新33『美作の野は晴れて』第一部、共働社会としての村落

2014-09-26 20:24:17 | Weblog

33『美作の野は晴れて』第一部、共働社会としての村落

 私が住んでいた当時のでは、日常のさまざまな掟や習慣などが協働社会に根付いていた。その証拠となるのが、おそらくは所有林となっている入会地での「下刈作業」であった。植えている木の間伐や枝落とし、雑木の伐採などで地面まで日光が届くようにするのと、刈り取った雑木や薪の束を燃料としてそれぞれの家に持ち帰るのだ。
 雑木の類いや下草の存在は、森の健康のバロメーターとなっている。ほとんどが笹では植生が単純過ぎる。下草として、色々な植物があってこそ土地が肥沃となる。とはいっても、雑木林の茂みのかさが増してくると、中にはますます太陽光がさし込まなくなっていく。木は、自分の高さの2割の間隔を欲している。木は元々適当な間隔で植えられている。ところが、大きく育つにつれ、互いに競い合って枝を四方に伸ばしていくので、あちこちで日の光が差し込まなくなってしまう。山は管理しないと、荒れ放題となる。中には有用な木材もあって、これを間伐は、枝振りを均等な案配にしてやることで木に再び命を吹き込んでやらないといけない。
 これらの作業は、人を動員して定期的に繰り返し行うとよい。初夏の頃、晴れの日をねらって西下の人の総出で下草狩りと間伐が行われる。間伐は、広い意味での「結い」の制度のようなもので、当時の日本列島で、地方によっては田植えや稲の刈入れ、脱穀に至るまで、忙しいときにみんなで助け合う。大水が出ればみんなで堤防の工事をし、火事になれば共同で消火に当たったり、家の雨漏りがあればみんなで新しい屋根を葺くなど、や村全体で面倒を見る習慣、風土が広く根付いていた。
 いよいよその日が到来し、村人たちは、鎌の長いのや短いのやのこぎりなど、さまざまな道具を持っての北端の天王山に集まってくる。各々が携えている鎌の中には、なたのような分厚い刃を施したものもある。めいめいが勝手に動くのではなく、事前に仕事内容が決まっていた。間伐では、2、3時間の作業の後には、数え切れないほどの薪や小枝の束が山道、林道の道ばたに並べられた。自宅で燃料となる薪や小枝の束をたくさんつくっておいて、それをいっぺんには自分の家へと持ち帰るには荷が重すぎる。そこで、道端に積み上げておくのだ。
 これについて、どうして薪や小枝がそんなに要るのか、至る所に転がっているだろうに、という意見もあるかもしれない。しかし、また、各々が勝手に林に入って家庭用の燃料を採取するのでは、資源は枯渇してしまいかねない。何よりも、夏ならともかく、冬場を乗り切るには、当時、燃料元の主力はガスではなく、竈にくべる薪であり、風呂焚きにも薪が必要であった。暖をとるのに、高価な石炭を使うということもなかった。この田舎にプロパンガスが供給されだしたのは、私が中学校に入って以後のことではなかったろうか。
 ともかくも、小学校のときは、食事の支度も含めて薪を必要としていた。当時は、今日のようなプロパンガスではなく、薪が燃料の主体であった。だから、農家にとっては協働での作業はどうでもいいようなものではなかったといえるだろう。むしろ、いや断然、林の伐採・掃除は願ってもない共同の作業でもあったのではないか。
 協働の作業以外にも、村人が一つところに集まることがいろいろあった。例えば、、家を新築したり、増改築した時は、屋根葺き前のところまで建築がすすんだところで、「棟上げ」式を行っていた。私もその噂をかぎつけ、遊び仲間と見物に行った。作業の現場に着くともう人だかり。新しい屋根の構造が出来上がっていて、その板張りの上に大工職の兄さんやおじさんが3、4人、それに家の人が上っている。我が家の親戚の神主さんの顔も見える。人々が下で興味津津の面持ちで待っていると、やがて「さあ、いくでえ」の合図が下り、上の方から小さい紅白の餅がばらまかれ始める。我も我もと、その餅の落ちる場所へとみんなが手をのばす。手に余って地面に落ちた餅は、踏まれないうちに急いでしゃがんで拾い、持参の大きめの袋に入れる。中には袋の口を開けている人もいる。一通りの式が終わると、また何かのおまけが配られ、また歓声が上がっていた。
 当時の村に、このような協働で作業を行ったり、手伝い合う仕組みがあったのは、水路や道路、民の共有地(入会地)の管理を共同で助け合って行う必要があったからである。それらも、米にプラスして牛や野菜、葉たばこなどによる複合経営が一般化するようになると、しだいに姿を消していく。各戸とも農繁期が長期化し、牧野の共同作業に出役するのが難しくなっていったことも背景にあるだろう。
 また、水田においてもコメの単独栽培からの裏作、転作が普及していくにつれ、トウモロコシなどの飼料作物が増え、少頭数飼養の農家にあっては、放牧する必要が減っていったのであった。
 今頃になって、故郷の歴史の一齣が知りたくなる。高度成長期という言葉は知らなかったものの、世の中の変化はひたひたと押し寄せてきていた。1960年代からは、過疎化がはじまっていたというのは想像に難くない。
 間や内での水利権の調整については、その後もの大きな仕事となっている。今でもその頃のことをふと顧みるときがある。日照りの夏もあった。宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』に、「日照りの夏はおろおろあるき」とある。みまさかの夏も、日照りが続いて、田圃に張った水がなくなって、地面が乾いて「地割れ」することがあった。
 そんなときには、決まって、西下の中で水を巡る争いが一つや二つは持ち上がっていたようだ。特に、我が家に取っては、東の田圃には、水路が錯綜している。の中で約束がなされていて、いつからいつまでは板で水路をせき止めて、自分の田圃に上流からの池や川から流れてくる水を取り組んでよろしいというお触れが出る。その間は水を「我田引水」ができる訳だ。
 同じ日でも、刻限によっては次の順番の人にその用水を引き渡すことがある。特に日照りの時のほかは、んなとかやりくりして仲良く使っていた用水であるが、渇水が長びくとなると、そのやりくりが難しくなっていく。すると、少ない水をみんなで分かちあわないといけないから、喧々がくがく、しまいにはまっひる間から田圃でどなり合いのけんかともなるのだ。
 西の田圃では、私の家の田圃は池の上流にあるので、ひでりが続いたとき微妙な立場であった。放水が始まると、下流の田圃に水が引かれていく。上流側は、汲み上げポンプを発動機で回して池から取水させてもらうしかない。そのときは、村の評議会の許可が要ったようである。
 あるとき、父が狐尾池の間近にある田圃に水を引くのを手伝ったことがある。いくら水を引きたくても、村の許可が出ないと、一滴なりとも自分の田圃に水を引くことはできない「掟」になっていて、それが解かれるまでは我慢しないといけない。それでも、やっと願いが叶うと、刻限を限ってのことであろうから、作業を急ぐ必要があった。
 田圃のそばの一角に発動機を設置して、ポンプにホースをつなげて西下から狐尾池から取水できるよう認めてらったこともあった。父の手によって、ひび割れた田んぼに水が供給されていくのを見て、「ご先祖様」と共通の心を持てたような気がしたものだ。
 池尻にある田んぼに池の水を供給する「いで落とし」の日は、村の寄合で決まる。その日、男衆が潜って、素手で池の詰めをはずす。すると、水が勢いよく下流の方へと流れていく。池尻にある田圃は、これで次から次へと自分の田圃に水を引くことができる。
 私たちの先祖がひらいてくれた、この溜池があってこそのことであった。その竣工の記録をいつか母が書き写してくれている。
「大正十一年(年)竣工
狐尾池は大正十一年(年)に構築され
其の後数次に亘り増改築が行われ
租田を養いたるも
老朽甚だしき為
災害対策事業として全面改築工事が竣工し
ここに待望の池となれり
起工 昭和五十六年三月
竣工 昭和五十九年四月
三町六反四畝
貯水量 六万屯
堤延長 130米
総麹費 三八八九万六千円」とある。

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新31『美作の野は晴れて』第一部、夏の子供たち(夏休みへ) 

2014-09-26 20:22:07 | Weblog
31『美作の野は晴れて』第一部、夏の子供たち(夏休みへ) 

 7月も下旬にさしかかって、梅雨明けしたら、もう夏本番だ。花たちの開花が終わりに近づく7月の20日も過ぎた頃、学校は夏休みに入っていく。その日の学校の朝は、いつもと異なる。全学年の児童みんなが講堂に集まって、いよいよ式が始まる前には、それぞれの学級の級長が前に出て、自分たちのクラスの児童に号令をかける。曰わく、「気をつけえ」、「前へならえ」、それから「直れえ」と声を張り上げる。そうやって整列が済んだら、今度は指導の先生の「休め」の号令があって、一同、左足を広げて、「ハ」の字の姿勢をとって良し、となる。もちろん、この時足のつま先もきちんと揃えてこれらを行うことことが要求される。その振り絞った強い声に、馴れているとはいえ某かの緊張感が走っていたのは、私だけであったろうか。
 式では、校長先生の柔らか「お話」の後、主に生活指導の先生からいろいろと訓辞があった。その多くは、病気や怪我に気をつけろということだったように思う。最後に「君が代」を斉唱し、「日の丸」の国旗の前で「礼」て深々と頭を下げてから、式が終わった。
 「日の丸」は、人類史上、アテン神に捧げものをする古代エジプト・アクエンアテン王のレリーフが遺されていることからも、太陽信仰と深く関わっている。これが1870年(明治3年)の明治政府の太政官布告57号(1月27日付け)及び同布告651号(10月3日付け)により、日本の国旗に制定されたのだという説が有力視されている。「君が代」の歌は雅楽風で、当時の私は歌詞の内容がよくわからないままに歌っていた。これと類似の「君が世」が歌に頻繁に詠まれるようになるのは、平安時代に入ってからである。宮廷からその臣下までの各々の階層で、40歳のときから10年毎に「算賀」(年賀)、つまり年寿を祝賀する習わしであり、そのことの常套語としての「君が世」が人々の口の端にも上っていたようである。
 「君が世に今いくたびかかくしつつうれしきことにあはむとすらむ」(『拾遺集』18、東三条四十の御賀の折の公任の歌より)
 ここにある「君が世」の「世」の意味は「よはひ」、これは転じて生涯、一生にも通じる言葉となる。明治の「王政復古」に至ると、それが「君が代」になりかわり、権威づけられたものと見える。今振り返ると、これらの一部始終は、なかば軍隊式であった気がしないでもない。そんな「君が代」が法律ができて正式な国の歌になったのは最近のことのようだが、この歌がこれからを生き延びるには、若い人にもすっと入っていけるだけの「わかり易さ」、「親しみ易さ」ではないだろうか。特に1番の歌詞を歌う場合に、あまりに神話の言葉で敷き詰められていて、その意味がわからない。
 例えば、その歌詞の中の「さざれ石」などは、どうやら国文学者や考古学者でも、諸説紛々、定説らしきものは見あたらない。ところが、私の子供時には、家の近くの天王山に発坂へ通じる比較的大きな道がさしかかるところに、その石がちゃんと鎮座していた。その大きさは、到底一人や二人の素手で運べるものではない。わざわざ中山神社などに行かなくとも、そうした大きな石を組織的に運んでその場所に置くことがやられた訳だ。私の子供時代ならいざ知らず、昨今ではそんな石を尊ぶ風潮もとうに失われてしまっているようだが、それにまつわる伝承がなお人々の心に息づいていた時代があったのではなかろうか。
 全般的に曖昧な、現代では追体験ができにくい、難解な語句がちりばめられていることから、今ではその意味を確定させるのは至難のような気がしてきてならない。そこでは、過剰な説明を廃し、まじろみもしないほどの迫力でもって人々の心に迫ってくる、あのフランスの国歌「マルセイエーズ」のようなしっかりとした史実に基づいた歌詞の方が、諸民族の融合体である日本人の「和をもって尊ぶ」文化においては、ゆくゆくよりふさわしいのかもしれない。曲調の方は、雅楽も一興で、私はこれをはじめから「この国際化時代にふさわしくない」と決めつけることはしたくないものの、歌うにつれて日本の自然が背景に彷彿としてくるものであれば、どんな調べでもよいのではないだろうか。
 「君が代」に連れられて脳裏に浮かぶのが、演壇中央の緞帳を背に張られた「日の丸」であったのだが、こちらは小学一年生の頭でもなんとなく理解することができた。一つの背景は我が家にあり、母屋の奥の間には「天照大御神」、つまり「アマテラス」の掛け軸が「スッ」と垂らされていた。そこには、神話の本や紙芝居の中のような色あでやかかな姿はなく、字のみが中央に上から下に書かれていた。たぶん、いまでも、生家の同じ場所にあって、古の雰囲気をかもし出しているだろう。そのアマテラスとは、何であるかと言われれば、私ならずとも小学生の多くが、「多分」、「おそらく」という曖昧さで心の衣を繕いながらも、「太陽の神様」と答えたのではないだろうか、その答えは当たらずとも遠からずだと信じていただろう。それほどに、私たちの子供時代、アマテラスは身近にあって、私たちの祖先が農耕民族であったことを教えてくれていた。
 そのことは、親から学んだことで無ければ、学校の授業で先生から系統立って教えられた訳でもない、いまでは失われてしまいつつあるもののも、私の子供時代を通じて、当時は農耕民族の血を受け継いだ立ち一人ひとりが、自然に体感し、「あうんの呼吸」も含めて学びとっていったものなのだと思う。それゆえ、アマテラスが『古事記』や『日本書記』に書かれていても、さして驚くに当たらない、けれども、それが真実かどうかについては、私はなんとなくだが、神話の世界のことだと考えていた。そのアマテラスの面目躍如の場面の一つが「あまのいわとのものがたり」であって、私もその題ととおぼしき紙芝居の朗読を担当していた端くれであるので、今でも、よくよく心得ている。
 なんとなれば、その話は、太陽の熱と光、太陽からの恵みを抜きにしては語れない、その大いなる太陽の下で、地球上のあらゆる生き物の命が永らえているのであることを、ちゃんと認識していた。だからこそ、この物語の全部がフィクションであることを見抜いてはいても、それをあえて「嘘」だとか、「くだらない作り話」だと考えたのではない、それはそれでほとんどわだかまりなく我が胸にしまっておいたのではなかったか。
 そういうことだから、後年、世界に色々ある太陽信仰の話を聞いたり、本で呼んだりしても 対して驚いたことはない。その中には、次に紹介されるような、アマテラスよりはるか昔の、ヒッタイト民族の「テリピヌ神話」も含まれる。
 「この神話では、農耕と植物の神であるテリピヌ神が何らかの怒りにより姿を消してしまい、地上のすべての土地が不毛になり、飢饉が訪れる。それを蜜蜂が探し出し、テリピヌは再び姿を現し地上に秩序が戻るというものだ(ここで登場する蜜蜂は、死したテリピヌの魂の隠喩である可能性も高い)。」(大城道則「古代エジプト、死者からの声ーナイルに培われた死生観」河出ブックス、2015、140ぺージより)
 念のため付け加えると、今日では日本人はさまざまな方向からやってきた多民族の集合体と考えられるが、その内の北のアイヌにも、南の沖縄にも、中央の権力とは関係のないところで太陽信仰が作られていた。それらは、アマテラスが人間の頭の中で組み立てられるはるか前から、存在し、ひとつの地域の中に生きる人々によって存在していた、と言って良いだろう。アイヌの人々にとっては、太陽は夕に西に沈むと死に、そして翌日の朝に東の方角から上って復活する、文字通り万物は流転していた。また南海に済む人々にとっては、太陽は暗い穴から出て、又夕にはその暗い穴の中に沈んで行く、これまた永遠の循環の中にいるのであった。
 さて、一学期の終業式の終わってから教室に入ると、担任の先生から「通信簿」と呼ばれる成績表をもらう。何しろ、緊張した。緊張すると、動作がぎこちなくなってしまう。あの頃は猛烈に1点を刻むようなことはなかったものの、呼ばれる順番を待つのは心地のいいものではない。自分の名前を呼ばれると、「はい」と声を張り上げて答え、椅子から「バタン」として立ち上がり、そそくさと先生の前に進み出て、うやうやしく両手を前へと差し出して自分の通知票を受け取る。
 そろそろとした手遣いで、それでいてもどかしげな気持ちで通知票を開けた。みんなが済んだ後は先生からもう一度全体に私たち全体に向けたお話があった。 いま振り返ると、成績くらいでおたおたすることはなかった。命を持って行かれるようなことはないのだから、もっとゆるゆる構えていればよかったのにな、とつくづく思う。
 「みんな仲良くしてがんばれよ。危ないことはするなよ」
「9月になったらまた元気でみんな会おうな」
「先生、当番のときは必ず来ます」
「おう頼むで、クラスの花檀と自分の菊の水やりを忘れんようにな」
「はーい」
 みんな、口々に元気に返事をしたように想う。それでも、夏休みは欧米に比べて短い。欧米では6月末から休みに入るらしい。当時は7月25日くらいから休みに入り、8月末まであったから、その間にかなりの家の手伝いができる。夏の仕事では、畑でいろいろな野菜を中心に栽培していた。その中には、らっきょうや落花生、はてはそばのような換金作物も含まれていた。畑作の中心となるのは、じゃがいも、さつまいも、そして玉葱であった。両方とも、寒くなって野菜に不自由するときになっても、保存食で食べることができて、夏に作っておくと重宝する。

(続く)

