新33『美作の野は晴れて』第一部、共働社会としての村落

2014-09-26 20:24:17 | Weblog

33『美作の野は晴れて』第一部、共働社会としての村落

 私が住んでいた当時のでは、日常のさまざまな掟や習慣などが協働社会に根付いていた。その証拠となるのが、おそらくは所有林となっている入会地での「下刈作業」であった。植えている木の間伐や枝落とし、雑木の伐採などで地面まで日光が届くようにするのと、刈り取った雑木や薪の束を燃料としてそれぞれの家に持ち帰るのだ。
 雑木の類いや下草の存在は、森の健康のバロメーターとなっている。ほとんどが笹では植生が単純過ぎる。下草として、色々な植物があってこそ土地が肥沃となる。とはいっても、雑木林の茂みのかさが増してくると、中にはますます太陽光がさし込まなくなっていく。木は、自分の高さの2割の間隔を欲している。木は元々適当な間隔で植えられている。ところが、大きく育つにつれ、互いに競い合って枝を四方に伸ばしていくので、あちこちで日の光が差し込まなくなってしまう。山は管理しないと、荒れ放題となる。中には有用な木材もあって、これを間伐は、枝振りを均等な案配にしてやることで木に再び命を吹き込んでやらないといけない。
 これらの作業は、人を動員して定期的に繰り返し行うとよい。初夏の頃、晴れの日をねらって西下の人の総出で下草狩りと間伐が行われる。間伐は、広い意味での「結い」の制度のようなもので、当時の日本列島で、地方によっては田植えや稲の刈入れ、脱穀に至るまで、忙しいときにみんなで助け合う。大水が出ればみんなで堤防の工事をし、火事になれば共同で消火に当たったり、家の雨漏りがあればみんなで新しい屋根を葺くなど、や村全体で面倒を見る習慣、風土が広く根付いていた。
 いよいよその日が到来し、村人たちは、鎌の長いのや短いのやのこぎりなど、さまざまな道具を持っての北端の天王山に集まってくる。各々が携えている鎌の中には、なたのような分厚い刃を施したものもある。めいめいが勝手に動くのではなく、事前に仕事内容が決まっていた。間伐では、2、3時間の作業の後には、数え切れないほどの薪や小枝の束が山道、林道の道ばたに並べられた。自宅で燃料となる薪や小枝の束をたくさんつくっておいて、それをいっぺんには自分の家へと持ち帰るには荷が重すぎる。そこで、道端に積み上げておくのだ。
 これについて、どうして薪や小枝がそんなに要るのか、至る所に転がっているだろうに、という意見もあるかもしれない。しかし、また、各々が勝手に林に入って家庭用の燃料を採取するのでは、資源は枯渇してしまいかねない。何よりも、夏ならともかく、冬場を乗り切るには、当時、燃料元の主力はガスではなく、竈にくべる薪であり、風呂焚きにも薪が必要であった。暖をとるのに、高価な石炭を使うということもなかった。この田舎にプロパンガスが供給されだしたのは、私が中学校に入って以後のことではなかったろうか。
 ともかくも、小学校のときは、食事の支度も含めて薪を必要としていた。当時は、今日のようなプロパンガスではなく、薪が燃料の主体であった。だから、農家にとっては協働での作業はどうでもいいようなものではなかったといえるだろう。むしろ、いや断然、林の伐採・掃除は願ってもない共同の作業でもあったのではないか。
 協働の作業以外にも、村人が一つところに集まることがいろいろあった。例えば、、家を新築したり、増改築した時は、屋根葺き前のところまで建築がすすんだところで、「棟上げ」式を行っていた。私もその噂をかぎつけ、遊び仲間と見物に行った。作業の現場に着くともう人だかり。新しい屋根の構造が出来上がっていて、その板張りの上に大工職の兄さんやおじさんが3、4人、それに家の人が上っている。我が家の親戚の神主さんの顔も見える。人々が下で興味津津の面持ちで待っていると、やがて「さあ、いくでえ」の合図が下り、上の方から小さい紅白の餅がばらまかれ始める。我も我もと、その餅の落ちる場所へとみんなが手をのばす。手に余って地面に落ちた餅は、踏まれないうちに急いでしゃがんで拾い、持参の大きめの袋に入れる。中には袋の口を開けている人もいる。一通りの式が終わると、また何かのおまけが配られ、また歓声が上がっていた。
