新28『美作の野は晴れて』第一部、夏の自然の中で2

2014-09-26 08:19:22 | Weblog

28『美作の野は晴れて』第一部、夏の自然の中で2

 初夏が過ぎ、梅雨ともなると、川や池の生きものたちの動きが活発になってくる。かれらは、その生活を自分の周りの環境に依存している。その逆に生物はかれらを取り巻く環境の産物であるともいえる。1950年代(昭和25年~34年)までは農薬も家庭排水のうち危険な物質はほとんど使っていなかった。そこかしこでは、牛糞を主体とした有機の堆肥や、除草のための労を惜しまなかった。労働集約的な農業が行われていた。だから農薬の散布もかぎられていたようだ。
 その頃の池や、それにつながる溝にはたくさんの生き物がいた。ドジョウ(ホトケトジョウなど)、ゲンゴロウ、タガメ、どじょう、ギンブナ、モツゴ、エビ(スジエビ、テナガエビ、ホウネンエビ)、どほうず、メダカなど、かぞえあげていたら、きりがない。かれらは、こちらに出て来たと思うと、あっという間に方向を変えて視界から遠ざかってしまう。モツゴは鮒とよく似て、溜池や用水の緩やかなところにいる。カワバタモロコというのは、モツゴや鮒をもつと小さくしたようなもので、網にはカワムツはうろこが細かくて、体型は鮒などより細長く、溜池でよく見かけた。
 その同じ水中に、めだかもいるにはいたが、かれらが群れをなして、浅瀬をスイスイ泳いでいる。その姿を見ていると、あの歌が思い出される。
 「めだかの学校は 川のなか
 ちょっとのぞいて みてごらん
 ちょっとのぞいて みてごらん
 みんなでおゆうぎ しているよ」(作詞は茶木滋、作曲は中田喜直)
 すると、まるで自分たちの生きる姿勢につながっているようで、親近感さえ湧いてきて、わざわざ捕まえようという気は起きなかったようだ。
 そんな梅雨の時、田畑や山からの水が池に落ちる境目に、祖父が魚取りの竹編みを仕掛けに行くのが楽しみであった。罠籠(筒状の竹編みの罠)は、やみくもにしかければよいというものではない。増水で池の水位が上がって、魚が溝から田圃へと泳ぎ上がる。彼らはひとしきり遊泳して、恐らくはアオミドロやクロレラなどの藻類やプランクトンをおなかに詰め込んでから、やがて池に帰ろうとする。その帰り口、まさに水が勢いよく池に流れんでいく少し出前のところに、流線形の罠をその溝の中に沈める。その口は逆ラッパ状になっていて、彼らを入れる。流れに向かって徐々にすぼめられる構造になってており、その流線形のおしまいのところは糸できつく縛られている。そこに上流から魚が入ると、「しまった」ということで逆に戻ろうとしても、罠籠の中は漏斗の形をした逆ざや構造となっていて、どうしても逃げられない。
 この道具を用いて獲れるのは、大方がどじょう、鮒、そして川蝦であったろう。罠を仕掛けた翌日の早朝、学校に行くようになってからは起き上がったら直ぐにズボンを履いて、祖父の後に、バケツを持って従う。現場に着いて籠を引き上げる。すると、大抵は豊漁なのであった。魚たちに混じって、魚たちの餌となる水生昆虫、川蟹、ヘビや小亀が入っていることもある。もっと手軽な魚の採り方としては、「そうき」と呼ばれる半円柱型の竹網の漁具を用いるものであった。これを池の端の葦や猫柳の生い茂る場所に縦に沈めて構え、その方向に足をドンドンと踏み込んで魚を追い込み、そして引き上げる。これを何度も繰り返すのだ。西の田んぼ沿いの水路や池尻には、どじょうが沢山いた。どじょうは、大きいものから小さいものまでいた。大きくなると、赤みを帯びてきて、ひげらしきものが生えているものもいる。どじょうは日本全国どこでもいるのだろう。この蒸し暑い時期の時期のどじょうの食べ方も、いろいろだと思う。