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新29の1『美作の野は晴れて』第一部、七夕の空1

2014-09-26 08:22:32 | Weblog

新29の1『美作の野は晴れて』第一部、七夕の空1

 七夕を祝うのは、半分くらいはお伽噺の夢を追っているようで、実に楽しかった。一日前の6日、鉈(なた)を持って、祖父に連れられて自宅から歩いて10分ばかりのところにある、池のそばの小さな竹林に出掛けた。その中から小さな真竹の枝振りのよいものを2本選んで切り落とした。持ち帰った竹の枝元を縁側の土中の二つの杭に、1メートルくらいの間隔を置いて、それぞれ縄で結わえて、しっかりと支える。すると、両側から交差するように2メートルばかりの枝振りのよいのが垂れかかって来て、なんとなく七夕の物語のにわか舞台が出来上がるのであった。
 この竹が低いながらも天空に川の如く架かったなら、次は飾りつけを行う。いろんな色の短冊に願い事を書き入れ、それらをこよりで結びつける。短冊はどこの店で買ってきたのだろうか。封筒のような入れ物に入っている短冊の包装を解いてゆく。封筒から色の同じのを我が家の縁側に並べてみた時の、あのえもいわれぬわくわく感である。短冊は都合2セット買い求めていて、その1セットの中には金色と銀色のは1枚ずつしか入っていなかった。あとは黄色から橙、青と水色といった、いろいろな色の組み合わせによる短冊が2枚ずつ入っていたのだと思う。
 それらに、硯に墨をこしらえて、小さな筆で丁寧に気持ちを込めて、自分なりの願い事を書いていく。それには、たぶん「家族みんな元気でありますように」とか「今年豊作になりますように」から、「勉強ができますように」といった自分の夢を経て、さらには「世界が平和になりますように」のような視野の広いものまで、さまざまな願い事を書き入れる。なにしろ短冊が小さいので、習字の練習をしている時のような具合に伸び伸びとはゆかない。それでも心を込めて書こうとして、字の方も初めは丁寧に仕上げていくのだが、10枚ほども書くと疲れてきて、筆の運びもたどたどしくなってしまう。字体もあっちへ傾き、こっちによりかかり、よれよれのものになっていくので、これではいかんと又気合いを入れ直して書き入れていったように憶えている。
 たぶん兄弟で2セット分、都合40枚くらいの短冊に願い事を書き入れたら、付属のこよりを短冊の真ん中上の穴に通してから、立てかけた竹の小枝に色も含めて均等になるように一枚一枚を結びつけていく。21世紀を迎えた現代に、この風習はまた蘇りつつあるような気がする。図書館やスーパーなどでは、子供連れの客寄せの一環として七夕飾りに取り組むようになっているのかもしれない。中国から日本に伝わって久しいこの風習はいまやすっかり本家本元に劣らない程、庶民の生活に馴染んでいるのかもしれない。全国津々浦々の七夕祭りの中には、短冊の結わえ方も、2本の竹をつなぐのに留まらず、その間に紐を渡して、これにも短冊を結わえることもあるらしい。
 「ささの葉さらさら、軒端(のきば)にゆれる、お星さまきらきら、金銀砂子(すなご)」(『たなばたさま』、作詞は権藤はなよ、作曲は下総かんいち)
 人によってその曲を聴いた時の、意識の方向や感受性の発揮のレベルは違うものの、このメロディーは、脳の一部にちゃんとしまわれていて、それが色あでやかな七夕飾りを見たりすると、独りでに口から歌詞に乗せられて流れ出てくる。
 『源氏物語』の幻の巻には、こうある。
 「七月七日も例にかはりたること多く、御あそびもし給はで、つれづれにながめ暮らし給ひて、星合給見る人もなし。まだ夜深う一所におきい給ひて・・・・・」
 人には、それぞれ今でも忘れられない思い出がある。岡山県の御津郡(現在は岡山市)では、次のような情緒豊かな七夕祭りが伝わっている。
「七夕さんには男の子、女の子なしで、近所みんなで「露取り行こう」いうと誘い合ってな、楽しみでな、朝早う起きるの。お盆なんかで、芋の葉や蓮の葉、稲からも露をさあっとすくうの。ごみが入ったらいけないから、露は布でこして硯へいれる。こよりはおじいさんが手伝うてくれて「ほんこより」作って。短冊は売っとった。富士山の絵を切ったのや、いろいろの。別にごちそういうてはないけど、おばあさんがメリケン粉の溶いたのをほうろくで焼いてくりょうてじゃったわな。五センチぐらいで中へあんを入れてな、焼餅いようた。それを笹の一番下の二本の枝につけて七夕さんへあげますん。それに瓜とかお茄子なんかに足をつけたり、こうりゃんの毛をしっぽにしたりして馬こしらえて、上げましたりな。かざりをつけた笹は軒に出してな、あくる日の晩に河へ流してな。」(岡本彌壽惠「三木行治さん(元県知事)と同郷ー素朴な遊び、行事」:岡山市文化的都市づくり研究チーム企画編集「さるすべりの花にー聞き書き、岡山女性の百年」岡山市)。
 人々が七夕を飾る頃は、まだ梅雨も残っていて、曇り空の時が多い。残念ながら、あの美しい天の川銀河は見ることができない。8月上旬になって夜空が晴れて、天体観測に適した季節となる。中国から伝わったものに、日本古来の「けがれ」を祓う信仰と結び付いて、日本独特の体裁になったものらしい。この物語の舞台となっているのは、夏の夜空の光の光芒である。周りは暗闇に包まれる。そんな夜空からの光は、太古の人々の頭上にも燦々と降り注いでいたことだろう。それに身体を丸ごと打たれるようにして、しばし自らの心の底に潜んでいる神秘の扉を開きつつ、何らかの安らぎを得ていたのだろうか、それともこの美しく瞬く星々に誘われ、自分の存在の小ささ、そのはかなさに怯えていたのかもしれない。そうする間にも、地平線からカシオペア座に、さらに北斗七星へと線を延ばしていくと、やがて現在の北極星とされる小熊座の一等星に行き着く。
 ことのほか美しい場所は、「夏の大三角」の辺りだ。この形を構成しているのは、南側から眺めてはくちょう座のデネブを北の頂点とし、右回りの東の空にベガ(織姫星)があって、その西南の方角にアルタイル(牽牛星)が見える。私たちは、七色の光を見ることができて、「スペクトル」と呼んでいる。アイザック・ニュートンが発見した。その色は、波長の長い方から、俗に赤、橙、黄色、緑、青、藍色、青紫の順序ともされている。とはいえ、地球上のどこにいるかで、人々の目に幾つの色に見えるかは定まっていない。私たちの目に映る彦星の方は、白っぽくて、わし座に含まれる、1等星という。こと座のベガは大層明るいゼロ等星で、青白い光を放っている。実際には、ギリシア神話に出てくるベガ(織姫星)と、わし座のアルタイル(牽牛星)とは14.8光年も離れている。ここに1光年とは、1キロメートルが10の5乗センチメートルであるのに対し、1光年は10の18乗センチメートルである。真空中を光が1年間に進む距離とされ、約9兆4605億キロメートルに相当する。それなので、七夕の夜だからといって、この二つの星が私たちの眼に仲良さそうに、ほのぼのと並んで見えることは望めない。
 古代中国の物語の彦星と織姫はごく普通の夫婦であり、地上で仲むつまじく暮らしていた。ところが、そんなある日、織姫はどのような理由によるものかわからないが、天帝によって天に上げられてしまう。彼女を追って、2人の子供とともに天に上げてもらった夫は、天の川に阻まれ、妻のいるところに行き着くことができない。ただ年に一度だけ、鷺(さぎ)に頼んで橋をかけてもらい、織姫との再会を果たすことができる。何とも哀れさの漂う、古代中国の物語のあらましである。短冊には、もともと裁縫がうまくなりますようにと、女の子が願って短冊に記していた。それがこの国に伝わり、だんだんと男の子もあれこれの願い事を記す行事に変っていったことになっている。
 地域によっては、この行事に用いられる竹は色々、本数も二本ではなく、一本だけのもあるらしい。こちらの独立行政法人国立女性会館の1階の広いロビーには、5、6メートルはありそうな立派な竹が設けてある。どっしりした感じでしなだれかけてあるのは、天の川をイメージしているのだと一目でわかる。何とも大胆だ。しかも、短冊に混じって、くす玉、輪つなぎ、何やら提灯(ちょうちん)らしきもの、四角つなぎ、紙すだれといった振り付けもされていて、全体的に豪華な七夕飾りとなっていた。惜しむらくは、玄関を入った先のホールに立てられているので、風の気配が感じられない。もしこれが窓際に置かれてあれば、窓を開けると一陣の風が舞い込んでくる。すると、笹竹の先々にまたの短冊たちがその風になびいて、ゆらゆら揺れる姿が見られるのにと、贅沢な空想にとりつかれるのだった。
 その頃、我が家の庭から見上げた時の、夜空に広がる星の世界の美しさは、今でも忘れていない。夏の夜空はことのほか美しく、そして神秘的であった。その頃は、夜になると、家路を急ぐ雀やトンビ、それにカラスなどの群れがいなくなったころ、森の木々が仄かな風にそよぎ始める。それとともに、周囲の森のざわめきが増してくるような感じられた。それは、昼の間はいっさい聞こえなかった、生きとし生ける者たちの時々刻々の息使いであったのかもしれない。空の色合いも、だんだんに漆黒になっていき、ついに闇夜が空全体を覆うのだ。気づくと、天空に無数の星が瞬いている。その世界を、いつの間にか、周りの闇が幻想的に囲んでいる。
 はじめ北に向かって立ち、首をしだいに後ろに縮めるようにして天頂の方へと見ていく。
すると、漆黒の森が被さった北東の方から、とかげ座、はくちょう座とある。はくちょう座には、デネブという明るい星が瞬く。天空高いところまで行くと、無数の星を二つに分けている光の帯のようなものが見える。その姿は、ぼんやりしているようでもあり、白いミルクを垂らしたようでもある。西洋ではこれを「ミルキーウエイ」と呼んでいる。かの『ギリシャ神話』の、赤ん坊のヘラクレスが母親であるヘラの乳房を思い切り吸ったとき、勢い余った乳がほとばしって天まで届いた名残だとされる。
 天の川に連なる星たちは、ここから二手に分かれて、こぎつね座、や座、わし座、たて座、いて座と続く。その二股の帯がひときわ明るく輝いている周りが、わし座からたて座、そしていて座にかけてのところであり、その中の「南斗六星」は、いて座の頭から胸にかけての、真南の明るい天の川の中でに見ることができる。その形が赤ちゃんにミルクを飲ませるためのスプーンに似ているところから、「ミルキー・ディッパー」(乳の匙)と呼ばれる。北西の空へ大きく傾いている北斗七星に比べややこぶりながら、星の並びはよく似ている。古代中国の寓話によると、こちらにいる仙人が生きることを司っている。そして人が生まれると、死を司る北の仙人と相談して寿命を決めるのだという。そのさそり座からいて座にかけての付近、つまり地球から見たその方向に、私たちの銀河系の中心があるのだと言われる。ここには、私たちの銀河系の物質が高密度で集まっている。そこに暗い隙間のようなものが見えるのは、実際には、そこに光を出さない暗黒の質量としてのダークマター(暗黒物質)があるからだ。いて座を過ぎてからは、夏によく見えるさそり座などを経て、この満天にかかる光の架け橋は向こうの南の地平線へと吸い込まれていく。
 宇宙におけるフィールドとは、空間、時間、そして物質のことである。その出発点を地球とすると、地球から10億キロ、つまり10の12乗キロメートル離れると、木星の軌道が視界に現れてくる。木星は、私たちの地球のおよそ1000倍の質量がある。さらに100億キロメートルになると、太陽系の全体がすっぽりと入ってくる。太陽は、銀河系と呼ばれる小宇宙に属する一つの恒星にして、地球から1億5000万キロメートル、光の速さでいうと10光分のところにある。地球は、一日に1回自転しながら、この太陽の周りを平均で秒速約30キロメートルで公転している。それは、円軌道ではなく楕円軌道に乗っかっている。17世紀のヨハネス・ケプラーにより発見された。なおここに「平均で」というのは、地球と太陽の間の距離が一番近づくのを近日点といい、ほぼ1億4700万キロメートル、そこでの公転速度は秒速約30.3キロメートルであるのに対し、反対側の一番遠くなるところを遠日点といい、そこでの公転の速さは毎秒29.3キロメートルとやや遅くなっている。
 さて、1000億キロ、つまり10の14乗キロメートルになると、ここでもまだ太陽が見える。太陽は、恒星だから自分で燃えて光って見える。そして10の21乗キロメートル。つまり約10万光年で美しい渦巻き銀河の構造が見えてくる。これが私たちの住む銀河系なのだとされている。一般に、この渦巻きをした銀河(galaxy:ギャラクシー)は1億から1兆個もの星から成り立っており、その銀河が多数集まって銀河群・銀河団となり、それがまた多く集まって超銀河団になるというように階層構造が広がっている。その全体が宇宙だと言える。そこで、この渦巻き銀河を上から見ると、アンドロメダ座の近くに肉眼で見える、「M31」と呼ばれるアンドロメダ銀河のような、渦巻き形を形成している星の大集団を横から見ると凸レンズ状に見える。1924年、アメリカの天文学者エドウィン・ハッブルによって、それまでは私たちの銀河系の一部だと考えられていたのが実は別の銀河であり、それは天の川銀河と隣合わせであることが発見された。ちなみに、M31銀河は、私たちの銀河系から約250万光年の彼方にある。それは、銀河系の約2倍の大きさで、秒速300キロメートルの速さで銀河系に近づいているのだという。
 このままいくと、およそ50億年後には銀河系の方がアンドロメダ星雲の中に吸収され、両者は合併するのではないか。ところが、物理学者が予言する「そのとき」はかなり違っうのだと教わった。講義では、「でも、もし君たちが生きていたとしても、その衝突には気づかないだろう。銀河はほとんど空っぽの空間だから、ぶつかっても星々はお互いの間をすり抜ける。ほとんどの星はぶつかることのないまま二つの銀河は合体して、渦巻き銀河ではなくなり、倍の規模の楕円形の銀河を形成する。でも、もしきみがその中の星の一つにいたとしても、数十億年もかかる合体のプロセスに気づくことはないだろう」(クラウス教授の講義・宇宙白熱教室第一回「現代宇宙論」二〇一四年六月二〇日NHK放送より)ということなので、驚きだ。
 地球と太陽の距離は、およそ1億5千万キロメートルある。太陽からの光は、およそ500秒をかけて地球にやってくる。光は一秒の間に真空中を約30万キロメートルだけ進む。つまり、私たちが見ている太陽は、その都度500秒の前の姿なのである。私たちの太陽系は、銀河の中心から約2万7~8千光年、およそ2京7~8千兆キロメートルの「オリオンの腕」と呼ばれるところにある。
 私たちの銀河系に含まれる星の数は、およそ1000億個と見積もられる。それらの集合は、ディスク(円盤)に見立てることができるだろう。その直径は、約10万光年だと言われる。ここに1光年は1年の間に光が進む距離で、約10兆キロメートルを表す。およそ10京キロメートルある訳だ。ディスクの厚さは約1000光年ある。バルジとは、膨らみや樽の胴部分のことで、銀河系中心の盛り上がりをいう。このバルジを入れたディスクの厚さは1500光年位ある。いずれにしても、大変平べったい形をしている訳だ。その真ん中は実に沢山の星が密集していることから、まるで目玉焼きの黄身のように盛り上がっている。
 その銀河の渦巻きの外延部に近い部分、そこを川底に見立てて、我が身を置いたとしよう。そこから「天の川銀河」(銀河系の別名)を見上げてみる。すると、天の川は夜空をぐるりと一周するようにして繋がっている。が星が集結している部分と、星がまばらになって見える部分とが分かれている。渦巻き銀河の中で星が一番集結しているバルジには、恒星集団が密集していると考えられている。外側まで広がっている円盤構造の部分に対し、こちらは厚さ方向に丸いというよりは、楕円体のような広がりをしている。
 このバルジは、「巨大なブラックホール」で満たされていると考えられる。それは、例えば物理学者の高梨直紘(たかなしなおひろ)氏によって、比較的私のような者にもわかりやすく説明されている。少し長くなるが、引用させていただきたい。
 「赤色巨星になった後の星の運命は、星の重さによって2つに分かれます。太陽の重さの8倍よりも軽い星は、星をつくっていたガスが宇宙空間に放出されていき、惑星状星雲と呼ばれる段階を経て、最終的には星の芯の部分だけが残ります。これが白色矮星(はくしょくわいせい)と呼ばれるものです。白色矮星では新しく核融合反応は起こらないため、基本的にはそのまま少しずつ冷えていき、最終的にはまったく光らない星となると考えられています。
 太陽の8倍を超える重い星の中心部はさらに縮まっていき、星全体はさらに大きく膨らみます。そして、最終的には星の中心核が融けて圧力を失い、星全体が中心に向かって崩れ落ちる重力崩壊と呼ばれる現象を起こします。これが重力崩壊型の超新星爆発です。星をつくっていたガスの多くは宇宙空間に吹き飛ばされ、超新星残骸となります。一方、星の中心部には中性子星あるいはブラックホールが形成されます。中性子星も白色矮星と同じく、時間の経過とともにエネルギーを失っていき、最終的には光を放たない天体になると考えられています。ブラックホールも、特に外部からの刺激がない限りは、そのまま大きな変化は起きません。」(高梨直紘「これだけ!宇宙論」、秀和システム、2015)
 なぜそこにブラックホールがあるのかという問いかけに、クラウス教授は次のように言われる。
 「とても忍耐強い天文学者がこの星々のちょうど真ん中あたりをみつけ続け、星々の軌道を観測した。すると、星がある暗い物体のまわりを回っていることがわかったんだ。この物体の質量をきめるのには、きみたちもこれから直ぐ好きになるニュートンの万有引力の法則を用いた。こうしてその物体がまわりに星を引き寄せていて、太陽の百万倍の質量があることがわかったんだ。とても小さく、光を放つこともなく、太陽の百万倍の質量を持つという事実から、われわれはブラックホールだと考えている。・・・・・もちろん、それが見えないことは残念なことだ。もっとさまざまな観測を重ねて、それが本当にブラックホールかだといえるのかを見極めたいと思っている。ブラックホールは密度が高すぎて、光さえ逃れることができない。脱出するには光より早い速度が必要なんだ。」(クラウス教授のアリゾナ大学での、社会人らを相手にした講義・宇宙白熱教室第一回「現代宇宙論」二〇一四年六月二〇日NHK放送)
 そのブラックホールのあるところでは、「中心部を取り囲むように、「事象の地平線」と呼ばれる半径がある。事象の地平線の内側では、ブラックホールから脱出するために必要な速度が光の速度よりも大きくなるため、古典物理学によれば、なにものもそこから逃げ出すことはできない。したがって、事象の地平線よりも内側で放出されれば、光でさえも、ブラックホールの外に出てくることはない」(ローレンス・クラウス著・青木薫訳「宇宙が始まる前には何があったのか」文藝春秋刊)と考えられている。
 それから、天の川となってみえるのは、銀河系の薄い円盤を横方向から眺めている。それとは逆に、星がまばらなところは、それらの星が密集している銀河の円盤からはずれたところ、つまり円盤の上と下にある星をみているからにほかならない。肉眼で見えないものも含め、この広い銀河に宿る、およそ1000億の星々の中で、地球を含め幾つの星やその惑星に命が宿っているのだろうか。今でも、田舎に夏帰った時の晴れた夜は、雄大な宇宙にしばし浸れる。残念ながら、昔日のあのダイヤモンドをちりばめたような明るさをもつ宇宙パノラマではない。そうなったのは、周りがすっかり明るくなったためなのか、それとも空気がよどんで向こうが見透せなくなってきたからなのか、その辺りのことはまるで知らない。ただ、朝方、夜明け前には地平線の上方を人口衛星がゆるゆると西方に移動していく姿が見えていることもある。
 七夕の締めは、「七夕送り」をしなければならない。飾りつけを川に流せばよいようなものだが、あいにく家の裏手筋を加茂川まで持って行くのは厄介だ。そこで我が家の近くにあるのは狐尾池であった。それなので、竹から飾りつけを外して、竹は家において処分することとし、飾りのみまとめて持って池に流しにいったのではなかったのか。短冊は燃やすのではなく、流れに任すのが筋というものであると考えていた。それに、この池に沈めても人を害したり環境を汚染することはないからと、近所のおじさんやおばさんから苦情は聞いたことはなかった。何事も楽しむまでは勢いがあってよいのだが、その後の片付けにはいろいろと面倒な事がある。残った竹は、鉈(なた)で細かく切って、風呂炊の材料し、火の中にくべていたのではないか。

