新47『美作の野は晴れて』第一部、実りの秋(稲刈りと脱穀)

2014-09-26 20:49:31 | Weblog

47『美作の野は晴れて』第一部、実りの秋(稲刈りと脱穀)

 秋の収穫は10月の快晴の日から始まった。我が家の田んぼは、広いのから狭いのまで、ざっと数えて20枚以上になる。それらの田んぼの中には早稲(わせ)を植えているところもある。その場合、稲刈りはもっと早い時期から始めなければならない。特に、「西の田んぼ」が山間にあるのに比べ、「東の田んぼ」は国道53号線方面により近い、平原に出たところにあるので、見晴らしが効き、他家の作業の進み具合も視界に入ってくる。そこで、田んぼ道の往来でも大人衆は情報交換しているみたいだし、子供の「やあ、やってるね」、「うん、そっちもな」と挨拶を交わす場面も出て来る。
 我が家の田んぼに黄金色に育った稲、その稲たちの収穫の日を決めるには、その日からの天候が気になる。父は田んぼの見回りから帰ると、家族に近寄ってくる。
「天気がうっとうしいけー、刈り時は、もうちょっと後になるんじゃろうなあ。」と父。
祖母が「その話はもう聞いたっちゃ(聞いたよ)。今年はどの田んぼから始めるんじゃ。」と訊く。
「そんなら、うちはどないしなさるんか。」
と母が怪訝な表情で父に尋ねる。
「いや、それに、あそこはまだ日陰の方が熟れとらんけえなあ」と父が答える。
 やがて稲刈り日がやってくる。父は毎日のように田んぼを見て廻っていて、大体の日取りを決めている。あとは、天候次第で、一日中晴れていそうな日を選ぶ。きれいな夕焼け空が巡ってくると、明日は穏やかな晴れの日になる可能性が高い。その夜は「釜を磨いて夜が明けるのを待て」と昔から言われてきた。最終的に決めるには、天気予報も役立っていたに違いない。その日は学校があるではないか、と思われるかもしれないが、その日が「農繁休暇」の日でなくても、大抵は学校よりも家の事情を優先していた。
 その日の一連の作業は長くて、きつい。準備は夕食の後のよなべ仕事での「いいそう」作りであった。当日の朝は早かった。まず、自分の左利きの鎌を受け取って砥石を使って研いでから稲刈りに取りかかる。それと似た光景は、2014年夏に見た映画「舟を編む」にも出てくる。主人公の恋人になる人が料理人で、数ある包丁の一つを自宅の台所で砥石に乗せて研いでいるシーンがある。
 初めのうちは目の荒いもの、仕上げ用の細か目の砥石を用いる。人差指の腹で研ぎ具合を確かめてみる。これでいいとなると、安全のため刃の部分に稲藁で包み、ひと揃いを田圃に持っていく。
 一雨毎に、田んぼの周りの秋の装いが深まっていく。現場に着くと、稲の色合いは黄金色に染まっていた。まずは稲を刈り取る。刈り取るときには用心していたが、それでも体をねじり気味にしたり、疲れで頭の中がもうろうとしてくるうちに思わぬ怪我をすることがあった。このとき付いたものか、それとも薪つくりのときのものもあろうが、今でも右手の甲に2か所、左手の甲に2か所の鎌による傷跡が残っている。
 田んぼの刈り取った稲は束にする。それには、「いいそう」と呼ばれる藁製の結び紐を使う。いいそうは、夜なべ仕事で「いいそう」づくりをして、その前の日の夜までに準備を整えておく。私は、その「いいそう」をなうのが得意であった。「シュルシュルシュル」と上方向に稲藁を練り上げてから、先の部分に「キュッ」と結び目をつける。
 稲刈りになると、腰紐に吊した50本のいいそうから一本を取って地面に置く。その上に、刈り取った拳大の稲を一つかみずつ置いていく。それがある程度の太さに達すると、紐でクルクルと最後にひねって一束に結わえる。この作業では腰が痛くなるので、何度も腰のばしをしながら作業を続けたものだった。小学校の作文にこう書いている。
「ザザ、ザザッ
つぎつぎにかっていく
ようし
腕に浮かび出た力強い骨
ザザザッ ズシッ
とくいの二重切り
手に乗った重い稲の顔
それから数十秒
稲は いつのまにか ばかでかい束に化ける
加工工場そっくりだ
首をほどろどろ流れる
油のようなあせ
「泰司、どれだけかった?」
耳に伝わる大きな声
「50(束)刈ったでえー」」(当時の作文より)
 汗とごみが手にじっとりと塗りつぶされている。
 一枚の田圃の稲を刈り取ると、次は、これを乾燥させるために、日干しにする。「稲こぎ」(稲こき)の前にこれを行う。そのやり方は、日本全国、その土地によって、稲塚に積んだり、稲架(はさ)にかけたり、いろいろとあるみたい。県南では、それらと段取りが少し違っていて、刈った稲をその場にいったん置いて半乾きにしてから、「稲ぐろ」をつくるらしい。