 当時の村に、このような協働で作業を行ったり、手伝い合う仕組みがあったのは、水路や道路、民の共有地(入会地)の管理を共同で助け合って行う必要があったからである。それらも、米にプラスして牛や野菜、葉たばこなどによる複合経営が一般化するようになると、しだいに姿を消していく。各戸とも農繁期が長期化し、牧野の共同作業に出役するのが難しくなっていったことも背景にあるだろう。
 また、水田においてもコメの単独栽培からの裏作、転作が普及していくにつれ、トウモロコシなどの飼料作物が増え、少頭数飼養の農家にあっては、放牧する必要が減っていったのであった。
 今頃になって、故郷の歴史の一齣が知りたくなる。高度成長期という言葉は知らなかったものの、世の中の変化はひたひたと押し寄せてきていた。1960年代からは、過疎化がはじまっていたというのは想像に難くない。
 間や内での水利権の調整については、その後もの大きな仕事となっている。今でもその頃のことをふと顧みるときがある。日照りの夏もあった。宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』に、「日照りの夏はおろおろあるき」とある。みまさかの夏も、日照りが続いて、田圃に張った水がなくなって、地面が乾いて「地割れ」することがあった。
 そんなときには、決まって、西下の中で水を巡る争いが一つや二つは持ち上がっていたようだ。特に、我が家に取っては、東の田圃には、水路が錯綜している。の中で約束がなされていて、いつからいつまでは板で水路をせき止めて、自分の田圃に上流からの池や川から流れてくる水を取り組んでよろしいというお触れが出る。その間は水を「我田引水」ができる訳だ。
 同じ日でも、刻限によっては次の順番の人にその用水を引き渡すことがある。特に日照りの時のほかは、んなとかやりくりして仲良く使っていた用水であるが、渇水が長びくとなると、そのやりくりが難しくなっていく。すると、少ない水をみんなで分かちあわないといけないから、喧々がくがく、しまいにはまっひる間から田圃でどなり合いのけんかともなるのだ。
 西の田圃では、私の家の田圃は池の上流にあるので、ひでりが続いたとき微妙な立場であった。放水が始まると、下流の田圃に水が引かれていく。上流側は、汲み上げポンプを発動機で回して池から取水させてもらうしかない。そのときは、村の評議会の許可が要ったようである。
 あるとき、父が狐尾池の間近にある田圃に水を引くのを手伝ったことがある。いくら水を引きたくても、村の許可が出ないと、一滴なりとも自分の田圃に水を引くことはできない「掟」になっていて、それが解かれるまでは我慢しないといけない。それでも、やっと願いが叶うと、刻限を限ってのことであろうから、作業を急ぐ必要があった。
 田圃のそばの一角に発動機を設置して、ポンプにホースをつなげて西下から狐尾池から取水できるよう認めてらったこともあった。父の手によって、ひび割れた田んぼに水が供給されていくのを見て、「ご先祖様」と共通の心を持てたような気がしたものだ。
 池尻にある田んぼに池の水を供給する「いで落とし」の日は、村の寄合で決まる。その日、男衆が潜って、素手で池の詰めをはずす。すると、水が勢いよく下流の方へと流れていく。池尻にある田圃は、これで次から次へと自分の田圃に水を引くことができる。
 私たちの先祖がひらいてくれた、この溜池があってこそのことであった。その竣工の記録をいつか母が書き写してくれている。
「大正十一年(年)竣工
狐尾池は大正十一年(年)に構築され
其の後数次に亘り増改築が行われ
租田を養いたるも
老朽甚だしき為
災害対策事業として全面改築工事が竣工し
ここに待望の池となれり
起工 昭和五十六年三月
竣工 昭和五十九年四月
三町六反四畝
貯水量 六万屯
堤延長 130米
総麹費 三八八九万六千円」とある。

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