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新28『美作の野は晴れて』第一部、夏の自然の中で2

2014-09-26 08:19:22 | Weblog

28『美作の野は晴れて』第一部、夏の自然の中で2

 初夏が過ぎ、梅雨ともなると、川や池の生きものたちの動きが活発になってくる。かれらは、その生活を自分の周りの環境に依存している。その逆に生物はかれらを取り巻く環境の産物であるともいえる。1950年代(昭和25年~34年)までは農薬も家庭排水のうち危険な物質はほとんど使っていなかった。そこかしこでは、牛糞を主体とした有機の堆肥や、除草のための労を惜しまなかった。労働集約的な農業が行われていた。だから農薬の散布もかぎられていたようだ。
 その頃の池や、それにつながる溝にはたくさんの生き物がいた。ドジョウ(ホトケトジョウなど)、ゲンゴロウ、タガメ、どじょう、ギンブナ、モツゴ、エビ(スジエビ、テナガエビ、ホウネンエビ)、どほうず、メダカなど、かぞえあげていたら、きりがない。かれらは、こちらに出て来たと思うと、あっという間に方向を変えて視界から遠ざかってしまう。モツゴは鮒とよく似て、溜池や用水の緩やかなところにいる。カワバタモロコというのは、モツゴや鮒をもつと小さくしたようなもので、網にはカワムツはうろこが細かくて、体型は鮒などより細長く、溜池でよく見かけた。
 その同じ水中に、めだかもいるにはいたが、かれらが群れをなして、浅瀬をスイスイ泳いでいる。その姿を見ていると、あの歌が思い出される。
 「めだかの学校は 川のなか
 ちょっとのぞいて みてごらん
 ちょっとのぞいて みてごらん
 みんなでおゆうぎ しているよ」(作詞は茶木滋、作曲は中田喜直)
 すると、まるで自分たちの生きる姿勢につながっているようで、親近感さえ湧いてきて、わざわざ捕まえようという気は起きなかったようだ。
 そんな梅雨の時、田畑や山からの水が池に落ちる境目に、祖父が魚取りの竹編みを仕掛けに行くのが楽しみであった。罠籠(筒状の竹編みの罠)は、やみくもにしかければよいというものではない。増水で池の水位が上がって、魚が溝から田圃へと泳ぎ上がる。彼らはひとしきり遊泳して、恐らくはアオミドロやクロレラなどの藻類やプランクトンをおなかに詰め込んでから、やがて池に帰ろうとする。その帰り口、まさに水が勢いよく池に流れんでいく少し出前のところに、流線形の罠をその溝の中に沈める。その口は逆ラッパ状になっていて、彼らを入れる。流れに向かって徐々にすぼめられる構造になってており、その流線形のおしまいのところは糸できつく縛られている。そこに上流から魚が入ると、「しまった」ということで逆に戻ろうとしても、罠籠の中は漏斗の形をした逆ざや構造となっていて、どうしても逃げられない。
 この道具を用いて獲れるのは、大方がどじょう、鮒、そして川蝦であったろう。罠を仕掛けた翌日の早朝、学校に行くようになってからは起き上がったら直ぐにズボンを履いて、祖父の後に、バケツを持って従う。現場に着いて籠を引き上げる。すると、大抵は豊漁なのであった。魚たちに混じって、魚たちの餌となる水生昆虫、川蟹、ヘビや小亀が入っていることもある。もっと手軽な魚の採り方としては、「そうき」と呼ばれる半円柱型の竹網の漁具を用いるものであった。これを池の端の葦や猫柳の生い茂る場所に縦に沈めて構え、その方向に足をドンドンと踏み込んで魚を追い込み、そして引き上げる。これを何度も繰り返すのだ。西の田んぼ沿いの水路や池尻には、どじょうが沢山いた。どじょうは、大きいものから小さいものまでいた。大きくなると、赤みを帯びてきて、ひげらしきものが生えているものもいる。どじょうは日本全国どこでもいるのだろう。この蒸し暑い時期の時期のどじょうの食べ方も、いろいろだと思う。
 ところで、どじょう料理の代表格は、昔も今も、あの「柳川鍋」なのではないか。私が初めてそれをしょ食したのは、関東に来てから直ぐの時だった。地下鉄東銀座駅の改札を建て階段を上がったところに、その店はあった。直ぐ隣が歌舞伎座である。大通りを前にした小さなビルの2階に、粋な暖簾の垂れ下がった柳川鍋の店があった。狭い店なので互いの席が近い。それだから、待っている間にも他の客が食べている料理の湯気が鼻腔に入ってくる。やっと盆は二層構造になっていて、上の部分に平たい鉄皿が載っている。多分、調理場ではその皿に具材、醤油と砂糖を入れて火にかけたに違いなかろう。中のどじょうは小ぶりのものばかりで、柔らかく煮てある。店の人があつあつの状態で客席にもって来る。どじょうの上に卵をかけてあって、卵とじの状態にしてある。それが食べる者の食欲をそそる一品となっていた。味は関東にしては薄味だったように思う。どのどじょうも小さいので、苦い味はしない。まずはどじょうを箸でつまみ食いし、おわりの方ではご飯に煮汁ごとぶっかけて食べていた。値段はたしか7、8百円くらいで手頃であったことから、昼休みに何度か食べに行ったも
のである。
 今思い出すと、私の子ども時代、我が家で食べるどじょうは、いたってシンプルな食べ方であった。獲ってきたどじょうをバケツの大きいのに移して水を入れ、泥を吐かせる。それには、数時間は必要だったろう。中には、大きいのもいる。それを2枚におろし、はらわたをとっておく。小振りのどじょうはそのままにしておく。それらを一緒にそうきに入れて水洗いをして、ぬめりをとっておいてから、シユンシュン沸き立った鍋に入れる。母の作るどじょう煮には、ささがきのごぼうが入れてあったのかもしれない。山椒と一緒に醤油で味付けする。山椒を入れることで、臭みが抑えられ、かつ、どじょうのうまみが引き出せていたのかもしれない。鯉の甘辛煮のように、鍋にじっくりと煮込まれたどじょうをおかずにすると、ご飯が進んだものだ。我が家のどじょう料理には、その他に、みそ汁にどじょうを入れて、それをまるごと御飯にぶっかけて食べることも、たまにはあったのかもしれない。ともあれ、このあたりでは、どじょうは小鮒と並んで簡単に沢山穫れていた。特に労働で体力を消耗する夏場にかけては、その頃の我が家にとっては貴重なタンパク源となっていたことは疑いない。
 春から夏にかけての小川にはシジミ(マシジミ)がいる。あのシャワシャワ脚を動かして示威するアメリカザリガニもいた。これは数も多くいる。スウェーデンでは「ディム」という、ハーブに塩を入れたスープに油揚げて沢山食べるし、中国の上海では焼いて食べるのだか。寄生虫が棲みついているとの噂もあって、捕まえるのは時々にしておいた。田んぼや沼地に入って泥土をズブリと踏んでいると、足の裏に丸っこいものが当たる。そこで手を肘の上まで突っ込んでマルタニシを掴み出す。池の漁で困るのは蛭が吸い付いて離れないことである。ヘビはよく見かけるが、草むらに近づかない限りまむしはぬかるみのほとんど見かけない。
 とびきりき面白いのは加茂川での漁である。夕暮れ時、父や兄と一緒に加茂川にカワニナ獲りに行くことがあった。水の流れているところの川幅は三十メートルは下らないのではないか。中程の急流になっている辺りに足を入れると深みにはまったり、流れの勢いで次の足が抜けなくなって危ない。身の安全を思えば、足を踏み入れるのは川辺から近いところまでとし、岩の下にとりつくカワニナを手で掬っては竹籠に入れる。これを持ち帰ってみそ汁に入れて食べていた。後年、この貝には寄生虫が宿っていることを知って獲りにに行くのをやめたのだが、道理を知らぬとは恐ろしいことである。
 川鰻には、やつ目うなぎのような小型の鰻も含んで言っていた。それらを目当てに、夜になってから加茂川そばの支流に分け入って、草陰の浅瀬に罠をしかけに行くこともあった。そのときはガス燈をぶら下げて父の後をついていく。ガス燈に入れるカーバイドの硫黄のような匂いを覚えている。そのカーバイドに水を加えるとアセチレン・ガスが発生する。ガス燈の中はあらかじめ空気とよく混ぜて燃えるような仕掛けがしてあって、点火すると明るい炎で燃える。風が吹いても消えないので、夜の猟(「夜ぶり」といっていた)重宝がられた。彼らは、浅瀬の流れが感じられないような目を開けたままに、じっとしている。その時は寝ているのかもしれない。そこで網をそっと水の底に沈め、魚の下に持って行き、さっと上げると容易に捕まえることができる。翌朝、父が戻ると、竹編みの竹籠(「びく」とも呼んでいた)の中をのぞき込むと、目当ての鰻がいたこともある。とはいえ、普通のに比べて小ぶりの八目鰻も含め、罠に鰻がかかることは稀であり、父が「破顔大笑」の面持ちで鰻を持ち帰る時もあった。大きな鰻を見たときは、私も「これで何日かうなぎが食べられる」と感激したことはいうまでもない。
 そういえば、あの頃の我がの子供たちは、自然の姿を思い浮かべながら歌うことができた。特に夏場は、夏休みということで、家の仕事の手伝いで明け暮れていたとはいうものの、その合間、合間には、空きの時間を見つけ出して、大いに遊んでいたのではないだろうか。といっても、都会のように、色々と遊ぶところがある訳ではない。それだから、いわば、自然の中で生きていたのだ。あれから幾十年の後、いまはどうなっているのだろう。自分の周りの子供に聞いてもはっきりした答は返ってこない。今、団塊の世代や、その後に続く私たちの世代が、子供の時に味わった感激を子供たちに伝えることができないのは寂しい。生活環境が激変した今の子供たちは、一年を通じて自然から何を学ぶのであろうか。
 田植えが済んだ頃の風物誌に蛍がある。4月から5月にかけて土の中で繭を作っていた蛍は幼虫からさなぎを経て、蛍の成虫に近づく。5月から6月ともなると、土の中から這い出して、草に這い上がり、そこで羽化してが成虫となる。午後も8時くらいになって池の上の辺りがとっぷり暗闇になる頃、夕食を済ませた僕らは出かけた。北の方角から高く飛んだり、かと思うと急に低く降下したりで、蛍が群生乱舞しながら、僕たちの立っている道を横切ろうと近づいてくる。ゲンジボタル、それともヘイケボタルであったのかは知らない。源氏と平氏のいくさの時代からそう呼ばれているものらしい。
「ほーほーほーたる来い
あっちのみずはからいぞ
こっちのみずはあまいぞ
ほーほーほーたる来い
山路(やまみち)こい
行燈(あんど)の光でまたこいこい」(秋田地方子守歌『ほたる、来い』、作詞者は不詳、作曲者は小倉朗)
 何を馬鹿な・・・?。水が甘いはずがない。なんのことはない、蛍をだまして捕まえようというのだ。自分でもそう思いながら念仏のように唱えていた。田植えの済んだ田圃の岸や小道を菜の花の箒を作って振り回して、閉じこめ、捕獲した。それを屋台で売っているような小かごに入れて、細かい筋状の草を入れて眺める。2秒間隔ぐらいに下腹の辺りに青白い光が点滅していた。これはきれいだな、これはいい。小駕籠はさながら宝石箱のようであった。
 いまから思えば、随分とかわいそうなことをしていた。蛍達はあのとき懸命に自分の相手を捜していた。必死で生きていたのだ。最近本を読んで知ったことだが、あのとき池べりのショウブが生い茂ったところが雌のいたところで、その産卵場所にいる雌の求愛の発光に導かれて、雄たちが飛び回っていたのだ。だから、それは子孫を残すまでのつかの間の命の灯火であったのだ。それを思うなら、光の饗宴を現地で見物することで十分であったという気がする。
 蛍の幼虫のヤゴは水中にいる。水のきれいなところでないと、彼らは棲息できない。かといって、渓谷の清流にも見かけない。一匹のヤゴは成長するまでに30匹のカワニナを必要とするという。カワニナは巻き貝の一種であって、清流にしか棲んでいない。夕暮れの加茂川には、流れの只中にある岩の波打ち際に黒々とせり出してきていた。池の下流の水路の浅瀬のそこかしこでは、シジミに混じってカワニナもいる。カワニナは藻を食べて生きている。そのカワニナによってたかっている蛍の幼虫を目にしたことはないが、テレビでその場面を観ると、自然界の掟というか、自然界の厳しさを感せずにはいられない。
その辺りは、護岸工事がなされたり、家庭排水とか農薬とかさまざまな化学物質が使われ出し、それらを含んだ水が池に流れ込むようになったことで、清流を好む蛍の幼虫はしだいに居場所がなくなっていたようである。
 夏の鳥たちで印象ぶかいのは、子育てとも関係するのであろうか、その大胆さである。例えば、雀にしても、この時期は小さなミミズとかばかりでなく、比較的大きな獲物をとろうとする。セミは夏には沢山いるが、そのセミが弱ってくると、段々と地上に近くなってくる。動作も鈍くなっていく。すると、雀が空中でセミを追いかけている。あの弱いはずの雀がである。そんな光景には、今でも散歩しているときなど時々見かける。想い起こせば、あのときのセミは背後からの追撃を受け、羽をかぐられながらも、何とかその爪を振り切って逃げ延びたようであった。夏の昆虫たちへの記憶もいろいろとある。あの頃、図書室でファーブルの『昆虫記』を数ページ位だけ読んだ覚えがある。フンコロガシとかのところまでは、よんでいなかった。昆虫はバッタや黄金虫から、トンボや蝶に至るまで、田舎のことであるから、どこでもじつに沢山いた。
 小学校の帰り、道を進むにつれ、一人また一人と連れが減っていく。流尾地域への入り口にある坂道にさしかかる頃になると、1人で帰っている途中に、ちょっとした切り通しがあった。そこで、時々しゃがみ込んで斜面から地面へと目を働かせていると、『蟻地獄』のような杯状の、ロートをしたような泥の穴がいくつもあった。自然にできたのではなく、昆虫が作ったものである。餌が入ると、底に向かって滑り落ちる仕組みになっている。小動物は、何回もはいあがろうとするだろう。だけど、足や手でひっかけどもその度に砂が崩れて、また底へとすべり落ちてしまう。そのうち、力がなくなっていく。底の部分のその砂の下には、何かがいるのではないか。そこを手ですくって見ると、果たせるかな、蜘蛛のような動物がいたものである。その動物は、罠をかけて、獲物かその罠に掛かるのをまっていたものと考えられる。
 夏の授業も大詰めになっていく。朝から太陽の光がまぶしい。湿り気があって空気がよどんでいるときでも僕らは「休め」の姿勢で朝礼に臨んでいた。朝礼では、校長先生が夏休み中の心得を話される。校長先生の話が終わると、次は生活指導の先生の話となる。これが長い。頭がボウッとなつていくような気がする。そのうちに「バタッ」と人の倒れる音がする。
「ああ熱射病にやられたな、誰じゃろうか?」
 倒れた女の子が若い先生の手に抱きかかえられて表玄関の中へ消えていくのを見送った。
 それでも、きょうの朝礼は直ぐに終わる気配はない。なぜなら、まだ先生方からのお達しや注意事はまだ沢山あるようだし、四方八方から空気の熱い分子がビシビシ当たっているように感じられるからだ。
「まったく今日は暑いなあ。先生もうそろそろ、おしまいにしてもらえんじゃろうか・・・・・」
 いまから考えると、皮膚と触れ合う空気が動いていないと皮膚呼吸がうまくできなくなることも影響していたのだろう。

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新26『美作の野は晴れて』第一部、夏の自然の中で(田植えなど)

2014-09-26 08:14:30 | Weblog

26『美作の野は晴れて』第一部、夏の自然の中で(田植えなど)

