それにつながる溝にはたくさんの生き物がいた。ドジョウ(ホトケトジョウなど)、ゲンゴロウ、タガメ、どじょう、ギンブナ、モツゴ、エビ(スジエビ、テナガエビ、ホウネンエビ)、どほうず、メダカなど、かぞえあげていたら、きりがない。かれらは、こちらに出て来たと思うと、あっという間に方向を変えて視界から遠ざかってしまう。モツゴは鮒とよく似て、溜池や用水の緩やかなところにいる。カワバタモロコというのは、モツゴや鮒をもつと小さくしたようなもので、網にはカワムツはうろこが細かくて、体型は鮒などより細長く、溜池でよく見かけた。
 その同じ水中に、めだかもいるにはいたが、かれらが群れをなして、浅瀬をスイスイ泳いでいる。その姿を見ていると、あの歌が思い出される。
 「めだかの学校は 川のなか
 ちょっとのぞいて みてごらん
 ちょっとのぞいて みてごらん
 みんなでおゆうぎ しているよ」(作詞は茶木滋、作曲は中田喜直)
 すると、まるで自分たちの生きる姿勢につながっているようで、親近感さえ湧いてきて、わざわざ捕まえようという気は起きなかったようだ。
 そんな梅雨の時、田畑や山からの水が池に落ちる境目に、祖父が魚取りの竹編みを仕掛けに行くのが楽しみであった。罠籠(筒状の竹編みの罠)は、やみくもにしかければよいというものではない。増水で池の水位が上がって、魚が溝から田圃へと泳ぎ上がる。彼らはひとしきり遊泳して、恐らくはアオミドロやクロレラなどの藻類やプランクトンをおなかに詰め込んでから、やがて池に帰ろうとする。その帰り口、まさに水が勢いよく池に流れんでいく少し出前のところに、流線形の罠をその溝の中に沈める。その口は逆ラッパ状になっていて、彼らを入れる。流れに向かって徐々にすぼめられる構造になってており、その流線形のおしまいのところは糸できつく縛られている。そこに上流から魚が入ると、「しまった」ということで逆に戻ろうとしても、罠籠の中は漏斗の形をした逆ざや構造となっていて、どうしても逃げられない。
 この道具を用いて獲れるのは、大方がどじょう、鮒、そして川蝦であったろう。罠を仕掛けた翌日の早朝、学校に行くようになってからは起き上がったら直ぐにズボンを履いて、祖父の後に、バケツを持って従う。現場に着いて籠を引き上げる。すると、大抵は豊漁なのであった。魚たちに混じって、魚たちの餌となる水生昆虫、川蟹、ヘビや小亀が入っていることもある。もっと手軽な魚の採り方としては、「そうき」と呼ばれる半円柱型の竹網の漁具を用いるものであった。これを池の端の葦や猫柳の生い茂る場所に縦に沈めて構え、その方向に足をドンドンと踏み込んで魚を追い込み、そして引き上げる。これを何度も繰り返すのだ。西の田んぼ沿いの水路や池尻には、どじょうが沢山いた。どじょうは、大きいものから小さいものまでいた。大きくなると、赤みを帯びてきて、ひげらしきものが生えているものもいる。どじょうは日本全国どこでもいるのだろう。この蒸し暑い時期の時期のどじょうの食べ方も、いろいろだと思う。
 ところで、どじょう料理の代表格は、昔も今も、あの「柳川鍋」なのではないか。私が初めてそれをしょ食したのは、関東に来てから直ぐの時だった。地下鉄東銀座駅の改札を建て階段を上がったところに、その店はあった。直ぐ隣が歌舞伎座である。大通りを前にした小さなビルの2階に、粋な暖簾の垂れ下がった柳川鍋の店があった。狭い店なので互いの席が近い。それだから、待っている間にも他の客が食べている料理の湯気が鼻腔に入ってくる。やっと盆は二層構造になっていて、上の部分に平たい鉄皿が載っている。多分、調理場ではその皿に具材、醤油と砂糖を入れて火にかけたに違いなかろう。中のどじょうは小ぶりのものばかりで、柔らかく煮てある。店の人があつあつの状態で客席にもって来る。どじょうの上に卵をかけてあって、卵とじの状態にしてある。それが食べる者の食欲をそそる一品となっていた。味は関東にしては薄味だったように思う。どのどじょうも小さいので、苦い味はしない。まずはどじょうを箸でつまみ食いし、おわりの方ではご飯に煮汁ごとぶっかけて食べていた。値段はたしか7、8百円くらいで手頃であったことから、昼休みに何度か食べに行ったも
のである。
 今思い出すと、私の子ども時代、我が家で食べるどじょうは、いたってシンプルな食べ方であった。獲ってきたどじょうをバケツの大きいのに移して水を入れ、泥を吐かせる。それには、数時間は必要だったろう。中には、大きいのもいる。それを2枚におろし、はらわたをとっておく。小振りのどじょうはそのままにしておく。それらを一緒にそうきに入れて水洗いをして、ぬめりをとっておいてから、シユンシュン沸き立った鍋に入れる。母の作るどじょう煮には、ささがきのごぼうが入れてあったのかもしれない。山椒と一緒に醤油で味付けする。山椒を入れることで、臭みが抑えられ、かつ、どじょうのうまみが引き出せていたのかもしれない。鯉の甘辛煮のように、鍋にじっくりと煮込まれたどじょうをおかずにすると、ご飯が進んだものだ。我が家のどじょう料理には、その他に、みそ汁にどじょうを入れて、それをまるごと御飯にぶっかけて食べることも、たまにはあったのかもしれない。ともあれ、このあたりでは、どじょうは小鮒と並んで簡単に沢山穫れていた。特に労働で体力を消耗する夏場にかけては、その頃の我が家にとっては貴重なタンパク源となっていたことは疑いない。
 春から夏にかけての小川にはシジミ(マシジミ)がいる。あのシャワシャワ脚を動かして示威するアメリカザリガニもいた。これは数も多くいる。スウェーデンでは「ディム」という、ハーブに塩を入れたスープに油揚げて沢山食べるし、中国の上海では焼いて食べるのだか。寄生虫が棲みついているとの噂もあって、捕まえるのは時々にしておいた。田んぼや沼地に入って泥土をズブリと踏んでいると、足の裏に丸っこいものが当たる。そこで手を肘の上まで突っ込んでマルタニシを掴み出す。池の漁で困るのは蛭が吸い付いて離れないことである。ヘビはよく見かけるが、草むらに近づかない限りまむしはぬかるみのほとんど見かけない。
 とびきりき面白いのは加茂川での漁である。夕暮れ時、父や兄と一緒に加茂川にカワニナ獲りに行くことがあった。水の流れているところの川幅は三十メートルは下らないのではないか。中程の急流になっている辺りに足を入れると深みにはまったり、流れの勢いで次の足が抜けなくなって危ない。身の安全を思えば、足を踏み入れるのは川辺から近いところまでとし、岩の下にとりつくカワニナを手で掬っては竹籠に入れる。これを持ち帰ってみそ汁に入れて食べていた。後年、この貝には寄生虫が宿っていることを知って獲りにに行くのをやめたのだが、道理を知らぬとは恐ろしいことである。