 ところで、どじょう料理の代表格は、昔も今も、あの「柳川鍋」なのではないか。私が初めてそれをしょ食したのは、関東に来てから直ぐの時だった。地下鉄東銀座駅の改札を建て階段を上がったところに、その店はあった。直ぐ隣が歌舞伎座である。大通りを前にした小さなビルの2階に、粋な暖簾の垂れ下がった柳川鍋の店があった。狭い店なので互いの席が近い。それだから、待っている間にも他の客が食べている料理の湯気が鼻腔に入ってくる。やっと盆は二層構造になっていて、上の部分に平たい鉄皿が載っている。多分、調理場ではその皿に具材、醤油と砂糖を入れて火にかけたに違いなかろう。中のどじょうは小ぶりのものばかりで、柔らかく煮てある。店の人があつあつの状態で客席にもって来る。どじょうの上に卵をかけてあって、卵とじの状態にしてある。それが食べる者の食欲をそそる一品となっていた。味は関東にしては薄味だったように思う。どのどじょうも小さいので、苦い味はしない。まずはどじょうを箸でつまみ食いし、おわりの方ではご飯に煮汁ごとぶっかけて食べていた。値段はたしか7、8百円くらいで手頃であったことから、昼休みに何度か食べに行ったも
のである。
 今思い出すと、私の子ども時代、我が家で食べるどじょうは、いたってシンプルな食べ方であった。獲ってきたどじょうをバケツの大きいのに移して水を入れ、泥を吐かせる。それには、数時間は必要だったろう。中には、大きいのもいる。それを2枚におろし、はらわたをとっておく。小振りのどじょうはそのままにしておく。それらを一緒にそうきに入れて水洗いをして、ぬめりをとっておいてから、シユンシュン沸き立った鍋に入れる。母の作るどじょう煮には、ささがきのごぼうが入れてあったのかもしれない。山椒と一緒に醤油で味付けする。山椒を入れることで、臭みが抑えられ、かつ、どじょうのうまみが引き出せていたのかもしれない。鯉の甘辛煮のように、鍋にじっくりと煮込まれたどじょうをおかずにすると、ご飯が進んだものだ。我が家のどじょう料理には、その他に、みそ汁にどじょうを入れて、それをまるごと御飯にぶっかけて食べることも、たまにはあったのかもしれない。ともあれ、このあたりでは、どじょうは小鮒と並んで簡単に沢山穫れていた。特に労働で体力を消耗する夏場にかけては、その頃の我が家にとっては貴重なタンパク源となっていたことは疑いない。
 春から夏にかけての小川にはシジミ(マシジミ)がいる。あのシャワシャワ脚を動かして示威するアメリカザリガニもいた。これは数も多くいる。スウェーデンでは「ディム」という、ハーブに塩を入れたスープに油揚げて沢山食べるし、中国の上海では焼いて食べるのだか。寄生虫が棲みついているとの噂もあって、捕まえるのは時々にしておいた。田んぼや沼地に入って泥土をズブリと踏んでいると、足の裏に丸っこいものが当たる。そこで手を肘の上まで突っ込んでマルタニシを掴み出す。池の漁で困るのは蛭が吸い付いて離れないことである。ヘビはよく見かけるが、草むらに近づかない限りまむしはぬかるみのほとんど見かけない。
 とびきりき面白いのは加茂川での漁である。夕暮れ時、父や兄と一緒に加茂川にカワニナ獲りに行くことがあった。水の流れているところの川幅は三十メートルは下らないのではないか。中程の急流になっている辺りに足を入れると深みにはまったり、流れの勢いで次の足が抜けなくなって危ない。身の安全を思えば、足を踏み入れるのは川辺から近いところまでとし、岩の下にとりつくカワニナを手で掬っては竹籠に入れる。これを持ち帰ってみそ汁に入れて食べていた。後年、この貝には寄生虫が宿っていることを知って獲りにに行くのをやめたのだが、道理を知らぬとは恐ろしいことである。