 初夏は、おおむね立夏から梅雨入りまでの期間に当たる。梅雨に入ると、雨がやみ、空が晴れ上がってからは、花たちは色鮮やかとなる。葉は太陽光線を反射して青みを増してくる。葉の厚さも増してくる。それでいて、南国の花の色合いと違う。オーストラリア北部やインドネシアに咲いている花のようなあっけらかんの、派手な色合いではない。草もつぎから付きへと繁茂してくる。雨が大量に降った次の日などは、明らかに背丈が増している。
 梅雨の時期は、いろんな作物が大きくなる時期だ。マメ科の植物は土壌中の根粒菌と共生関係にあるとは当時知る由もなかった。緑色をした植物たちのほとんどすべては、その根の部分から窒素分を水素と窒素の化合物であるアンモニアや硝酸の塩類として吸収する。これに対して、マメの根粒の中にはリゾビュームというバクテリアが棲んでいるのだといわれる。その菌は空気中の窒素を同化して窒素化合物をつくり、これを栄養分として宿主のマメ科植物に与えている。このような働きを窒素同化作用と名付けている。間借りしているお礼にその窒素養分を差し出すというのだ。共生関係の見本といえよう。
 この時期には、春先に植えておいた夕顔も大きくなってくる。別名というか、この植物は後に乾燥させて、製品としての「かんぴょう」となる。今も、栃木県下野市辺りの農家では換金作物として早くから栽培し、こんにちに至っているという。驚くことに、雷の雨との関係があり、雷様が余計なものではなく、日光連山を北に望むこの辺りは雷が多くて、積乱雲がもたらす雨が夕顔を大きく育てるのだといわれているそうだ。
 こうして栽培した夕顔は、収穫したら、家で皮むきする。土間で「あぐら」をかいてやっていた。肉皮ともに柔らかいので、包丁でむいていく。むき方は、なにしろ大きくて重たい。そこで、一方の手で抱えてくるりくるりとまわしつつ、包丁で5ミリぐらいの厚さに皮むきをしていく。手慣れると、1メートルくらい皮が途切れず向けるようになる。そうなると、一人前だ。
 こうして皮むきした夕顔は直ぐ干さないカビがついて、食べられなくなってしまう。だばににして、日干しにする。2日もすればひなびて来る。梅雨晴れ間をねらって、それを何回もくりかえしたら、ひからびになっていく。あのスーパーで売っているような美しい肌合いの商品というか、自家製のかんぴょうとなる案配だ。当時の農家は、こうしてできるだけ自給自足で生活しようと普段からかんがえていたともいえるだろう。
 我が家では「東の田んぼ」といっていて、家から1キロメートルくらい離れたの真ん中辺りに田圃の集落があった。そこは小川を中央にして、平原のようになっており、その両側に家の田んぼが散在していた。我が家では、当時、そこの田植えでは、主だった場所はよその人たちに頼んでしてもらっていた。田植えの風景は、写真で見るベトナムのメコン・デルタのものとさして変わらない。の人とは違う顔の人たちだった。ほとんど全員がご婦人、おばさん方だった。その日は応援の労働力を西下内外から迎えるので、家族6人は朝早くからてんてこ舞いであった。
 私たち子供は、何をしていたのか。苗を運んだり、お茶を配ったり、昼飯の「ぼた餅」を配る手伝いをしたのを思い出す。ご婦人方は、女性の人は鮮やかなかすり模様のついたモンペを身にまとっていた。かすりというのは、美しかった。藍色の布地に赤が適当にあしらっているなど、それが朝の陽光に映えてまぶしく、目を見張ったような気がする。
 おばさんたちは、なかなか両の足と両の手には脚絆をはいていた。労働の場所は、社交場でもあった。その日ばかりは多くの人々の手で、田植えはどんどん進んでいった。
 田植え仕事のやり方は、家で行うのとあまり違うことはなかった。おそらく、新野の辺りでは同じように植えていたのではないか。まずは起点となる田んぼの一番長い端にリールという使って縄をビインと張り渡す。縄の両方の端には鉄の杭が結わえつけてあって、それを地面に突き刺して固定するのだ。次に、そのピンと張られた綱に沿って、寸法竿(直角三角形)の一辺を寄り添わせる。
 田んぼには水が張られているので、ややもすれば定規が浮遊するので、「直角」の線が崩れて動いてしまう。失敗しないためには、一度位置をきめたら、急いでやらないといけない。起点を固定させたら、こちらと、はるか向こうの岸の間で、リール係の二人が、その寸法竿の最大目盛りのあたり、先の起点から4尺8寸(1メートル40~50センチメートルくらい、1寸は約3センチメートル)の印のある所を目安に、再びリール機械を固定する。
 そうすると、田んぼの縦方向、その長い線に従って、それはそれは細く長い長方形の枠ができ上がることになる。リールで作った縦線に沿って適当な間隔でいる数人が、その綱の赤い目印が付いたところを目安に苗を植える。これで、こちらから向こうの岸まで縦長の植え枠ができるという案配だ。
 すると、今度はその長方形に仕切られた枠の中に、もんぺ姿のおばさんの別の一人が入る。彼女の後方には、ほどよく苗が投げ込んである。そこで後ずさりしながら、その苗を拾って、次から次へと田植えを行うことができる。苗を植える間隔は、寸歩取りのときに水面に渡した直角寸法竿に刻まれている。ものの本によると、日本では18~21センチメートルが標準であったと言われる。
 かたやリールで引っ張った長い線にそって苗が植わっているので、それを目安にして、横列に8寸(24センチメートル)くらいの距離を置いて、4本ずつ植えれていけばよい。左手にある苗からひとつかみを右手でとって、その列を植える。植え終わると後ずさりして、それからまた同じようにして植えていく。そうすることの繰り返しで後ろへ、後ろへと、その長方形で仕切られた列のおしまいが来るまで植えていくという案配であった。
 一反の中程くらいの比較的広い田圃には、5~6人くらいのおばさんたちが入って、てきぱきとした分業で仕事をこなしていく。おばさんたちの身につけているもんぺは、藍色や赤や白なんかの絵柄があしらってあって、まぶしい位のあでやかさであった。
 そのうち、午前の農作業も終わりにさしかかってくる。
 「昼からもう二人来れる言うとりますけん。あと1枚(田んぼの数え方)できると思うんですがなあ」
 一人の婦人がリーダーらしき50代くらいの婦人に尋ねると、そのリーダーが別の婦人に歩き寄って「幹事さんに相談じゃが、それじゃあ昼からの段取りはどうしなさるんか?ご主人に掛け合ってくれんさらんか」と相談している。
 昼前の休憩時間をとっている間に、代表のおばさんがやって来て、「ここはあと半時くらいでおわりますけん。昼からは次をどうするんか指図してつかあさい」と父に相談している。父は田植えの準備の段取りを考えていたのだろう、彼女の話にいちいち頷いてる。
「それじゃあ....きりのええところで昼飯にしてもらえますかのう。もう昼の用意はもうできとりますけん」
 その時の父は、の人から「のうちゃん」と呼ばれて、うれしそうな歯を並べているときの、あの晴れやかさであった。
 おばさんたちに食べてもらう場所としては、農道が交差している所であったろうか。広くなっているところで、筵がしきつめられてあり、応援の方には、そこに座って食べてもらうのだ。
 あれこれ世話をやいて、答えるときの父の顔は、上気していて、赤銅色に輝いてなにやらうれしそうだった。それはまさに当時の農村の一風景、社交場であった。私も、そんな普段と違う光景を見ているだけで、なにやら心が浮き立つようにうれしかった。
 普段の昼時は、昼時、私たちも家族も田圃道の一角で、食事をした。父は「わっぱ」と呼ばれる竹製の弁当箱を開いて食べていた。楕円形をしている蓋を開けると、御飯や煮物、漬け物などが楕円の曲線に沿うようにしてうまい具合に詰めてあった。父は、みそ漬けのたくあんをバリバリ音をたてて食べていた。その味噌漬けは、子供心に辛すぎると敬遠していた。昔は塩分の採りすぎに対する注意はほとんど払われていなかったといっていい。父の顔が懐かしく想い出される。
 私たちの田舎では、「あぶらげ寿司」(いなり寿司のこと)や黄粉餅(ぼたもち、餅米を潰した餅ではなく、秋田のきりたんぽのように飯をすりこぎで潰したもの)を口一杯にほおばった。東の田んぼではほかの家族も大勢働いていた。また応援を頼んだりして、世間というものが実感できた。それは、当時の村の社交場を兼ねていたのかもしれない。
 これに引き替え、西の田んぼは山間にあって流尾地区の人しか働いてない。だから、その場所での田植えは静かな時間の流れの中で行われていた。田植えでの私の役目は、リールを祖父との「コンビ」で引いて筋道を付けることだった。中植えはバランス感覚が要求されるので、不器用な私には苦手な作業であった。
 祖母とみよが田植え歌を歌いながら、手慣れた手つきで苗を植えていた。今でも、ふと、そんな時の彼女の姿を思い出すことがある。田植えで一番辛いのは、水が冷たい場合であった。子供ということで地下足袋を履いていなかったのもまずかった。その次に困ったのは、腰が痛くなることであった。時々、腰の裏側に手を添えて、背のばしをして、痛みを和らげようとしていた。屈まないで仕事をすることができないかと考えた。しかし、名案は浮かばなかった。
 こうして、田植えが済んで、人の波が去った田んぼには、静寂が戻ってくる。そんな風景を見て、平和だな、いいなあ、思った。とはいえ、それは人間たちのことであって、田圃に棲みついている蛙をはじめ、生き物たちの活動は盛んになっていく。立夏から梅雨入りの頃を初夏と名づけているが、その後に本格的な梅雨が訪れる。

(続く)

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25『美作の野は晴れて』第一部、田植えの頃 

2014-09-26 08:12:08 | Weblog

25『美作の野は晴れて』第一部、田植えの頃 


 5月から6月にかけては耕起(田起こし)から田植えの季節である。梅雨であるが、梅雨は7月の半ばの梅雨明けまで続く、長い時期とされている。天気予報で高気圧が日本列島に居座っている訳だ。家の仕事の手伝いを始めたのはいつの頃だったろうか。小学校に上がる前の私も家族労働力として働いたものだ。
 さて、田圃の水温はまだ冷たさが抜けていない。苗床から苗を引き抜くのは、腰掛けて作業をしたので比較的に楽であった。それを拳大にして藁1本でクルクルと束ねる。それらを竹駕籠に入れる。そして、田圃のあぜ道までもっこに担いだり、両手に目一杯つかんで運んだ。農業を生業(なりわい)にするというのは、経営としては大変なことなのである。私の家を含めて、当時の近くの農家では、自宅で作った「堆厩肥(たいきゅうひ)」を使っていた。麦を植えなかった田圃には冬の間に有機堆肥をばらまいておく。
 麦の収穫が終わった田圃にも、家族総出で牛糞を主体とした有機堆肥を撒いておく。牛は糞を藁にまぶして発酵させたもので、家の別庭の肥え積みの藁をくずしてもってきたものだ。人糞に比べるととそんなに臭いものではない。そいつをヤツデと呼ばれる引っ掛け爪の付いた道具を使って堆肥を掴んで持ち上げ、次の動作で杖を旋回させてその遠心力で堆肥をばらまいていく。
 こうしておけば、稲にとって自分の養分となるばかりでなく、肥料が発酵で分解するときに還元状態となる。この酸素の欠乏によってコナガやヒエなどの雑草の発芽を抑えることができる。田植え時で見る限り、肥料は牛糞を主体につくった堆肥で作った有機肥料を用い、それを補うものとして、田植え直前の最後の仕上げに化学肥料を用いていたようである。
 春の雪解けの頃より、水路や田圃には雨水がたまっている。この間まで蓮華が生えていた田圃にも水が張られていた。マルタニシやヒメタニシが温かくなって、泥の中から這い出て来る。水路の水たまりにいるモノアラガイやヒラメキガイは小さくひしめき合って冬を越してきたものと思われる。辺りには鷺に食い散らかされた彼らの遺骸も目にできる。カエルたちは赤いのや青いのや、泥色のやら、いろいろと居る。ヘビがそれを追いかけている姿も見えた。
 夜のとばりが降りると、そこかしこのカエルたちが「ゲロゲロ」、「グゥグゥ」、聞きようによっては「グァグァ」とか鳴き出す。空には美しい月がかかっていた。
「日は日くれよ 夜は夜明けよと 啼く蛙」(与謝蕪村)
 そんな我が家の田んぼに、朝の太陽がやってくる。「耕起」の作業には、私が低学年の頃までは、我が家の牛が動力として用いられていた。田植えをする日、早起きの父は牛に鋤を引かせて麦の根株の残ったままの田を耕す。
 我が家では、「耕起」は二段階で行われていた。まず鋤の大きい農具で土を深くえぐっていく。土を反転させて耕耘するもので、「牛ん鍬」(「うしんぐわ」が「うしんが」と発音される)と呼ばれており、ほどよい曲がりのネリという堅めの木にクレを取り付けてある。その台木には厚めの鋭い刃がとりつけてあって、固い土を深いところでえぐり、掘り返しやすくなっている。その次にロータリ耕耘といって肌を見せた土をかき混ぜる。こちらの鋤はその上に人間が乗って牛に轢かせるスタイルをとっていた。
 これらの作業は彼が小学校の3年生くらいになる頃には、耕耘機による耕起に変わっていったようである。これでやっと、我が家の親牛は苦しい限りの労働から解放されたようである。一通り、また一通りと刃を取り替えて、耕耘機による土の耕起が行われる。そうして耕起が終わると、田圃に水が引かれる。それでも足らない分だけ水がポンプを使って引かれる。水を引いたり、注いだりして田圃の面を一杯に満たす作業を「灌漑」(かんがい)という。その後には、父の手によって、硫安を主体とした化学肥料がばらまかれる。今度は人間が牛に馬鍬(まぐわ)を轢かせる。飛騨の白川郷辺りでは「まぐわ」がなまって「マンガ」と称されていたらしいが、8本であったか、太い鉄製の歯の付いた農具のことである。これを牛や馬に引かせる作業をたしか「代かき」(しろかき)と呼んでいた。
 牛は、後ろから鞭でたたかれながら、何度も何度も田圃(たんぼ)を往復し代(しろ)かきをする。この作業は、「まんが」と呼ばれる鉄の串が何本も沢山備わったものを、牛に引かせるものであった。牛は相当の労働力を発揮することになる。白い泡を口のあたりによだれをたらすように吹いていたあの牛、びっしょり汗をかいていたあの牛、あの苦しげで悲しげな大きな2つの眼は今も私の脳裏にある。おそらく、これからも忘れることはないだろう。
 この作業についても、牛の力によるものから、やがて耕耘機に置き換わっていった。その当時、代かきをなぜするのかと問われれば、私たちが田植えをできるように土を柔らかくするのが一つ、もう一つの目的は土の粒を細かく砕いて稲の苗を植えた田圃から水が漏れないようにすることだと答えただろう。これは後に知ったことだが、代かきをすると今一つの効用があって、代かきで草をすき込んだり、同じく土の中の酸素を少なくして雑草の発芽や成長を抑える役割がある。これには荒代と植え代と2回の作業があった。
 二度の代かき(しろかき)を済ませると、それからは、父が化学肥料の硫安をつかんでは、ばらり、ばらりと撒いて歩く。それが終わった田圃に裸足で入ると、生ぬるく、足の裏にトロトロ、ツルツルのなめらかな土の感触があったものだ。これを稲作栽培では「トロトロ層」と呼んで、深いものでは十センチメートル以上に達するという。この泥の層が厚いことが稲の生育と深い関係にあることは後に知った。当時は、そんなことは学ばなかったが、そうした農業技術が採用されていたことは想像に難くない。
 それが済むと、父は巧みに鍬を操って畦(あぜ)を造っていく。使う鍬は、普通は掘りの深い普通のもので土手を造るのであるが、もうひとつ刃先のそこが広平べったい「ジョレン」があって、こちらを仕上げに使う場合もある。畦に泥を塗りつけて壁を造り、水が漏れないようにするのであった。畑に、真上からみて平たい畝を作っていくのと異なり、こちらは斜め45度くらいに田んぼの外側にせり出すような形に、土の土手を作っていく。そんな作業だが、2014年の今は、それ専用機械を農機具メーカーが開発しているのをテレビで拝見した。それによると、その頃は全部一の手でやっていて、父が「バッ」と泥をかきあげ、「シャー」と上塗りしてゆく様はまるで職人芸であった。
 父が朝早くからの田圃の用意を仕上げると、いよいよ田植えが始まる。このあたりでも、昔は朝のうちに「田の神様」にお供えをし、その神様に柏手をうって挨拶してから、作業にとりかかることをやっていたところもあったようだ。だが、我が家ではそのような風習はほとんど廃れていたようだ。それからは働き手としての子供の出番であった。苗を入れた二つの「もっこ」を天秤棒の前後に担いで、「ひょっこら、ひょっこら」とあぜ道にはいっていく。田植えをする田圃まで運んでいくと、「やれやれ」という気分で重たい荷物を畦の降ろす。それから一息入れてから、苗がまんべんに行き渡るように、それを3つ程度一掴みにして振り子のように腕を振りアンダーハンドで投げる。均一な密度でばらまかないといけないので、コントロールが大事になる。遠くへ投げるときは、「梃子(てこ)の原理」よろしく、思い切り後ろに振り上げてから投げた。
 それらの作業をしている間に雨がふってくることも少なくなかった。そのときはみんな菅笠と簑、後にはビニロン製の雨カッパを着用して、仕事を続けた。作業を続けるうちには、痛む腰を尻目になんとな元気をつけようと、「茜たすきにすげの傘」とでも歌いたくなっていたものだ。雨の中で仕事を続けるのは一つ一つの動作がスムーズにいかないばかりでなく、体温もだんだんに奪われていくので、とても嫌であった。ブルブルと震えが来るときもあった。これに加えて、我が家の西の田んぼを田植えるときは、2枚の一反を超える田の他は、大半が棚田であった。その一枚あたりの面積は、傾斜が上にゆくに従い、だんだんに狭小なものになっていた。
 我がのでの棚田は、それはとるに足らない小規模なものであったし、高度成長期が終わる頃にはしだいに耕されなくなっていった。今では、棚田は日本の原風景と言われ、カメラ雑誌などに頻繁に紹介される。その理由は、人々の郷愁を誘うばかりでなく、学術的にも芸術的にも価値が高いからなのだろうか。これらの日本の美しい棚田、県内ではさしあたり久米郡久米南町北庄の棚田が有名だ。ちなみに、久米の棚田を直接目にしたことはないのだが、写真での説明によると、2015年現在も標高300~400メートルの山合いに、2700枚、合わせて88ヘクタールもの棚田が広がっている。これだけの棚田はどのようにしてつくられたのだろうか。おそらくは、数百年来、人々がここにへばりつくように暮らしてきた人々が親から子へ、そして孫へと少しずつ鍬を入れ続けてきた。石ころだらけの土を掘り、それを階段状にならして堰をつくり、次々と開削してきたものに違いない。また、棚田というと斜面をびっしりと埋めているように思われがちである。しかし、2015年7月30日のテレビ朝日の番組『棚田』では、倉敷市児島宇野津のものはやや小規模であった。夜の闇の中に浮かび上がる仕掛けがしてあって、全体に荘厳さを称えていた。それにアイルランドの民謡ロンドンデリーのフルート演奏がつくというあでやかさがあった。その棚田に立ってカメラのアングルからこちら手前から南の方角を覗くと、その奥には水島コンビナートの光が瞬いている。その情景には、近代技術を体現したコンビナートがつくる光芒とのコントラストでもって視聴者を魅せようとの意気込みが感じられた。
 さて、田植えの合間には、あたりに自生しているイタドリ(「サイジンコと呼んでいた)をとり、皮を剥いて食べた。酸味が強いものであるが、塩をまぶして食べるとおいしかった。田圃の中には池の方角からカエルがさらに産卵のためにやってくる。おたまじゃくしやその卵、そしてさまざまな小動物も見かけた。とはいえ、この頃の天候は梅雨の合間という類であって、安定しない。
 「五月雨(さみだれ)を 集めて速し 最上川」(松尾芭蕉『奥の細道』)
 ここで「五月雨」とあるのは、実は新暦の6月の頃の梅雨をいうが、さみだれと言う方がなんだか風情が出るから不思議だ。新暦の6月は「さつき」というが、「さつきを・・・・・」と言ってしまうと、流動感が出てこないし、そんなことも考えて俳句を見るとなんだか楽しい。
 ともかくも、梅雨の合間には晴れ間が見える。土に湿り気が出てきた。その間をねらって豆を植える。幾晩か水に浸した豆を撒くには絶好のチャンス到来なのだ。田植えを済ませた田んぼの畦の内側には、既に田植えの時鍬による壁当てが施されている。その傾斜しているうねというか、壁には「あぜまめ」といって大豆と小豆を植えた。小豆とは小豆のことである。2つに分岐した棒を土中に押し込んで、穴を30センチメートルくらい間隔を置いて造っていく。その後から豆を2粒ずつ放り込む。その後を足先で土を寄せて穴を塞いだ。

(続く)

