新34『美作の野は晴れて』第一部、夏の野菜、果物と子供たち

2014-09-26 20:32:02 | Weblog

34『美作の野は晴れて』第一部、夏の野菜、果物と子供たち

 立夏は5月6日頃、この日から立秋の8月7日、8日頃までを暦上の「夏」と呼んでいる。5月の風は全体として薫るが、やがて南のほうから雨期が近づいてくる。ときには、その風が雨を運んでくる。湿気が多いところから、その中にもだんだんにむし暑くなってくる。気温が上がり、夏の気配が感じられるうち、やがて5月が来るや、昼の時間が一年中で最も長く感じられる夏至を迎える。このとき、日の出の太陽は一年中で一番北寄りの山野から昇って来る。早いときには午前4時くらいには、早、曙(あけぼの)の空にもなっている。
 夏の野に自生する果肉といえば、スモモくらいしか思い出せない。夏には、春に撒いた野菜が収穫のときを迎える。家を入った直ぐのところの土間の壁には、農協から配布された野菜の歳時記・カレンダーがかかっている。それを目をやると、種付けから肥料のまき時、収穫の時期なんなが図入りで、懇切丁寧に書いてある。野菜では胡瓜(きゅうり)、トマト、さつま芋、玉葱(たまねぎ)、南瓜(かぼちゃ)、大きなうり、へちま、とうがらし、ピーマン、茄子(なす)、大根(だいこん)、人参(にんじん)、ネギ、チシャ、菠薐草(ほうれん草)、かぶら、スイカ、マクワウリ等々、数え上げたらきりがない。
 圧巻なのは、茄子栽培のための堆肥づくりである。まず、2メートル四方位の苗床の外枠を父が作る。そのそばには、冬の間に、牛の納屋から下肥を運び出して、それを稲藁と段々重ねにして、祖父が東の庭に積み肥にしておいてくれている。それを少し崩してきて、丸フルイをかけると、牛糞と稲藁や籾殻の細かくちぎれたのが合わさって、柔らかな黒土ができる。こうして、土の厚い層で出来上がると、茄子の苗床が完成となる。それからは苗植えにとりかかる。水を漏斗を使って丁寧に撒く。その上に、農協の売店で買ってきた茄子苗を10センチ間隔位に、一本、また一本と直列に植えていく。
 碁盤の目のように植え終わると、直射日光を避けるためにビニールで覆っておく。ある程度の大きさに育つと、畑に持って行って植える。それから1か月くらい経つと、夏の盛りとなる。なすの木一本からは、繰り返し沢山のなすがとれる。全農(全国農業共同組合連合会)の現在のチラシによると、栃木県の壬生(みぶ)の農家の話では140~160個もとれるのだそうだ。生長も早い。紫の花が咲く。
 野菜栽培には、追い肥もしたようだ。トマトや唐辛子、茄子やジャガイモのように追肥をしてやらないとなかなか実がなってくれないものと、さつま芋や南瓜(かぼちゃ)や胡瓜のように旺盛な育ちをするものとがある。肥料にも、コメを精米した後の荒糠(あらぬか)から化学肥料までの比較的上等なものから、動物が排泄したもの、植物を積んで発酵させたものまで、いろいろある。野菜造りで主に使ったのは下肥という人間の糞尿で、夏の日差しの下では臭いことこの上ない程だった。水がないとボケなすになってしまうので、日照りの続くときは、バケツを天秤棒で担いで畑に行き、水を柄杓で振りかけたものだ。どうやら、田んぼの肥えは牛糞で、畑の肥は人間の糞尿でという区分けができていたのかもしれない。
 食べ方は、いろいろとあった。例えば、茄子の食べ方は千差万別にある。焼いたり蒸したりして皮を剥いでから醤油をたらして食べる。それには生姜を加えるともっと美味しくなる。ミョウガとかも加え、浅漬けのようにして食べると便利だし、みそ汁に入れても美味しい。油で揚げるのもよし。夏には簡単に調理できる、いわばうってつけの野菜として我が家の食卓を飾っていた。唐辛子は1542年(天文11年)頃、ポルトガルから伝わったとされる。我が家では、油を敷いて炒めて更に載せ、上から醤油をかけて、御飯のおかずにしていた。それに、普段はわさびがなかったので、唐辛子の辛いのと山椒、それに柚なんかを香辛料に使っていた。これだと、夏の食欲が細い時も、御飯がすすむ。
 これらに対して、ミズナ、キャベツ、ネギ、生姜、サヤエンドウなども育ってくる。これらのうち、ネギと生姜は油で炒めたものを味噌に練り込んでおくと、一週間位は長持ちして、胡瓜なんかの生野菜に添えて食べると、美味しくいただける。サヤエンドウは11月に種を撒いて翌年の初夏から梅雨にかけて収穫する。まだ柔らか、ふっくらしてきたものをもいで、軽く湯がして食べると美味しい。珍しいところでは、こんにゃく、そば、胡麻やらっきょうも家で少量ではあるが栽培していた。さつまいもとのつき合いはよく覚えている。収穫の畑ではまず芋の蔓を鎌で切って取り除いた。それから、「みつご」と呼ばれる鍬を使って掘り起こしていった。掘り起こしには見当を付けて用心深くしないと、根菜を傷つけてしまう。掘り出したさつまいもはかますに入れて余り間を置かずに人間や家畜の食用になるものと、種芋を含めて貯蔵するものとに分けられる。長期保存が必要なものは、「きびや」の庇の下に1.5メートル四方くらいの穴が掘られていて、その中におがくずにまぶして埋めておいた。