 川鰻には、やつ目うなぎのような小型の鰻も含んで言っていた。それらを目当てに、夜になってから加茂川そばの支流に分け入って、草陰の浅瀬に罠をしかけに行くこともあった。そのときはガス燈をぶら下げて父の後をついていく。ガス燈に入れるカーバイドの硫黄のような匂いを覚えている。そのカーバイドに水を加えるとアセチレン・ガスが発生する。ガス燈の中はあらかじめ空気とよく混ぜて燃えるような仕掛けがしてあって、点火すると明るい炎で燃える。風が吹いても消えないので、夜の猟(「夜ぶり」といっていた)重宝がられた。彼らは、浅瀬の流れが感じられないような目を開けたままに、じっとしている。その時は寝ているのかもしれない。そこで網をそっと水の底に沈め、魚の下に持って行き、さっと上げると容易に捕まえることができる。翌朝、父が戻ると、竹編みの竹籠(「びく」とも呼んでいた)の中をのぞき込むと、目当ての鰻がいたこともある。とはいえ、普通のに比べて小ぶりの八目鰻も含め、罠に鰻がかかることは稀であり、父が「破顔大笑」の面持ちで鰻を持ち帰る時もあった。大きな鰻を見たときは、私も「これで何日かうなぎが食べられる」と感激したことはいうまでもない。
 そういえば、あの頃の我がの子供たちは、自然の姿を思い浮かべながら歌うことができた。特に夏場は、夏休みということで、家の仕事の手伝いで明け暮れていたとはいうものの、その合間、合間には、空きの時間を見つけ出して、大いに遊んでいたのではないだろうか。といっても、都会のように、色々と遊ぶところがある訳ではない。それだから、いわば、自然の中で生きていたのだ。あれから幾十年の後、いまはどうなっているのだろう。自分の周りの子供に聞いてもはっきりした答は返ってこない。今、団塊の世代や、その後に続く私たちの世代が、子供の時に味わった感激を子供たちに伝えることができないのは寂しい。生活環境が激変した今の子供たちは、一年を通じて自然から何を学ぶのであろうか。
 田植えが済んだ頃の風物誌に蛍がある。4月から5月にかけて土の中で繭を作っていた蛍は幼虫からさなぎを経て、蛍の成虫に近づく。5月から6月ともなると、土の中から這い出して、草に這い上がり、そこで羽化してが成虫となる。午後も8時くらいになって池の上の辺りがとっぷり暗闇になる頃、夕食を済ませた僕らは出かけた。北の方角から高く飛んだり、かと思うと急に低く降下したりで、蛍が群生乱舞しながら、僕たちの立っている道を横切ろうと近づいてくる。ゲンジボタル、それともヘイケボタルであったのかは知らない。源氏と平氏のいくさの時代からそう呼ばれているものらしい。
「ほーほーほーたる来い
あっちのみずはからいぞ
こっちのみずはあまいぞ
ほーほーほーたる来い
山路(やまみち)こい
行燈(あんど)の光でまたこいこい」(秋田地方子守歌『ほたる、来い』、作詞者は不詳、作曲者は小倉朗)
 何を馬鹿な・・・?。水が甘いはずがない。なんのことはない、蛍をだまして捕まえようというのだ。自分でもそう思いながら念仏のように唱えていた。田植えの済んだ田圃の岸や小道を菜の花の箒を作って振り回して、閉じこめ、捕獲した。それを屋台で売っているような小かごに入れて、細かい筋状の草を入れて眺める。2秒間隔ぐらいに下腹の辺りに青白い光が点滅していた。これはきれいだな、これはいい。小駕籠はさながら宝石箱のようであった。
 いまから思えば、随分とかわいそうなことをしていた。蛍達はあのとき懸命に自分の相手を捜していた。必死で生きていたのだ。最近本を読んで知ったことだが、あのとき池べりのショウブが生い茂ったところが雌のいたところで、その産卵場所にいる雌の求愛の発光に導かれて、雄たちが飛び回っていたのだ。だから、それは子孫を残すまでのつかの間の命の灯火であったのだ。それを思うなら、光の饗宴を現地で見物することで十分であったという気がする。
 蛍の幼虫のヤゴは水中にいる。水のきれいなところでないと、彼らは棲息できない。かといって、渓谷の清流にも見かけない。一匹のヤゴは成長するまでに30匹のカワニナを必要とするという。カワニナは巻き貝の一種であって、清流にしか棲んでいない。夕暮れの加茂川には、流れの只中にある岩の波打ち際に黒々とせり出してきていた。池の下流の水路の浅瀬のそこかしこでは、シジミに混じってカワニナもいる。カワニナは藻を食べて生きている。そのカワニナによってたかっている蛍の幼虫を目にしたことはないが、テレビでその場面を観ると、自然界の掟というか、自然界の厳しさを感せずにはいられない。
その辺りは、護岸工事がなされたり、家庭排水とか農薬とかさまざまな化学物質が使われ出し、それらを含んだ水が池に流れ込むようになったことで、清流を好む蛍の幼虫はしだいに居場所がなくなっていたようである。
 夏の鳥たちで印象ぶかいのは、子育てとも関係するのであろうか、その大胆さである。例えば、雀にしても、この時期は小さなミミズとかばかりでなく、比較的大きな獲物をとろうとする。セミは夏には沢山いるが、そのセミが弱ってくると、段々と地上に近くなってくる。動作も鈍くなっていく。すると、雀が空中でセミを追いかけている。あの弱いはずの雀がである。そんな光景には、今でも散歩しているときなど時々見かける。想い起こせば、あのときのセミは背後からの追撃を受け、羽をかぐられながらも、何とかその爪を振り切って逃げ延びたようであった。夏の昆虫たちへの記憶もいろいろとある。あの頃、図書室でファーブルの『昆虫記』を数ページ位だけ読んだ覚えがある。フンコロガシとかのところまでは、よんでいなかった。昆虫はバッタや黄金虫から、トンボや蝶に至るまで、田舎のことであるから、どこでもじつに沢山いた。
 小学校の帰り、道を進むにつれ、一人また一人と連れが減っていく。流尾地域への入り口にある坂道にさしかかる頃になると、1人で帰っている途中に、ちょっとした切り通しがあった。そこで、時々しゃがみ込んで斜面から地面へと目を働かせていると、『蟻地獄』のような杯状の、ロートをしたような泥の穴がいくつもあった。自然にできたのではなく、昆虫が作ったものである。餌が入ると、底に向かって滑り落ちる仕組みになっている。小動物は、何回もはいあがろうとするだろう。だけど、足や手でひっかけどもその度に砂が崩れて、また底へとすべり落ちてしまう。そのうち、力がなくなっていく。底の部分のその砂の下には、何かがいるのではないか。そこを手ですくって見ると、果たせるかな、蜘蛛のような動物がいたものである。その動物は、罠をかけて、獲物かその罠に掛かるのをまっていたものと考えられる。
 夏の授業も大詰めになっていく。朝から太陽の光がまぶしい。湿り気があって空気がよどんでいるときでも僕らは「休め」の姿勢で朝礼に臨んでいた。朝礼では、校長先生が夏休み中の心得を話される。校長先生の話が終わると、次は生活指導の先生の話となる。これが長い。頭がボウッとなつていくような気がする。そのうちに「バタッ」と人の倒れる音がする。
「ああ熱射病にやられたな、誰じゃろうか?」
 倒れた女の子が若い先生の手に抱きかかえられて表玄関の中へ消えていくのを見送った。
 それでも、きょうの朝礼は直ぐに終わる気配はない。なぜなら、まだ先生方からのお達しや注意事はまだ沢山あるようだし、四方八方から空気の熱い分子がビシビシ当たっているように感じられるからだ。
「まったく今日は暑いなあ。先生もうそろそろ、おしまいにしてもらえんじゃろうか・・・・・」
 いまから考えると、皮膚と触れ合う空気が動いていないと皮膚呼吸がうまくできなくなることも影響していたのだろう。

