新46『美作の野は晴れて』第一部、運動会と学芸会

2014-09-26 20:46:33 | Weblog

46『美作の野は晴れて』第一部、運動会と学芸会

秋分の日を迎える頃には、台風の襲来や秋雨前線の停滞などがないかぎり、晴れる日が多い。空は碧く、風は涼しく、陽は明るくなって、いよいよ秋らしくなっていく。「秋、清爽」の頃合いだといえる。日の出の太陽は東から出てきて、西に沈む。これ以降の太陽は南半球に下がるため、日を経るにつれ昼間の明るい時間が短くなっていく。この時期には、「秋期大運動会」が開催される。その準備は1ヶ月位前、夏休みが明けたら直ぐに取りかかる。なぜなら、この運動会は自分たちだけではない、父兄やの皆さんに見てもらうことを念頭に置いているからにほかならない。
 朝早くの運動場には、もう柔らかな陽の光が差し込んでいる。運動場の片隅、日当たりのよい南側にある1年生の教室前の花壇には、コスモスの花が咲いている。長い茎の至るところに内輪が濃い黄色、外輪には白、ピンク、紅色などの花びらが光に照らし出されて、爽やかに輝いて見える。コスモスを際立たせているのは、花壇の枠からはみ出したり、何かの弾みか風のせいで横倒しになっている茎の先を改めてもたげ、そこでまた花を咲かせている。それを全体として観るからに、まさにひとむらを形成する雄々しさを持っている。地面近くでも、春に植えたマツバボタンが白に始まって赤、赤褐色やピンクといった色とりどりの花が、陽差しに向けて可愛げな花を向けている。運動場の観客席となる処では、早めに登校したクラスの仲間によってムシロやござが敷き詰められ、朝礼台の右手には本部、左手には来賓席のテントが既に張られている。入場門と退場門の紅白のリボンによる飾付けも済んで、準備万端整っているようである。
 全員が整列しての校長先生の訓辞が終わる頃には、各々の名の書かれたプラカードの前に、観客の皆さんがもうかなり座っている。最初の競技演目には、幾つもリレーが含まれていた。4年生までは紅白対抗リレーに出ていたようで、その後はクラスのトップの人の応援に廻った。応援団の旗振りにも加わったことがある。埃を巻き上げながら、目の前を疾走していく仲間に声をからしてエールを送のも一興である。学年別リレーでは頑張った。もっとリラックスすればよいのに、本番では体が固くなって動きもぎこちなくなる。小さい頃は無心で走り廻って遊んでいたのに、いざレースになると、体が縮こまってしまう。それも実力の内なのだろう。
 リレーには、部落対抗リレーもある。新野西、新野東、新野山形からそれぞれAチーム(児童]、Bチーム(父兄)が出て合計6チーム、それに先生方が加わって都合7チームであったように思われるが、自信はない。これは、走り競争というよりは交流試合のようなもので、走っている人の表情も破顔大笑といったところである。
 3年生くらいまでは、玉入れがあった。紅白に分かれて、高いところのかごに、それぞれ紅い玉、白い玉を投げ入れる。これがなかなか難しい。弾みをつけて、勢いよく投げ上げると、大抵は玉はかごの上を通りすぎてしまう。入れるためには、楕円を描くようにゆったり投げるのがよいのかもしれない。バレーボールのレシーブのような格好で投げ上げていた人もいて、この方が成功率が高いのかもしれない。
 印象深いものに、やぐらを仕立ての騎馬戦があった。駆け足入場で、消石灰(水酸化カルシウム)の白い粉でラインが引いてある手前に、双方が整列する。
「みんなが見ている」
「ここは格好いいとこ、みせにゃあいけん(見せなければならない)」
 先生の「用意」の合図で、その手前に立って3人で櫓を組む。クラス対抗なので、5、6騎ずつくらいが7、8メートルを隔て、向かい合う。騎馬の土台ができると、4人目がその上に乗っかる。上が乗っかると、下の騎馬が立ち上がる。
 上の乗る者は、鉢巻きをキリリと締めている。私は、下にいて馭者(ぎょしゃ)を支える立場だったので、なかば馬になった気分でいたのかもしれない。
 「始めえー!」の合図があると、味方の騎馬は片方に集合して、陣立てを行う。それから、そろそろと前進を始める。ばらばらで敵陣に向かうと、車掛かりで来られたり、囲まれたりするからだ。
 なにしろ、上に人を乗せているので、体力の消耗が激しい。それでも、だんだんスピードを上げて、全部で敵陣に突っ込んでいく。そのときは、騎馬を組んでいる3人のうち、先頭にいる一人が一番やばい。一回目の衝突では失敗。相手ともみ合う間にバランスを崩して、騎手が落馬した騎馬もある。地面に足や手が着いたり、上の者が鉢巻を奪われたら失格だ。失格になったら、その4人が白線の前まで戻って、しゃがんで試合の終わるのを待つ。
 そうこうするうちに、騎馬の数が少なくなっていく。上の者が「あっちをねらえ!」と指示を出す。下の者はその声に従い、相手方めがけてカーブを切ったり、突進したりを繰り返す。そのうち、今度は 「向こうをやっちゃれえ」と指示が変わる。供回りはその度に方向を変えつつ、上の者を支え続けなければならない。ゲームだとわかっているつもりでも、頭の中は、あの中世の騎士道に生きた『ドンキホーテ』のように空っぽな状態にな
