26『美作の野は晴れて』第一部、夏の自然の中で(田植えなど)
初夏は、おおむね立夏から梅雨入りまでの期間に当たる。梅雨に入ると、雨がやみ、空が晴れ上がってからは、花たちは色鮮やかとなる。葉は太陽光線を反射して青みを増してくる。葉の厚さも増してくる。それでいて、南国の花の色合いと違う。オーストラリア北部やインドネシアに咲いている花のようなあっけらかんの、派手な色合いではない。草もつぎから付きへと繁茂してくる。雨が大量に降った次の日などは、明らかに背丈が増している。
梅雨の時期は、いろんな作物が大きくなる時期だ。マメ科の植物は土壌中の根粒菌と共生関係にあるとは当時知る由もなかった。緑色をした植物たちのほとんどすべては、その根の部分から窒素分を水素と窒素の化合物であるアンモニアや硝酸の塩類として吸収する。これに対して、マメの根粒の中にはリゾビュームというバクテリアが棲んでいるのだといわれる。その菌は空気中の窒素を同化して窒素化合物をつくり、これを栄養分として宿主のマメ科植物に与えている。このような働きを窒素同化作用と名付けている。間借りしているお礼にその窒素養分を差し出すというのだ。共生関係の見本といえよう。
この時期には、春先に植えておいた夕顔も大きくなってくる。別名というか、この植物は後に乾燥させて、製品としての「かんぴょう」となる。今も、栃木県下野市辺りの農家では換金作物として早くから栽培し、こんにちに至っているという。驚くことに、雷の雨との関係があり、雷様が余計なものではなく、日光連山を北に望むこの辺りは雷が多くて、積乱雲がもたらす雨が夕顔を大きく育てるのだといわれているそうだ。
こうして栽培した夕顔は、収穫したら、家で皮むきする。土間で「あぐら」をかいてやっていた。肉皮ともに柔らかいので、包丁でむいていく。むき方は、なにしろ大きくて重たい。そこで、一方の手で抱えてくるりくるりとまわしつつ、包丁で5ミリぐらいの厚さに皮むきをしていく。手慣れると、1メートルくらい皮が途切れず向けるようになる。そうなると、一人前だ。
こうして皮むきした夕顔は直ぐ干さないカビがついて、食べられなくなってしまう。だばににして、日干しにする。2日もすればひなびて来る。梅雨晴れ間をねらって、それを何回もくりかえしたら、ひからびになっていく。あのスーパーで売っているような美しい肌合いの商品というか、自家製のかんぴょうとなる案配だ。当時の農家は、こうしてできるだけ自給自足で生活しようと普段からかんがえていたともいえるだろう。
我が家では「東の田んぼ」といっていて、家から1キロメートルくらい離れたの真ん中辺りに田圃の集落があった。そこは小川を中央にして、平原のようになっており、その両側に家の田んぼが散在していた。我が家では、当時、そこの田植えでは、主だった場所はよその人たちに頼んでしてもらっていた。田植えの風景は、写真で見るベトナムのメコン・デルタのものとさして変わらない。の人とは違う顔の人たちだった。ほとんど全員がご婦人、おばさん方だった。その日は応援の労働力を西下内外から迎えるので、家族6人は朝早くからてんてこ舞いであった。
私たち子供は、何をしていたのか。苗を運んだり、お茶を配ったり、昼飯の「ぼた餅」を配る手伝いをしたのを思い出す。ご婦人方は、女性の人は鮮やかなかすり模様のついたモンペを身にまとっていた。かすりというのは、美しかった。藍色の布地に赤が適当にあしらっているなど、それが朝の陽光に映えてまぶしく、目を見張ったような気がする。
おばさんたちは、なかなか両の足と両の手には脚絆をはいていた。労働の場所は、社交場でもあった。その日ばかりは多くの人々の手で、田植えはどんどん進んでいった。
田植え仕事のやり方は、家で行うのとあまり違うことはなかった。おそらく、新野の辺りでは同じように植えていたのではないか。まずは起点となる田んぼの一番長い端にリールという使って縄をビインと張り渡す。縄の両方の端には鉄の杭が結わえつけてあって、それを地面に突き刺して固定するのだ。次に、そのピンと張られた綱に沿って、寸法竿(直角三角形)の一辺を寄り添わせる。
田んぼには水が張られているので、ややもすれば定規が浮遊するので、「直角」の線が崩れて動いてしまう。失敗しないためには、一度位置をきめたら、急いでやらないといけない。起点を固定させたら、こちらと、はるか向こうの岸の間で、リール係の二人が、その寸法竿の最大目盛りのあたり、先の起点から4尺8寸(1メートル40~50センチメートルくらい、1寸は約3センチメートル)の印のある所を目安に、再びリール機械を固定する。
そうすると、田んぼの縦方向、その長い線に従って、それはそれは細く長い長方形の枠ができ上がることになる。リールで作った縦線に沿って適当な間隔でいる数人が、その綱の赤い目印が付いたところを目安に苗を植える。これで、こちらから向こうの岸まで縦長の植え枠ができるという案配だ。