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新21『美作の野は晴れて』第一部、初夏の輝き1 

2014-09-26 08:10:18 | Weblog
21『美作の野は晴れて』第一部、初夏の輝き1 

 お茶といえば、自家製の番茶を飲むのが常だった。茶畑というぼどのものはなかったものの、季節になると茶摘みの手伝いをした。
 「夏も近づく八十八夜、野にも山にも若葉が茂る、あれにに見えるは茶摘みじゃないか、茜たすきに菅の傘」(『八十八夜』、作詞、作曲とも天野滋)
 東海道新幹線に乗って静岡にさしかかるあたり、山の斜面に茶畑が展開している。暫しの間ながら、その眺めはすばらしい。みまさかでは一面の茶畑を見たことはない。しかし、茶を植えている家はかなりあった。ここで歌われる「八十八夜」とは、立春から数えて88日目で5月2日頃とされる。静岡などお茶の産地では、茶摘みの日の目安とされる。
 その日の前後に摘んだ茶は最も風味が豊かで、まろやかな味を持っているとされる。番茶においても当てはまるようだ。といっても、「一心二葉」をつまむとかは教わったことがない。学校から帰ってくると、留守のときが多かった。とりあえず台所に入って涼しい場所に置かれて冷えた番茶を飲んだ。疲れたとき、砂糖を匙一杯分入れて呑んだときの格別な味は忘れ難い。
 5月5日は端午の節句、暦では子供の日である。5月5日または6日は24節気の一つで立夏とされる。移動性の高気圧が大陸から張り出して、その影響で暑く感じられるときもあった。
 「柱の傷は一昨年の5月5日の背比べ、ちまき食べ食べ兄さんが計ってくれた背のたけ、きのうくらべりゃ何のこと、やっと羽織の紐(ひも)のたけ」(『背くらべ』、作詞は海野厚、作曲は中山晋平)
 父や祖父がどこから出してきたのか、鯉のぼりも設置してくれた。
 「屋根より高い鯉のぼり、大きいまごいはおとうさん、小さいひごいは子供たち、おもしろそうに泳いでる」(『こいのぼり』作詞は近藤宮子、作曲は不詳)
 やや勇ましい調子のものも、時々歌っていた。
 「甍(いらか)の波と雲の波、重なる波の中空(なかぞら)を、橘(たちばな)かおる朝風に、高く泳ぐや鯉のぼり」(『鯉のぼり』、作詞は未詳、作曲も未詳)
 縁側の柱に傷は祖父に付けてもらったのではないか。いまでもその傷が確認できるに違いない。竹馬をおじいさんに作ってもらって練習した。鯉のぼりについては、数度家の庭(かど)の端に取り付けられた。しかし、その場所は擂り鉢の下のようなところにあるため、風にたなびくまでには至らなかった。
 ちまき、柏(かしわ)餅は母が作ってくれた。くず粉を水で練って固めてから蒸したものをちまきといい、白米を粉引きにして日に干したものを蒸してつくるのが柏餅である。日本の柏の木は、落葉樹ながら葉がすぐに落ちることがない。中国で柏というのは日本でいうものとは違って常緑樹であり、古代では「邪払い」の意味から墓の前に植えたり、祭祀のさいの酒食器とかに使われていた。その葉を、「西の山」に採集に行くときには、近くでは矢車草やヒメジュオンの花が咲いていた。
 ちまきでも柏餅でも、下地が出来るとひとつひとつと蒸し器の中に入れていく。竈の火を受け持つのは僕であった。釜のなかの湯は煮えたぎっている。その上に数段の木製蒸し器が積み重ねられている訳だ。重箱を開けると、中心部に穴があいており、そこを白い蒸気が立ち上ってくる。饅頭が出来上がるのは湯が沸騰してから2時間分くらい後のことである。
 ちまきは、餡を挟んで二つ折りにした上で、それを笹の葉にくるむ。親より背が高くなれという願いから、あるいは殺菌力を持つということから竹の皮で包んだこともあるようだ。柏餅の方は、あのごわごわした柏の葉で包む。柏の葉はかれても冬の間は枝に付いている。春になって新芽が芽吹くとき力尽きて落葉する。その辛抱強さが子供を思う親心に似ているということで始まったともいわれる。両方ともほかほかのものを食べるに限る。
 ついでながら、新見市の草間自然休養村のレシピで「けんびき焼き」という郷土料理があるらしい。「肩引き(けんびき)」とは地元の言葉で肩こりのことであり、「甘い小豆あんを小麦粉の皮で包みみょうが(ミョウガ)の葉でくるんで焼いた」(JA共済「フレマルシェ」2014年春号)もので、「油を引いた釜などで何度もきり返しながらやきつけ」て作るのだという。
 これらとは別に、黄粉餅やぼた餅もあった。黄粉は石臼を轢いて作られた。石臼で粉をひくには、上の穴から大豆をいれる。そうしておいてから、取っ手をもって回転させる。豆は臼の下の目と下側の臼の上側の目との間ですりつぶされる。少しずつ入れないと、目が詰まってうまくいかない。一通り臼を引くと、今度はゴマフルイにかけて目の大きいものを取り除いて粉に仕上げる。ぼた餅の場合は、同じ下地に小豆を煮つぶして作ったあんこを塗りつけて仕上げる。
 これを大きくしたものが、水車である。当時、この水車は西下に二つあった。一つは、の中心部である平井の公会堂のある傍、今一つは畑のの東はずれにあった。ちなみに、北海道では「バッタリー」と呼ばれているらしい。 
 この頃の小川に流れている水が見かけできれいであったのは、やはり、浄化の能力の方が汚れるのを上回っていたことにことにあったのではないか。また、この頃の新野の地のそこかしこでは地下水脈を通ってきれにな水が湧き出ていた。山間のあたりにいったとき、あるいはそこに建つ菩提寺などに行ったとき、その水を「いただく」ことができる。
 そうした地下水や湧水がなぜおいしいのかというと、その主な原因は地下にあるらしい。それは土壌や地層を水が通過するとき、土壌中で浄化されることにある。それに加えて、地中では炭酸ガスが与えられミネラル(鉱物)の成分が溶け込むことによって、水温がその土地の平均気温になるからである。
 「麦秋」の頃、4月から5月になって、麦の刈入れ時期が近づいてくる。天気に恵まれたとき、我が家の畑の麦穂は黄金色に輝いていた。麦には春3月から4月に植えて初夏から夏にはもう収穫に入るものが主流だが、なかには真夏の7月から初秋の8月始めにかけて取り入れるものもあると思うが、その多くの分は畑作であった。
 麦を刈り取るときは、日を選ぶ。梅雨の合間に一気に収穫するのだ。その日は運良く晴れ渡っていた。目的の畑や田圃で刈り取った大麦は、大抵はそのまま家に家に持ち帰り、家の庭で脱穀機にかけてもみにしていた。自家消費のための麦の栽培も含まれていたのだが、麦の作付面積は田圃のごく一部や畑を合わせて4アール位であった。少ない作付け量に比例して、収穫作業も一度の脱穀で済むくらいの量であった。
 麦の籾には長いひげがあって、脱穀機でうまく取り除けることができないことがある。そのため、「とうみ」と呼ばれる木製の機械を使って、それら「シイナ」の類をもう一回取り除く。その機械は縦が2メートル、横が1メートル、奥行きが50センチメートルくらいの木製の箱の中に、これまた木製の4枚の羽が内蔵してある。それらの羽は外面の鉄製のハンドルに連結されており、ハンドルを人力で回すと中の羽が回転して、箱の上部にあれられた口から落ちてくる籾を吹き飛ばす。
 そこで吹き飛ばされなかったものが中身の入った籾として手前の出口から出てくる。それより軽いものはその向こうの出口から排出される。の木箱が付けられていた。その仕組みは、ハンドルを回すと、箱の中の羽が回転して、上から入れた麦についていたゴミを吹き飛ばす。上から落ちてきたゴミは軽いので風に吹き飛ばされ、飛ばされなかった小麦だけが下の手前の排出口から出てくる仕組みとなっている。
 大麦の殻はほかの麦よりも固いので、籾(もみ)から籾殻を剥がしにくい。だから、その原麦は新野小学校そばにある農協の製粉所に運んでいって、精麦にしてもらっていた。できあがった精麦は、受け取るときには押麦(おしむぎ)となっている。そうなっていないものは、持ち帰ってからの水車でついて押麦にしていたのかもしれない。ここで「押麦」(おしむぎ)は、麦を食べやすくするために上から圧力をかけて潰したもので、麦の真ん中に黒い線が入っている。食べるときには、これをコメの上に載せてご飯を炊くと、やわらかく仕上がる。コメの上に麦がうっすら重なっていて、食べるとき、しゃもじで混ぜると、湯気とともに「ほんわか」した麦の匂いがしたものだ。

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新19『美作の野は晴れて』第一部、春の学舎2

2014-09-26 08:06:10 | Weblog
19『美作の野は晴れて』第一部、春の学舎2

 私が小学校6年の頃、我が家では山羊(やぎ)を飼っていた。
 「8月8日(土)、晴れ
 うちのやぎは、ちちが大変よく出る。毎日、夜しぼる。多い時には一升二合ほど出る。体も大きくちちは、おなかの下にぶらりと、ぶどうの大きな房のように垂れ下がっている。木につないで、兄がしぼり、ぼくが足をもつ。気に入らなかったら足を強く動かす。だからゆだんができない。しぼり終わって木につなぐと、ぼくの方に向いて前足を80度ぐらい上げ後ろ足で立って独特の格好をして、「やるか」と言っているようだ。全く、うちのやぎは乳もよく出るが元気もいい。」(勝田郡「勝田の子」1964年刊)
 その雌の山羊がもたらしてくれる乳は、ときたま私が両手を振るに使って搾るときもあった。しかし、握力が要るため、直ぐに手がだるくなってしまう。我が家の山羊に対しては、多少でも家のために役立ってやろうという気があるのなら、それを態度で表してくれて然るべきではないかと思っていた。というのは、本来は両方の乳房を両の手でつかんで、交互に力を入れて左右の動作がリズミカルになるように搾っていくのだが、それができるのは彼女の足がうごいていないことが前提なのであって、機嫌がよくないと盛んに足で蹴るような仕草をするので、搾ることができなくなってしまうからだ。そんなときは、結局、家族の誰かに両足を固定してもらってから、搾りの作業に取り組んでいた。
 一度の搾り作業で、たらいの中に1リットルくらいは溜まるように搾っていたうようだ。それにかかっていた時間は、30分くらいはかかっていたようだ。しかも、当時は握力がまだ弱かったので、続けているうちに手がはじめは緩く、次には例えようもなく腕全体がしびれとともにだるくなっていく。結局、休み休みでしか行うことができず、だんだんに効率は上がずじまいであった。あるとき、その山羊は牝であり、山羊の赤ちゃんが2頭生まれたことがある。この日ばかりは「山羊さん、ご苦労様」という気持ちで祝福した。生まれた子供の山羊は、どこかの家にもらわれていったようである。その出産の日ばかりは、日頃の憎らしい思いは消えて、好物の、たぶん「ねむのき」の葉を沢山採ってきて食べさせていたのではないだろうか。
 記憶によると、私は、その乳を3日に一度くらいには飲んでいた。ミルクの飲み方は、学校でのものと違っていた。大好きな飲み方があって、それは茶碗に入れて放熱にまかせて冷ましていくと、ゆばが付いて、それをまず舌でなめとる。ゆばはぬめぬめした舌ざわりだが、同時にプーンと乳の甘ったるいにおいがしてくる。それから、いよいよミルクの液体にとりかかるのだが、量の手で茶碗を捧げ持って、一吸い、また一吸いと大事に飲んでいく。口の中に入ったミルクは喉を通り、ゆっくりと私の体の中にはいっていく。他の食べ方の中で最も刺激的だと思うのは、ご飯の上にあったかなその乳をかけて食べるのだ。これは、みなさんも一度は試していただきたい、大胆に聞こえるかもしれないが、多分、「こんなおいしいものだとは知らなかった」といわれるのが請け合いだ。
 羊は1頭飼育していた。羊という動物はとてもおとなしい。山羊のような足を振り上げたり、つっかかって来ることは見たことがない。「ウン・・・・・」と置いてから、メンメー、メンメー」というかよわな鳴き声は山羊とどこか似ていた。それなのに、人の心を和ませるのは、それがおとなしい限りの、羊のからのものであることが予めわかっていたからなのかもしれない。
 ある日、我が家におじさんが羊の毛皮を買いに来た。その人は、家族みんなの前でやおら大きめのバリカンを取り出すと、左の腕で羊を抱き込みながら、右手にバリカンを持って、どぎまぎしている羊にバリカンを当てた。「ブーン」という音とともに毛皮がベッタリと剥がれていく。
 日頃から手で感触を楽しんでいた毛皮が商品になるのだという。毛皮をはぎ取られた羊はひよわな姿に様変わりしていた。なんとなくかわいそうだった。その羊は、いつの間に我が家からいなくなったのだろう。いつの間に業者が来て売られて行ったのか、それとも他の誰かにもらわれていったのか、今では知る由もない。ある日、気がついたら、目の前からいなくなっていたということであり、別れというものはなかった。
 当時の給食費の支払いは、先生から渡された集金袋にお金を入れて返すことで行われていた。それでは、おカネを入れて持って行けない場合はどうしていたのだろうか。満足に払えない家庭のためを考えて、「減免願」もいつか配られているのを見た気がする。私の家もかねが乏しいことは知っていたので、人ごとではなかった。
 私は、家族が元気で働いていたおかげで、父母は集金袋金を入れて学校に持たせてくれていた。あの頃も、そして今も、減免の願いを持参する級友もいたように覚えている。当時は貧しい家の子供がクラスに何人もいたようだ。外見だけではわからない、人の痛みを推し量れる人になれと常々言われていた。その人たちの微妙な気持ちを考えるとき、慣れ親しんだ人々への同情で、心が一杯になってしまう。
 2000年(平成12年)2月、私は仕事でインドネシアに1週間ばかり出張で行った。そのとき、現地ジャカルタの子供たちを観察していて、複雑な気持ちになった。というのも、朝方ジャカルタの道を歩いていても、一見して子供たちの服装が違う。ランドセルのようなものを持っている子供たちは、気のおけない仲間と連れだって、表情もゆったり、明るい笑顔で通り過ぎていて、なんとなく裕福な家庭の子供であることが想像できる。ところが、目つきの鋭い子供も沢山いる。彼らは粗末な身なりをいて、物売りをしたり、何も持たずになんとなくたむろしていたりする。理由はなんとなく想像がつくではないか。彼らは学校に行ってる用には見えないし、貧富の差がきわめて大きいのは一目瞭然だ。貧困な子供は、ともかく日本で普通に見られるような子供のような純真な表情ではない。
 我が小学校のクラスの花壇では、それぞれの花の植え場所は限られているので、その季節には花々でごったがえしていた。ヒヤシンスが西洋彫刻のような美しい花を付けた。夏はカーネーション、グラジオラスやあさがお(朝顔)が花壇を飾った。あさがおの花は大変面白いが、デリケートな花でもある。竿縦をしていると、1~3メートルの高さに左巻きに蔓が登る。朝はシャキッとしているものの、昼にはヘナとなりしぼんでしまう。可憐なところは春のツユクサと似ている。そろそろ秋に咲くコスモスも枝ぶりを豊かにしつつあって、季節が巡るうちに花壇の花々もまた移り変わっていく。
 夏休みの初めはゆったりと時が流れるものだ。夏休みに交代で学校の朝顔に水をやりに来ていた。色は白、紫、赤であったろうか。グラヂオラスは南国の花のように赤いたたずまいで情熱的な色をしている。それでいて暖かい印象を人に及ぼす。後年、交配された結果めずらしい色の朝顔があるということで驚いた。花壇の花々にはブリキ製のジョウロを用いて水をやった。
 下校のときにも遊んだ。西中から西下への境界あたり、水車のあたりがその場所であった。                 
 「春の小川はさらさら行くよ、岸のすみれやれんげの花に、すがたやさしく色うつくしく、咲いているねとささやきながら」(高野辰之作詞、文部省唱歌)
 村には、水車が二つあった。私はその両方に入ったことがある。ひとつは、北の方から「田柄川」が西下に入ったところの通学路のそばにあった。水車が勢いよく回る季節には、周辺には彼岸花が沢山咲いていた。今ひとつは、同じ川をさらに400メートルくらい下ったところの西下公会堂の近くにあった。この南の方の水車の回りには、その季節、菖蒲(しょうぶ)が咲いていた。
 今から思えば、近づいて手で触れようとするなど、水車に巻き込まれかねないような危険なことまでしていた。昔から、男の子の何人かは何らかの事故で大怪我をしたり死んだりすると聞いているが、当時においても危険ととなり合わせの遊びがあった。
 楽しいところでは、この学年であったろうか、家庭科の実習で料理を作った。りんごのジャムをつくった。まずはりんごを摺っておろし、それを小さな鍋に入れて暖め、味を引き立たせるために砂糖も入れる。それから、自然にゆっくり冷やすとできあがる。学校給食でパンが出ていたので、先生から、それに小さなマーガリンとかジャムをつけて食べることを教えられた。そのようなことも幸いして、男子も厨房に入って料理にいそしむことを学び、家でも野菜を刻んだり、そのほか母の料理を手伝うのになれていったような気がしている。
 家庭科には、裁縫の時間もあった。こちらは、刺繍を造るのが大のお気に入りだった。裁縫枠(木の丸い枠)で布を囲んで浮き上がらせ、その中に糸を繰り返し通して花柄などをあや取っていく。デザインの種類はとにかくいろいろあった。それらを見よう見まねで試みる。その労を厭わなければ、創作の喜びは至る所にあるものだ。
 おかげで、今でも家内が不在なときにほころびを見つけたら、一つ縫いつくろってみようかという気持ちにもなる。このような習慣が、広い意味で自分の身についた一つの技術であるのなら、ありがたいことだ。
 理科の授業のなかでは、講堂の壁に置いてあったテレビを観に行った。テレビはかなり高いところにしつらえられていて、前後に行儀よく並んで、膝を抱えて座り観た。騒ぐ人はいなかった。その頃の子供は、「ここぞという時」には親の躾けがしっかりしていたのかもしれないし、先生の指導が行き届いていたのかもしれない。