っていた。下ではふんどしがほどけるように、やぐらが崩れそうになったりもした。人間、はじめに張り切りすぎると、あとで「ガタガタ」の体たらくになることを学んだ。
 2分くらいの試合時間が終わる頃には、日頃疲れを知らない筈の少年たちも体力を消耗して、足はよれよれ、息使いは「はあはあ、ぜえぜえ」の状態になっている。それにしても、先生はいいところで試合終了の笛を吹いてくれた。勝負の判定は、どちらの陣営が多く鉢巻を残しているかで決まる。
 小学校6年の時は、男子で組体操を父兄に披露した。裸足で、上半身裸であった。初めのうちは三人が扇形になったり、倒立して支えるようなことをやる。最後に、いよいよ下にマットを敷いての演目に膝立で行う「人間ピラミッド」があって、これがなかなかに難しい。一番下に3人が並んで四つん這いになる。私はその一人だった。その上に、2人が登って同じ姿勢を取る。最後の一人が3段目に乗って出来上がりとなる。難しい方の、しゃがんで3段組で態勢をつくり、最後に下から順に立ち上がるやり方は試みていなかったように思う。こちらの方は3段組どころかもっと段数を増やす誘惑が増して、そうなると大怪我をする心配も出てくる。
 この姿勢を取るこつは、膝は心持ち内側に力を入れてロックする感じにすると、地面をしっかり捕まえられてよい。上の方は、肩の関節を少しせばめて四角い枠をつくるようにすると、安定が増す。完成後、笛が鳴って櫓を解くときには、一番下の身としては、最後まで気を抜かず、細心の注意でいないと危ない。せっかく下からくみ上げても、重心のかかり具合とか、何か一つ狂うと「どうにかせにゃあいけん」と全員が焦っても崩れ落ちてしまい、もう一度やり直しとなってしまう。全部がうまくいって、観客の皆さんからは拍手がもらえたときは、自分たちのことが何やら誇らしく、うれしかった。
 女子も組体操のプログラムがある。みんなが裸足のブルーマ姿で、新体操で使うようなリボンと玉を携えていたのではないか。男子には力強さを、女子には優美さをといったところか。たおやかに舞う姿は、日頃の級友とは異なる優美さを感じた。
 フォーク・ダンスのときは女子と手を繋ぐのでなにやら照れくさかった。女の子の方がませていて、男子の動きの方がぎこちなかった。手を繋ぐとなにやらふんにゃりして柔らかいし、途中で右手を除しの背中に回して二人が回転するシーンでは、彼女の髪が頬に触れて、アーモンドのような甘い、清純な香りがしたものだ。
 いまでもテレビでダンスを男女で踊るシーンがあると、つい見とれてしまう。沖縄の人々のように直ぐに踊りを始める習慣が身近にあればいいと思う。あのときばかりはみんなが幸せで、かつまたその場に参加しているすべての人がさいわいな気分に浸れる。
 フォークダンスは、高学年になると、もっと複雑になっていったようだ。西洋のダンス曲があって、それに合わせて踊るのだ。曲目では、『オクラホマ・ミキサー』と『マントマイム』を踊った。「オクラホマ・ミキサー」の原曲は「藁の中の七面鳥」である。この曲が佳境に入ると、「藁の中の七面鳥 干草の中の七面鳥、転げてよじれて」となっていて、これがどうしてロマンチックなのかと驚く。よく覚えているのは、曲の後半部分の「タタンタタンタ、タタンタタ」というリズムに合わせて、踊るところだった。
 そのおりには、男女が交差して結んだ両手を前へ後ろへ大きく振りつつ進んでいく。それが終わると、やがて「タンタラターラ、ンタタ」で終わる。そのままの位置で、次の曲が始まるまで、暫し待つ。二つの曲を踊ったら、おしまいになった。そのときの気分は、「やれやれ」と「まだ踊れるのに」とが相半ばしていた。掌には、緊張のためか、女子と踊れたうれしさのためかわからないが、うっすら汗をかいていた。
 ほかにも、ムカデ競争や、男女が足をつないでのアベック競争、綱引き、借りてくる競争、・・・・・と、いろいろな競技がつぎから次へと、繰り広げられていく。その度に、天高き秋の空に喊声と拍手と喧噪が鳴り響く。借りてくる競争では、「よーい、どん」でスタートし、いざ札を取って開けると、人の名前が書かれているときもある。その人の処に行って「お願いします」と頭を下げ、二人で手をつないでを連れてコースを一周する。他のチームに遅れをとっても、ノートと鉛筆がもらえたのだと思う。
 運動会には、母が一年生の頃から六年生の最後の学年まで、たぶん観戦に来てくれたのだと思う。その日ばかりは父に頼んで、忙しいところを、時間を都合して来てくれたのだろう。母は兄の分と掛け持ちで見てくれた。母の姿を見つけると、なにやら観察されているということでシャキッとしたものである。そのうちどころか、曲が始まる前から手のひらには汗が出ていた。顔は少し引きつり加減であり、日本の足は震えてこそいないものの、ぎこちない、という体たらくであった。女の子の手を握ってスキップしたりする部分があるが、温かかったり、柔らかかったり、不思議な感覚にとらわれたものだ。