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新26『美作の野は晴れて』第一部、夏の自然の中で(田植えなど)

2014-09-26 08:14:30 | Weblog

26『美作の野は晴れて』第一部、夏の自然の中で(田植えなど)

 初夏は、おおむね立夏から梅雨入りまでの期間に当たる。梅雨に入ると、雨がやみ、空が晴れ上がってからは、花たちは色鮮やかとなる。葉は太陽光線を反射して青みを増してくる。葉の厚さも増してくる。それでいて、南国の花の色合いと違う。オーストラリア北部やインドネシアに咲いている花のようなあっけらかんの、派手な色合いではない。草もつぎから付きへと繁茂してくる。雨が大量に降った次の日などは、明らかに背丈が増している。
 梅雨の時期は、いろんな作物が大きくなる時期だ。マメ科の植物は土壌中の根粒菌と共生関係にあるとは当時知る由もなかった。緑色をした植物たちのほとんどすべては、その根の部分から窒素分を水素と窒素の化合物であるアンモニアや硝酸の塩類として吸収する。これに対して、マメの根粒の中にはリゾビュームというバクテリアが棲んでいるのだといわれる。その菌は空気中の窒素を同化して窒素化合物をつくり、これを栄養分として宿主のマメ科植物に与えている。このような働きを窒素同化作用と名付けている。間借りしているお礼にその窒素養分を差し出すというのだ。共生関係の見本といえよう。
 この時期には、春先に植えておいた夕顔も大きくなってくる。別名というか、この植物は後に乾燥させて、製品としての「かんぴょう」となる。今も、栃木県下野市辺りの農家では換金作物として早くから栽培し、こんにちに至っているという。驚くことに、雷の雨との関係があり、雷様が余計なものではなく、日光連山を北に望むこの辺りは雷が多くて、積乱雲がもたらす雨が夕顔を大きく育てるのだといわれているそうだ。
 こうして栽培した夕顔は、収穫したら、家で皮むきする。土間で「あぐら」をかいてやっていた。肉皮ともに柔らかいので、包丁でむいていく。むき方は、なにしろ大きくて重たい。そこで、一方の手で抱えてくるりくるりとまわしつつ、包丁で5ミリぐらいの厚さに皮むきをしていく。手慣れると、1メートルくらい皮が途切れず向けるようになる。そうなると、一人前だ。
 こうして皮むきした夕顔は直ぐ干さないカビがついて、食べられなくなってしまう。だばににして、日干しにする。2日もすればひなびて来る。梅雨晴れ間をねらって、それを何回もくりかえしたら、ひからびになっていく。あのスーパーで売っているような美しい肌合いの商品というか、自家製のかんぴょうとなる案配だ。当時の農家は、こうしてできるだけ自給自足で生活しようと普段からかんがえていたともいえるだろう。
 我が家では「東の田んぼ」といっていて、家から1キロメートルくらい離れたの真ん中辺りに田圃の集落があった。そこは小川を中央にして、平原のようになっており、その両側に家の田んぼが散在していた。我が家では、当時、そこの田植えでは、主だった場所はよその人たちに頼んでしてもらっていた。田植えの風景は、写真で見るベトナムのメコン・デルタのものとさして変わらない。の人とは違う顔の人たちだった。ほとんど全員がご婦人、おばさん方だった。その日は応援の労働力を西下内外から迎えるので、家族6人は朝早くからてんてこ舞いであった。
 私たち子供は、何をしていたのか。苗を運んだり、お茶を配ったり、昼飯の「ぼた餅」を配る手伝いをしたのを思い出す。ご婦人方は、女性の人は鮮やかなかすり模様のついたモンペを身にまとっていた。かすりというのは、美しかった。藍色の布地に赤が適当にあしらっているなど、それが朝の陽光に映えてまぶしく、目を見張ったような気がする。
 おばさんたちは、なかなか両の足と両の手には脚絆をはいていた。労働の場所は、社交場でもあった。その日ばかりは多くの人々の手で、田植えはどんどん進んでいった。
 田植え仕事のやり方は、家で行うのとあまり違うことはなかった。おそらく、新野の辺りでは同じように植えていたのではないか。まずは起点となる田んぼの一番長い端にリールという使って縄をビインと張り渡す。縄の両方の端には鉄の杭が結わえつけてあって、それを地面に突き刺して固定するのだ。次に、そのピンと張られた綱に沿って、寸法竿(直角三角形)の一辺を寄り添わせる。
 田んぼには水が張られているので、ややもすれば定規が浮遊するので、「直角」の線が崩れて動いてしまう。失敗しないためには、一度位置をきめたら、急いでやらないといけない。起点を固定させたら、こちらと、はるか向こうの岸の間で、リール係の二人が、その寸法竿の最大目盛りのあたり、先の起点から4尺8寸(1メートル40~50センチメートルくらい、1寸は約3センチメートル)の印のある所を目安に、再びリール機械を固定する。
