新35『美作の野は晴れて』第一部、夏の子供たち(手伝い)

2014-09-26 20:34:51 | Weblog

35『美作の野は晴れて』第一部、夏の子供たち(手伝い)

 農繁期の農家の就寝は早い。今日の労働の疲れと明日の労働に備えるためだ。特に父は、「朝飯前」に田んぼに出かけて、田んぼの水を見たり、牛の餌用に草刈りをしたりで一仕事をして来る。それだから、10時が来る前に奥の間の寝床に就く。いち早く寝るときは蚊帳(かや)を張って、その中に潜り込むようにして寝ていた。我が家も近所の家も、当時の家周りの衛生状態はかんばしいものではなく、蚊や蠅(はえ)の棲息域は広くて、昼間は茂みとか深い所に潜んでいるらしい。夜ともなると、むし暑いので戸や窓を開け放しておく。すると、家の裏の茂みのあたりからなのか、家の囲いをくぐり抜けて、蚊が「雲霞の如く」集まってくるのである。もっとも、かもいをきちんとしめていても、農家のことだから、隙間は至るところにあって、そこから彼らが侵入してくるのはたやすい。
 夏の暑さは、まだ梅雨の時期にもう始まっている。暦では、6月21日頃の夏至からはもう「夏は来ぬ」と言われる。この時、北半球では日照時間が一年中で最も長くなる。日本のみまさかの辺りは、梅雨の時期と重なるので、その時間はさほどに長くは感じられない。
 この時期には、田の草取りがある。当時は、「虫を殺す」ことよりも、「虫を寄せ付けない」ことを大事にしていた。田植えの1ヶ月位前から田んぼの畦や田んぼ道の草刈りを徹底する。それで刈られた草は牛の餌となる。田植えを済ませてからは、田んぼの中の草取りをこまめにやる。放っておくとカメムシなど害虫のねぐらとなり、稲の若芽を食い散らかすからだ。
 夏休みには、子供も日がな一日、手や草取機で草を取るのを手伝う。この器械は、前に進める車の下に、鉄の切り歯が備えられていて、それを稲の列をままたぐようにして前に進めると、それが回って、ついでに草も取れるという訳だ。歯に草がまとわりつくので、たまってくると、取って地中に足で追い込む。これを稲と稲の間に置いて押すと、機械の二列の駒歯がグルッ、グルッと地面を噛むようにして廻る。数呼吸進んでは一、二呼吸の休みを入れる。駒歯に絡まる草がある程度になると、手で取り除いてから、足で地中に踏み込む。これで地中には空気が入る。
 7、8月になると、春先の3月に植えたじゃがいもが収穫のときを迎える。畑で「みつご」(3本の刃があることからそう呼んでいた)をうち下ろしてジャガイモを掘り起こすには技術が要った、蔓を刈り取った後に、芋の畝(うね)に横から掘っていくと、傷がつきにくい。「あがいそ」と呼ばれる場所にジャガイモ畑があった。そこは池のそばの擂り鉢状に傾斜した畑で、水はけがよく、栽培にて記していた。ほかにも、胡麻や蕎麦を栽培していた。収穫された蕎麦を食べた記憶はない。胡麻は自家栽培のものを食べていた。当時のまわりの農家では、家で栽培できるものはできるだけつくって、その分食費を節約していたのだと思う。
 夏の農作業は灼熱の太陽を浴びることが多々ある。そんな時には、休憩を取りながらやらないといけない。水分補給も忘れてはならない。お茶をやかんにもっていってあり、それを呑んでのどを潤していた。そのお茶は「番茶」といって、家の畑でその茶葉を栽培していた。発酵茶ではなく、それでいて緑茶のように茶葉を蒸したり、釜炒りにしたりはしていなかった。若い茶葉を優先してとってきては、直接頑丈な茶釜に湯をわかし、その中に入れて炊いたものを、自然に冷えるのを待って呑んでいた。小学校の3、4年生の頃までは、我が家に冷蔵庫はなかったように思っている。
 ついでながら、5、6年生の時であったか、「太陽を直接目で見てはいかんぞ、失明するから」と先生から教えられていた。そのときの理科の授業であったのを、ある日、家で実験してみた。じりじりと太陽の光が照りつけるとき、我が家の東側の「かど」(前庭)の日当たりがよいところに行って、虫眼鏡の小さいのがあったので、上の真ん中に黒い丸を描き何十秒か見守っていると、最初煙が出て来て、次にはじりじり黒くした部分にい穴が空くようにして焼けていった。その頃は、他の色に比べて、黒は光りを一番多く吸収するから、虫眼鏡で光りを集めてやれば、吸収する量も多くなって燃えやすくなることの理解とか、「黒」という言葉の成り立ちでは「黒とは光りを吸収するのではなく、光りを吸収してしまう色のことを「黒」というんだという道理までは、ちゃんとわかっていたのかどうかはあやしい。