 「一株を普通に握って、ざくっと刈るでしょう。それを穂を拡げるようにして株の方を重ねて置いていきます。稲の穂を乾燥さすように置くんですね。稲刈りが全部すんだら二、三日干して、ひっくり返しながら全体をよく乾かします。そして束にしてゆきます。古い藁を腰へ結んでその中から四、五本ずっと取ってはそれで結んでゆくんです。束を積み上げて、稲ぐろをつくります。穂が乾燥しやすいように穂が出るような形で積んでゆきます
」(関口麗子「親も子も働き通しー一灯の下で夜なべ、読書」:岡山市文化的都市づくり研究チーム企画編集「さるすべりり花にー聞き書き、岡山女性の百年」岡山市、1990)とある。
 我が家では、今住んでいる比企地方とほぼ同じで、その中間のようなやり方で稲を干していた。父が作った「はでやし」を藁で結んで三角柱の櫓を組んだところへ「なる」と呼ばれる長い孟宗竹を架けて作ったつるし台に持っていき、稲束の2つの足になるように広げて架ける。自分なりにこれを「股掛け」と呼んでいたものだ。「なる」に掛けられた稲が十分に乾いた頃、脱穀、その当時の村の言葉では「稲こぎ」の日がやってくる。それは学校が休みの日を見計らって行っていたようである。これと農作業の姿は諸外国ではどんな具合だろうか。近いところでは、ベトナムの農村の風景であり、ブリューゲルの絵に描き出された貧しくも勤勉な農民たちであり、さらに相当異なるが、スタインベックの「怒りの葡萄」の中に出てくる一家あげての棉花畑での労働などだ。
「明日は稲こぎをするけんなあ、泰司、手伝ってくれえなあ。」
「うん。わかった。」
 そうこうするうちに、一回目の脱穀の日がやってくる。稲刈りした田圃という田圃にしつらえている「おだ」には稲藁(いねわら)が掛けられて、天日干しにされている。それを外して脱穀機に運んで、脱穀して、「もみ」にするのだ。
 4反(40アール)分くらいの田圃の乾燥稲を脱穀して籾にする。このときは「なる」から稲の束を降ろして2つの束を作る。それらを前後に「さす」と呼ばれる丈夫な棒で引っ掛けて「おいしょ」と背負う。「もっこを担ぐ」要領でやる。一旦担いだら、稲の切り株に足とられないようにしながら、発動機の動力をベルトで繋いで伝えている脱穀機のある場所まで運ばないといけない。
 田んぼの中央で脱穀機が発動機と厚く大きな皮のベルトとつながれている。父が止めておいた発動機の車輪についたレバーを握って、太い右腕で時計回りに回し始める。
「スーッチョンスーッチョン。」
重油のにおいが辺りに充満する。ディーゼルエンジン(まず空気のみを暖め、そこに燃料を吹き付けて着火する爆発方式)であったのではないか。その光景を見ているだけで、緊張し、心の中はびっちりした、すし詰めの状態だった。
「ドムドムドムドム。」
 何度目かの手動の回転で発動機がうなり声を挙げて始める。頃合いを見計らって、父が脱穀機の回転軸にベルトを噛ませると、「ゴゴーッ」という音を立てて脱穀機が動き出す。さあ、仕事の始まりだ。父が、両脇をぎゅっと縮めるようにして、やや後ろ側にのけぞるようにして、まるで船を櫓でこぐような姿勢で、両の脚をしっかり踏ん張って、稲藁を脱穀機の口に噛ませていく。機械のベルトががうなりを上げて回っているので、漕ぎ手は、万が一にも回転するチェーンの中に手と腕を持っていかれては大怪我をする。それに、噛ませた稲藁とともに強く引っ張られるので、手や腕を機械のチェーンに巻き込まれないように、絶えず注意を祓わなければならないのだ。
 稲こぎの際には、母と祖母と兄、それに私の4人は、脱穀機まで稲藁を運ぶのが一番の役目となっている。稲藁のかけてある「なる」に行って、稲藁を束にし、それを方に担いで脱穀機に持って行く。これを、機械が止まるまでの間、何度でも繰り返す。父が脱穀機の口に稲藁を差し込む作業に支障があってはならない時間のロスを避ける為には、絶えず脱穀機のそばに積んだ稲藁の量を確保しておく必要がある。田んぼによっては、地面が十分に乾いておらず、ずっしり重い稲等を背負ったり、「さす」で二つ担いで歩くと、足をとられたりして辛い仕事である。子供にとってはかなりの重みが私の柳のような細身の肩に食い込んで、随分と骨の折れる。きつかったのはそればかりではない。脱穀はかゆいのが嫌だった。毛穴に細かい塵が突き刺さるような感覚に包まれる。