 そうすると、田んぼの縦方向、その長い線に従って、それはそれは細く長い長方形の枠ができ上がることになる。リールで作った縦線に沿って適当な間隔でいる数人が、その綱の赤い目印が付いたところを目安に苗を植える。これで、こちらから向こうの岸まで縦長の植え枠ができるという案配だ。
 すると、今度はその長方形に仕切られた枠の中に、もんぺ姿のおばさんの別の一人が入る。彼女の後方には、ほどよく苗が投げ込んである。そこで後ずさりしながら、その苗を拾って、次から次へと田植えを行うことができる。苗を植える間隔は、寸歩取りのときに水面に渡した直角寸法竿に刻まれている。ものの本によると、日本では18~21センチメートルが標準であったと言われる。
 かたやリールで引っ張った長い線にそって苗が植わっているので、それを目安にして、横列に8寸(24センチメートル)くらいの距離を置いて、4本ずつ植えれていけばよい。左手にある苗からひとつかみを右手でとって、その列を植える。植え終わると後ずさりして、それからまた同じようにして植えていく。そうすることの繰り返しで後ろへ、後ろへと、その長方形で仕切られた列のおしまいが来るまで植えていくという案配であった。
 一反の中程くらいの比較的広い田圃には、5~6人くらいのおばさんたちが入って、てきぱきとした分業で仕事をこなしていく。おばさんたちの身につけているもんぺは、藍色や赤や白なんかの絵柄があしらってあって、まぶしい位のあでやかさであった。
 そのうち、午前の農作業も終わりにさしかかってくる。
 「昼からもう二人来れる言うとりますけん。あと1枚(田んぼの数え方)できると思うんですがなあ」
 一人の婦人がリーダーらしき50代くらいの婦人に尋ねると、そのリーダーが別の婦人に歩き寄って「幹事さんに相談じゃが、それじゃあ昼からの段取りはどうしなさるんか?ご主人に掛け合ってくれんさらんか」と相談している。
 昼前の休憩時間をとっている間に、代表のおばさんがやって来て、「ここはあと半時くらいでおわりますけん。昼からは次をどうするんか指図してつかあさい」と父に相談している。父は田植えの準備の段取りを考えていたのだろう、彼女の話にいちいち頷いてる。
「それじゃあ....きりのええところで昼飯にしてもらえますかのう。もう昼の用意はもうできとりますけん」
 その時の父は、の人から「のうちゃん」と呼ばれて、うれしそうな歯を並べているときの、あの晴れやかさであった。
 おばさんたちに食べてもらう場所としては、農道が交差している所であったろうか。広くなっているところで、筵がしきつめられてあり、応援の方には、そこに座って食べてもらうのだ。
 あれこれ世話をやいて、答えるときの父の顔は、上気していて、赤銅色に輝いてなにやらうれしそうだった。それはまさに当時の農村の一風景、社交場であった。私も、そんな普段と違う光景を見ているだけで、なにやら心が浮き立つようにうれしかった。
 普段の昼時は、昼時、私たちも家族も田圃道の一角で、食事をした。父は「わっぱ」と呼ばれる竹製の弁当箱を開いて食べていた。楕円形をしている蓋を開けると、御飯や煮物、漬け物などが楕円の曲線に沿うようにしてうまい具合に詰めてあった。父は、みそ漬けのたくあんをバリバリ音をたてて食べていた。その味噌漬けは、子供心に辛すぎると敬遠していた。昔は塩分の採りすぎに対する注意はほとんど払われていなかったといっていい。父の顔が懐かしく想い出される。
 私たちの田舎では、「あぶらげ寿司」(いなり寿司のこと)や黄粉餅(ぼたもち、餅米を潰した餅ではなく、秋田のきりたんぽのように飯をすりこぎで潰したもの)を口一杯にほおばった。東の田んぼではほかの家族も大勢働いていた。また応援を頼んだりして、世間というものが実感できた。それは、当時の村の社交場を兼ねていたのかもしれない。
 これに引き替え、西の田んぼは山間にあって流尾地区の人しか働いてない。だから、その場所での田植えは静かな時間の流れの中で行われていた。田植えでの私の役目は、リールを祖父との「コンビ」で引いて筋道を付けることだった。中植えはバランス感覚が要求されるので、不器用な私には苦手な作業であった。
 祖母とみよが田植え歌を歌いながら、手慣れた手つきで苗を植えていた。今でも、ふと、そんな時の彼女の姿を思い出すことがある。田植えで一番辛いのは、水が冷たい場合であった。子供ということで地下足袋を履いていなかったのもまずかった。その次に困ったのは、腰が痛くなることであった。時々、腰の裏側に手を添えて、背のばしをして、痛みを和らげようとしていた。屈まないで仕事をすることができないかと考えた。しかし、名案は浮かばなかった。
 こうして、田植えが済んで、人の波が去った田んぼには、静寂が戻ってくる。そんな風景を見て、平和だな、いいなあ、思った。とはいえ、それは人間たちのことであって、田圃に棲みついている蛙をはじめ、生き物たちの活動は盛んになっていく。立夏から梅雨入りの頃を初夏と名づけているが、その後に本格的な梅雨が訪れる。