すると、今度はその長方形に仕切られた枠の中に、もんぺ姿のおばさんの別の一人が入る。彼女の後方には、ほどよく苗が投げ込んである。そこで後ずさりしながら、その苗を拾って、次から次へと田植えを行うことができる。苗を植える間隔は、寸歩取りのときに水面に渡した直角寸法竿に刻まれている。ものの本によると、日本では18~21センチメートルが標準であったと言われる。
かたやリールで引っ張った長い線にそって苗が植わっているので、それを目安にして、横列に8寸(24センチメートル)くらいの距離を置いて、4本ずつ植えれていけばよい。左手にある苗からひとつかみを右手でとって、その列を植える。植え終わると後ずさりして、それからまた同じようにして植えていく。そうすることの繰り返しで後ろへ、後ろへと、その長方形で仕切られた列のおしまいが来るまで植えていくという案配であった。
一反の中程くらいの比較的広い田圃には、5~6人くらいのおばさんたちが入って、てきぱきとした分業で仕事をこなしていく。おばさんたちの身につけているもんぺは、藍色や赤や白なんかの絵柄があしらってあって、まぶしい位のあでやかさであった。
そのうち、午前の農作業も終わりにさしかかってくる。
「昼からもう二人来れる言うとりますけん。あと1枚(田んぼの数え方)できると思うんですがなあ」
一人の婦人がリーダーらしき50代くらいの婦人に尋ねると、そのリーダーが別の婦人に歩き寄って「幹事さんに相談じゃが、それじゃあ昼からの段取りはどうしなさるんか?ご主人に掛け合ってくれんさらんか」と相談している。
昼前の休憩時間をとっている間に、代表のおばさんがやって来て、「ここはあと半時くらいでおわりますけん。昼からは次をどうするんか指図してつかあさい」と父に相談している。父は田植えの準備の段取りを考えていたのだろう、彼女の話にいちいち頷いてる。
「それじゃあ....きりのええところで昼飯にしてもらえますかのう。もう昼の用意はもうできとりますけん」
その時の父は、の人から「のうちゃん」と呼ばれて、うれしそうな歯を並べているときの、あの晴れやかさであった。
おばさんたちに食べてもらう場所としては、農道が交差している所であったろうか。広くなっているところで、筵がしきつめられてあり、応援の方には、そこに座って食べてもらうのだ。
あれこれ世話をやいて、答えるときの父の顔は、上気していて、赤銅色に輝いてなにやらうれしそうだった。それはまさに当時の農村の一風景、社交場であった。私も、そんな普段と違う光景を見ているだけで、なにやら心が浮き立つようにうれしかった。
普段の昼時は、昼時、私たちも家族も田圃道の一角で、食事をした。父は「わっぱ」と呼ばれる竹製の弁当箱を開いて食べていた。楕円形をしている蓋を開けると、御飯や煮物、漬け物などが楕円の曲線に沿うようにしてうまい具合に詰めてあった。父は、みそ漬けのたくあんをバリバリ音をたてて食べていた。その味噌漬けは、子供心に辛すぎると敬遠していた。昔は塩分の採りすぎに対する注意はほとんど払われていなかったといっていい。父の顔が懐かしく想い出される。
私たちの田舎では、「あぶらげ寿司」(いなり寿司のこと)や黄粉餅(ぼたもち、餅米を潰した餅ではなく、秋田のきりたんぽのように飯をすりこぎで潰したもの)を口一杯にほおばった。東の田んぼではほかの家族も大勢働いていた。また応援を頼んだりして、世間というものが実感できた。それは、当時の村の社交場を兼ねていたのかもしれない。
これに引き替え、西の田んぼは山間にあって流尾地区の人しか働いてない。だから、その場所での田植えは静かな時間の流れの中で行われていた。田植えでの私の役目は、リールを祖父との「コンビ」で引いて筋道を付けることだった。中植えはバランス感覚が要求されるので、不器用な私には苦手な作業であった。
祖母とみよが田植え歌を歌いながら、手慣れた手つきで苗を植えていた。今でも、ふと、そんな時の彼女の姿を思い出すことがある。田植えで一番辛いのは、水が冷たい場合であった。子供ということで地下足袋を履いていなかったのもまずかった。その次に困ったのは、腰が痛くなることであった。時々、腰の裏側に手を添えて、背のばしをして、痛みを和らげようとしていた。屈まないで仕事をすることができないかと考えた。しかし、名案は浮かばなかった。
こうして、田植えが済んで、人の波が去った田んぼには、静寂が戻ってくる。そんな風景を見て、平和だな、いいなあ、思った。とはいえ、それは人間たちのことであって、田圃に棲みついている蛙をはじめ、生き物たちの活動は盛んになっていく。立夏から梅雨入りの頃を初夏と名づけているが、その後に本格的な梅雨が訪れる。
(続く)
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