 あのときは、一種形容しがたい気分であった。はずかしいやら、照れくさいやら、それらの混合であったような気がする。内の女の子とゆるゆる、やあやあして遊んでいたこともあるので、手をつないだこともある。恥ずかしがり屋ではあるが、人一倍の好奇心もあった。自分のことを、奇妙な組み合わせの性格であるな、と思っていた。 フォークダンスのときに、モジモジ、テレテレして、仕方なさそうにしていたので、家に帰ってから母に注意されたこともある。このほかには母に叱られた経験は残っていない。元来不器用なので、そんな弱点が露呈したのである。
 運動会とは別に、勝田郡内の体育大会に選抜で行ったことがある。そのときは6年生のときだったろうか。会場は、勝央町の植月の小学校か中学校であった。校庭に集まってから先生に引率されてバスか何かを利用して行ったのではないか。勝加茂から工門を経て、下野田まで行くと、林野方面に行く大きな旧道に出る。それから北東に向かう。会場の勝田郡植月町の植月小学校の校舎と校庭はいまでも覚えている。「ここは新野より、平坦だなあ」というのが第一の印象だった。
 何に出るかは予め決まっていて、私は走り幅跳びに参加した。三崎君(仮の名)と二人で参加して、その彼が四メートル二〇センチくらいを跳んで優勝した。後日、彼の作文を読んで、あれが渾身の一跳びだったようだ。私の方は、三メートル八〇センチくらいではなかったか。がんばったのだが、距離は伸びずに、肩を落として帰ったような気がする。勝田郡内とはいえ、初めての土地であった。
 学芸会の方は、学年が上がる毎に、教科書か何かに題材を求めたものになっていったような気がする。一年生のときは、森の何とかさんの演題であったのだろうか。写真を見ると、みんな動物たちの仮面というか、手作りしていた。たぶん、画用紙に絵を描いてから頃合いの大きさに切り取り、「わっか」の部分にゴム輪を取り付けたものだろう。学芸会の跡でみんなで移してもらった写真らしく、私は額に付けたウサギさんの仮面の下から、満面の笑顔がこぼれていた。
 二年生、三年の演題はどうしても思い出せない。「花さかじいさん」だったかもしれないし、何かの創作劇だったのかもしれない。いずれにしても、台本があって、何度も何度も練習したり、小道具、大道具を作ったり、振り付けの歌を歌ったりで、先生の指導の下、
まるで現代のミュージカル劇のような感じで、楽しく取り組んでいたのではないか。
 あれは四年生か五年生の時であったか、『竹取物語』をクラスでやった。私の役柄は、おじいさんであった。その中のかぐや姫の『姫の告白』では、「おのが身はこの国の人にあらず。月の都の人なり。月に帰らねばならぬのに」と言って姫が悲しむので、どうしようもない。最後は、姫が月に昇って帰っていくのだった。
 六年生のときだったか、『ペルシァの市場にて』を学芸会で上演した。この『ペルシャの市場にて』は、イギリスの作曲家アルバート・ケテルビーが1920年に作曲したそうな。クラシックのその曲は、音楽への入門にはもってこいの名曲なのだそうである。
 私が受け持っていたのは、楽器と合唱のうち、アコーデオンを弾くことであった。これが大変だった。何しろ、この楽器はいすに座って、丸抱えしてからね左の手であのぶ厚いびらびらしたのをおもむろに広げたり、閉じたり、その右手では鍵盤を弾かないといけない。
 鍵盤を弾くのは、私のように楽譜が余り読めない者でも、何十回と練習しているうちに、課題曲を一通り、なんとか弾けるようになっていた。曲のテンポがゆるやかなことも幸いした。ところが、左手の方はこれが慣れるには大変だ。広げるのはじわじわと行い、一杯広げたときはもて余す位になってしまう。それでいて、今度は圧縮して中の空気を押し出す段になると、それはそれはもう重くて重くて・・・・・。何回も何回もくりかえしているうちに、腰は重いし、腕はだるいし、ただ鍵盤を弾く右手の指だけが曲の動きを追いかけているようであった。
 それでも、小太鼓のリズムに乗せて、ピッコロのメロディがひょっこりひょっこりと、だんだ近づいてくる。砂漠から近づいて来るかのようなキャラバン(隊商)が街の市場(スーク)に徐々に近づいてくるのは、なんだか愛嬌がある。
 その当時は知らなかったが、歌の内容も「アラーの名においてお恵みを」という「物乞いの歌」なのだそうで、ケテルビーはペルシャを訪れたことがなかったそうな。いわば想像の世界ということになる。イスラムの人は、施しを求める者には何かしらを与えるものらしい。ここでいうところの「アラー」は神の名前ではなく、神そのものであるといわれる。
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