(続く)

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25『美作の野は晴れて』第一部、田植えの頃 

2014-09-26 08:12:08 | Weblog

25『美作の野は晴れて』第一部、田植えの頃 


 5月から6月にかけては耕起(田起こし)から田植えの季節である。梅雨であるが、梅雨は7月の半ばの梅雨明けまで続く、長い時期とされている。天気予報で高気圧が日本列島に居座っている訳だ。家の仕事の手伝いを始めたのはいつの頃だったろうか。小学校に上がる前の私も家族労働力として働いたものだ。
 さて、田圃の水温はまだ冷たさが抜けていない。苗床から苗を引き抜くのは、腰掛けて作業をしたので比較的に楽であった。それを拳大にして藁1本でクルクルと束ねる。それらを竹駕籠に入れる。そして、田圃のあぜ道までもっこに担いだり、両手に目一杯つかんで運んだ。農業を生業(なりわい)にするというのは、経営としては大変なことなのである。私の家を含めて、当時の近くの農家では、自宅で作った「堆厩肥(たいきゅうひ)」を使っていた。麦を植えなかった田圃には冬の間に有機堆肥をばらまいておく。
 麦の収穫が終わった田圃にも、家族総出で牛糞を主体とした有機堆肥を撒いておく。牛は糞を藁にまぶして発酵させたもので、家の別庭の肥え積みの藁をくずしてもってきたものだ。人糞に比べるととそんなに臭いものではない。そいつをヤツデと呼ばれる引っ掛け爪の付いた道具を使って堆肥を掴んで持ち上げ、次の動作で杖を旋回させてその遠心力で堆肥をばらまいていく。
 こうしておけば、稲にとって自分の養分となるばかりでなく、肥料が発酵で分解するときに還元状態となる。この酸素の欠乏によってコナガやヒエなどの雑草の発芽を抑えることができる。田植え時で見る限り、肥料は牛糞を主体につくった堆肥で作った有機肥料を用い、それを補うものとして、田植え直前の最後の仕上げに化学肥料を用いていたようである。
 春の雪解けの頃より、水路や田圃には雨水がたまっている。この間まで蓮華が生えていた田圃にも水が張られていた。マルタニシやヒメタニシが温かくなって、泥の中から這い出て来る。水路の水たまりにいるモノアラガイやヒラメキガイは小さくひしめき合って冬を越してきたものと思われる。辺りには鷺に食い散らかされた彼らの遺骸も目にできる。カエルたちは赤いのや青いのや、泥色のやら、いろいろと居る。ヘビがそれを追いかけている姿も見えた。
 夜のとばりが降りると、そこかしこのカエルたちが「ゲロゲロ」、「グゥグゥ」、聞きようによっては「グァグァ」とか鳴き出す。空には美しい月がかかっていた。
「日は日くれよ 夜は夜明けよと 啼く蛙」(与謝蕪村)
 そんな我が家の田んぼに、朝の太陽がやってくる。「耕起」の作業には、私が低学年の頃までは、我が家の牛が動力として用いられていた。田植えをする日、早起きの父は牛に鋤を引かせて麦の根株の残ったままの田を耕す。
 我が家では、「耕起」は二段階で行われていた。まず鋤の大きい農具で土を深くえぐっていく。土を反転させて耕耘するもので、「牛ん鍬」(「うしんぐわ」が「うしんが」と発音される)と呼ばれており、ほどよい曲がりのネリという堅めの木にクレを取り付けてある。その台木には厚めの鋭い刃がとりつけてあって、固い土を深いところでえぐり、掘り返しやすくなっている。その次にロータリ耕耘といって肌を見せた土をかき混ぜる。こちらの鋤はその上に人間が乗って牛に轢かせるスタイルをとっていた。
 これらの作業は彼が小学校の3年生くらいになる頃には、耕耘機による耕起に変わっていったようである。これでやっと、我が家の親牛は苦しい限りの労働から解放されたようである。一通り、また一通りと刃を取り替えて、耕耘機による土の耕起が行われる。そうして耕起が終わると、田圃に水が引かれる。それでも足らない分だけ水がポンプを使って引かれる。水を引いたり、注いだりして田圃の面を一杯に満たす作業を「灌漑」(かんがい)という。その後には、父の手によって、硫安を主体とした化学肥料がばらまかれる。今度は人間が牛に馬鍬(まぐわ)を轢かせる。飛騨の白川郷辺りでは「まぐわ」がなまって「マンガ」と称されていたらしいが、8本であったか、太い鉄製の歯の付いた農具のことである。これを牛や馬に引かせる作業をたしか「代かき」(しろかき)と呼んでいた。
 牛は、後ろから鞭でたたかれながら、何度も何度も田圃(たんぼ)を往復し代(しろ)かきをする。この作業は、「まんが」と呼ばれる鉄の串が何本も沢山備わったものを、牛に引かせるものであった。牛は相当の労働力を発揮することになる。白い泡を口のあたりによだれをたらすように吹いていたあの牛、びっしょり汗をかいていたあの牛、あの苦しげで悲しげな大きな2つの眼は今も私の脳裏にある。おそらく、これからも忘れることはないだろう。
 この作業についても、牛の力によるものから、やがて耕耘機に置き換わっていった。その当時、代かきをなぜするのかと問われれば、私たちが田植えをできるように土を柔らかくするのが一つ、もう一つの目的は土の粒を細かく砕いて稲の苗を植えた田圃から水が漏れないようにすることだと答えただろう。これは後に知ったことだが、代かきをすると今一つの効用があって、代かきで草をすき込んだり、同じく土の中の酸素を少なくして雑草の発芽や成長を抑える役割がある。これには荒代と植え代と2回の作業があった。