 川鰻には、やつ目うなぎのような小型の鰻も含んで言っていた。それらを目当てに、夜になってから加茂川そばの支流に分け入って、草陰の浅瀬に罠をしかけに行くこともあった。そのときはガス燈をぶら下げて父の後をついていく。ガス燈に入れるカーバイドの硫黄のような匂いを覚えている。そのカーバイドに水を加えるとアセチレン・ガスが発生する。ガス燈の中はあらかじめ空気とよく混ぜて燃えるような仕掛けがしてあって、点火すると明るい炎で燃える。風が吹いても消えないので、夜の猟(「夜ぶり」といっていた)重宝がられた。彼らは、浅瀬の流れが感じられないような目を開けたままに、じっとしている。その時は寝ているのかもしれない。そこで網をそっと水の底に沈め、魚の下に持って行き、さっと上げると容易に捕まえることができる。翌朝、父が戻ると、竹編みの竹籠(「びく」とも呼んでいた)の中をのぞき込むと、目当ての鰻がいたこともある。とはいえ、普通のに比べて小ぶりの八目鰻も含め、罠に鰻がかかることは稀であり、父が「破顔大笑」の面持ちで鰻を持ち帰る時もあった。大きな鰻を見たときは、私も「これで何日かうなぎが食べられる」と感激したことはいうまでもない。
 そういえば、あの頃の我がの子供たちは、自然の姿を思い浮かべながら歌うことができた。特に夏場は、夏休みということで、家の仕事の手伝いで明け暮れていたとはいうものの、その合間、合間には、空きの時間を見つけ出して、大いに遊んでいたのではないだろうか。といっても、都会のように、色々と遊ぶところがある訳ではない。それだから、いわば、自然の中で生きていたのだ。あれから幾十年の後、いまはどうなっているのだろう。自分の周りの子供に聞いてもはっきりした答は返ってこない。今、団塊の世代や、その後に続く私たちの世代が、子供の時に味わった感激を子供たちに伝えることができないのは寂しい。生活環境が激変した今の子供たちは、一年を通じて自然から何を学ぶのであろうか。
 田植えが済んだ頃の風物誌に蛍がある。4月から5月にかけて土の中で繭を作っていた蛍は幼虫からさなぎを経て、蛍の成虫に近づく。5月から6月ともなると、土の中から這い出して、草に這い上がり、そこで羽化してが成虫となる。午後も8時くらいになって池の上の辺りがとっぷり暗闇になる頃、夕食を済ませた僕らは出かけた。北の方角から高く飛んだり、かと思うと急に低く降下したりで、蛍が群生乱舞しながら、僕たちの立っている道を横切ろうと近づいてくる。ゲンジボタル、それともヘイケボタルであったのかは知らない。源氏と平氏のいくさの時代からそう呼ばれているものらしい。
「ほーほーほーたる来い
あっちのみずはからいぞ
こっちのみずはあまいぞ
ほーほーほーたる来い
山路(やまみち)こい
行燈(あんど)の光でまたこいこい」(秋田地方子守歌『ほたる、来い』、作詞者は不詳、作曲者は小倉朗)
 何を馬鹿な・・・?。水が甘いはずがない。なんのことはない、蛍をだまして捕まえようというのだ。自分でもそう思いながら念仏のように唱えていた。田植えの済んだ田圃の岸や小道を菜の花の箒を作って振り回して、閉じこめ、捕獲した。それを屋台で売っているような小かごに入れて、細かい筋状の草を入れて眺める。2秒間隔ぐらいに下腹の辺りに青白い光が点滅していた。これはきれいだな、これはいい。小駕籠はさながら宝石箱のようであった。
 いまから思えば、随分とかわいそうなことをしていた。蛍達はあのとき懸命に自分の相手を捜していた。必死で生きていたのだ。最近本を読んで知ったことだが、あのとき池べりのショウブが生い茂ったところが雌のいたところで、その産卵場所にいる雌の求愛の発光に導かれて、雄たちが飛び回っていたのだ。だから、それは子孫を残すまでのつかの間の命の灯火であったのだ。それを思うなら、光の饗宴を現地で見物することで十分であったという気がする。