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新18『美作の野は晴れて』第一部、春の学舎1

2014-09-26 07:42:56 | Weblog

新18『美作の野は晴れて』第一部、春の学舎1

 当時は、野菜類は給食のおばさんたちの指導で、交代で家から野菜を持参していた。当番の日には早く来て、持参の野菜を給食室の前ではかりにかけて掛かりの委員にはかってもらう。委員はその結果をノートに記入する。
当番のときには、何学年かを問わず、1キログラムから2キログラムは持参していた。
 昼の時間がくると、給食当番が白い服に着替えて給食室に行き、パンとミルクとおかずの入った箱やバケツを運んでくる。エレベーターはないので、階段を上がるときは、ミルクなどは「チャップンチャップン」という音に乗って液面が揺り立てられる。
「いけない。こぼれてしまうぞ」。
 途端に、おそるおそる、ゆっくりゆっくりの足取りに変える。あわてて立ち止まり、息が整うまでの間小休止をする。蓋も密閉できるほどのものではなく、随分と用心して運んだ。
 それでも、失敗することが小学6年生までの間に少なくとも二度くらいあった。一番危ないのは給食室を出発した直後で、まだ緊張感が足りないからそうなりやすい。次は教室への階段を昇ってテラスに出たところ、やっとたどりついたという解放感でそれまでの緊張がゆるんだのか、つるりとすべてしまうことがたまにあった。
その途端、
「アーっ、しまった・・・・・やってしまった!」
と、バサーッと廊下一杯にミルクをこぼしたこともあった。手が離れたのか、いまもってけつまづいた(転んだ)のかは分からない。
「仕方がないなあ」とか、
「あーあ」
とか、がっかり、それまでの緊張が解けて、気が抜けたようなの声が隣でした。
 当番の一人が、さっそくぞうきんを取りに教室に急ぐ。二人目は、きびすを返して給食室に立ち戻り、おばさんたちの前で頭を垂れて「○年○組の当番の者です。すべってミルクをごぼしてしまいました。すみません」などと言い、代わりのミルクの配給を請うたのはいうまでもない。残りの当番が、そのままミルク以外を教室へと運んでいった。
 毎日の給食が配膳されるまで、待つ間に、専制の言いつけで、二年から三年生のときには紙芝居をする役を仰せつかっていたときがあった。昼の給食の仕度が整うまで、何人かが交代でクラスのみんなに紙芝居を読んで、見てもらっていたのである。本館の校長室の隣であったろうか、放送室があって、その隅かどこかに書棚がしつらえてあって、そこに紙芝居が沢山収蔵されていた。
 自分の版の時は、授業が終わると、足早にそこに出掛けて、好みのものを一つ選んでくる。日本のものでは、「浦島太郎」とか「野口英世」くらいであったろうか。浦島太郎は、初めは浮かれて他の楽しいのだが、最後に故郷へ帰りたい思いが角って、ついに失敗してしまう。後年知ったのだが、この物語は奈良時代の頃からすでにあったのだとか。せっかく不老不死の身の上であったのに、「愚かな奴」ということなのだろうか。
 「常世辺に住むべきものと剣太刀汝が心からおそやこの君」(『万葉集』巻九、一七四一、作者は高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ)、ちなもに一句前の一七四〇に長歌が収録される)
 外国のものでは色々あって、『アルプスの少女ハイジ』では、クララが立って歩き出すシーンは感動ものだった。『宝島』や『トムソーヤの冒険』、それに『ウィリアムテルの物語』では手に汗握るような思いのするシーンに幾つも出くわした。『アリハバと50人の盗賊達』では、その帰り路、屏風のような切通しの前で、「ひらけーゴマ」とやっていたし、『アンクル・トムの小屋』は紙芝居をめくりながら涙がこぼれ落ちそうな時があった。『ガリバー旅行記』については、当時は、ガリバーに秘められた当時のイギリス社会への深い風刺の意味などは知る由もなかった。
 伝記ものでは、ジェンナーの『種痘物語』を自分で読みあげながらも、大変な感動を覚えた。『ガリバー旅行記』は、クラスみんなの一番の人気だったといっていい。この話の肝どころは、ガリバーが小人国と巨人国の両方にとって異邦人であったことだ。後に知ったことだが、そこには、当時のイギリス社会への深い風刺の意味が込められていた。
 『トムソーヤの冒険』は、とある島に流れ着いた男の物語である。必要なものは、座礁した船から持ってくることができる。缶詰のような長持ちのする食料もある。中には、おあつらえむきに豚とか山羊のような動物もいたっけ。だから、飢え死にしないだけの食料は溜置きとその都度の分を調達できる。だから、当分、飢え死にする心配はない。
 時々は地味なものから、『アンクルトムの小屋』なんかを選んでいた。これには泣けた。これは、アメリカの作家であるストー夫人がまだ西部開拓時代にあって、発表したものである。あまりにもお人好し過ぎる。元の優しい主人が没落して、ミシシッピ川から船でニューヨークだったか、そこのとある「奴隷市場」に連れていかれ、1200ドルで買われた。新しい主人から奴隷たちの監督をやれと命令された。彼はその命令を拒否して、ひどく殴られてしまう。老人の体はその傷に耐えられず、やがて昔の主人の子と再会したところで力尽きる。
 1863年11月、リンカーン大統領が南北戦争の激戦地、ペンシルバニア州ゲティスバーグで演説をした。「人民の人民による人民のための政治」と紙芝居に書かれていた。アメリカの南北戦争(1961~64年)は、稀に見る凄惨な戦場となった。なんでも、この日本の首相は元首ではないが、アメリカ大統領は元首である。かの国で大統領になる人は、国民の直接選挙で選のだということくらいは、知っていたのではなかろうか。
「それにしても、人民っていうのは、不思議な響きじゃなあ。」
「大統領より偉いのが人民なんじゃろうか?」
 国の政治は、実生活から距離がありすぎて、突っ込んだことはわからない。民主主義について体験したり、教わったりすることがなかったとは言えないまでも、系統的に学ぶ機会がなかった。欧米でのような子供議会があったらよかったのかもしれない。
 紙芝居に、リンカーンが劇場で背後から銃で撃たれる場面がある。その部分を読む時は、口が毎回重くなってしまう。舞台のドンチョーの後ろから何者かが機会を窺っている。そこまで読み上げながら、「なぜ気がつかないのか、早く逃げて」と、もどかしくて仕方がない。紙芝居を観ているみんなの中でも、緊張して、どうなるのかと固唾を呑んで見守っている人もいたのかもしれない。次の場面は、ベッドに頭を打ち抜かれた大統が横たわっている。彼はひどく苦しみ、呻いている。当時は弾の摘出手術もできなかったらしい。最後から2枚目はだったろうか、彼の亡骸を乗せた列車が故郷のイリノイ州の州都スプリングフィールドに向かっている。その列車には彼の棺が載せられている。大勢の人々が彼の死を悼んだ。
 1年くらい前、何かの番組でアメリカ建国200年にまつわる記念番組がテレビで放映されていた。その中で、記者がニューヨークにある「リンカーン記念堂」から出てきたアメリカの小学生にマイクを向けていた。
「歴代のアメリカの大統領の中で、きみが一番尊敬できる大統領は誰ですか?」    
 その問いに、その子供は「エイブラハムだよ」と答えていた。もし今の日本の小学生が同じ質問をされたなら、何と答えるだろうか。その話の中には、もちろん、彼が黒人のことを「黒人種」と呼んで、白人と区別したことは含んでいないし、奴隷解放をすることによってして国の統一を果たせない、との信念の由来も語られていないのだが。今日はどのタイトルにするかの選択が済むと、いそいそと腕に抱えて教室に持ち帰り、教壇のに座って読んだ。時間は15分くらいか、なかには予定時間内に終わらない紙芝居もあった。そのときは途中で取りやめとした。
 そのうち、給食係の人が、給食の用意ができたと教えてくれる。配膳が全部済んだところで、給食当番の一人が顔を輝かせて進み出る。そのときは、大抵は、丸い容器の中にまだミルクが残っていたに違いない。
「みなさん、今日はミルクのおかわりが出来ます。もう少しほしい人は、手を上げて」とやる。
 その途端、
「わあ、ミルク、ミルク」と男子の小さな喊声が上がる。
「はあーい」
と言って、さっそく何人かが手を挙げる。給食係は、それらの人に近づいて、「お玉杓子」に少し掬ってミルクをつぎ足して回る。
 大盛りが入れてもらえた人は、みんなうれしそうにしていた。 
 ひととおりの配膳が終わると、当番が全員進み出てこちらに向かい、「じゃあ、いただきまーす」と高らかに音頭をとる。先生も私たちも「いただきまーす」と言ってから食べていた。いの一番にミルクをのみ込んでいたのではないだろうか。ミルクは、脱脂粉乳を湯に溶かしたもので、国際連合のユニセフから善意でもらっていたらしい。これに加えて、米軍から戦後復興物資として無料で供給してもらっていた小麦粉でパンを焼くことができる。これで二品が揃うので、後はおかずを用意すればよいことになっていた。これには、アメリカの製品になじませるための「餌付け」も含まれていたという向きもあって、今振り返ると、なかなか複雑な思いだ。ミルクには、育ち盛りの子供にとって健康であるための不可欠の栄養素が含まれていたのではないだろうか。というのも、母乳をいつ頃まで飲ませてもらっていたのかしらないけれども、人間というものはその過去のうれしい記憶を脳のどこかで覚えていて、その年頃の誰でもがミルクをいただくときには無心になれていたのかもしれない
 給食室の栄養士さんが作ってくれるものに、給食の献立表がある。珍しいところでは、時々、揚げパンが出た。これは、油で軽く揚げたバンに砂糖がまぶしたもので、この上なく甘くておいしい。これは、「お母ちゃんにも食べてもらおう」ということで、半分くらいを持ち帰ったことがあった。
 給食のおかずでは、肉も頻繁に入っていたのではないか。一番好きなのカレーで、はっきりした記憶は消し去られてしまっているのだが、何と肉が入っていたような気がしてならない。いつの間にか、あの頃から数十年を経過してしまった、最近の『広報つやま』(平成22年3月号、アルバム、あの頃の津山より)にも、こうある。
 「松平日記による美作一宮の牛市は4月の午の日から5月4日まで開かれ、牛馬だけでなく衣料を始めとする日常百貨の商売人も雲集しました。また、狂言や猿回しの見世物など娯楽も興行され大勢の人が集まりました。旅館や飲食店も活況を呈し、臨時の銀札場(両替所)も置かれました。江戸時代、牛は農業に欠かせない大事なものであり、その肉を食べることは禁止されていました。しかし、津山藩と滋賀県の彦根藩は「お目こぼし」が認められ「養生食い」の本場だったようです。養生食いとは字の如く健康の為に食べる。薬として食べるという意味で,明治12年に当時の陸軍がまとめた全国主要物産には東南条郡川崎村(現在の津山市川崎)の牛肉と掲載されており、津山市の牛肉は全国的に有名であったようです。こうした牛肉を食べる食文化が脈々と育まれてきたからこそ、ホルモンうどんも津山の定番メニューとしてブームにつながったのでしょうか。昭和になると、発動機が農耕具として牛に代わり、次第に農家から牛の姿が消えていきました。それでも昭和29年の牛市の入場頭数は3500頭もあったようです。この年、一宮村は津山市に編入され、村営だった牛市も農協に移管された。』(『広報つやま』(平成22年3月号、アルバム、あの頃の津山より)
 給食のおかずで出されるものなら、栄養満点な筈なのだから、何でも有難く戴いたらよさそうなものだが、苦手なおかずもあった。なかでも、もやしの入った八宝菜が苦手であった。味が嫌いというよりは、片栗粉か何かねばねばしたまろみが付けられていた、その「とろみ」が苦手であったのだ。それに、ほうれんそうの根っこの赤いところ、大きな人参の煮物、そしてなんと言っても「マカロニサラダ」のあの穴の開いた「マカロニ」が大の苦手だった。これらのうち、八宝菜は大人になる頃には大好きになった。今でも、たまに中華店に行くことがあるが、そのときは定番で中華飯を頼むことにしている。どうやら、趣向は年齢とともに変化するものらしい。一方、大好きなおかずは、カレーであった。そのときはお代わりが残っていないかなと思い、飲み込むようにして食べたものである。

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16『美作の野は晴れて』第一部、春爛漫1

2014-09-26 07:40:44 | Weblog

16『美作の野は晴れて』第一部、春爛漫1

 4月上旬は花見の季節だ。村の子ども達の花見にはの先輩達と連れだって、津山市の堀坂(ほっさか)に至る山間の道なき道を30分ばかり分け入って雑木林をくぐり抜け、丈の短い松林を通っての北側の小高い禿げ山に登った。急な斜面を下った前の谷間は谷田んぼであった。それは厳密には花見ではない。というのも、そのあたりには桜の木は少なくて、野桜も淡い色のが雑木林の処どころにちらほらしか咲いてはいなかったようだ。あるのは背丈の低い野桜ばかりで、途中では大きな桜の木は途中でみつけたことがなかった。それで、砂地の地を這うような小振りの松ばかりだからだ。せっかくの「花見」というのに、なぜそんなころに行くのかを村の先輩たちに聞いたことはなかったし、代案がある訳でもなかった。昔からそこが一番近い見晴らしのよい場所で、一番手軽で便利な場所だったのだろう。
 その行列は棒を持って木や草を払いながら進んでいく先達、中堅の四、五人と続き、最年少の僕がしんがりを勤めた。良介ちゃん(仮の名)などはわざわざビール瓶にお茶を入れたのを手提げ袋にぶら下げて持っていた。みんな手提げ袋やリュックサックに花見弁当を持っていた。前日から、ごちそうを作ってもらった。母は北側の土間の台所で料理を作った。僕の家の台所は、背後に直ぐ杉の植わった山が迫っていて、日当たりが悪い。それは「ジントギ」と呼ばれていたのかどうか、とにかくタイル張られたの流しとかなり大きい水溜があった。そういえば、最近のテレビ番組で「高齢化のすすむ多摩ニュータウン」の特集があって、その頃の映画の休憩時間に放映されていた「毎日新聞ニュース」を紹介していた。それによると、東京の多摩などの住宅公団住宅にダイニング・キッチンが入ったのが1957年(昭和32年)7月のことであった。片田舎に過ぎない我が家にそれらしきものが入ったのはそれから数年は経って、私が小学校も高学年になってたからのことだ。ちなみに、プロパンガスによるガスコンロが入るのは中学校に上がる頃であった。
 我が家の台所にしつらえてある土の竈で大鍋の湯を沸かして、湯がしゅんしゅんと沸いてきたら、それを小鍋に移して寒天を熱湯に入れる。箸でかき混ぜて、だんだんにそれを溶かしてから、それを井戸の冷水の入った別の大きな器に小鍋ごと入れて冷ます。少しずつ寒天が凝固するのが待ち遠しくて盛んに息を吹きかけた。やがて琥珀色やコバルトブルー、あるいはワインレッド色をした、えもいわれぬ色つやの羊羹(ようかん)が出来た。
 この洋風の羊羹とは別に、和風の羊羹も作ってくれていた。その方法は、家で栽培した小豆を洗って、水に浸しておく。次に、それを強火で煮る。湯立ったら、それをざるに上げ、汁の方は別の鍋にとっておく。さらに、空になった鍋にざるを被せる。この汁を上からかけながら、金属製のざるの網の部分に「あづき」(小豆)の煮たのを次から次へと木のへらを使って乗せ、それからすりつぶすように「うらごし」にかけていく。このとき、「うらごし」の目の斜めの方向に、あずきをへらでこするようにするとよいのだそうだ。そうして全部を煮汁の中に落としたら、もめんの、袋状になったふきんを一人が持って、そこにもう一人があずきをこしおろした煮汁を鍋ごと移し入れていく。一方、鍋に水を入れておき、その中に寒天を適当な大きさにちぎって入れる。それを火にかけることで寒天が溶けたら、砂糖を入れる。その上で、先に造っておいたあんと寒天の汁を鍋に一緒にして、弱火で煮詰めていく。ある程度煮詰まってきたら、長方形の木箱に入れておいて、自然の成り行きでさますのである。
 3段から成る重箱の中では、さまざまな綾取り紋様が華開いていた。まるで薄い朱色と白のコントラストが美しい蒲鉾がさまざまな形をしていた。中には孔雀の羽のような細工を母がしてくれたものもあった。慶事か法事で親戚からもらったのだろう。そこには貴重な昆布締めがあった。こんにゃくの煮たもの、ゴマと酢としょうゆで味付けしたたたきゴボウ、だし巻きたまご、かんぴょう巻き、里芋煮、巻きずし、あぶらげ寿司(いなりのこと)などがぎっしりと詰まっていた。次から次へとごちそうが仕込まれていくのを目の当たりにすることができた。
 その時、持ってきた重箱は3段くらいはあったろう。その一段に必ず入れられていたのが、混ぜご飯のおにぎりだった。炊き込みご飯といいたいが、母のものは作り方が少し変わっている。おかずは別の鍋で煮て、釜にご飯ができてからその具を入れる。子供にとっては、母の混ぜご飯の味は今でも天下一品、その味は忘れられない。寒天を熱湯で溶かして、又冷やして作った羊羹も重箱の中に入っていた。どれもこれも大好物だった。
 作ってもらった大きな風呂敷包みの重箱と水筒をぶら下げて、僕らは松林が主体の山のなだらかではあるが、一つの小さな頂きへ着く。
 向こうの頂やそこかしこの谷からは峠を越す類の柔らかで、さわやかな風が吹いてくる。私の汗ばんだ身体を風が心地よく吹き抜けていく。
「ああ、心地がええな。気持ちがええがな」
「わしも気持ちええがな」
「胸をはだけてみい。うお、今日はよう晴れとるで。日本晴れの花見の日和じゃけーなあ」
 それぞれがシャツの胸元を広げながら、口々に言い合う。おまけに、探検隊の気分になって来るから、さながら歌っているときのように愉快だ。
「丘を越え行(ゆ)こうよ 口笛吹きつつ
空は澄み青空 牧場をさして
歌おう ほがらに
ともに手をとり ランララララ・・・・・
あひるさん(ガガガガァ) ララララララ
山羊さんも(メーエ)
ララ歌ごえ合わせよ 足なみそろえよ
きょうは愉快だ」(『ピクニック』、作詞の訳は萩原英一、イギリス民謡、編曲は小林秀雄)
 目的の禿山の頂上に登ると、東の方角を仰ぎ見る。向こうには、堀坂の方面に扇状地のような田園が広がっている。加茂川の帯のような流れと、その向こう側の山並みのはるか北奥、そこからは中国山地の山間へ繋がっているのだろう。春霞の中を西の方角を見渡すと、遠くに滝尾駅近くの朱塗りの鉄橋が小さく見える。かなりのところまで遠望できるのは、気分を爽やかなものにする。踵を返して北東方向を見上げると、中国山地の峰峰も平地にいるより近くに見える。その山々がなんとなく霞んでいいるのは、春うららかな空気のせいなのだろう。
 そこでこちらが「ヤッホーッ」とやると、同じ声が向かいの山から帰ってくる。若い鼓膜には大音響となって跳ね返る。掘坂(ほっさか、当時から津山市)方面からも腕白少年達が向かいの禿げ山に登っていた。
 その姿を見つけると、お互いの「お兄さん方」による、「おまえらは堀坂のもんかあ」、「おまえらこそ誰じゃあ」 とかの掛合いが始まる。小山のこちらと向こうの似通った小山に陣取っての、お互いに「犬の遠吠え」の感がある。これでは、先人達の知恵と経験の継承どころの話ではなく、まともな話合などできよう筈がない。今顧みると、距離が有りすぎて互いの声が全部は聞こえないのが救いである。そのうち、せっかくの交流の機会は途絶えてしまう。今振り返ると、どうして挨拶と交流ができなかったのか。見も知らずの人への友情をおろそかにしたことが悔やまれる。
 小山の頂上では、丈の低い小松がまばらになって、半ば禿山となっている。その狭い頂上に着いてから、思い思いの場所に弁当を広げた。風呂敷包みを紐解くと、中から色とりどりの食べ物が太陽の陽射しを浴びる。
「どえらい(すごい)ごちそうじゃなあ、おかあちゃん、どうもありがとう」と自然につぶやきが出るほどだ。
 携えてきた花見弁当を、その前の年とほとんど同じ場所で広げた。特に珍しいものがあれば、みんなで分け合う。飲み物では、どこで搾乳したのか、誰かが山羊か牛乳を煮炊いたのち冷やし、ビール瓶に詰めてきたのを少しもらって呑む。ほんのり甘いのが乾いた喉にひんやり流れるようで格別においしかった。
 概して、何がうれしいというのではないが、うれしさが、幸せ感が心に胸に顔にこみ上げてくる。こうなると、子供心にはなんだって楽しくなってくる。煎じ詰めると、それが若いということなのかもしれない。クロのりを巻いたおにぎりがあった。いなり寿司は「油揚寿司」(あぶらげずし)といっていた。白地に紅の「の」の字の「ナルト」がきれいに笑っている。蒲鉾は、すだれの裾のような細めの切れ込み細工がしてあって、薄い朱色と白のコントラストで、とてもきれいである。干し椎茸の煮物は漆黒のかおりがただよっているようだった。卵焼きは、母の得意料理で、普通のと菠薐草か何かを練り込んだものとが入れてあって、さほどに甘くないが、うまみがじんわりと口いっぱいに伝わってくる。
 それらのごちそうの半分くらいをおなかに掻き込んでから、そこら中を跳んだりはねたりして遊んだ。もっとも、そのうち雨の気配となってくる時もあったから、そんなときには山の子らしく、雲の動きなどから機敏に察知して、みんな一緒に早めに家路荷物をしまいこんで家路を急いだものだ。
 その小山からは、北東の方向に薄く山形仙(やまがたさん)広戸仙(ひろどせん)、滝山(たきやま)、那岐山(なぎさん)のいわゆる「横仙」の山並みが眺めてとれた。そして、おいしい空気を満喫した。先輩の良介さん(仮の名)などは、ビール瓶に番茶を入れてきたのを、トランペットでも吹いているような仕草で、ぐびぐびと体の中に流し込んでいた。
 ふるさとの山は、村の子供達にとってずっと身近にあった。何らかの原因で山火事となった山にも出くわした。禿げ山となった後に立つと何かしら虚しくなったものだ。一番慌てた時は昼過ぎ、急を告げられて我が家の裏手の方角に5分くらい行ったところで、天王山のもう一つ裏手の山が煙もうもうとしているではないか。の消防団の人や流尾地域の人たちの数人が現場に駆けつけて、血走った目で話し合ったり、それを聞きながら「大したことにならにゃあええが」と腕組みする人もいる。燃えている方向から斜面を下ってくるなり、「指さし呼称」で火事の状況を説明しているおじさんもいる。それでも、小一時間が経った辺りから火の勢いが収まってきたようで、「やれやれ」とつぶやきつつその場を離れた。
 普段、天王山の頂上に立つと、南の方角に山間に開けた平野が広がっている。そこには自然豊かな勝北町が広がっている。春は特に清々しい。そこで、昼過ぎから夕方近くまで一人で天王山の尾根まで登ってから、下りつつ遊んだこともある。ちなみに、冬は中腹付近から橇で滑って遊んでいた。その頂上に立って目を南西の方へ移すと、上村(かみむら)から茶屋林(ちゃやばやし)、楢(なら)、野村(のむら)、そのずっと向こうは津山市街の方角である。我が家の後方、ほぼ200メートルくらいのところにある天王山(標高291メートル、西下の北端に位置するなだらかな山)にある空気の澄んだときには、美作滝尾(みまさかたきお)や高野(たかの)の遙か彼方まで見通せる。