 二度の代かき(しろかき)を済ませると、それからは、父が化学肥料の硫安をつかんでは、ばらり、ばらりと撒いて歩く。それが終わった田圃に裸足で入ると、生ぬるく、足の裏にトロトロ、ツルツルのなめらかな土の感触があったものだ。これを稲作栽培では「トロトロ層」と呼んで、深いものでは十センチメートル以上に達するという。この泥の層が厚いことが稲の生育と深い関係にあることは後に知った。当時は、そんなことは学ばなかったが、そうした農業技術が採用されていたことは想像に難くない。
 それが済むと、父は巧みに鍬を操って畦(あぜ)を造っていく。使う鍬は、普通は掘りの深い普通のもので土手を造るのであるが、もうひとつ刃先のそこが広平べったい「ジョレン」があって、こちらを仕上げに使う場合もある。畦に泥を塗りつけて壁を造り、水が漏れないようにするのであった。畑に、真上からみて平たい畝を作っていくのと異なり、こちらは斜め45度くらいに田んぼの外側にせり出すような形に、土の土手を作っていく。そんな作業だが、2014年の今は、それ専用機械を農機具メーカーが開発しているのをテレビで拝見した。それによると、その頃は全部一の手でやっていて、父が「バッ」と泥をかきあげ、「シャー」と上塗りしてゆく様はまるで職人芸であった。
 父が朝早くからの田圃の用意を仕上げると、いよいよ田植えが始まる。このあたりでも、昔は朝のうちに「田の神様」にお供えをし、その神様に柏手をうって挨拶してから、作業にとりかかることをやっていたところもあったようだ。だが、我が家ではそのような風習はほとんど廃れていたようだ。それからは働き手としての子供の出番であった。苗を入れた二つの「もっこ」を天秤棒の前後に担いで、「ひょっこら、ひょっこら」とあぜ道にはいっていく。田植えをする田圃まで運んでいくと、「やれやれ」という気分で重たい荷物を畦の降ろす。それから一息入れてから、苗がまんべんに行き渡るように、それを3つ程度一掴みにして振り子のように腕を振りアンダーハンドで投げる。均一な密度でばらまかないといけないので、コントロールが大事になる。遠くへ投げるときは、「梃子(てこ)の原理」よろしく、思い切り後ろに振り上げてから投げた。
 それらの作業をしている間に雨がふってくることも少なくなかった。そのときはみんな菅笠と簑、後にはビニロン製の雨カッパを着用して、仕事を続けた。作業を続けるうちには、痛む腰を尻目になんとな元気をつけようと、「茜たすきにすげの傘」とでも歌いたくなっていたものだ。雨の中で仕事を続けるのは一つ一つの動作がスムーズにいかないばかりでなく、体温もだんだんに奪われていくので、とても嫌であった。ブルブルと震えが来るときもあった。これに加えて、我が家の西の田んぼを田植えるときは、2枚の一反を超える田の他は、大半が棚田であった。その一枚あたりの面積は、傾斜が上にゆくに従い、だんだんに狭小なものになっていた。
 我がのでの棚田は、それはとるに足らない小規模なものであったし、高度成長期が終わる頃にはしだいに耕されなくなっていった。今では、棚田は日本の原風景と言われ、カメラ雑誌などに頻繁に紹介される。その理由は、人々の郷愁を誘うばかりでなく、学術的にも芸術的にも価値が高いからなのだろうか。これらの日本の美しい棚田、県内ではさしあたり久米郡久米南町北庄の棚田が有名だ。ちなみに、久米の棚田を直接目にしたことはないのだが、写真での説明によると、2015年現在も標高300~400メートルの山合いに、2700枚、合わせて88ヘクタールもの棚田が広がっている。これだけの棚田はどのようにしてつくられたのだろうか。おそらくは、数百年来、人々がここにへばりつくように暮らしてきた人々が親から子へ、そして孫へと少しずつ鍬を入れ続けてきた。石ころだらけの土を掘り、それを階段状にならして堰をつくり、次々と開削してきたものに違いない。また、棚田というと斜面をびっしりと埋めているように思われがちである。しかし、2015年7月30日のテレビ朝日の番組『棚田』では、倉敷市児島宇野津のものはやや小規模であった。夜の闇の中に浮かび上がる仕掛けがしてあって、全体に荘厳さを称えていた。それにアイルランドの民謡ロンドンデリーのフルート演奏がつくというあでやかさがあった。その棚田に立ってカメラのアングルからこちら手前から南の方角を覗くと、その奥には水島コンビナートの光が瞬いている。その情景には、近代技術を体現したコンビナートがつくる光芒とのコントラストでもって視聴者を魅せようとの意気込みが感じられた。
 さて、田植えの合間には、あたりに自生しているイタドリ(「サイジンコと呼んでいた)をとり、皮を剥いて食べた。酸味が強いものであるが、塩をまぶして食べるとおいしかった。田圃の中には池の方角からカエルがさらに産卵のためにやってくる。おたまじゃくしやその卵、そしてさまざまな小動物も見かけた。とはいえ、この頃の天候は梅雨の合間という類であって、安定しない。
 「五月雨(さみだれ)を 集めて速し 最上川」(松尾芭蕉『奥の細道』)
 ここで「五月雨」とあるのは、実は新暦の6月の頃の梅雨をいうが、さみだれと言う方がなんだか風情が出るから不思議だ。新暦の6月は「さつき」というが、「さつきを・・・・・」と言ってしまうと、流動感が出てこないし、そんなことも考えて俳句を見るとなんだか楽しい。
 ともかくも、梅雨の合間には晴れ間が見える。土に湿り気が出てきた。その間をねらって豆を植える。幾晩か水に浸した豆を撒くには絶好のチャンス到来なのだ。田植えを済ませた田んぼの畦の内側には、既に田植えの時鍬による壁当てが施されている。その傾斜しているうねというか、壁には「あぜまめ」といって大豆と小豆を植えた。小豆とは小豆のことである。2つに分岐した棒を土中に押し込んで、穴を30センチメートルくらい間隔を置いて造っていく。その後から豆を2粒ずつ放り込む。その後を足先で土を寄せて穴を塞いだ。