 蛍の幼虫のヤゴは水中にいる。水のきれいなところでないと、彼らは棲息できない。かといって、渓谷の清流にも見かけない。一匹のヤゴは成長するまでに30匹のカワニナを必要とするという。カワニナは巻き貝の一種であって、清流にしか棲んでいない。夕暮れの加茂川には、流れの只中にある岩の波打ち際に黒々とせり出してきていた。池の下流の水路の浅瀬のそこかしこでは、シジミに混じってカワニナもいる。カワニナは藻を食べて生きている。そのカワニナによってたかっている蛍の幼虫を目にしたことはないが、テレビでその場面を観ると、自然界の掟というか、自然界の厳しさを感せずにはいられない。
その辺りは、護岸工事がなされたり、家庭排水とか農薬とかさまざまな化学物質が使われ出し、それらを含んだ水が池に流れ込むようになったことで、清流を好む蛍の幼虫はしだいに居場所がなくなっていたようである。
 夏の鳥たちで印象ぶかいのは、子育てとも関係するのであろうか、その大胆さである。例えば、雀にしても、この時期は小さなミミズとかばかりでなく、比較的大きな獲物をとろうとする。セミは夏には沢山いるが、そのセミが弱ってくると、段々と地上に近くなってくる。動作も鈍くなっていく。すると、雀が空中でセミを追いかけている。あの弱いはずの雀がである。そんな光景には、今でも散歩しているときなど時々見かける。想い起こせば、あのときのセミは背後からの追撃を受け、羽をかぐられながらも、何とかその爪を振り切って逃げ延びたようであった。夏の昆虫たちへの記憶もいろいろとある。あの頃、図書室でファーブルの『昆虫記』を数ページ位だけ読んだ覚えがある。フンコロガシとかのところまでは、よんでいなかった。昆虫はバッタや黄金虫から、トンボや蝶に至るまで、田舎のことであるから、どこでもじつに沢山いた。
 小学校の帰り、道を進むにつれ、一人また一人と連れが減っていく。流尾地域への入り口にある坂道にさしかかる頃になると、1人で帰っている途中に、ちょっとした切り通しがあった。そこで、時々しゃがみ込んで斜面から地面へと目を働かせていると、『蟻地獄』のような杯状の、ロートをしたような泥の穴がいくつもあった。自然にできたのではなく、昆虫が作ったものである。餌が入ると、底に向かって滑り落ちる仕組みになっている。小動物は、何回もはいあがろうとするだろう。だけど、足や手でひっかけどもその度に砂が崩れて、また底へとすべり落ちてしまう。そのうち、力がなくなっていく。底の部分のその砂の下には、何かがいるのではないか。そこを手ですくって見ると、果たせるかな、蜘蛛のような動物がいたものである。その動物は、罠をかけて、獲物かその罠に掛かるのをまっていたものと考えられる。
 夏の授業も大詰めになっていく。朝から太陽の光がまぶしい。湿り気があって空気がよどんでいるときでも僕らは「休め」の姿勢で朝礼に臨んでいた。朝礼では、校長先生が夏休み中の心得を話される。校長先生の話が終わると、次は生活指導の先生の話となる。これが長い。頭がボウッとなつていくような気がする。そのうちに「バタッ」と人の倒れる音がする。
「ああ熱射病にやられたな、誰じゃろうか?」
 倒れた女の子が若い先生の手に抱きかかえられて表玄関の中へ消えていくのを見送った。
 それでも、きょうの朝礼は直ぐに終わる気配はない。なぜなら、まだ先生方からのお達しや注意事はまだ沢山あるようだし、四方八方から空気の熱い分子がビシビシ当たっているように感じられるからだ。
「まったく今日は暑いなあ。先生もうそろそろ、おしまいにしてもらえんじゃろうか・・・・・」
 いまから考えると、皮膚と触れ合う空気が動いていないと皮膚呼吸がうまくできなくなることも影響していたのだろう。

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