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新14『美作の野は晴れて』第一部、春一番1

2014-09-26 07:38:48 | Weblog

14『美作の野は晴れて』第一部、春一番1

 うららかな春の日差しの下で、小鳥はさえずり、虫が地面に出てきている。およそひと月前の「啓蟄」(3月初旬)の頃には、まだ虫たちが外に出て活発に動き出す前であったのではないか。それが今では、田んぼ道を歩いていると、そこかしこで、虫たちの動く音やその姿が視界に入ってきて、「ああ、春なのだなあ」と実感していた。たきぎ広いとか、我が家の「西の谷」の畑を耕すとか、何かの家の用事があったりして、山の方に向かうと、杉や檜や樫といった森の木々の息使いが聞こえてくるようである。冬の間に蓄えられた泉が、森の奥から湧き出てくる。さあ、春だ。春がやってくる。野原へ、田圃へ、そして山へ。母さんや友達みんなと一緒に春の若葉を摘みに行こう。心の中で、森の妖精たちがそう叫んでいる。心地よい春の風が、体の中を吹き通ってゆく。
 小学校時代のことは、50年以上前の記憶を遡ることになる。これは、わたしにとって少々、エネルギーのいる仕事だ>心の奥処(おくか)に焼き付いたその頃の懐かしい風景を探ってみる。残像の中には、ぼやけているものがないとはかぎらない。かなりの時間をかけてその想いを巡らせてみる。じんわり出てくる思い出も、この頃ではかなり焦点がぼやけてきた。もう少し放っておくと、またかなり忘れるだろう。したがって、もし記憶の総量があたらしいもので補填されないなら、だんだんと記憶のストックが減っていくのかもしれない。だが、時はまだある程度残っている。今なら、眠っている記憶の玉手箱から、どらえもんのポケットよろしく半分くらいは記憶を探り当てることができるかもしれない。
 手助けをしてくれるのは、当時の数少ない写真である。新野小学校の入学式に行ったときに校庭で撮ってもらったものか、西下神社の辺りまで帰ったときのものか、その年のからの入学仲間とそのお母さんが一同に会している。その中に、少し身を屈め、その位置から上目使いにカメラのレンズに、眩しそうな目を向けている少年がいる。なんだか猿みたいにおどおどしている自分がいる。たぶん、新しい世界に踏み出すことへのとまどいも表れていたのだろう。
 新野小学校の元々は、1876年(明治9年)に創立された。当初は、山形の稲塚野、神事場にあった。それが、1895年(明治28年)に現在地の西中に移った。戦時下の1941年(昭和16年)、新野国民学校と改称されたものの、敗戦後の1947年(昭和22年)になり、現在の名称に改称された。その後の1955年(昭和30年)に勝北町立となって現在に至る。
 現在地にあるのは、かなり前からそこが新野村の中心であったのだろう。ちなみに、勝北町の町役場は、そこから掘坂勝北線に沿って南東に1.5キロメートルばかり下ったところにあった。

 新野小学校の本校舎の前には、1931年(昭和6年)に建立の二宮尊徳の銅像があった。その背には薪を少しだが、しょっている。彼の手には一冊の本が開かれてある。たしか低学年であったとき、国語の教科書に勤勉の勧めが載っていた。その頃の私も、そんな山での作業は家の手伝いで日常のことであったから、尚更共感を覚えたものだ。とはいえ、今日の欧米人から見て、彼がなぜ「日本で最初の民主主義者」との正当な評価を受けているのかまでは、書かれていなかったのではないか。
 小学校の校舎は木造で、校倉づくりのような板塀の壁にしつらえてあった。たしか色も黄色系統に塗装されていて、カナダのセント・バーナード島の『赤毛のアン』」の物語に出てくる家々のようであった。壁には白亜のペンキが塗られていて、なんだか洋風のたたづまいであった。その中央部に立つこの銅像は、長らく母校を見ていないので、今はどうなっているかわからない。
 通学は、小学校より遠いところにある幼稚園の寺に一人で通っていたことから、はじめから1時間の田圃の中の小さな道のりを歩いて行った。野山で遊んで育ったので、道々寂しいことはなかった。春の小道はいろいろと語りかけてくるものが多くて、遊び感覚のうちに学校に着いていたことが多い。
 1年生のときは、いたずら盛り。そればかりではない。掃除の時間に、1、2組の男子が入り乱れて、箒を翳して2つの教室を駆けずり回り、戦のまねごとを仕掛け合うことも一度はあった。そのときに限っては、一部の男子が掃除の仕事を半怠けにして遊んでいたのだから、女子や真面目に掃除をやっていた男子は随分迷惑したに違いない。
 あれは1年生の授業参観日のときである。その時の椅子は女子と二人掛けの長椅子を使っていた。私が授業の途中にその上に足を載せたり、キョロキョロ後ろを見る。母は随分と恥しい思いをした筈である。心の中はなんのことはない、みんなを驚かせたい、奇抜なこともしてみたいという心があった。そんな自分勝手な気持ちだけが空回りしてしまう。授業参観の後の面談で、先生は母に「丸尾君には、落ち着きがなくて困ります」と苦言を仰ったらしい。当時は「勉強でいい点をとろう」など、ほとんど眼中になかったのかもしれない。とはいいながら、はかばかしくない成績表を見て意気消沈したことだけはありありと覚えている。
 残念ながら、楽しいことばかりが思い出ではない。1年生のいつか、悲しいお別れもあった。名字は忘れてしまったが、おそらく同じクラスの友子ちゃんが病気で亡くなった。ひょっとして、幼稚園のときであったかもしれない。いや、そんな筈はない。という訳で、幼い頃の記憶ほどあやふやなものはない。みんなで、彼女に別れの挨拶をするために公民館のような場所に行った。先生は、私らに彼女は天国に旅立って行ったのだと仰った。
 私たちの背のたけほどにあるベッドの上に、山や黄色の花に囲まれて、透き通るような白い顔の彼女が眠っていた。なぜ、こんなに顔が白いのだろうと思った。お花畑に少女がこんこんと眠っているようであった。いま振り返ると、白雪姫の物語が思い出される。
 1年生のときは、学芸会の写真が残っていて、その中に当時の私の姿もある。いまはその写真を見失ってしまったが、うさぎの仮面を付けていた。両方の耳が大きく立ち上がっているので、それをつけると誰でもかわいく見えるから不思議だ。その写真で、目を細めて、顔一杯に口を開けて、とてもうれしそうな顔をしているが、どんな劇の内容であったかは思い出せない。森の動物たちの物語ではなかったのか。
 新野小学校の校歌は、なかなか面白い歌詞であり、よほど子供のことを思ってつくってくれている。もしそうでなければ、こんな楽しい台詞は浮かんでくるはずがない。
 「窓を開ければ陽の光、ああ面白い春の声、緑の風が吹いてくる、膨らむ希望抱きしめて、みんな仲良くあそびましょう、ぼくらの新野小学校」(作者を知らず)
 メロデイーはスイングしたり、スキップしながらのような軽快なものであった。僕のような腕白小僧にとってはうってつけの歌のようであったが、どのような気分で歌っていたかは、どうしても思い出せない。
 2年生は内田先生の担当となる。穏やかな女の先生であった。なぜか、このとき学級委員となり、更正の道を歩んでいくきっかけになった。あるいは、先生のはからいで、この子を導いてやらねばならぬと、お考えになったのかもしれない。世間でいうところの「ガキ大将」ほどではなかったから、軌道修正は速かったのかもしれない。
 この頃か、分数を教わった。随分と難しく、なぜそうなるのかわからず、小さい頭の中がこんがらがって(絡みついて)あせったことを覚えている。数学の勉強は一つがわからないと、その次から連鎖反応でわからなくなっていくもののようだ。立ち後れたあのとき、先生がわからない者のために省みてくれなかったとしたら、自力で追いつかねばならならなかったろう。
 春の訪れとともに、新しいクラス仲間で花壇を飾った。時間割には学級生活の時間がもうけてあり、先生の指導で季節の花の手入れをしたり、小さなスコップで耕し球根を植えた。植えたところにはどの花かがわかるように種袋を竹串にさして置いた。春は、黄色いすいせん(水仙)、チューリップ、ヒヤシンスが美しい花を付けた。
 学校の中庭にはコンクリート塀の掘があって、そこには鮒が泳いでいた。また、本館への渡り廊下にはガラスの水槽が置かれてあった。そのなかには別々に金魚や三葉虫が飼育されていた。それらに当番制を敷いて餌をやった。金魚はストレスに弱い魚なので、こまめに世話をしてやらないとって死んでしまう。当番日誌を付けたようである。中庭ではこの他にうさぎや小鳥を飼っていたような気がするものの、はっきりしたことは覚えていない。たしか、昼食後の一斉掃除のとき、こうした役に就いている者は掃除を免除されていたように思う。
 クラス内の委員は、学校全体の委員構成、その頂点にある「児童会」へと連なっていたのかもしれない。いずれにしろ、それらの組織は欧米にあるような、児童自らが運営するというのではなく、教える側による学校運営の一つの駒であったのかもしれない。
 その頃楽しかったものに、昼ご飯を食べたあとの校長室の掃除であった。優勝楯とかいろいろめずらしいものがあった。校長先生は茶と黒の縞模様のメガネをかけてにっこりされていた。トイレの掃除が一番きつかった。便器には消毒液を使う。ゴシゴシとブラシでこすり立てる。床についても同様だ。今頃の子供達は学校でそこまで掃除をしているのかな、と思う。この頃の小学生は、勉強にせき立てられるようにして、労働を通じて人の優しさ、動植物への思いやり、他人への思いやりを育む教育が廃れてきているような気がしてならない。

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新11『美作の野は晴れて』第一部、父と戦争2

2014-09-26 07:26:15 | Weblog

11『美作の野は晴れて』第一部、父と戦争2

 1952年(昭和27年)7月の朝方、母は産婆さんの手を借りて、病院には行かず、家で私を生んだ。そのため、母の嫁入り箪笥には、いまでも私のへその緒がほんの小さな桐箱の中に保存されている。
 貧農の家に生まれたというのはたぶん当たらない。では富農の家に生まれたのかと言われると、それも外れている。西下の中では、戦後の農地改革によって大方は「中農」になっていた。もっとも、同じ新野にあっても、・地域によっては、もっと貧しい家の子供が、大勢いた地域もあった。その頃、我がのほとんどの家では、今の物質的な豊かさに比べれば、食べるものは格段に質素であったろう。着るものも、つぎはぎだらけのものを厭わずに着ていた。今の子供であれば、顔をしかめて拒否するのかもしれないが、当時はそんなに珍しいことではない。そんな家族や村の雰囲気をかぎ分ける動物的嗅覚が何歳かの頃まで働いていた、といっていい。
 自分の姿が写っている最も古い写真は、2枚ある。1枚は、家の縁側にもたれるようにして兄と二人で写っているものである。写真というものに初めて出逢ったのか、レンズの方角をまぶしそうに見ている。もう1枚は、家の庭で、たすき掛けをした母の背に負ぶわれた私が、祖父と祖母、それに一緒の写真に写っている。私を除いてみんなが笑っている。家は瓦葺きとなっている。おぶわれているのだから、こちらの方がなんとなく古い。残念ながら、この2枚とも写してもらったという記憶は残っていない。
 幼い頃、早苗(仮の名)姉さんに負ぶわれ、子守をしてもらっていたらしい。姉さんは父の姉の子供である。伯母さんが若くして亡くなったので、小学校の4年から中学3年までの6年間を我が家で暮らしていた。大人になってからも、「泰司」とか「泰ちゃん」と呼んでくれるときの眼差しが緩んでいた。随分と背中越しにおもらしをして、お姉さんを困らせていたようだが、それで叱られた記憶は全くない。子守歌を歌ってもらっていたかどうかもわかっていないが、そうだとしても「よしよし」とか色々あやしてもらったりしたのではあるまいか。
 後年、母に頼んで当時の写真を出してもらって、色々と眺めてみたことがある。どうやら、自分の記憶は確かなものではなかったらしく、なかなかに思い出せないシーンが多かった。撮ってもらった覚えのあるのは幼稚園に上がる前の頃からのものだ。この頃から写真がぽつりぽつりと増えてくる。人間の長きにわたる記憶は、いつからのものであろうか。人によっては、母親の胎内にいた時の記憶を諳んじたり、大胆に自身「前世」を語る人もいる。「霊能力者」に至っては他人の前世や、亡くなっている人の霊とか魂を見つけ出し、その言を現在形で聞くことさえできるというのだから、私は今でも信じる気持ちになれないものの、もし事実とすれば驚くほかはない。
 私の場合は、そんな神秘的なことは何もない。実際の記憶で一番古いのは、家庭用の水源と隣り合わせの堀に滑ってはまり、渾身の力を振り絞って這い上がった時のものである。その堀は隣り合う3軒の共同井戸であって、大根やさと芋といった野菜の土を落としてきれいに水洗いするもので、深さは1.5メートルを超えていたのではないか。
 そのときは、その堀の水の中に二度沈んだ。足を滑らせてたぶん頭から転げ落ちた。水の中では何が何だかわからなかった。体中の血液が逆流する思いであった。極限まで慌てたのだろう。1、2秒のことなのかもしれないが、ただただ重く、苦しかった。
 一回目の浮上で、岸にとりついた。しかし、歯が立たなかった。2度目も失敗となる。このとき私は、確かに鬼と化したに違いない。そして、三度目の浮上でついに「死に神」を振りきった。縁の石に両手の爪を突き立てるようにして生還したことを、今でもはっきりと覚えている。
 あのときは「九死に一生を得た」という表現がぴったりする。生物としての本能というべきか、「火事場の馬鹿力」にも似ていたのであろうか、渾身の力を発揮したことで運命の女神も幼い私に味方をしてくれたのだろう。おかげでお地蔵さん姿の墓の下に入らなくて済んだ。墓の中は随分と冷たいだろうし、そこに入ると土が沢山被せてあるので、もう外に出ようと思っても這い出ることができないだろう。濠に落ちたことを、どうして親にうち明けなかったのかについては、自分でも覚えていない。多分、怖かったことを忘れたかったか、親に言って叱られるのを恐れたからだろう。
 いま一つの古い記憶は、家族の前、中の土間にいて体を痙攣させながら泣きじゃくっている自分のことだ。その後どうなったかは記憶が途切れているので仕方がない。祖父がひきつけを起こした私をさ笠づりして「しっかりせい」とバシッとひっぱたいて正気に戻らせてくれたと言う話も、その時のことであったのかもしれない。「ひきつけ」と呼んでいたのは、今風にいうと「熱性痙攣」(てんかん)ということになるのだろうか。だがそれは病気のことである。原因は何だったのだろうか。そのときは何に対して、何を悲観するなり怒って泣いていたのか今でも知らない。父に怒鳴られたのかもしれず、風邪絡みでそういう状態になっていたのかもしれない。後年、母はある日のこと、ラジオ体操をさぼった私のことを父が激しくおこったことを打ち明けてくれた。母は『この子は直ぐ癇癪を起こす、かんの強い、気性の激しい子だ』ということで随分と心配したらしい。気がついてからしばらく家の外に出されていたようだが、外の空気を吸い込んでいるうちにだんだんに気分が落ち着いてきて、泣くのをやめたという。
 還暦を過ぎてからか、いったいいつから自分は記憶というものが芽生えたのだろうかと、ふと考えることがある。一番古い記憶を汲み出そうとしても、そのすべはわからない。その後も一言も発せず黙々と思念し続けていると、何かの記憶がひょっこりしみ出てくるから不思議だ。それが本当のことであったかどうかは、多分わからない。頭の中で、作り上げた偶像である可能性もあるからだ。そんな自分の一番古い記憶は、たぶん4歳の頃のものといえば、1956年(昭和31年)の頃である。なにも覚えていない。この年の経済白書は高らかな調子で国民にこう告げた。
「いまや経済の回復による浮揚力はほぼ使い尽くされた。なるほど、びんぼうな日本のこと故、世界の他の国々にくらべれば、消費や投資の潜在需要はまだ高いかもしれないが、戦後の一時期にくらべれば、その欲望の熾烈さは明らかに減少した。もはや「戦後」ではない。われわれはいまや異なった事態に当面しようとしている。回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる。そして近代化の進歩も速やかにしてかつ安定的な経済の成長によって初めて可能となるのである。」
 人というものは、過去をひもとき、いまをひたすらに生き、未来の方向性を見つめる存在だ。当時の私は、もちろん、そんな世の中の大きな流れとは無縁のところにいた。自分の家族や親戚、そして近所の人が世界でありすべてであった。小学校に上がる前、6歳の1年間は幼稚園に通った。その頃のことはかなり覚えている。腕白でいたずら好きな子供であった。幼稚園のあったところは、勝北町西中(にしなか)のとある寺であった。地理的な位置としては、西下の北方が西中、その西中の北方が西上である。西上となれば、そこはもう山形仙の麓までさ続いている。
 さて、西中に戻るが、新野小学校から500メートルほど町道を北上したところの平坦な田圃(たんぼ)の中に、町立の保育園があった。開園は1953年(昭和28年)のことで、旧新居の村の法光寺の敷地内に、平屋の建物が併設されていた。
 通園には、優に4キロメートル(現在は1里)の距離を一人で歩いて通った。通園の途中、山形の方から南下してきた小学校の上級生の3,4人連れに眼を付けられることがあった。こちらから仕掛けた覚えはないものの、何か生意気なところがあったのだろう。当時は足に自信があって、首根っこを捕まれない限りは、束になって追っかけられても逃げ切る自信があった。
 それでもたった一本の道を塞がれ、向こうが待ち構えていることがあった。そんなときは大人の人の後に付いて登園した。それなら、登園をしなければよかったようにも思われるのだが、野や山を駆けずり回ったり、家での労働で多少とも鍛えられていたせいか、「なにくそ、負けるもんか」という気持ちがあって、そのいじめにへこたれるようなことはなかった。
 その寺の境内の敷地に町立の幼稚園が営まれていた。お坊さんはいただろうか、今では知る由もない。
「お花 お花
やさしく育った かわいい お花
ほらね
お日様 見あげて さいた
みんな おてて つなごう
大きな お花 になろう
新野の 新野 なかよし保育園」(作詞者と作曲者を知らず)
 先生の名も顔も覚えていない。女の先生が2人いただろうか。園内ではゲームをしたり、「お絵描き」をして過ごした。昼寝の時間があって、茣蓙を敷いて休んだ。不思議と、先生とみんなで何をしたかはこれといって覚えていない。読み書きも少しは教えてもらったようである。
 覚えているのは、朝にはチャンバラごっこをしていた。その頃か、漫画ではやっていたのが、『赤胴鈴の助』であった。
「剣をとっては 日本一に
夢は大きな 少年剣士
親はいないが 元気な笑顔
弱い人には味方する
おう、がんばれ
頼むぞ 僕らの味方
赤胴鈴の助」(藤原真人作詞・金子三雄作曲)
 幼稚園の休み時間では、男女ともブランコに乗って思い切り漕いだりして遊んだ。いまでも思い出すのは、誰やら級友の男の子がブランコが後方に振り切った次の瞬間、見ていた私の視界から消えた。はて、どこに行ったのかと探すと、田植え前の田圃のぬかるみの中に落ちていた。大きな怪我はなかったようで、みんなで胸をなでおろしたようなことがあった。
 ほかにも、何やら悪さをして押し入れに閉じ込められたことがあった。だが、鍵を外から掛けられたのに、「出して」と泣くでもなく、にやにやしていた自分をしっかりと覚えている。それから、ぜんざいの味も忘れられない。汁碗に白い餅、その上に赤いダイヤの異名を持つあずきが大きいスプーン一杯分くらいは載っていた。甘くて甘くて、舌がとろけそうで、とても幸せな気分になったことを思い出す。作り方は、小麦粉を水に浸してこねたものに、小豆のあんこを暖かい煮汁をかけたものである。甘いものを食べさせてもらった後は、昼寝の時間で、眠たい訳でもないのに、長いござを広めの部屋に敷いてしばし寝転んで「いい子」をしていた。