(続く)

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新21『美作の野は晴れて』第一部、初夏の輝き1 

2014-09-26 08:10:18 | Weblog
21『美作の野は晴れて』第一部、初夏の輝き1 

 お茶といえば、自家製の番茶を飲むのが常だった。茶畑というぼどのものはなかったものの、季節になると茶摘みの手伝いをした。
 「夏も近づく八十八夜、野にも山にも若葉が茂る、あれにに見えるは茶摘みじゃないか、茜たすきに菅の傘」(『八十八夜』、作詞、作曲とも天野滋)
 東海道新幹線に乗って静岡にさしかかるあたり、山の斜面に茶畑が展開している。暫しの間ながら、その眺めはすばらしい。みまさかでは一面の茶畑を見たことはない。しかし、茶を植えている家はかなりあった。ここで歌われる「八十八夜」とは、立春から数えて88日目で5月2日頃とされる。静岡などお茶の産地では、茶摘みの日の目安とされる。
 その日の前後に摘んだ茶は最も風味が豊かで、まろやかな味を持っているとされる。番茶においても当てはまるようだ。といっても、「一心二葉」をつまむとかは教わったことがない。学校から帰ってくると、留守のときが多かった。とりあえず台所に入って涼しい場所に置かれて冷えた番茶を飲んだ。疲れたとき、砂糖を匙一杯分入れて呑んだときの格別な味は忘れ難い。
 5月5日は端午の節句、暦では子供の日である。5月5日または6日は24節気の一つで立夏とされる。移動性の高気圧が大陸から張り出して、その影響で暑く感じられるときもあった。
 「柱の傷は一昨年の5月5日の背比べ、ちまき食べ食べ兄さんが計ってくれた背のたけ、きのうくらべりゃ何のこと、やっと羽織の紐(ひも)のたけ」(『背くらべ』、作詞は海野厚、作曲は中山晋平)
 父や祖父がどこから出してきたのか、鯉のぼりも設置してくれた。
 「屋根より高い鯉のぼり、大きいまごいはおとうさん、小さいひごいは子供たち、おもしろそうに泳いでる」(『こいのぼり』作詞は近藤宮子、作曲は不詳)
 やや勇ましい調子のものも、時々歌っていた。
 「甍(いらか)の波と雲の波、重なる波の中空(なかぞら)を、橘(たちばな)かおる朝風に、高く泳ぐや鯉のぼり」(『鯉のぼり』、作詞は未詳、作曲も未詳)
 縁側の柱に傷は祖父に付けてもらったのではないか。いまでもその傷が確認できるに違いない。竹馬をおじいさんに作ってもらって練習した。鯉のぼりについては、数度家の庭(かど)の端に取り付けられた。しかし、その場所は擂り鉢の下のようなところにあるため、風にたなびくまでには至らなかった。
 ちまき、柏(かしわ)餅は母が作ってくれた。くず粉を水で練って固めてから蒸したものをちまきといい、白米を粉引きにして日に干したものを蒸してつくるのが柏餅である。日本の柏の木は、落葉樹ながら葉がすぐに落ちることがない。中国で柏というのは日本でいうものとは違って常緑樹であり、古代では「邪払い」の意味から墓の前に植えたり、祭祀のさいの酒食器とかに使われていた。その葉を、「西の山」に採集に行くときには、近くでは矢車草やヒメジュオンの花が咲いていた。
 ちまきでも柏餅でも、下地が出来るとひとつひとつと蒸し器の中に入れていく。竈の火を受け持つのは僕であった。釜のなかの湯は煮えたぎっている。その上に数段の木製蒸し器が積み重ねられている訳だ。重箱を開けると、中心部に穴があいており、そこを白い蒸気が立ち上ってくる。饅頭が出来上がるのは湯が沸騰してから2時間分くらい後のことである。
 ちまきは、餡を挟んで二つ折りにした上で、それを笹の葉にくるむ。親より背が高くなれという願いから、あるいは殺菌力を持つということから竹の皮で包んだこともあるようだ。柏餅の方は、あのごわごわした柏の葉で包む。柏の葉はかれても冬の間は枝に付いている。春になって新芽が芽吹くとき力尽きて落葉する。その辛抱強さが子供を思う親心に似ているということで始まったともいわれる。両方ともほかほかのものを食べるに限る。
 ついでながら、新見市の草間自然休養村のレシピで「けんびき焼き」という郷土料理があるらしい。「肩引き(けんびき)」とは地元の言葉で肩こりのことであり、「甘い小豆あんを小麦粉の皮で包みみょうが(ミョウガ)の葉でくるんで焼いた」(JA共済「フレマルシェ」2014年春号)もので、「油を引いた釜などで何度もきり返しながらやきつけ」て作るのだという。
 これらとは別に、黄粉餅やぼた餅もあった。黄粉は石臼を轢いて作られた。石臼で粉をひくには、上の穴から大豆をいれる。そうしておいてから、取っ手をもって回転させる。豆は臼の下の目と下側の臼の上側の目との間ですりつぶされる。少しずつ入れないと、目が詰まってうまくいかない。一通り臼を引くと、今度はゴマフルイにかけて目の大きいものを取り除いて粉に仕上げる。ぼた餅の場合は、同じ下地に小豆を煮つぶして作ったあんこを塗りつけて仕上げる。
 これを大きくしたものが、水車である。当時、この水車は西下に二つあった。一つは、の中心部である平井の公会堂のある傍、今一つは畑のの東はずれにあった。ちなみに、北海道では「バッタリー」と呼ばれているらしい。 
 この頃の小川に流れている水が見かけできれいであったのは、やはり、浄化の能力の方が汚れるのを上回っていたことにことにあったのではないか。また、この頃の新野の地のそこかしこでは地下水脈を通ってきれにな水が湧き出ていた。山間のあたりにいったとき、あるいはそこに建つ菩提寺などに行ったとき、その水を「いただく」ことができる。
 そうした地下水や湧水がなぜおいしいのかというと、その主な原因は地下にあるらしい。それは土壌や地層を水が通過するとき、土壌中で浄化されることにある。それに加えて、地中では炭酸ガスが与えられミネラル(鉱物)の成分が溶け込むことによって、水温がその土地の平均気温になるからである。
 「麦秋」の頃、4月から5月になって、麦の刈入れ時期が近づいてくる。天気に恵まれたとき、我が家の畑の麦穂は黄金色に輝いていた。麦には春3月から4月に植えて初夏から夏にはもう収穫に入るものが主流だが、なかには真夏の7月から初秋の8月始めにかけて取り入れるものもあると思うが、その多くの分は畑作であった。
 麦を刈り取るときは、日を選ぶ。梅雨の合間に一気に収穫するのだ。その日は運良く晴れ渡っていた。目的の畑や田圃で刈り取った大麦は、大抵はそのまま家に家に持ち帰り、家の庭で脱穀機にかけてもみにしていた。自家消費のための麦の栽培も含まれていたのだが、麦の作付面積は田圃のごく一部や畑を合わせて4アール位であった。少ない作付け量に比例して、収穫作業も一度の脱穀で済むくらいの量であった。
 麦の籾には長いひげがあって、脱穀機でうまく取り除けることができないことがある。そのため、「とうみ」と呼ばれる木製の機械を使って、それら「シイナ」の類をもう一回取り除く。その機械は縦が2メートル、横が1メートル、奥行きが50センチメートルくらいの木製の箱の中に、これまた木製の4枚の羽が内蔵してある。それらの羽は外面の鉄製のハンドルに連結されており、ハンドルを人力で回すと中の羽が回転して、箱の上部にあれられた口から落ちてくる籾を吹き飛ばす。
 そこで吹き飛ばされなかったものが中身の入った籾として手前の出口から出てくる。それより軽いものはその向こうの出口から排出される。の木箱が付けられていた。その仕組みは、ハンドルを回すと、箱の中の羽が回転して、上から入れた麦についていたゴミを吹き飛ばす。上から落ちてきたゴミは軽いので風に吹き飛ばされ、飛ばされなかった小麦だけが下の手前の排出口から出てくる仕組みとなっている。
 大麦の殻はほかの麦よりも固いので、籾(もみ)から籾殻を剥がしにくい。だから、その原麦は新野小学校そばにある農協の製粉所に運んでいって、精麦にしてもらっていた。できあがった精麦は、受け取るときには押麦(おしむぎ)となっている。そうなっていないものは、持ち帰ってからの水車でついて押麦にしていたのかもしれない。ここで「押麦」(おしむぎ)は、麦を食べやすくするために上から圧力をかけて潰したもので、麦の真ん中に黒い線が入っている。食べるときには、これをコメの上に載せてご飯を炊くと、やわらかく仕上がる。コメの上に麦がうっすら重なっていて、食べるとき、しゃもじで混ぜると、湯気とともに「ほんわか」した麦の匂いがしたものだ。