 もう一つの仕事は、その向こう側にの7、8メートルばかり離れたところに祖父がいて、こぎ終わって軽くなった稲藁を集めて、「積み藁」をこしらえていた。私は、頃合いを見て、祖父を手伝って稲藁(いねわら)の野積み(千葉ではポッチ)作業にも働いていた。私は、稲藁(いねわら)を3束か4束ずつ掴んでは祖父に手渡す。祖父はそれを編んで、藁積みを仕上げていく。積み上げの最後になると、天辺には筵(むしろ)や稲藁で通気性のいい帽子をかぶせた。雨がしみ通って稲藁が腐るのを避けるためである。段々と高さを増し、でき上がっていく藁積みの姿は、丸い家、たとえていえば蒙古族のパオのようなものである。後年気がついたのだが、印象派の画家モネの『積みわら』の絵(倉敷の大原美術館蔵)にも、たぶん麦わらだろうが、似たようなものが描かれている。祖父は一山仕上げると、ニッと歯をむき出しにして笑うのが常であった。祖父の表情は何を語りかけていたのだろう。
 そのうちに、上村の酒屋の方から「ウァーーン」と響いてくる。昼のサイレンだ。余韻も入れると10秒も続いただろうか。それが鳴り終わると、祖母が「昼になったけん、わしらももうひとがんばりして帰ろう」と言う。
 祖母とみよはまた、「定子ははよう帰れえ、飯の支度があるけんな」と母を促す。
 父が帰るように母に言わないときは、祖母が母をかばって言う。
「登。定子をかえらしちゃらにゃあいけんがな。はよう言うてやれえ」
 祖母は気を利かしているのだ。その後で母が遠慮がちにその場所を離れる。母が坂を上って家に帰っていく姿を見送りながら、残りの者は昼飯までにもうひと仕事するのであった。それから、祖父、祖母、そして子供の順で家に帰っていく。
 午後の労働は、昼飯から1時間後には始めていた。父は飯を掻き込むようにして食べるのも早かったが、休憩もそこそこに田圃に戻っていく。まるで、「はよう食べにゃあいけんがなあ」と言われているように感じる。もちろん、子供心に、父の人並みはずれた働きのおかげで家族が生きていけることは承知していて、だから、いささかも不平不満を口にしたことはなかった、と言っていい。
 父が止めておいた発動機の車輪(燃料コックディーゼルエンジンのクランク)を太い右腕で回し始める。「スーッチョン、スーッチョン・・・・・」。エンジンがかかりにくいときは、直るまでの間、畦に座って休憩したり、近くの場所にアキグミ(ぐいび)を取りにいったりして、時間を潰していた。そのうち「スタターン」と弾みが付いて、その後「トントントン」と機械全体がリズミカルな機械音をたてて動き出したら、さあ、作業再開だ。発動機の燃料は、重油ないし軽油を使っていたようだが、その油のにおいが辺りに充満してくる。その光景を見ているだけで、心の中は緊張ですし詰めの状態だった。その音は、やがて「ドムドムドムドム」と、発動機(ディーゼルエンジン)が軽やかで、規則的な音に変わっていく。「やあ、今度はうまくいったぞ、さあ、やろう」という具合である。
 その頃の発動機は、なにしろ年季が入ったものであったので、性能はさほどに高くない。調子は「千変万化」といってよい。このエンジンは、空気をぎゅっと圧縮して熱せられたところに、霧状にした燃料を吹きつけことで自然発火させる。強制的に点火する装置である点火プラグを必要としないので、その系統の故障である筈はない。実際の運転では、急に「プスプススコン」という拍子抜けの音がして、機械が止まることがよくあった。今振り返ると、よく故障していたのは燃料系統に空気が入っていたのではなかったか。こうなると、エンジンが止まるたびに、燃料コックのレバーを空気抜けの方向に合わせて空気を抜くことにより、シリンダーに燃料が送れるようにしないといけない。
 午後は、太陽がさらに照りつけるか、もしくは風が出てくる時もあった。始めのうちは、さあ、「これから夕方までの方が長いんだ。しっかりやらねば」という緊張感の方が勝っていて、自分をはげましつつ作業をしていたものである。子供にとってはやや過酷な労働であったのかもしれない。昼からは、途中で3回くらいは休むものの、あたりがほの暗くなる頃、午後の6時くらいまでは脱穀機が動いていたのではないか。