 ともあれ、そういう大まかな理解は授けて貰っていたので、夏の本場の農作業の合間に、たまに深く被った帽子のひさし越しに垣間見ることはあったにしても、じっと眺めるのは遠慮しておいた。なにしろ、中心部の「核」の部分の温度は、摂氏で約1500万度もあるというのだから、まったくもって驚きだ。加うるに、農作業の途中には、雷が鳴ることもある。雷雲は急にやってくる。始めは空が部分的にくもり、いままで生暖かいかぜというか無風であったのいが、冷気がやってくる。そのうたに、全体として曇り出す。そうしたら、大変だ。蓑を着て作業することもあったが、雨足が強いと目にも雨が入ってきて作業にならない。雷鳴がとどろくようになると、輪くらいもおそれることになる。そんなときは、家族ですたこらさっさと家にたち帰るしかない。ほとんどは、換えるまでに、びしょ濡れになってしまう。
 家の軒先にいて、辺りの暗さの中に、狐尾池の上の森の辺りは黒く煙っている。
「ビカー」
 空を縦に切り裂いて稲光が走り、空の一部がが黄色くなって、大きな雷鳴が聞こえる。
少しおいて、「バリバリバーリバリ」と、爆弾が落ちたときのような音がする。
 「これは近いな」と固唾を呑んで見守っていると、雷は次から次へと繰り返し大音響をとどろかす。
 ここで「雷」というのは元々「かみなり(神なり)」、なすなわち「電」(いなずま)であって、「想像を絶した天地の陰陽の神秘なる交合」(藤堂保『言葉の系譜』新潮ポケットライブラリ)というのが、中国から伝わった本来の意味なのだとされる。
 その雷も30分くらいで、空を切り裂く稲光と派手な雷鳴は遠のいてゆく。それからも、家から見た南の空は時折赤く染まったりする。雨足はやがてゆるやかになり、墨を流したように黒かった空が徐々にあかるんでくる。
 そうするうちに、辺りがさらに明るくなる。家の前の空に、ちょうど虹がかかることがある。空の色はまだ真っ青にはならなくて、「雨過てんせい」の青磁のよな淡い青色をしていた。そこに色鮮やかな虹が橋をかけているのだが、それはそれは美しかった。なぜ、それにいろんな色があるのかは大人にも、学校でも教わらなかった。7色のスペクトルのうち、下から青色、その上に黄色くらいしか識別できなかったものの、全体としてアーチがかかっていて美しい形と色をしていた。
 深刻な水害があったときには、決まって日照時間が短くなっていた。その時間が短くなると、道ばかりでなく、田圃の中もぬかるんできて、カビの一種である「いもち病」が発生する。これにやられると、稲の穂先の部分は黄色になってきて、これを放置すると中に実が入らない。これは大変な収穫減少につながるため、これによる被害が我が家の田圃に広がるといけないので、父と母が連れだって農薬を散布するなど、騒ぎが収まるまでの間は、子供なりに心配でならなかったものである。夏が全体として寒くて、イネの生育の悪い年も何回かあったろう。ただ東北のように極端に日照が少なかったことはなかったのではないか。
 「7月28日(火)晴れ
 午前9時半、祖母と兄と僕は大小ちがったみつご(備中鍬)をかついで、池のそばの畑に行った。ぼくの三つごは小さくて軽い。頭の上から、はんどうをつけるように力いっぱいふりおろす。土がかたく少ししか掘れない。掘っているかいがないように思える。ひと畑終わって次にかかる時あまり暑いので、シャツに手をかけた。始めは軽くぬごうとしたが、ズッとつまってぬけない。やっとの思いで取ると、その勢いでよろめいた。すずしい風が、ぼくの体にあたった。何とも言えないいい気持ちだ。また元気を出して、兄と競争するようにしだした。二通り、四通り、みるみるうちにあとひと通りになった。今まで白味がかっていた土が、がらっと茶色になる。まるで製品を加工しているようだ。対語の追いこみだ。やっと終わったので、三人そろって家へ帰った。」(美作教祖勝田郡協議会教文部編「勝田の子・下」1964年刊)

(続く)

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