 さつまいもは焼き芋ばかりではなく、蒸して食べた。蒸した上に輪切りにして、日乾しにして食べたりした。ついでにいえば、生前の祖母が戦時中にどぶろくを作ってここに隠していたらしい。食糧の徴発にやって来た憲兵隊にそれを見つかってしまい、祖母の話では泣いて「つい、出来こごろで作りました。許してつかあさいなあ(許してください)」と懇願したものの、全部持ち帰られた話しを聞いたことがある。
 それから、きゅうりといえば緑の細いものばかりが市場に出回っているが、当時は「加賀太」という品種であったと思うが、もっと薄い緑色で太く長かった。きゅうりを薄切りにして塩もみしておくと、果肉が大変柔らかくなる。これに酢、煎り胡麻とサンショウの葉をすり込んで、最後に砂糖を少々いれてかき混ぜると酢の物の出来上がる。これをおかずにすると、食欲が進む。それだけをぶっかけて御飯を3杯くらいは掻き込めるようなおいしさだった。
 かんぴょうの元は、巻くわ瓜である。正式にはユウガオと日本では呼び習わしている。ひょうたんで知られるユウガオのような胴にくびれはない。中国の破蜜瓜(ハーミークァ)と違うのかはわからない。これを収穫して、家の土間にあぐらをかいてグルリグルリ廻しながら皮を剥いていく。出来上がると、竿タケに吊して天日干しにする。
 こんにち、有機農法が人気を博しているが、当時はすでに化学肥料が幾分か入っていた。窒素、リン酸、カリウムのなかでは直径2~3ミリメートルの粒状の窒素肥料が主体であったように覚えている。農薬の方は茄の苗やトマトなんかには使っていたものの、他の野菜についてはあまり記憶に残っていない。
 特別にうまいと思ったのは、まだ青々とした茎を付けている玉葱を煮たものである。これがたいそううまかった。かんぴょうは収穫の後、家の中庭で小刀の刃を二重にしたような皮むき器で長い帯状に剥いていった。似たようなものに、冬瓜(とうがん)がある。冬になっても水分が失われないことから、この名前がついたらしい。こちらは、我が家で栽培していたかどうかの記憶がない。
 この種の労働は大した力はかからず、また刃物扱いもゆっくりで危険も少なくてすみ、比較的楽しかった。漬け物つくりは冬場だったと思うが、例外は、白菜、それかららっきょうと梅干しなどであった。1年越しで畑で育っていたらっきょうを収穫するのは5月下旬から6月にかけてで、「みつご」を地面にうち下ろすと簡単に掘り起こせる。一つひとつ丁寧に皮を剥いていく。玉葱の皮を剥くときのように眼にしみることはないものの、細かい指先の作業のために数が多くなると結構根気がいる。きれいにすると水洗いをして乾かしておき、とうがらしと一緒に漬けていく。千葉の農家のようなサッカリンを入れたかどうかはしらない。
「おばあちゃん、らっきょうはもうたべれるじゃろうか。」
「まだじやなあ、この前漬けたばかりじゃけんなあ。あと2か月もすると、やや黄色いものになるけん、そしたら、たべられるようになるで。」
「泰司、もう食べてもええで。うまいで」
と味見しながら「うまい。でももうちょっとかなあ」と首を傾げる。
「まだ食べれんで。らっきょうは精がつくけんなあ。ぎょうさん食べると血が騒いでのぼせるでえ。漬かって食べれるようになっても、ほどほどにしとけや。」
 梅干しを漬けるときは大して手伝ったことはなく、祖母が作業を行うときにそばで見物していた。2年か3年に1回漬けたようだ。梅をいれる。その後に生姜を入れ、しその葉を揉んで入れる。最後に塩を手掴みでいれる。
 茄は、よく洗ってぬか漬けにした。米を精米するときには「荒突き」といって、胚芽の部分を残すぐらいのつき加減にしていた。米糠は農家にとってはただなので経済的な漬け方である。それでいて奥行きのある味がする。ぬか漬けの容器は小さな亀とか琺瑯製の蓋付きのものだった。亀のものでは食べるまでに何度も手を入れて、味が馴染むようにする。これをしないと、表面が白くなってしまう。「いい加減」につけ込んだものを食べると、えもいわれぬ香りがあって、味もほのかに甘くておいしい。
 簡易的に茄を切りにして塩揉みして密閉容器に入れておく方法もある。1日もして水分を絞り採ると、醤油をかけて食事のつまとする。夏場の野良仕事を手伝って家に帰ると、喉はカラカラに乾いていたから、ひんやりとしたこれで随分と食欲が高進した。
 白瓜は二つに開いて種を取る。酒粕のその名のとおり清酒の搾り粕なので、ビタミンなどを含んでおり栄養価が高い。上村から、国道の53号線を津山方面へと2キロメートルばかりすすんだところ、津山市奈良(なら)に地元の作り酒屋の藏元、加茂五葉がある。家からは、やや遠いので直接買いには行くことはなかったようである。新野東の店で買ってきて、白瓜のへこんだところに詰めてつけ込む。当時から奈良漬けと呼ばれていた。こちらはつけあがるまでにかなりの時間を要したようだ。甘い上にアルコールの匂いがぷーんとくる漬け物である。
 いずれの漬け物でもたくさん入れて辛くなりすぎたようだ。当時は塩分を控えめにしないといけないとは聞いたことがなかった。中でも白菜には付けてからまだ日の浅い、薄味のものがあって、それが唐辛子の辛さに引き立てられてしゃきっとした味になっているのを、好んで食べた。らっきょうと違って、こちらは早くたべたいと催促することはなかったといっていい。

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