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新10の1『美作の野は晴れて』第一部、父と戦争1

2014-09-25 22:29:36 | Weblog

10の1『美作の野は晴れて』第一部、父と戦争1

 父は、自分の幼年期について、何一つ私に語らなかった。それでも一度くらいは話を聞いたことがあったのではないかと、頭を絞っても、まるで記憶の箱の中にないのである。父の生まれた年から4年後の1923年(大正13年)は、全国的な農村不況の年で知られる。その前年の9月には、関東大震災が起き、関東地方において未曾有の被害があった。私は、後に現住所(埼玉県比企丘陵の小川町)のとある古写真所蔵家を訪ね、黄色く変色を始めている写真を見せてもらったことがある。それらの中では、横浜正金銀行や東京有楽町駅の構内で人々が折り重なるようにして死んでいた。その多くは、一見の価値があると思えるものが多かった。そのときは、「死屍累々」ともいうらしいが、かくも人間はたやすく死ぬものか、との慨嘆を拭えなかった。
 1932年(昭和6年)年には、新米の値段が1年前の約半値に下がった。1935年(昭和9年)には冷害があり、一転して不作が全国の農村を襲った。東北を中心にまた悲しい出来事が相次いだ。そのときの西日本での状況はどんなであったろうか。そのとき父は15歳の少年期に入っていた。
 彼の青年期についても、私はほとんど何も知らない。山岳小説家の新田次郎に、『孤高の人』」という登山小説がある。そこに描かれていたのは、ひたすらに山が好きで単独の登攀(とうはん)を好む登山家の人生模様であった。私にとって、父はまさしく孤高の人であった。私が小学校低学年までの幼いときは、なぜだか思い出せないものの、たいそう叱られることがままあった。そういうことがあって、父にはなおさら近づくのが恐ろしくなっていた。その頃、我が家には、父には責任のない、多額の借金があることを既に聞いて知っていた。父の心に何が隠されているのかは、はかり知れなかった。「まだ、何かあるのかもしれない」という懸念があって、それが後の私の青年期には昂じて、父の孤独な背中を常に意識していた。
 父の身長は160センチメートルくらいであったが、肩幅の広い、それでいてプロレスラーのような厚い胸を持っていた。自分は将来、父のように上部で長持ちする躰をもち、元気に働いて、自らの家族を養っていけるだろうか、という気持ちに変わっていった。でも、父のことを「親父」と呼ぶことはしなかった。「おとうちゃん」から「とうさん」に呼び方を変えたのは、神戸に働きに出る20歳のことである。
 そんな父は、冠婚葬祭で、父の兄弟が勢揃いしたときなど、宴たけなわとなったところで、父の「18番」が出ることがあった。それは、浪花節的な歌であって、内容としては軍歌であろうか。舞台は進んで場は最高潮となる。耳の奥に残っている一つは「軍歌うとて意気揚揚と.....」だった。浪花節流の講釈も交えて、日焼けの黒い顔を赤く染めてうなっていた父の顔が懐かしく思い出される。
 いま一つは、あの「戦友」という歌である。中国戦線における日本兵の心情を歌ったこの「軍歌」には、戦うことを賛美したり鼓舞するようなところはない。来る日も来る日も行軍と戦闘に明け暮れる兵士の姿が浮き彫りになっている。けれども、それは侵略する立場からのアプローチであって、どう贔屓目(ひいきめ)に見ても「反戦歌」というのは当たらない。当時テレビで、同じ題の番組を放映していて、主題歌に「ここはお国の何百里/離れて遠く満州の/あかい夕日に照らされて/友は野末(のずえ)の石の下」云々とあった。
 今顧みれば、父の晩年、まだ元気で機嫌がよいときに、青年時代にどうしていたのかをなぜたずねてみなかったのか、いまさら悔やんでみてもどうしようもない。寡黙な人であったから、自分から話すことはほとんどないと、承知していた筈なのだが。
 さて、1937年(昭和12年)、日本による中国への本格侵略が始まる。そのとき、父は17歳になっていた。当時の新野(にいの)尋常小学校は戦後の小学校と同じ地にあった。その頃の父の移った一枚の写真をみたことがある。木造校舎の前の顕彰記念碑に寄り集まって、麻の色の兵隊服を着て数人の兵士が写っていた。その中に、りりしいというか、たくましいというか、銃を手にした父の出征の姿が残っている。
 新野の青年学校卒業後、父は広島県呉の海軍工廠に行く。「赤紙」による招集であったのであろうから、家族としてはまさに「長男を戦争にとられてしまった」ことになる。1940年(昭和15年)には、甲種合格で岡山歩兵第10連隊に入隊した。その日のことを祖母は、「登は体がつええから、甲種合格になったんじゃ」と述懐していた。それより8年前の1932年(昭和6年)には満州事変、1936年(昭和10年)の日華事変と、中国大陸では日本軍による侵略戦争が始まっていた。
 いま歴史を振り返ると、救いがたいのは、当時の日本のファシストたちが、中国などアジアの国々に対し、自治の能力がないのだから、日本が進出していって統治してやるのだと言っていたことである。おりしも、当時の一般の兵隊の生活は、「軍律」でがんじがらめであった。営舎での1年くらいの間のことは聞いていない。敗戦後に作家の野間宏が書いた長編小説「真空地帯」のような上官によるいじめ、ある場面では柱に登って「ミーン、ミーン」と蝉の鳴き声を真似をしていたように、上官の命令ならどんな理不尽なことでも甘んじていたのかどうなのか、本人から聞いたことがないので、父の場合のことは知る由もない。
 これは父の入隊のことではないが、岡山からの中国へ1937年(昭和12年)進撃した日本陸軍に、岡山駐屯の陸軍歩兵第10連隊(赤柴隊)があった。この部隊が、中国に渡り、その「敵地」でどのように振る舞ったかが、小説の中に収められている。そこには、戦後の多くの日本人が知らずに済ませてきているかもしれない、大陸侵略の生々しい模様がこう描かれている。
 「津山市出身の陸軍歩兵上等兵棟田博は、この間の戦闘の状況を小説にして、『分隊長の手記』として2年後に発表したが、その中には部下の兵隊といっしょに畑の野菜を盗んだり、大きな赤牛を殺して食べたり、家人の避難した農家を占拠して鍋釜も持ち出し、村に牛も豚も鶏一匹一いないのは不便極まるし、腹立たしいものだと記している。家人の居なくなった民家を「掃除」と称していえ探しして、めぼしいものを略奪するさまも、淡々と記している。」(岡山女性史研究会「岡山の女性と暮らしー「戦前・戦中」の歩み」山陽新聞社刊)
 これを読んで、私も含め「小説の世界だけのもので、嘘に決まっている」とか、「たかが小説の中の世界でのこと」だとか、心をへの字に閉じて過去を顧みないようでは、人間としての良心が問われるのではないか。
 翌年1941年(昭和16年)12月8日、日本の連合艦隊による真珠湾への奇襲攻撃を皮切りに、日本が大国アメリカに総力戦を挑んだ太平洋戦争が勃発した。父はそれに先立つ同年3月、そのまま田舎には帰らず、広島県呉の海軍工廠から貨物船で中国大陸に渡ったようだ。彼は上海から揚子江(長江、チャンヂャン)を遡上して南京(ナンジン)を経由、九江(チィオウジャン)を経て徳安(トゥーアン)に到着した。そこで中支派遣軍平野隊に入営し、第三機関銃中隊に編入される。ここに機関銃中隊というのは、近代化した兵器を装備した俊英の部隊であったようで、げんに父は中隊長直属で、彼の馬を引いていた。
 これを皮切りに、父は作戦の所属を変えながら武漢(ウーハン)、漢陽(ハンヤン)、その後は洞庭湖(ドンティンフー)に注ぐシアン川を100キロメートル南下したところにある長沙(チャンシャー)、洞庭湖の西岸にある常徳(チャンドゥー)のあたりを転戦した。その場合、中隊が単独で作戦を行うときもあるし、時には大隊に加わっての任務遂行もあったらしい。本人の言から覗うに、占領と言っても、その時点でのものであって、部隊が現地を去ると再び中国軍が進出する。大方はその繰り返し、ゆえに父の中隊の全体の戦況としては膠着状態というのがふさわしかったようである。
 中国戦線や南太平洋では、日本軍は最初は破竹の勢いというか、どんどんと戦線を拡大していた。ところが、1942(昭和17年)には連合艦隊がアメリカ空軍と戦ったミッドウェー海戦において、決定的敗北を喫す。日本は、主要な空母を沈められた。また、1944年(昭和19年)夏にはマリアナ群島(とくにサイパン島)が陥落した。そのことで、日本の南方占領地からの物資の補給路は事実上途絶えた。なにしろ、日本国内産で賄える資源は限られているから、海外からこれらの物資が入らなくなるとたまらない。それからは、全体としての戦局は憂色の方向に大きく変わっていった。一般人にも、もし物事を冷静沈着に見る眼があったなら、もはや日本の敗北は避けられないと認識できたのではないかと推測される。
 その後の中国戦線では、父の所属していた派遣軍は、長沙からシアン川ー湘江(シアンヂャン)の川沿いに衡陽(ホンヤン)、さらには来陽(ライヤン)にまで遡り、6年間にわたり揚子江沿岸から現在の湖南省(フーナンション)を転戦して、1945年(昭和20年)の敗戦を来陽(ライヤン)で迎えた。そこで強制連行を伴う捕虜にはならず、武装解除されたようである。
 おりしも、はじめは破竹の進撃であった日本軍も、1943年(昭和18年)11月、江西省の遂川を基地とするB25など15機が台湾の新竹付近に、対日初空爆を敢行してからというもの、制空権は在華アメリカ空軍に掌握に握られる。アメリカ軍は、「広西省の桂林(グイリン)、柳州(ヤンヂョウ)、湖南省の衛陽、江西省の遂川地区に進出し、1944年初めには約160機に達していたとみられ、中国戦線の将来を左右するものとして注目の的」(臼井(うすい)勝美「日中戦争」中公新書から抜粋)となっていた。ここで敵に制空権を握られるということは、もはや陸地での戦闘も大きく制約されることにならざるをえない。このままでは、ずるずると後退していくしかなくなる。そこで、日本としては、この空軍基地なりを壊滅ないし、昨日不全にする必要に迫られた訳である。
 この作戦について、やや詳しく述べると、当時の「大本営」にて計画が立てられたのが、1944年(昭和19年)1月に入ってからで、その月(1月)の19日には、一号作戦の内奏を受けた昭和天皇が「作戦をやって勝つであろうが、治安がさらに悪くなることはないであろうな」と懸念したそうである。続く1月24日には、畑総司令官に「一号作戦要領」が下立つされ、4月頃から作戦が開始され、各方面の日本軍は苦戦を強いられながらも、衡陽、桂林、柳州の占領を果たした。
 「中南方面に作戦せる軍の将兵は約半年にわたり至難なる機動作戦を敢行し、しょうれいを冒し艱苦に耐え、随所に在華部空軍の根拠を撃破してよの作戦目的を達成し、もって全局の作戦に寄与せり。朕深くこれを嘉尚す」との勅語はこのとき発せられた。ところが、このときすでに長距離爆撃機B29がはるか奥地の成都周辺の基地群から黄海上空を越えて北九州に空爆のため飛来するようになっていたのだから、もう彼我の地から関係は勝負がはっきりついた形になっていた、といっていい。1944年(昭和19年)になると、日本軍の中国戦線での展開は手詰まりの状況となっていた。

(続く)

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新8『美作の野は晴れて』第一部、故郷の人々1

2014-09-25 22:27:45 | Weblog

8『美作の野は晴れて』第一部、故郷の人々1

 徳川の幕藩体制の頃にはかの地で暮らしていた。孫六は某かの土地と財産を本家から分けて譲り受けたことだろう。
 日本には鎌倉時代の頃から「一所懸命」という言い回しがある。これは、百姓達を統治する側の武士階級だけのものではない。長子相続の時代である。分家とは食い扶持を減らす意味も込められているとみてよい。
 その一方で、土壌とか日照、そして水の利といった良田の条件を満たすのは、このあたりでは所有している田圃の2割を越えてはいない。だから、彼らが良田を受け継ぐことができたとは考えにくい。親からもらった田圃を曲がりなりにも良田にするためには、山間の地では人一倍の手間がかかる。以来、祖先の汗と涙で護持されてきた田畑の歴史が刻まれてきた。
 私の実家のる流尾(ながれお)地区は、勝北町西下(現在の津山市勝北西下)の西北端にある。北側後ろまで、天王山の山懐が迫る、「西下」の中の谷間の一つの地域のことをいう。傾斜地に10軒に満たぬ農家がへばりつくようにして建つ。狐尾池がいつ開鑿されたのかは知らないがその工事の前にこの傾斜地に移住してきたのであろう。その池尻の傾斜地に、この地に流れ着いた、遠い「丸尾」姓の共通の祖先の墓がある。その本家の墓群れには、1639年(正保4年)没とはっきりと天然石に刻まれている墓があり、そこに葬られている人物こそが源(みなもと)であると、母から教わった。
 その本家がまずあって、その後、何世代も続く。私の先祖は、その本家からあるとき分かれた。分家となってからは、まず孫六(まごろく)には妻・らくがいたが、孫六が世を去った1775年(安永4年)より前に若くして亡くなったと見られる。その後妻としてきく(1797年(寛政9年)没、享年は不明)が家に入った。孫六と先妻あるいは後妻との間には幸助(1749年(寛延2年)年生誕、1809年(文化6年)没、享年60)が生まれていた。あと一人、位牌名に「おなつ」なる人が記されているが、彼女は夫婦の娘で夭折(ようせつ)したのかもしれない。長男の幸助は長じて妻・名は不明(1809年(文化4年没)、享年50)を娶った。二人の間には五兵衛(1807年(文化4年)没、享年は不明)が生まれ、長じて後に妻を娶ったことであろう。その人がゆき(1852年(嘉永5年)没、享年79)その人であるかは、仏壇に仕舞われている彼女の木製の位牌名が一人名であることから、判然としない。
 五兵衛夫婦が何男何女をもうけたかは、母から聞いている限りでは、つまびらかでない。子供を産みやすい環境、育てやすい環境でなかったことは想像に難くない。一言で言うと彼らは貧しかったのではあるまいか。彼ら二人の長男が1813年(文化9年)に生まれた嘉蔵である。彼は、孫六から数えて3代目にあたる人であった。
 嘉蔵は長じて後、妻きくとの間に3男2女をもうけた。嘉蔵の没年は1868年(慶応4年・明治元年、享年53)で、きくのそれは1887年(明治20年)、享年69)である。二人が生きたのは、江戸から明治への区切りに当たる。特筆すべきなのは、1872年(明治5年)から1873年(明治6年)に新野西村の百姓たちが血税一揆に関わっていたことである。ここに新野西村というのは、1872年から14年間使われた村名で、新野郷の西上村・西中村、西下村の3か村が合併して成立していた。
 以後は、嘉蔵の長男である良蔵(1894年(明治27年)没、享年53)が家督を継ぎ、新野村山形の藤田家から入籍した妻のハツヨ(1887年(明治20年)没、享年37)との間に三男二女をもうけた。
 長男の繁蔵(1922年(大正11年)没、47歳)が生まれたのは1875年(明治8年)であった。12歳となった年に母のハツヨを失ったことで少年期の彼の心はどんなに悼んだことか。やがて繁蔵は成長し、津山市妙原小林家からきし(1926年(大正15年・昭和元年)、享年46)を娶り、二人の間に三女が生まれた。1899年(明治32年)に出生した長女の名がとみよである。この年には東北地方を中心にいもち病が大発生し、みまさかの地でも収穫の少ない年があった。とみよは、繁蔵24歳、きしが19歳のときの子供である。私の実家に残っている一番古い写真にも、この人たちの姿は映っていない。
 父方の祖父の安吉(やすきち)は、直接に見知っている。1896年(明治29年)に勝田郡豊並村(現在は奈義町)関本在住の為末宗次郎、ひゃく夫婦の二男に生まれた。為季(ためすえ)家は、中世にこのあたりの土豪、あるいは国衆のような存在であったのであろうか。俗的には、後藤氏の武士団の末裔とも言われる。しかし、江戸期の公文書記録に出ていないことから、鵜呑みにはできない。
 1916年(大正5年)に20歳となった彼は、18歳となったとみよとの間で婚姻し、繁蔵、きし夫婦の婿養子として入った。1918年(大正18年)8月8日から10日にかけて、美作にも米騒動が起こっている。前年の不作に加え、海外派兵の予想が高まる中、地主がコメを売り惜しんだことで、富山で起こった騒動が数日後にはみまさかの地に伝搬したのだ。久世地方では、怒った民衆が輸送中のコメを襲撃した。安吉・とみよ夫婦の間には、五男二女が出生した。長男の登(のぼる)は、1920年(大正9年)12月に新野村大字新野西下の現在地に生まれた。彼が私の父である。祖父が亡くなったのは1972年(昭和47年)で、「おじいちゃん子」であった私は面影を覚えている。祖母が亡くなったのはその10年後、1982年(昭和57年)のことで84歳のやや長寿であった。私が愛してやまない、この二人については、とりあえず私が小学校を卒業する頃までの記憶に基づいて、皆さんにその人となりをお伝えしたいと考えている。

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