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新19『美作の野は晴れて』第一部、春の学舎2

2014-09-26 08:06:10 | Weblog
19『美作の野は晴れて』第一部、春の学舎2

 私が小学校6年の頃、我が家では山羊(やぎ)を飼っていた。
 「8月8日(土)、晴れ
 うちのやぎは、ちちが大変よく出る。毎日、夜しぼる。多い時には一升二合ほど出る。体も大きくちちは、おなかの下にぶらりと、ぶどうの大きな房のように垂れ下がっている。木につないで、兄がしぼり、ぼくが足をもつ。気に入らなかったら足を強く動かす。だからゆだんができない。しぼり終わって木につなぐと、ぼくの方に向いて前足を80度ぐらい上げ後ろ足で立って独特の格好をして、「やるか」と言っているようだ。全く、うちのやぎは乳もよく出るが元気もいい。」(勝田郡「勝田の子」1964年刊)
 その雌の山羊がもたらしてくれる乳は、ときたま私が両手を振るに使って搾るときもあった。しかし、握力が要るため、直ぐに手がだるくなってしまう。我が家の山羊に対しては、多少でも家のために役立ってやろうという気があるのなら、それを態度で表してくれて然るべきではないかと思っていた。というのは、本来は両方の乳房を両の手でつかんで、交互に力を入れて左右の動作がリズミカルになるように搾っていくのだが、それができるのは彼女の足がうごいていないことが前提なのであって、機嫌がよくないと盛んに足で蹴るような仕草をするので、搾ることができなくなってしまうからだ。そんなときは、結局、家族の誰かに両足を固定してもらってから、搾りの作業に取り組んでいた。
 一度の搾り作業で、たらいの中に1リットルくらいは溜まるように搾っていたうようだ。それにかかっていた時間は、30分くらいはかかっていたようだ。しかも、当時は握力がまだ弱かったので、続けているうちに手がはじめは緩く、次には例えようもなく腕全体がしびれとともにだるくなっていく。結局、休み休みでしか行うことができず、だんだんに効率は上がずじまいであった。あるとき、その山羊は牝であり、山羊の赤ちゃんが2頭生まれたことがある。この日ばかりは「山羊さん、ご苦労様」という気持ちで祝福した。生まれた子供の山羊は、どこかの家にもらわれていったようである。その出産の日ばかりは、日頃の憎らしい思いは消えて、好物の、たぶん「ねむのき」の葉を沢山採ってきて食べさせていたのではないだろうか。
 記憶によると、私は、その乳を3日に一度くらいには飲んでいた。ミルクの飲み方は、学校でのものと違っていた。大好きな飲み方があって、それは茶碗に入れて放熱にまかせて冷ましていくと、ゆばが付いて、それをまず舌でなめとる。ゆばはぬめぬめした舌ざわりだが、同時にプーンと乳の甘ったるいにおいがしてくる。それから、いよいよミルクの液体にとりかかるのだが、量の手で茶碗を捧げ持って、一吸い、また一吸いと大事に飲んでいく。口の中に入ったミルクは喉を通り、ゆっくりと私の体の中にはいっていく。他の食べ方の中で最も刺激的だと思うのは、ご飯の上にあったかなその乳をかけて食べるのだ。これは、みなさんも一度は試していただきたい、大胆に聞こえるかもしれないが、多分、「こんなおいしいものだとは知らなかった」といわれるのが請け合いだ。
 羊は1頭飼育していた。羊という動物はとてもおとなしい。山羊のような足を振り上げたり、つっかかって来ることは見たことがない。「ウン・・・・・」と置いてから、メンメー、メンメー」というかよわな鳴き声は山羊とどこか似ていた。それなのに、人の心を和ませるのは、それがおとなしい限りの、羊のからのものであることが予めわかっていたからなのかもしれない。
 ある日、我が家におじさんが羊の毛皮を買いに来た。その人は、家族みんなの前でやおら大きめのバリカンを取り出すと、左の腕で羊を抱き込みながら、右手にバリカンを持って、どぎまぎしている羊にバリカンを当てた。「ブーン」という音とともに毛皮がベッタリと剥がれていく。
 日頃から手で感触を楽しんでいた毛皮が商品になるのだという。毛皮をはぎ取られた羊はひよわな姿に様変わりしていた。なんとなくかわいそうだった。その羊は、いつの間に我が家からいなくなったのだろう。いつの間に業者が来て売られて行ったのか、それとも他の誰かにもらわれていったのか、今では知る由もない。ある日、気がついたら、目の前からいなくなっていたということであり、別れというものはなかった。
 当時の給食費の支払いは、先生から渡された集金袋にお金を入れて返すことで行われていた。それでは、おカネを入れて持って行けない場合はどうしていたのだろうか。満足に払えない家庭のためを考えて、「減免願」もいつか配られているのを見た気がする。私の家もかねが乏しいことは知っていたので、人ごとではなかった。
 私は、家族が元気で働いていたおかげで、父母は集金袋金を入れて学校に持たせてくれていた。あの頃も、そして今も、減免の願いを持参する級友もいたように覚えている。当時は貧しい家の子供がクラスに何人もいたようだ。外見だけではわからない、人の痛みを推し量れる人になれと常々言われていた。その人たちの微妙な気持ちを考えるとき、慣れ親しんだ人々への同情で、心が一杯になってしまう。
 2000年(平成12年)2月、私は仕事でインドネシアに1週間ばかり出張で行った。そのとき、現地ジャカルタの子供たちを観察していて、複雑な気持ちになった。というのも、朝方ジャカルタの道を歩いていても、一見して子供たちの服装が違う。ランドセルのようなものを持っている子供たちは、気のおけない仲間と連れだって、表情もゆったり、明るい笑顔で通り過ぎていて、なんとなく裕福な家庭の子供であることが想像できる。ところが、目つきの鋭い子供も沢山いる。彼らは粗末な身なりをいて、物売りをしたり、何も持たずになんとなくたむろしていたりする。理由はなんとなく想像がつくではないか。彼らは学校に行ってる用には見えないし、貧富の差がきわめて大きいのは一目瞭然だ。貧困な子供は、ともかく日本で普通に見られるような子供のような純真な表情ではない。
 我が小学校のクラスの花壇では、それぞれの花の植え場所は限られているので、その季節には花々でごったがえしていた。ヒヤシンスが西洋彫刻のような美しい花を付けた。夏はカーネーション、グラジオラスやあさがお(朝顔)が花壇を飾った。あさがおの花は大変面白いが、デリケートな花でもある。竿縦をしていると、1~3メートルの高さに左巻きに蔓が登る。朝はシャキッとしているものの、昼にはヘナとなりしぼんでしまう。可憐なところは春のツユクサと似ている。そろそろ秋に咲くコスモスも枝ぶりを豊かにしつつあって、季節が巡るうちに花壇の花々もまた移り変わっていく。
 夏休みの初めはゆったりと時が流れるものだ。夏休みに交代で学校の朝顔に水をやりに来ていた。色は白、紫、赤であったろうか。グラヂオラスは南国の花のように赤いたたずまいで情熱的な色をしている。それでいて暖かい印象を人に及ぼす。後年、交配された結果めずらしい色の朝顔があるということで驚いた。花壇の花々にはブリキ製のジョウロを用いて水をやった。
 下校のときにも遊んだ。西中から西下への境界あたり、水車のあたりがその場所であった。                 
 「春の小川はさらさら行くよ、岸のすみれやれんげの花に、すがたやさしく色うつくしく、咲いているねとささやきながら」(高野辰之作詞、文部省唱歌)
 村には、水車が二つあった。私はその両方に入ったことがある。ひとつは、北の方から「田柄川」が西下に入ったところの通学路のそばにあった。水車が勢いよく回る季節には、周辺には彼岸花が沢山咲いていた。今ひとつは、同じ川をさらに400メートルくらい下ったところの西下公会堂の近くにあった。この南の方の水車の回りには、その季節、菖蒲(しょうぶ)が咲いていた。
 今から思えば、近づいて手で触れようとするなど、水車に巻き込まれかねないような危険なことまでしていた。昔から、男の子の何人かは何らかの事故で大怪我をしたり死んだりすると聞いているが、当時においても危険ととなり合わせの遊びがあった。
 楽しいところでは、この学年であったろうか、家庭科の実習で料理を作った。りんごのジャムをつくった。まずはりんごを摺っておろし、それを小さな鍋に入れて暖め、味を引き立たせるために砂糖も入れる。それから、自然にゆっくり冷やすとできあがる。学校給食でパンが出ていたので、先生から、それに小さなマーガリンとかジャムをつけて食べることを教えられた。そのようなことも幸いして、男子も厨房に入って料理にいそしむことを学び、家でも野菜を刻んだり、そのほか母の料理を手伝うのになれていったような気がしている。
 家庭科には、裁縫の時間もあった。こちらは、刺繍を造るのが大のお気に入りだった。裁縫枠(木の丸い枠)で布を囲んで浮き上がらせ、その中に糸を繰り返し通して花柄などをあや取っていく。デザインの種類はとにかくいろいろあった。それらを見よう見まねで試みる。その労を厭わなければ、創作の喜びは至る所にあるものだ。
 おかげで、今でも家内が不在なときにほころびを見つけたら、一つ縫いつくろってみようかという気持ちにもなる。このような習慣が、広い意味で自分の身についた一つの技術であるのなら、ありがたいことだ。
 理科の授業のなかでは、講堂の壁に置いてあったテレビを観に行った。テレビはかなり高いところにしつらえられていて、前後に行儀よく並んで、膝を抱えて座り観た。騒ぐ人はいなかった。その頃の子供は、「ここぞという時」には親の躾けがしっかりしていたのかもしれないし、先生の指導が行き届いていたのかもしれない。

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