 長い午後の作業も、やがて大詰めを迎える。ようやく、その日の脱穀があらかた済む頃には、私らは、後片づけにとりかかる。筵(むしろ)を畳んでは、母か祖母が「とおみ」のなかに流し込む。中には籾(もみ)が含まれているので、それを上下に揺らして籾をより分けていた。落ち穂拾の仕事もあって、主に私と兄の役割だった。一粒たりとも粗末に扱ってはならない。一粒でも多くの収穫を得たいという気迫が伝わってくる。画集に、ミレーの「おち穂ひろい」があるが、あの絵を画集をじっとと見つめていると、それは我が家の田圃の中での私の姿なのである。その頃には、陽は西に傾いていた。やがてその太陽が一回り大きくなって西の森を茜色ににじませて沈むとき、「疲れたんでそろそろ帰りたい、とんびも家にかえりようるで」。そんなことを考えながら、父の顔を窺っていた。それでも、近くの山に陽がおちて、空が茜色に染まる頃まで、何枚かの田圃の中を歩き回って、落ち穂を拾って歩いた。祖母や母や兄と一緒にかなりの量がどれたので、この作業もしてみるもんだ、効果があるんだなと実感した。家族みんなで拾って集めた落ち穂を、最後に父が脱穀機にかけてから、その日の脱穀の作業は終わる。あのミレーの絵に描かれた農夫たちの気持ちにも、洋の東西、時代は違っても、同じ農民の気概が宿っていたのではなかったのか。
 落ち穂拾いが一通り済むと、それらを「とうみ」に入れて仕上げの脱穀に取りかかる。後片づけにも取りかかり、脱穀機の周りの「むしろ」を全て裏返しにして、こぼれ散った籾殻を脱穀機にかける。それらすべての作業が済む頃には、月が静かに輝き始める。晩秋の秋の日没は早い。籾の状態に脱穀した米は、家に持ち帰らないと行けない。最後にかますを家に運ぶ。母は一足先に、晩ご飯の仕度をしに、家に帰っていったのだろう。小学校2、3年生までは耕耘機は入ってなかったので、一輪車とか一俵ずつ背負って家まで帰っていた。祖父と祖母と母は取り立ての籾を入れた「かます」を一袋、「輿」に背負って、坂道を昇って、家路についていた、私たち子供も、一輪車で続いていた。ほとんどの「かます」は後で、全部を片付けてから、もう一度みんなで田圃に出かけて、荷車に乗せて、牛に引っ張ってもらって家まで運んでいた。そのときは、荷車のあと押しをしていた。
 このときばかりは、家族から子供も一人前の働きを求められた。労働が幾らきつくとも、他人の労働の成果を横取りするという意味での搾取は見あたらなかったのだから、家族の一員としてがんばるしかない。子供ながらに、懸命に働かないと生きていけない仕組みを学んだ。しかし、心のどこかにみんなどうしてこんなに働くのだろう、どうしてこんなにしんどい目をするんだろうか。どうして休むことをしないんじゃろうか。別に人生哲学という程のものではないが、子ども心に大人社会のあり方に疑問が沸々と浮かんできて、周りが全部囲まれてくるような気がしてきて、これでは逃げ場がない、となんだか空恐ろしくなることもあった。
 一反(10アール)につき「かます」に7、8俵もとれれば大変な収穫である。6俵が普通であった。陽光に満ちた沃えんの土地ではない。羨望の目で見られることもなかっただろう。しかし、かけがえのない大地からの恵みには違いなかった。当時は、田圃から採れるあの米のおかげで、私もまた家族に守られて生きていけたのである。家に持ち帰った籾は、それから何日も何日も、そのまた何日もかけて天日干しにする。乾燥機が導入されるのは、やっと中学の頃になってからのことである。それまでは、むしろを家のかどに何十枚をならべ、そこに薄く満弁に行き渡るように、「こもざら」のような道具で平たくのばしていく。
 筵(むしろ)の片面が乾燥したら、陽の高い内に裏返しにする必要がある。そこでいったん筵の中心部に丸く籾を集めてから、再び「コモザラ」という平たい道で平たくなめらかにしていく。作業に慣れてこないと、なかなかまんべんに広がって、いい形になってくれない。これなども、つづめて言えば当時の農作業の技術の一つに数えてよいのではないか。そうして乾燥させている間に曇り空になったら大変である。空模様がおかしいなあというときは大変だ。早めに片づけを準備しなくてはならないからだ。そのうちに、真っ昼間だというのに、あたりがだんだん暗くなってくる。うちにだんだんと曇り空が広がっていき、温度が下がり、雲の底から地上に達する黒い筋が何本も見えるようになる。それからほどなくして雨がポタポタ落ち始めるからだ。降り始めるまでの間に、まずむしろを畳み込み、ついでその両側をもって持ち上げ、家の中に急いで運びこまなければならない。そのときはまるで戦場のような忙しさであった。

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